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夢よりも甘く(4)

 浅い眠りの中で見る夢は、現との境が曖昧だ。
 何度も同じ夢を見た。俺は自分の部屋で、雛子がやってくるのを待っていた。一人きりで、身じろぎもせずに、玄関のチャイムが鳴るのを待っていた。それだけの夢だった。
 彼女がどんな知らせを携えてくるのかは夢の中でもわからなかった。ただ、待つ間のやり過ごしがたい焦燥感だけは妙に現実味を帯びていて、目覚めた直後、夢とは思えずにしばらく呆然とするほどだった。
 そして迎えた二月二十四日の朝は、よく晴れていた。窓の外を窺うと、冬の終わりを実感させるような日差しが辺り一面に降り注ぎ、アスファルトの路面を輝かせていた。
 果たして今日、無事に春は訪れるのだろうか。

 昼までの時間は洗濯や掃除をしてどうにか潰した。
 今日ばかりは大槻からの連絡もなく、俺は作業に心置きなく没頭することができた。しかしやるべきことを全て済ませ、早目の昼食を終えた正午頃にはもう落ち着いてもいられなくなった。机に向かってみても今日は本もペンも持つ気になれず、黙って座ったまま祈るような気持ちでその時が来るのを待っていた。
 合格者の発表は午後一時からということだったが、一時ちょうどの時点ではまだ何もなかった。そこから十分が過ぎ、二十分が過ぎ、一時半になろうかというところでようやく携帯電話が鳴った。
 待ちに待った、雛子からの電話だった。
 震える手で携帯電話を取り上げ、一呼吸置いてから耳に当てる。
「雛子か、どうした?」
 俺の問いかけに、雛子はまず息をついた。彼女は興奮しているのか、電話越しにもわかるくらい呼吸が乱れていた。しかし言葉はなかなか出てこなかったようで、彼女が声を発するまでの時間は恐ろしいほど長く過ぎていった。
 そしてとうとう、彼女は言った。
『今から飛んでいきます、先輩!』
 声はいきいきとして張りがあった。だが、どちらだとも言わなかった。
 それでも俺は彼女の声の明るさを信じることにして、こう答えた。
「……わかった。気をつけて来るように」
 自宅にいる彼女が支度をして家を出て、電車でこちらへ辿り着くまでどう軽く見積もっても小一時間はかかる。俺はもう少しの間、彼女を待たなくてはならない。
 しかし俺はもうずっと長いこと、雛子が来るのを待っていた。彼女が俺と同じ大学を受けると決めた日から、あるいはそれよりも更に昔、俺が東高校を卒業した日から、だったのかもしれない。あの頃、文芸部の部室で彼女と共に過ごした時間だけが輝いていた。大切な思い出だった。
 あれから二年が経とうとしている。
 二年も待ったのだ。あと一時間待つくらい、どうってことはない。

 俺は玄関で彼女を待っていた。
 相変わらず人気のないこのアパートの周辺に、そろそろかという頃合いで足音が近づいてきた。底の厚いブーツが早足でこちらへやってくる音――あんな靴を履いて、よくも転ばないものだとつくづく思う。その足音はこの部屋のドアの前で止まり、微かな深呼吸の気配が聞こえたようだった。
 そこまで来るともう、待つ必要もないと思った。俺はドアスコープを覗くこともせず、ドアノブを回して重いドアを押し開けた。午後の強い日差しに目が眩み、ドアの前に経つ人影が残像のように焼きつく。思わず目を眇めれば、水色のコートを着た雛子が俺を見上げているのがわかった。直後、彼女の顔が泣き出す瞬間のように歪んだ。
 俺が声をかける暇もないまま、雛子が飛び込んできた。開いたドアをくぐり玄関へ、そしてドアノブを掴んだ俺の元へ。俺も彼女の行動が予測できていたから、ドアノブから手を離して彼女を受け止めた。
 支えを失くしたドアがゆっくりと閉じていき、やがて外界から遮断される。聞こえるのは互いの呼吸だけという静かな空間で、彼女はしっかりと俺にしがみついてきた。日が差していてもまだ二月、外は気温が低いらしく、彼女の髪やコートはひんやりと冷たかった。そして、冬の空気の匂いがした。
 深く息をつき、俺も雛子を抱き締め返した。
 もう彼女を待つ必要はないのだと安堵する一方で、一人きりで待っている時よりも強い焦燥を覚えていた。雛子はまだ何も言っていない。合否について、どちらだとも言っていない。彼女のこの反応だけではどうとも判断しがたく、俺は腕の中の彼女を見下ろしながら、どう切り出そうか考えていた。
 俺の視線に気づいたか、やがて彼女が面を上げた。
 銀フレームの眼鏡は曇っていたが、その奥にある瞳が涙を溜めて潤んでいることはわかった。相変わらず泣きそうな顔のまま、雛子は震える唇を慎重に、ぎこちなく動かした。
「先輩……」
 かすれた声で呼ばれると不安が募り、胸が軋んだ。
 俺は彼女の顔を見つめて、尋ねた。 
「どうして泣くんだ」
「どうしてって、そんなの……」
 彼女は俺の問いに答えようとしたらしいが、後に続いたのは声にならないかすれた呻きだった。そのくせ涙は止まることを知らず、彼女の瞳から絶えず伝い落ちては頬を濡らしていく。彼女が泣くのを目の当たりにするのも初めてではないが、今回ばかりはその涙の意味を、一刻も早く突き止めたかった。
「雛子」
 俺は彼女の名前を呼び、なるべく穏やかに、焦りが声に表れないように続けた。
「気持ちはわかるが、早く、はっきり言ってくれないか」
 雛子が肩を揺すり、天気雨のような泣き笑いを見せる。
「受かってました」
 涙声がやっとのことで、そう言った。
「合格してたんです、私。よかった、本当によかった……!」
 張り詰めていたものが切れたのか、何よりも安堵に満ちた言葉が零れ落ちた。かと思うと彼女はそれだけ言って役目を果たしたつもりなのか、再び静かに泣き始めた。感情豊かな彼女らしい嬉し泣きを聞きながら、俺も密かに胸を撫で下ろす。
 喜びがじわじわと込み上げてくる。唐突に走り出して大声で叫びたくなるような衝動が身体の内側に湧き起こる。その喜びもまた彼女の努力によるものだ。それなら今日は存分に彼女を讃え、労わなくてはなるまい。
「おめでとう」
 俺は雛子を泣き止ませようと、その髪や背を撫でながら告げた。
「よかったな。お前の頑張りが報われた結果だ」
 いい結果が出て、雛子も嬉しくてたまらないのだろう。だがだからこそ、今は笑っていればいいのにと思う。これまで戦ってきた様々な苦難や重圧からようやく解放されたというのに、泣いてばかりいるのはもったいない。
「とりあえず、靴を脱いで上がったらどうだ」
 俺はしがみついたままの雛子の身体をそっと離そうとした。
 しかし雛子は腕に力を込めて俺に縋りつく。意地でも離れまいとする態度に見えて、俺は内心困った。玄関先で抱き合っていても身体が冷えるだけだし、どうせなら少し話もしたい。
「ずっとこのままというわけにもいかない。ほら、一旦離れろ」
 強く促すと、ようやく雛子も俺から離れた。その顔はすっかり涙に塗れていたから、俺は洗面所からタオルを持ってきて、彼女に渡した。 
「まず顔を拭け。こんな日に泣く必要はないだろう」
 雛子は無言で頷き、眼鏡を外してタオルで顔を拭った。それから眼鏡をかけ直し、俺の顔を見て今更気恥ずかしそうに首を竦める。本当に今更だと俺は少し笑った。
「すみません」
 詫びる彼女に俺は手を差し伸べる。
「こっちへ来い、雛子。部屋の中の方が暖かい」
「……はい、先輩」
 雛子の小さな手が俺の手を握る。意外と温かい手をしていた。俺に掴まりながら、彼女は履いてきたブーツを身を屈めて脱いだ。タイツを履いた膝を揃えて屈む姿が女らしく、少しどきりとする。
 彼女が脱ぎ終えたのを確かめてから、俺は玄関のドアに鍵をかける。今日はもう、しばらくは彼女を帰したくない。彼女と二人だけで喜びを分かち合いたい。そう思ったからだが、施錠をする俺を雛子はどこか怪訝そうに見ていた。
「今日は早く帰るのか?」
 俺の確認に、彼女は瞬きをしながら答える。
「いえ、夕方くらいまでは大丈夫です」
「それなら少し、ゆっくりしていくといい」
 もう受験生ではなくなる彼女と、久し振りに二人で過ごす。
 解放感から浮かれているのはお互い様のようで、すっかり涙の消えた顔の雛子がそこで、嬉しげに瞳を輝かせた。
「はい。是非、そうさせてください」

 俺は雛子をストーブの前に座らせた。
 コートを脱いだ彼女は、いつぞや見た淡いピンク色をしたニットのワンピースを着ていた。彼女はこの服を気に入っているようで、今日はこの服を着てこようと決めていたらしい。
 温かい紅茶を入れてやると、彼女は急速に元気を取り戻したようだった。先程まで泣いていたのが嘘のように勢いづいて、いろんなことを話し始めた。
「私、大学に入ったらやりたいことがたくさんあるんです」
 ティーカップを両手で持った雛子が、いつになく明るい笑みを零す。肩の荷が下りたということなのだろうが、一片の曇りもない笑顔が眩しくて仕方がない。
 窓から差し込む日の光も陰ることなく、二人で過ごすこの部屋を暖めている。一足先に春が訪れたような、穏やかな昼下がりの一時だった。
「まず、先輩と一緒に登校したいです」
 雛子が真っ先に挙げたのは、そんな他愛もないことだった。
 予想だにしない言葉に、俺は少々面食らう。
「やりたいことと言うから何かと思えば……。勉強に関する内容じゃないのか」
 てっきり、大学で何を学ぶかという話かと思った。俺の反応に雛子もいささか慌てたらしく、すぐさま言い添えてくる。
「も、もちろん勉強だってしますけど!」
 それでも彼女にとって断固として譲れないことと見え、続いた言葉は淀みなく、力強かった。
「でも高校時代は一度もできなかったことですから。時間の合う時だけでいいので、先輩と待ち合わせて一緒に登校したいんです。駄目ですか?」
 東高校に通っていた頃は、お互い電車通学だった。部活の後、駅で彼女の姿を見かけたこともある。もしかすると朝の登校時にも行き会っていたことがあったのかもしれない。
 今なら、それはもっとたやすく叶うはずだ。彼女が電車に乗ってこちらまでやってくるのを、駅まで足を伸ばして迎えに出ればいい。携帯電話で連絡を取り合えばすれ違うこともなく彼女と会えるだろう。
「時間が合えばな」
 俺はいくらか前向きに答えてやった。講義の時間が合うなら、彼女の希望を叶えてやってもいいだろう。
 俺が二年待ったのと同じように、彼女もこの二年間、こういう日がやってくるのを忍耐強く待ち続けていたのかもしれない。
「是非検討してください」
 雛子は熱心に念を押し、うきうきと続ける。
「それと帰りも、時間が合ったら一緒に帰りましょう」
 その点について不満があるわけではないが、『高校時代に一度もできなかったこと』でもない。まさか忘れてしまったのだろうかと俺は眉を顰め、指摘した。
「それは俺の高校時代にだってやっていたはずだ」
「あんなのカウントに入りません」
 たちまち雛子が唇を尖らせる。
 切って捨てるようなその物言いに、俺も不満を抱く。
「あんなの、という言い方はないだろう」
「だって当時の先輩は随分と早足で、私と並んで歩いてくれませんでした」
 雛子と過ごした高校生活一年間のうち、共に下校することができたのはほんの数回だけだった。俺が彼女に交際を申し込んだのは十二月で、卒業までのわずかな時間は冬休みや自由登校といったもので更に削り取られていた。もっと早く行動に出ていれば、と思うのは今だからこそで、当時の俺ではいかに早く切り出していようと同じことだっただろう。
 彼女と共に下校した際も、どうしていいのかわからなかった。俺たちの会話が本と創作以外の話題で弾むことはなかったし、無言のままで誰かと並んで歩くのは苦痛だった。俺が足を速めると雛子も必死になって追い駆けてきて、そのくせ不満一つ唱えない彼女を奇妙に思い始めていた。
 振り返ってみれば、あの頃はつくづく身勝手な恋をしていた。
 今なら、これからの俺たちは、あの頃とは違う学校生活を送れるに違いない。
「だから大学に入ったら、先輩と、昔はできなかったいろんなことをしたいんです。一緒に登下校したり、一緒にお昼ご飯を食べたり、一緒のサークルに入って楽しく過ごしたり――そういう楽しいこと、全部です!」
 雛子が夢でも語るようにうっとりし始めたので、聞いているこちらが気恥ずかしくなる。
 無論、俺も同じように思っていないことはないのだが、大学生活というのも意外と忙しいものだ。彼女もそのうち、俺だけにかまけてはいられなくなるだろう。だからこそ共に過ごす時間を確保したいというのであれば、俺としても異存はない。
「お前は何をしに大学へ来るんだ」
 俺は雛子の頬に手を伸ばす。色白の頬は血が通い、ほんのりと色づいていた。涙の跡はもう見えなくなっていたが、先程雫が伝い下りた道筋を、俺は指でそっとなぞる。柔らかい頬の感触がいとおしい。
「大体、はしゃぎすぎだ。さっきまで泣いていたくせに」
「泣くくらい嬉しかったんですから、はしゃぐのも当然でしょう?」
 雛子は決まり悪そうに言い返してきた。さすがに泣いてしまったことを恥じているらしい。
「浮かれるのはいいが、入試だけで燃え尽きたなどと言うなよ」
 俺にとっての心配は今のところその程度だ。雛子は重圧から解き放たれたからといって羽目を外すような奴ではないが、次の目標を見失うようなことがあれば、俺も先輩として手を差し伸べてやろうと思う。
 いくらでも頼りにしてくれればいい。
「もちろんです。私の本分はやはり勉強ですから!」
 彼女も威勢よく応じたので、わかっているならいいかと俺は息をつく。
 むしろ今日くらいはうるさいことを言うのも控えて、存分に浮かれさせてやる方がいいのかもしれない。彼女がこれだけはしゃぐのもなかなかないことで、今日までの受験生としての日々がどれだけ過酷であったかが窺える。背負ってきたものがなくなり身軽になった彼女が勢い余って転ばないようにだけ、気をつけてやればいいだろう。
「まあ、こんな日に説教というのも無粋だな」
 俺は表情を緩め、そう言った。
 正確には、込み上げてくる笑みを堪えるのをやめた、というべきかもしれない。俺だって喜んでいないわけではないのだ。この日をずっと待っていた。
「正直に言えば、俺も嬉しい。単純にお前と会う機会が増えるからな」
 本心を打ち明けると、雛子は目を丸くした。
「先輩だって、私と同じようなこと言うんですね」
「お互い好きで一緒にいるんだ、考える内容も似通って当然じゃないか」
 俺も、彼女がいる大学生活を夢見たことがある。
 今一度考えてみても、それは素晴らしい日々となることだろう。大学の中庭を肩を並べて歩いたり、講義の合間に構内ですれ違い手を振り合ったり、約束をして学食で落ち合い共に食事を取ったり、図書館に足を運んでかつてのように二人で本を読んだり――彼女があの大学内にいるというだけで、俺のありふれた日常に光が差し、楽しいことばかりの日々に生まれ変わるだろうという気がする。
 もっとも大学には賑やかなことこの上ない大槻もいるし、雛子と二人でいるところに居合わせたらまた何だかんだと冷やかしてくることだろう。あの仙人のような教授は俺に交際相手がいることを薄々察しているらしく、こちらもいつか何か言われるような気がしてならない。彼女がサークルに入ればサークルの連中からも事の次第を尋ねられるだろうから、そういう意味では苦労も手間も増えそうだ。
 それでも、彼女と共に過ごす幸いには代えられない。
「……な、何ですか」
 気がつくと、俺と雛子は真正面から向き合い、見つめ合う格好となっていた。雛子は俺の視線に怯んだのか、恐る恐るその意味を尋ねてきた。
 俺はすぐさま答える。
「いや。考えていただけだ、お前のいる大学生活がどんなものかを」
「私、ちゃんと勉強してましたか?」
 たちまち興味を持ったのか、雛子が食いついてきた。
「どうだろうな。そういう想像はしなかった」
「じゃあ一体どんな想像をしたんですか」
「いちいち言うまでの話でもない。そのうち全部、現実になるだろうからな」
 今から余計なことを吹き込んで、雛子を戸惑わせたり身構えさせたりするのもよくないことだろう。
 彼女は迷うことなく俺の隣にいればいい。それだけでいい。
「先輩にも喜んでもらえて嬉しいです。受験中も大変お世話にもなりましたし……」
 雛子が上目遣いに俺を見る。
「今度じっくり、お礼をさせてください」
 だが礼をされるようなことを俺はしただろうか。世話になったといっても、俺がしたことは先輩なら当然の行動ばかりだ。それどころか――恋人としては、彼女の受験勉強の妨げになったのではないかという懸念さえあった。彼女も大変な時期だというのに、俺もくだらないことで悩んでは苦しみ、挙句の果てに彼女に洗いざらい打ち明ける羽目になった。全く醜態を晒したものだ。
 逆に考えてみれば、雛子は受験生でありながら恋人としても俺に寄り添い、受け止めてくれた。礼をする必要こそあれど、される必要はないだろう。
「大したことはしていない」
 俺は言い、それから肩を竦めた。
「だが更に正直に言うなら、俺はお前が受験生ではなくなったのも嬉しい」
 受験という枷は想像以上に重く、俺たちの間にも強い影響を及ぼした。これまでは互いに遠慮しあうこともあったが、そういうものがなくなるのは喜ばしいことに違いなかった。
「あ、それは私もです」
 雛子は紅茶を飲み終え、空になったカップを座卓の上に置いた。それから自由になった両手をうんと伸ばして、しみじみと語った。
「もう、受験生活が長くて長くて。飽きが来ていたところだったんです」
「そうだな。長かった」
 長かった。俺もその言葉を噛み締める。
 待つことには最後まで慣れなかったが、それでもよく待ったものだと我ながら思う。それも今日で終わり、なのだろう。
「先輩にもご迷惑をおかけしました」
 彼女は随分と気にしているようだ。申し訳なさそうに言われたので、かぶりを振っておく。
「迷惑でもない。あまり気にするな」
「でも、私に会えなくて寂しかったですよね」
「ああ」
 それは事実だ。俺は即座に頷いたが、雛子にはそれが予想外だったらしく、自分で聞いたくせにうろたえていた。
 戸惑いに瞳を揺らす彼女が妙に可愛く映り、俺はその唇に自分の唇を押しつける。ためらうどころか、考えることさえしなかった。そうしたいから、その欲求に素直に従った。それだけだった。
 震える唇から離れると、雛子の狼狽しきった面持ちを捉えることができた。泣いたりわらったりはしゃいだりと忙しなかった彼女の顔は、今は驚きに固まり、恥じらいに赤く染まっていた。唇を重ねたのもこれで何度目かわからないほどだというのに、彼女の反応は初々しく、そしてとても可愛らしい。
 俺は考えうる限り最良の恋人を得た。雛子は一途で、優しく、俺の話をよく聞いてくれる、大変に可愛い女だ。勘の鈍いところだけはどうかと思う機会もあったが、彼女が敏すぎては困ることもあったから、このくらいでいいのだと考えておくことにする。
 そんな彼女に俺は深い愛情を抱いていたが、その愛情には常に相反する衝動が付随していた。彼女をとても大切に思い、傷つけたくないと考えているのに、一方でめちゃくちゃにしてやりたい欲求も持ち合わせている。彼女を慈しむ気持ちと共に、押し倒してしまいたいとも思っている。彼女に優しくしたい、しかし困らせてもみたい。一言では表せないような複雑に絡み合った感情が、俺の中にはある。
 今も、同じようにある。
 雛子を可愛いと思えば思うほど、見ているだけでは足りなくなった。触れたくなった。
「雛子」
 俺が名前を呼ぶと、雛子は戸惑い気味に、おどおどと視線を返してくる。
 もしかしたらわかっているのか。それともわからないなりに、この空気の変容だけは肌で感じ取っているのだろうか。
「こんな日にこういうことを言うのも、それこそ無粋かもしれない」
 俺は慎重に言葉を紡いだ。
「だがお前に、どうしても頼みたいことがある」
「頼み、ですか? 私にできることなら……」
 雛子が真面目な面持ちになって口を開いたので、俺はそれを制した。
「そう構えないでくれ。お前にはきちんと断る権利がある」
 聞いてくれと言われていたから、俺は雛子にそれを聞く。
 雛子は思った通りに答えてくれればいい。
「お前が、欲しい」
 俺が告げた言葉を、雛子はゆっくりと飲み込むように聞いていた。
 次の瞬間、発熱したかと思うほど真っ赤になった雛子が、たちまち乱れた息をつく。そしてもじもじしながら震える声を発した。
「先輩……えっと、それって」
「その、お前が嫌じゃなければだ」
 俺まで熱が出たようだった。頬が、背中が、手のひらが熱くて仕方がない。それでも彼女が混乱しているようなので、慌てて言い添える。
「こんなことを無理強いするつもりはないし、それでお前に愛想を尽かされるくらいならもう言わない。こんなことをしなくてもお前の気持ちは確かめるまでもなくわかっている。拒まれたからと言ってそれを疑う気だってない」
 四ヶ月前、彼女の誕生日に、俺はそれまで知らなかった彼女の心を知った。
 それだけで十分だと言えればいいのだろうが、あいにくと俺は聖人君子ではない。彼女の心をどれほど知っていようと、もう確かめる必要もないとわかっていても、彼女を抱きたくなる。純粋に、欲求として。
「俺も、お前が好きだ」
 硬直している雛子に、俺はそう告げた。
「だが好きだという気持ちから、そういうものを切り離すことができなかった。これは、以前も話したな。俺はいっそお前を精神的にだけ愛せたらと思っていたが、俺のような未熟な人間には到底不可能だった」
 精神的な愛だけを貫くことが正しいのかと言えば、そうではないのかもしれない。そもそも俺は愛を語れるほど成熟した人間ではないだろう。何が正しいかを知識としては持ち得ていない。自分で判断するしかない。
 そして自分で判断した上で、思うのだ。
 彼女が欲しい。どうしても。
 それを雛子が受け入れてくれるなら、とても幸せで、喜ばしいことだと思う。
「むしろ不可能だとわかったあの日から、そういった衝動はより一層エスカレートしたように思う。あれからお前と会う度に、いつも淡い期待を抱いていた。お前をいとおしいとと思うのと同時に、お前に触れたいという気持ちも燻り続けていた」
 俺はためらうことなく胸中を打ち明けた。
 あの十月以降、雛子と顔を合わせる度に触れたいと思っていた。十一月の文化祭でも、十二月、クリスマスイブにも、一月の初めに彼女の家を訪ねた時も、今月のバレンタインデーでも、彼女と同じ時間を過ごせば過ごすほど、欲しくなってたまらなかった。
「お前が受験生のうちはもう黙っていようと思っていた。だからと言って今日、こうして切り出すのも現金と言うか、厚かましいことこの上ないだろうが……」
 これほど切羽詰まっているとは、自分でも意外だった。
「やはりお前といると考えてしまう。今日のお前は特別可愛いから、余計にな」
 そう言うと俺は、すぐ傍で相変わらず固まっている彼女の手に触れた。雛子の小さな手はどちらも膝の上にあり、ニットのワンピースの裾を握り締めていた。膝を隠そうとしているようにも見えた。
 俺は彼女の手を力を込めて握る。
「限界が来る前に、お前の気持ちを尋ねておこうと思う。聞かせてくれ」
「な……」
 雛子は言葉に詰まっていた。聞かないで欲しいと言いたげに俺を見て、それでも逃げられないと踏んでか、たどたどしい口調で問い返してきた。
「そういうこと、そもそも、どうして聞くんですか」
 俺にはその問いこそ不思議だった。
「お前が言ったんだろう。『次そう思った時は、私に聞いてみてください』と」
 だから俺は彼女に聞いた。
 どういう形であれ、嘘ではない答えが得られると思っていた。
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