夢よりも甘く(1)
その日は、当然ながら全学休講だった。特に予定もなかった俺は、何をして過ごそうかと頭を悩ませていた。読書をする気分にはなれず、出て歩くのもいささか億劫だった。大学へ行く必要がないにもかかわらず朝五時に目が覚めてしまい、部屋の掃除でもしようと思い立ったが、それも午前中のうちに済んでしまった。時計の針は遅々として進まず、今日が長い一日になりそうだと予言しているようだった。
正午頃になって、大槻から連絡があった。閉じこもっていないで昼飯を一緒にどうか、と誘われて少し迷った。だがわざわざ声をかけてくれた奴の厚意も無下にはできず、また人と話せば気が紛れるかもしれないという考えも脳裏に浮かんで、結局その誘いに乗った。
俺たちは街中でよく見かける類のファミリーレストランに入った。
こういった店に立ち入る機会はまずなかった俺だが、入ってみると意外に家族連れよりも若者のグループ、あるいは主婦と思しき女性たちがよく目についた。平日の午後だからというのもあるかもしれない。
メニューはほとんどが洋食で、デザート類も豊富に載っていた。現在は二月だからか、バレンタインデーに合わせてチョコレートのデザートを増強しているらしい。食べるつもりもないのに色鮮やかな写真入りのメニューを眺めていると、雛子なら例えばクラスメイトたちとこういう店にも足を運ぶのだろうか、などと彼女のことを考える。彼女は甘い物が好きだから、真っ先にこのデザートのページを開くに違いない。
彼女は、今頃どうしているだろうか。
「……今日はいつになくそわそわしてるね」
大槻に問われて面を上げれば、同情めいた笑みを浮かべた奴の顔が見えた。
俺は素直な思いで答える。
「落ち着いていたいとは思うんだが、今日ばかりはな」
「まあ気になっちゃうよね。それはわかるよ」
「俺が気を揉んでもどうしようもないのにな。困ったものだ」
できることなら俺も、今日一日を平常心で過ごしたいと思っていた。俺がやきもきしたところで雛子の状況が変わるわけでもない。むしろ今日までの彼女の頑張りを信じて待つしかないのだ。
「けど、雛子ちゃんなら大丈夫だろ。その為に今日まで頑張ってきたんだし」
大槻はそう言ったが、それも信じているというよりは、俺に言い聞かせるかのような口調だった。
二月の初め、雛子が挑む一般入試の前期日程がまさに今日だった。試験の開始は十時からで、それよりも早くに彼女からは『無事に会場へ着きました』と報告のメールを貰っていた。試験中は携帯電話を預けなければならない為、次の報告は試験が終わってからになるだろう。
彼女なら大丈夫だと俺も思う。今日まで続けてきた努力が報われることを願っている。昨夜は早くに寝て体調も万全だと言っていたし、あの膝掛けも持っていくと聞いている。あとは百パーセントの実力さえ発揮できれば問題はない。
そうは言っても、いかに彼女を信じたくとも、彼女を想えば想うほどどうしようもなく気を揉んでしまうのが人間心理というものだ。
「会場の環境が気になるな。あまり寒くては集中もできまい」
気もそぞろなまま注文を終えてから、俺は誰に言うでもなく呟いた。
試験会場である大学の講義室は暖房の効きが悪く、午後になっても足元に冷たい空気がわだかまっていることもよくある。膝掛けを持っていったとはいえ、雛子が身体を冷やしてあの小さな手をかじかませ、鉛筆もまともに持てないということがなければいいのだが。心配になる。
「確かに一昨年は寒かったな。カイロ貼ってくればよかったって思ったよ、俺」
大槻も一般入試を経て入学している。推薦の俺が知らないようなことも知っているので、俺は気を紛らわす為にもいくつか質問をした。
「一般となると受験者も多いだろう。試験問題に集中できる環境だったか?」
「まあ、ちょっとは騒がしかったよ。一昨年も風邪流行ってたし、咳とか響いてた」
「せめて昼食くらいは落ち着いて食べられるといいんだが」
「昼休みの時間はたっぷりあるから平気じゃないかな。予習する暇すらあったし」
「試験官が厳格で、防寒具の持ち込みを理不尽に禁じられてはいないだろうか……」
「俺ん時は膝掛け持ってきてる子とか結構いたよ。大丈夫じゃない?」
こちらの立て続けの問いに逐一答えた後、大槻は冷やかすように微笑んだ。
「しかし君は、雛子ちゃんのこととなると極端に心配性だね」
「否定はしない」
できない、という方が正しいかもしれないが、俺は渋々頷く。
すると大槻は笑いながら頬杖をつき、
「うちの兄貴みたいだよなあ、そういうとこ。こないだも嫁さんが『産まれる!』っつって、みっともないくらい慌ててたし――」
と言いかけたところで、ふと思い出したように口を噤んだ。
直後に視線を外し、少し気まずげな顔をしてみせる。
思えば大槻から家族について話を聞かされたのは初めてだった。奴の家庭環境がどのようなものかは推測のしようもないが、俺がその手の話題を避けて通ってきたのは事実で、大槻もそのことは察しているようだった。俺たちの間に家族及び家庭環境についての話が上らなかったのは、大槻があえて遠慮していたせいだったのかもしれない。
では今のは口を滑らせたということだろうか。大槻は失言を悔やむように目を泳がせている。
ただ俺の方は失言だと思わなかったから、いい機会だとばかりに尋ねてみた。
「お前にもお兄さんがいるのか」
弾かれたように大槻が俺の方へ向き直る。一瞬呆気に取られた顔をして、それから、
「まあね」
曖昧に頷いた。
その後は誤魔化すのをやめたようにからりと笑んだ。
「兄貴も姉貴もいるよ。俺、末っ子なんだ」
「へえ。わかる気がする」
言われてみれば大槻には兄か姉がいそうだ。どこがどうというわけではないが、直感的にそう思う。
「うん、それっぽいってよく言われる」
大槻はそう言うと数秒間だけためらってから、逆に尋ねてきた。
「鳴海くんは? きょうだいとか、いる?」
「いない」
もういない。そう答えても差し支えはないだろう。
俺は大槻に気を遣わせないよう、間を置かずに続ける。
「雛子にもお兄さんがいる。この間会った」
「え、そうなんだ! 確かに雛子ちゃんは妹って感じするけど」
「だから、きょうだいがいるのが少し羨ましいな」
「いや、いてもいいことなんてないよ。ガキのうちは威張ってばっかだし、そのくせ大人になるとやたら上から目線だし」
大槻は肩を竦めたが、奴がきょうだいを嫌っていないことは態度と顔つきによく表れていた。
「その兄貴もさ、嫁さんの前じゃてんで弱くってさ。こないだ姪っ子が生まれたばかりなんだけど」
奴は携帯電話を取り出し、手早く操作してから俺に見えるよう画面を傾ける。そこには真っ白な着衣に身を包んだ、まだ目も開いていないような赤ん坊がいた。赤ん坊というだけあり、顔中が酔っ払いのように真っ赤だ。
「これ、うちの姪っ子。今んとこ兄貴に似てなくてほっとしてる」
そう言った瞬間、大槻は相好を崩した。今まで見たこともないくらいに緩みきった顔をしていた。
姪と言われても素人目には性別の区別がつかない。一つ一つのパーツが随分と小さく、特に握ったままの手のサイズと言ったらまるで限りなく精巧に作られた人形のようだと思う。画像にかろうじて映り込んだ小さな小さな爪を見た瞬間、素直な本音が漏れた。
「小さいな」
「そりゃそうだよ、生まれたてほやほやなんだから。可愛いだろ? ほっぺたとかもうすんげえ柔らかくってさあ!」
大槻はますます浮かれたようだが、ちょうどそこへ注文したものが運ばれてきた。俺たちは一旦黙り、運ばれてきた食事を迎え入れ、店員が立ち去ってからまず食べ始めた。
食べながら、いくらか落ち着いたらしい大槻が口を開く。
「そんでうちの兄貴がさ、夜中に嫁さんが産気づいたからって電話寄越してきてさ。駆けつけたらうんうん言ってる嫁さんの手握って声かけてんだけど、兄貴の方が蒼白になってんの。こりゃまとめて診てもらった方いいんじゃねって思ったくらい」
大槻の口調は至って楽しげだったが、それも全て過ぎたことだからこそなのかもしれない。
「仕方ないから俺が兄貴の車動かしてさ、二人乗っけて病院まで行った。夜中だよ。夜中の一時だよ! おまけに病院着いてからも超高速で貧乏揺すりしまくりで隣座ってた俺まで軽く揺れたからね。あんな落ち着きない兄貴は初めて見たよ」
「ずっと付き添っていたのか。大変だったな」
俺がそこで口を挟むと、大槻は照れ笑いを押し隠すように顔を顰めた。
「――それはまあ、兄弟だしね。仕方なくだよ」
それから少しだけ慌てて、
「ってか、兄貴の話はどうでもよくて。鳴海くんもそうなるんだろうなって話だからね」
「そんな先の話は想像もつかない」
ならない、とは、やはり断言できなかった。
だが想像はつかなくとも、雛子にまつわる事柄には何であれ可能な限り落ち着いて構えていたいとは思う。今は無理でも、もう少し先の未来では。
「俺は何か想像できちゃうけどな。鳴海くんはいいお父さんになりそうだなあ、とか」
大槻の言葉に――正確には『お父さん』という単語に、胸がざわついた。
反面教師としての父親しか知らない俺が、果たしていい父親になどなれるものだろうか。
考えるにしても気が早すぎる。俺はかぶりを振ってその疑問を頭から追いやる。
「雛子ちゃんは可愛いお嫁さんになりそうだな、とかもね」
それは何となく想像できる。いや、あえて想像してみたいことなのかもしれない。彼女が毎日俺の隣にいるというだけで、まるで夢のような日々になることだろう。
もっとも今のところは、大学で会えるようになるというだけでも十分に夢のようだ。二年ぶりに彼女と同じ学校に通えるようになったら、嬉しい。
今日、試験に挑む雛子の努力が必ず報われたらいいと思う。だが報われなかったとしても、どんな結果になったとしても、俺は彼女を最大限労ってやるつもりでいる。無論、最良の結果が出るに越したことはないが――これはこれで気が早いか。
合否が判明するのは三週間後だ。彼女にかけるべき言葉は、その時考えればいい。
「可愛いお嫁さんに愛想尽かされないよう、いざって時はどーんと構えてないと駄目だよ、鳴海くん!」
いつものことだが大槻は俺の心中を見抜くのが上手い。今も、俺が何を考えているのか察したような言い方をした。
釘を刺された俺は黙って飯を食べ、たまに腕時計で時刻を確かめた。スケジュール通りに進んでいるなら、今頃雛子は昼休みを終え、午後の試験に臨んでいるはずだった。
「雛子ちゃんみたいな妹がいるっていいよなあ」
大槻も食事をしながら、まるで夢を見るような口調で呟く。
「俺はずっと弟か妹が欲しかったんだよ。あんなしっかりしてて可愛い子が妹とか最高だろ、部屋とか散らかしてたら『もう、お兄ちゃんったら』みたいに言われるんだろうなあ。いいなあ!」
俺は先月の、お兄さんが脱ぎ捨てた靴下を持ってきた雛子とのやり取りを思い出す。
恐らく彼女は、大槻が想像するような柔らかい言い方はしないだろう。
黙って俺が笑うと、大槻はどこか不満そうに眉を顰めた。
「何その含み笑い。あれですか、俺はその可愛い子を妹じゃなくて嫁にするんだぜっていう自慢ですか」
「誰もそんなことは言ってない」
「でもする気なんだろ? さっきから全く否定してないもんな。お兄さんに会ったのだって要はそういうご挨拶的なもんだろ。ああ羨ましい!」
自分から聞いておきながら自棄になったのか、大槻が荒れ始めた。
やむを得ず俺は話題を戻す。
「それより、お前の姪っ子の写真を見せてくれないか。まだあるんだろう?」
途端に大槻はまた顔を緩ませて、
「あるある! 俺のケータイに百枚くらい撮ってあるよ! 見る? 見ちゃう?」
上機嫌で姪っ子の写真を――ありとあらゆるアングルから撮影した生まれたてほやほやの赤ん坊を俺に披露してくれた。シチュエーションも豊富で、大槻のお兄さんと思しき二十代後半くらいの男性、その奥さんらしき若い女性、それに大槻の両親であろう中年夫婦が次々と赤ん坊を抱きかかえては満面の笑みで写っている。柄沢一家と同じように、大槻一家もまたよく似た顔立ちをしていた。
そしてどの写真においても主役を張る大槻の姪は見るからに愛らしく、俺の精神状態を落ち着けるのにも一役買ってくれた。幸せな家族を見て朗らかな気分になる日がやってくるなど、昔の俺なら考えられなかったことだ。
おかげで長くなると思っていた一日も、どうにか乗り切ることができた。
雛子から正式に連絡があったのは、前期試験の翌々日だった。
それまでは試験が済んだことや無事に帰宅したことなどを知らせるメールは届いていたが、電話での報告はまだだった。試験の後は彼女も疲れていただろうし、自己採点もしたいと言っていたので俺はその連絡を待つことにした。
そしてようやくかかってきた電話にて、雛子は思いのほか気だるそうな声を聞かせてくれた。
『あ、先輩……こんばんは。今、いいですか?』
元気そうには聞こえなかった。気分が沈んでいるというよりは純粋に疲れているような、あるいは体調を崩したかのような声だ。
「どうした、雛子。調子が悪そうだな」
『な……何でわかったんですか』
俺に言い当てられた雛子はたちまち狼狽した。電話だからばれない、わからないと思っていたのだろうか。だとすれば考えが甘い。
「声を聞けばわかる」
『そんなに、わかるものですか』
「これだけ長く聞いていればな」
彼女の声はすっかり耳に馴染んでおり、異変があればすぐにわかる。普段の彼女ならもう少しはきはきとした物言いをするし、最初に切り出す挨拶ではいつもこちらの機嫌を窺うような甘えた声を出す。
「それで、どうしたんだ。風邪でも引いたのか」
気がかりになった俺が急かすと、雛子は慌てながら答えた。
『いえ、そうじゃないんです。実はあんまり寝ていなくて……。昨日、一昨日と寝つけなかったんです』
せっかく試験が済んだというのに、彼女は緊張感や重圧からは解放されていないようだ。深刻な口調で続けた。
『試験、上手くできたと思うんです。自己採点が正しければ』
それなら少しの間、試験のことを忘れてしまってもいいだろうに。俺は呆れながら忠告した。
「なら、気楽にしているといい。今から身構えていたら発表当日まで身が持たんぞ」
寝不足が続いた末、発表当日に体調を崩して合格を喜びきれないようでは彼女もさぞ悔しかろう。気負わず、まずはじっくりと身体を休めて欲しいものだ。
『私もそう思ってはいるんですけど』
雛子は自信なさそうに言った。すっかり気弱になっているようだ。
俺も大槻に言われた通り、大きく構えて接することにする。
「何にせよ、睡眠はきちんと取るべきだ。ここまで来たらややこしいことは考えるな。今のうちに少し休んでおくといい」
『なるべく、そうします』
彼女は弱々しい声ながらも、殊勝に応じた。
それから少しだけ活力を取り戻したように明るく続ける。
『ところで先輩、バレンタインデー当日はお暇ですか?』
二月と言えば、行事予定は大学入試だけではない。
先日大槻と行った店でもバレンタインフェアと称して、チョコレートを使用したデザートがふんだんに用意されていた。
そして俺にとっては、様々な思いが入り混じった複雑な行事でもあると言える。
「夕方なら空いている」
俺は雛子の問いに答えてから、取り繕うように言い添えた。
「先に確かめておきたいんだが、贈り物はチョコレートでなければいけないという決まりはないはずだ。差し支えなければ、俺は甘い物じゃなくてもいいからな」
チョコレートが嫌いなわけではない。
むしろ甘い物嫌いの俺が、目下唯一『たまに食べたくなる』菓子類がチョコレートだった。他の甘い物は相変わらず苦手で、雛子が食べているのでなければ見たいとも思わない。
だがチョコレートにだけは格別の思い入れがある。食べる度に、その香りを嗅ぐ度に、あの日の記憶が蘇るようだった。さすがに頻繁に買って食べるほどではないが、月に一度ほど、なるべく苦味の強いチョコレートを選んで買うことがある。味よりも香りの方を気に入っているから、甘い物である必要がなかった。そうして食べる程度にはチョコレートを気に入っていた。
それなら雛子にも作ってもらえばいいのだろうが、俺がチョコレートを好きになったと言えば、好奇心旺盛な彼女はその理由を知りたがるだろう。正直に言うわけにはいかない。どんな反応をされるか手に取るようにわかる。
かといって黙っておいたとしても、彼女が作ってきたチョコレートを彼女の前で食べるとなれば、俺はやはり思い出してしまうだろう。そうなると彼女に対して変な気を起こしそうで困る。
いや、今となってはさして困らないのかもしれないが、彼女はまだ受験生の身分だ。一応、困る。
そんな葛藤を抱えていたせいか、
『じゃあ、先輩は何か欲しい物とかありますか?』
雛子が不意打ちのように質問をぶつけてきたので、俺は答えに窮した。
「な……くはない。一応、ある」
あるにはあるが、当の本人には言えない。
『だったらそれ、教えてください。チョコのおまけに買ってきますから』
屈託なく、雛子は尚も尋ねる。
大して小遣いを貰っていないというのに、彼女はよく俺にプレゼントをしたがる。俺は彼女に金を使わせたくはないし、何を貰ったところで彼女の存在そのものに敵う品などあるはずがなかった。
「……いや、いい。やめておく」
俺は回答を避け、話題をチョコレートへと戻した。
「しかしお前は、チョコレートはどうしても用意する気なんだな」
『やっぱり基本は外せないかな、と思いまして』
照れ隠しのような口調で雛子は言った。
それを言ってしまうと、そもそもバレンタインデーの基本とは何かという話になってしまうだろう。二月十四日にチョコレートを贈ることそのものの意味、由来、起源について遡って考えなければならなくなりそうだが、クリスマスの過ごし方を振り返ってみても、雛子はそういったことに全く頓着しないだろうと思う。自分なりに楽しめればいいと考えているに違いない。
俺も今更野暮なことを言う気はない。そもそも彼女がいなければ気にも留めないような日だ。
『それに、友達と約束しているんです。皆で一緒に作ろうって』
雛子が声を弾ませる。
彼女の言う友人とは、いつものC組の連中のことだろう。何人かはおぼろげにだが顔も覚えている。
そこでふと、雛子は高校卒業も控えているのだと、唐突に思う。
東高校での卒業式を、彼女はどんな心境で迎えるのだろう。
『もちろん先輩には、私が作った分をプレゼントしますから』
ひとまず現在の雛子はバレンタインデーのことで頭がいっぱいのようだ。
寝不足とは思えないほど明るくなった声と、どうしてもチョコレートは避けがたいという事実に、俺は嘆息した。
「お前の作った物なら食べないわけにはいかないな」
すると雛子は嬉しそうに、女らしい笑い声を立てた。
『ありがとうございます。先輩ならそう言ってくれると思ってました』
「ただし、少しでいいからな。お前が一緒に食べてくれるというなら話は別だが」
『それもいいですね。一緒に食べましょうか』
勘が鈍くて無防備なのか、それともまさかとは思うが、わかっていてわざと言っているのか。
俺は確かめるつもりで尋ねた。
「それなら十四日は、俺の部屋に来るか?」
『はい。お邪魔します』
間髪入れずに返事があったので、前者であると推測できた。わかりきっていたことでもある。
こういうことを考えるべきではないのだろうが、長いな、とぼやきたくもなった。
「わかった。先程も言ったが、俺は夕方なら空いている」
気を取り直して俺が当日の予定を告げると、
『私もその日は、皆と学校に行く予定なんです。皆で作ったチョコレートを、工藤先生に渡しに行こうって話になってて』
雛子も楽しげにそう言った。
先生側の都合もあるということで、出向くのは放課後に入ったばかりの時間帯を想定しているらしい。だがチョコレートを作ってから持っていくので、多少時間がずれ込む可能性もある、と彼女は語った。担任教師にチョコレートを渡す必要があるのかという疑問はあったが、彼女のクラスはそういうことに関するまとまりや結びつきが非常に強いらしい。このチョコレートもいわば卒業式の日にありがちな寄せ書きや花束といったものの代わりなのだろう。
俺の方はその日、補講がある。それも四限という微妙な時間設定だ。雛子の予定次第では彼女よりも戻りが遅くなることだろう。
「もし俺の方が遅くなっても、部屋に入ってていいからな」
『そうします』
「それから十四日までに、少しは元気になっておけ」
どうせ会うなら、試験が終わってほっとしている顔の雛子がいい。
まだ気を抜ける段階でないことはわかっている。だからこそ、俺と会う時くらいはややこしい悩みや迫り来る審判の時のことを忘れ、幸せそうにしていたらいいと思う。そうさせてやりたい、と思う。
「お前は十分に力を発揮できたんだろう。それなら大丈夫だ、自信を持て」
『……そうですね。そうします』
俺が励ますと雛子はくすぐったそうに言って、それから、
『先輩に大丈夫って言ってもらえると、本当に大丈夫そうな気がしてきます』
と続けた。
彼女の願いを叶えられるだけの強い力が欲しいと、俺も考えずにはいられない。
そうしたら俺はもう暗く悲しい話はしない。明るい言葉だけを口にすることだろう。