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日向の道を行く(1)

 立ち込めていた霧が晴れ、光が差したように思えた。
 例えるなら曇天模様の景色に、急に晴れ間が覗いて日が降り注いだようなものだ。それまでは灰がかった陰鬱な風景だけが果てなく広がっていて、それゆえに時折現われる彩り豊かな世界に戸惑うこともあった。しかし本当なら、世界は光で溢れているのだ。なのに俺はその眩しさに向き合うこともできず、これまで光から背を向け続けてきた。まるで逃げるようにひたすら日陰の道を歩いてきた。
 だが、あの日から全てが変わった。俺の心にはいつにも増してしっかりと雛子が棲みつくようになり、そして俺はそのことをとても幸せに受け止められるようになっていた。彼女の思い出と共に過ごす日常は、代わり映えのない片田舎の町並みも、色づき始めた木々の葉も、その葉が落ちて散らばったアスファルトの路面さえ美しく輝いて見えた。日に日に下がっていく気温もまだ清々しいくらいで、秋らしい空気を胸いっぱいに吸い込んで歩く余裕さえできた。
 自分で考えていた以上に、幸せな日々が俺の元へ訪れていた。

 彼女の誕生日以来、雛子とは顔を合わせていない。
 メールのやり取りは変わりなく続けていた。内容もまた相変わらず、彼女の体調を気にかけたり、受験勉強についての質問を受けたり、文化祭準備の進捗状況について報告を貰ったりしている。俺たちの間に誕生日の出来事についての話題が上ることは全くなかったが、それが逆にあの日の記憶を互いに強く意識しているように思わせた。
 俺は以前、そういった生真面目なメールを本心を押し隠し、取り繕う為に利用していた。彼女の前では立派な人格者であらねばとメールを遂行する行為に、自己嫌悪さえ抱いていた有様だった。
 しかし今は違う。
 今の俺は、メールで伝え合うべき事柄と、直接会って顔を見ながら言うべき事柄をきちんと理解し、弁えている。歯が浮くような台詞は顔を合わせた時、彼女と二人きりの時に告げればいいのであって、メールではまず何より気がかりなことを優先して尋ねたいと思った。体調を崩していないか、受験勉強は捗っているか、文化祭の準備は順調か――雛子はそれらの質問に、いつもきめ細やかな返事をくれた。そういう彼女の一途さに、俺は彼女からの一方ならぬ想いを感じるのだった。
 ただ、こうして深く想い合っている俺たちでも――いや、だからこそと言うべきなのかもしれないが、電話をかけて声を聞くという行動にはまだ、互いに踏み切れていなかった。俺の方には照れもあったが、それ以上に何と言うか、おかしなことを口走ってしまいそうだという懸念もある。これから高校生活最後の文化祭を迎えようとしている多忙な受験生に対し、心を乱すような言葉をぶつけるのは不逞な振る舞いだろう。もう少しこちらの気持ちが落ち着くまでは、少なくとも歯止めがかかるようになるまでは、電話をすべきではないと思っている。
 だが彼女にああいうことをしておいて長らく電話をしないというのも、それはそれで不誠実な態度であるかもしれない。俺は幸せな日々を送っていたが、悩み事が皆無だというわけではなかった。むしろ今でも雛子については思案の時間を惜しまず考え続けている。
 彼女のことを考える時間、それそのものが幸いなのだと、最近になって気づいた。

 そして自分でも予測がついていたことではあるが、俺の内心の変貌はものの見事に、面にも表れているらしい。
「……おい、あれ、どういうことだよ」
「……わかんないんすよ。今週はもう、ずっとあの調子で」
 本棚の陰から、船津さんと大槻の潜めているようで筒抜けの話が聞こえてくる。
 十月最後の日曜日、俺は『古本の船津』にアルバイトに来ていた。今日は楽団の方が一段落した大槻も一緒だ。もっとも大槻は十二月にまたコンサートを控えており、年内はあと二、三回来られればいい方だと言っていたが、それでも船津さんは人手が増えて大助かりだと喜んでいた。
 船津さんの店は半月もすると荒れ始める進歩のない管理体制であり、俺も先週の日曜は休みを貰っていたので、その分も取り返すべく張り切って仕事に勤しんでいた。だが真剣に働く俺の耳には二人の話し声が絶えず聞こえてくる。
「別人かよってくらい緩みきった顔してんなあ……」
 ぼやきのようなトーンで船津さんが呟くと、
「何かいいことでもあったんじゃないすかね」
 大槻が声だけでわかるほどにやにやと応じる。
 カウンター付近で交わされている二人の会話は、狭い店内で作業をする俺の耳にしっかり届いていた。それでも船津さんの方には多少声を落とす配慮があったが、大槻はまるで聞こえよがしに喋る。恐らく俺を動揺させて何らかの反応を引き出そうとしているのだろう。
 そんな暇があったら働くべきだと俺は思う。大槻の手はすっかり止まってしまっているし、普段なら店番を任せて中抜けする船津さんがずっと店にいるのも気になる。俺の顔の話なんて、仕事を怠けてまでするものでもないだろうに。
 大体、今はそれほど顔が緩んでいるという自覚もなかった。それは確かに、本棚の入れ替え作業をしながら雛子のことを思い出したり、彼女が好きそうな本を見つけて喜ぶ顔が見たいと思ったり、商品の中にシンデレラの絵本を見つけて、彼女の役柄では一体どんなドレスを着るのだろうとページを開きたい衝動に駆られたりもしたが、それでも弛まず仕事を続けている。非生産的なお喋りに耽る奴らに文句を言われる筋合いはない。
「いいこと、なのか? ありゃ一周回って笑わなきゃやってられねえって顔にも見えんぞ」
 船津さんが懸念を示しているのが聞こえる。
「あいつの笑い顔って凄みがあるっつうかさ……ぶっちゃけ天地を揺るがしかねないことくらいは企んでそうだよな」
 俺にとっては雇い主だし、年長者でもあるので文句は言いにくいが、何とも失礼な言い種だ。
「俺も付き合い長いですけど、ああまで浮かれてる鳴海くん見るのは初めてですよ」
 大槻はけたけたと笑い声を立てる。
「まあ、安心してください。鳴海くんの浮かれる理由なんて大体は女の子絡みです」
 長いというほどの付き合いではないはずだが、大槻の読みは当たることが多いので油断ならない。今回も言い当てられて、俺は密かに眉を顰める。
「そうだった。あいつ、意外にも彼女いるんだよな」
 思い出したように船津さんが言うと、大槻はいかにも含んだ口調で応じる。
「そうなんすよ。しかもすっげえ可愛い子ですから」
「マジで!? くそ、一回見てみてえな」
 船津さんは悔しがっている。
 以前から『一度店に連れて来い』としきりに言われているのだが、俺は断り続けていた。会わせたが最後、しばらくからかわれるのは火を見るより明らかだ。雛子にもここでのバイトを再開したことは黙っておいてある。
 雛子について話題が及ぶと俺も平然とはしていられなくなり、わざと音を立てて息をつく。
 だがそれすら聞こえなかったかのように、船津さんと大槻はいよいよ盛り上がり始めた。
「しっかしあいつの彼女なんて想像つかねえな……可愛いって具体的にどんな感じ?」
「眼鏡美人すね。でもきつい感じとか全然なくて、おっとり清楚系みたいな」
「うお、いいじゃん。俺もドストライクだぜそれ」
 絶対に雛子をここへは連れて来ない。俺は決意を新たにした。
「それでいて鳴海くんにぞっこんなんですよ、あの子」
 更に大槻がそう言ったので、俺は込み上げてくる感情をごまかす為に唇を引き結ぶ。
 それは、俺もよく知っている。嬉しくも、幸せにも思っている。同じだけの想いを俺からも返せたらいいと望んでいる。
「羨ましい話だな、そいつは」
 今度は船津さんが盛大な溜息をついた。
 その後で、
「つか、お前も一人でにやにやしてんじゃねえよ。そんなに可愛いかよ、彼女が!」
 俺に向かって冷やかしの言葉を投げつけてきたので、俺は振り向かずに答える。
「にやにやなんてしてませんよ」
「してるだろ今日は朝からずっと! こっからちゃんと見えてんだよ!」
 レジカウンターの真上には大きな鏡が取りつけられている。本来は万引き対策として用いられるものであって、仕事を放り出してアルバイトの表情を監視する為のものではない。
「実際どうなんだよ。可愛い彼女と何かいいことでもあったのか?」
 船津さんが羨ましげに尋ねてくる。
 答える代わりに、俺は棚から一冊の本を抜き取ってレジカウンターへと持っていく。本棚の陰から急に現れた俺を見て、船津さんはいくらか驚き、大槻は今にも笑い出しそうな顔をしていたが、双方に構わずその本をカウンターへ置いた。
「これ、帰りに買っていきます。取っておいてもらえませんか」
 俺が差し出した本を、カウンター内の船津さんが訝しげに取り上げる。そして本の表紙と俺を見比べた後で呻いた。
「『シンデレラ』だと……これまさか、お前が読むのか?」
「ええ」
 あらすじだけなら知ってはいるが、そういえばきちんと読んだことがなかった。そんな折も折、シンデレラの絵本がたまたま商品の中に眠っていたので、購入して読んでみることにしたのだ。何事も予習は大切だろう。
「いや、やっぱわかんねえよ。お前の浮かれ方わかんねえよ!」
 絵本を手にした船津さんが顔を顰める。
 それを見ていた大槻は、俺に指を突き立てるようにして言った。
「つまりはあれだね鳴海くん! 君は遂に雛子ちゃんの王子様になっちゃったんだね!」
「……いいから仕事しろ、大槻」
 この中でなら俺が最もまともな発言をしていると思うのだが、違うだろうか。

 船津さんと大槻が喧しかったせいで、本日のアルバイトは二時間も残業しなければならなくなった。
 店を後にしたのは午後五時で、辺りは既に暗くなっていた。秋の終わりが近づくこの時期、すっかり日も短くなってしまったようだ。購入した絵本を鞄にしまっていると、大槻が声をかけてきた。
「鳴海くん、今夜飲みに行かない?」
 悪びれるところのない誘いを、俺は即座に断った。
「今日はこれから用事がある。原稿も仕上げなくてはならないし、酒を飲んでる暇はない」
「じゃあ飯だけでもいいからちょっと付き合ってよ」
 大槻は負けじと食い下がってくる。
 飯だけなら別に付き合ってやってもいいのだが、大槻の魂胆は見え透いている。奴の目的が俺と食事をするだけであるはずがなく、まず間違いなく何か追及したがっているのだろう。
 雛子の誕生日から今日までの一週間、俺と大槻は大学で何度か顔を合わせた。その度に大槻は俺の態度を不審がり、何があったのかとしつこく尋ねてきた。幸いにも大学ではお互い忙しく、それほど長々と尋問を受けずに済んでいたが、腰を据えて話をすればそれもどうなるかわかったものではない。
「俺は何を聞かれても口を割らない」
 そう答えると、大槻は少し不満げに片眉を上げる。
「あ、そういうこと言っちゃうわけか。俺も君のこと、結構心配してたのになあ」
 恩に着せるような物言いだったが、事実でもあった。俺が悩んでいた数ヶ月間、大槻がどれほど俺を心配し、励まそうとしてくれたか。思い返すとさすがに申し訳ない気分になる。
「それについては感謝している。だがな」
 俺は言葉を選びながら弁解した。
「こういうのは他人に逐一報告するような話でもないだろう。俺も言いたくない」
「逐一じゃなくてもいいから、できるとこまで報告してよ」
 と、大槻はもっともらしい反論をする。
「君が幸せいっぱいでやに下がってんのは別にいいんだよ。雛子ちゃんに引かれない程度に大いに緩みきった顔してればいいよ。でも君の先だっての悩みが解決したのかどうか、またぶり返さないかどうかだけでも教えてくれたっていいだろ? 俺だって君を祝福する用意はあるんだよ、やっかみ半分でね!」
 奴の口調は軽かったが、こういう話し方の時にこそ、奴の本音がより鮮明に表れていると言えるだろう。
 一年と数ヶ月の付き合いで、俺も大槻の考え方がわずかながらわかってきたようだ。
「なら、少し話そう」
 肩を竦め、俺は大槻の誘いを受け入れた。
 もちろん事細かに報告する気はない。ただ、もう心配してもらわなくても平気だということは伝えておきたかった。

 俺は大槻に連れられて、駅前によくある形式の居酒屋に入った。
 奴が居酒屋を選択したことに、飲まないつもりだった俺は強く抗議したが、大槻は平然と言ってのけた。
「君は烏龍茶にでもしとけばいいだろ。俺は素面じゃ君の惚気話なんて聞けないからね」
 どうせいくら飲んだって酔わないくせに。
 仕方なく俺は烏龍茶と、夕飯代わりになりそうないくつかのメニューを注文した。大槻は中生とつまみを数点頼み、ビールのジョッキが届くと乾杯だと言わんばかりに俺のグラスへぶつけてきた。
 時間的に開店したての居酒屋は俺たちと同じ学生と思しきグループが数組おり、既に方々のテーブルががやがやと賑やかだった。来店者はこれから増えてくると見え、客を招き入れる店員の声が入り口辺りから何度か響いている。食事をするだけなら少々騒がしい環境だった。
「雛子ちゃんと何かあったんだろ?」
 ビールをジョッキの半分も飲まないうちから、大槻は俺に尋ねてきた。
 以前もこんな質問を受けたことがあった、と俺はしみじみ思う。だがあの時とは俺の心中も状況も、何より大槻の表情が違う。今は嬉しそうに、楽しげににやついている。
「言いたくない」
 俺は淡々と食事を続ける。こちらは素面でなければ秘密を死守できない。
「すっかり顔に出てんのに? もうぶっちゃけてるようなもんだろ」
 大槻はそう言うのだが、俺には自分の顔は見えない。ただ口元がいつになく緩く、すぐに笑ってしまうことだけは自覚している。
 雛子のことを考える度に、あの笑顔を思い出す毎に幸せになれた。
「それでも、言いたくない」
 気恥ずかしいからとか、口に出すのに抵抗があるといった理由だけではない。
 あの日の出来事は何もかも独り占めしておきたかった。
 正確には彼女と二人で共有する秘密だが、それ以外の誰にも知られたくない。渡したくなかった。
「だが、お前には心配をかけた。そのことは詫びておきたい」
 俺が言い添えると、大槻は苦笑を浮かべる。
「いや謝んなくてもいいよ。言ったろ、お互い様だって」
「なら、お前に何かあったら、その時は力になろう」
「何かあるといいけどね……。クリスマスまで二ヶ月切ってんのに何もないよ、今んとこ」
 嘆いた大槻は一息にジョッキを空け、すぐに二杯目を注文しようと店員を呼ぶ。例によってペースが速い。
 駆けつけた店員にビールの追加を頼んだ後、大槻は俺を探るように見た。
「鳴海くんは?」
「俺はいい。さっきも言ったが、この後用事がある」
 店員は中生一つきりの注文を請け負うと、足早に俺たちのテーブルから去った。
 すかさず大槻が身を乗り出してきて、
「ってかさ、用事って何? 雛子ちゃんと会うの?」
「まさか。この時期のこんな時間に受験生を呼び出せるか」
「そんな受験生ちゃんと君との間に、何があったか知りたいんだけどなあ」
 こちらの罪悪感を煽るような言い方をされ、俺は思わず少し笑った。
 たちまち大槻が目を剥いて、それからどこか納得したように言う。
「吹っ切れたんですか」
「おかげさまでな。悩みすぎたと、今となっては思う」
 俺が素直に打ち明けると、大槻もにやりとしてみせた。
「全くだよ。ね、俺の言った通りだったろ?」
「ああ。一人で抱え込むような悩みでもなかったな」
 恥ずかしながら、それは認めておく。
 雛子はいつでも俺の話を聞こうとしてくれていたのに、俺は一人で考え、一人で答えを出すことが年長者らしい振る舞いだと思い込んでいたのだ。今となっては実に馬鹿げた思い込みだった。
「そりゃそうだよ。恋愛なんて一人でするもんじゃないんだからさ」
 大槻が言った時、ビールのお替わりが運ばれてきた。一旦口を噤んでから大槻はビールを少し飲み、再び続けた。
「俺はわかってたんだから。雛子ちゃんは君の駄目なところも受け止めてくれる子だって」
 それは悔しいが、認めなくてはならない。大槻は雛子のことをよくわかっていた。
 だがあくまでこの一点についてだけだ。今となっては俺の方が雛子のことをたくさん知っているし、これからますます熟知していくことになる。誰にも負けるつもりはない。
「で、具体的に何があったか教えてくんない?」
 二杯目のビールをぐいぐいと減らしていく大槻が、執拗に食い下がってくる。
 俺は烏龍茶のグラスを手に防戦する。
「言うつもりはない」
「もう半ば言ってるようなもんだって思わない?」
「思わない。お前こそそう思うなら、適当に推測して終わりにするといい」
「推測するにしても、もうちょい確定的な情報が欲しいんだよ」
 そんなことを知ってどうするのだろう。俺は大槻がよその女と付き合って、その後どんな関係に陥ろうと、根掘り葉掘り聞き出そうという気にはならないと断言できる。知ったところでどうにもならない、無益な情報だからだ。
 もっとも、大槻は雛子をネタにすれば俺を言い負かせると考えているようなので、切り札を仕入れておこうと企んだ上で追及してくるのかもしれない。
 果たしてその切り札はいつまで有効だろう。俺もいつかは、雛子の名前を出されても笑い飛ばせるようになるかもしれない。彼女のことをいくら冷やかされても、当然のように軽くいなせるような日が――それはまだもう少し先の話になりそうだが、せめて堂々としていられるようになりたいものだ。
 俺が彼女と歩むのは、誰もが当たり前のように通る日向の道だ。後ろめたさ、罪悪感は必要ない。
「そういえばさ、鳴海くん」
 不意に大槻が思い出したような口調で、
「全然話変わるんだけどさ。女の子の頭をぽんぽんするとその子を落とせるって話、知ってる?」
 話を変えるにしてもあまりに唐突なことを言い始めたので、俺は呆気に取られた。
「……何の話だ?」
「いや、だからそういう話。聞いたことない?」
 大槻は話題を急旋回で転換したことに反省の色もない。へらへらと笑んだ。
「俺もネットで見たんだけどさ。そう言や女の子って頭ぽんぽんされるの好きだよなあって」
「お前は最先端の情報技術をそんな与太話を収集する為に浪費しているのか」
「別に減るもんじゃないだろ! 時間は確かに忘れちゃうけどさ」
 俺の冷ややかな目をものともせず、大槻は語を継ぐ。
「まあ全く気のない相手に髪触らせる女の子ってあんまりいないし、ぽんぽんさせてくれた時点で多少脈ありだろうから、落とすってのとは違うのかもしんないけど」
 そうして大げさに肩を竦めた後、俺に向かって意味ありげに笑いかけてくる。
「俺は試す相手がまだいないから検証できないんだよ。鳴海くん、雛子ちゃんに試してみてくれない?」
 大槻はそう言うが、仮にそれが女を落とす手段だというなら、使いでは奴の方があるはずだ。
 そもそも頭を叩いたくらいでどうにかなるような上手い話などあるものか。大槻の持ってきた情報とあっては半信半疑とすらいかない全面的な疑わしさしか窺えない。
 ただ、思い当たる節もゼロではない。雛子は髪を撫でられるのが好きなようだった。あれは相手が俺だからこそ触らせてくれたと思っていいのだろうが、そこはかとなく嬉しそうにしている雛子を思い起こせば、大槻の持ってきた与太話も事実無根とは言い切れないような気もする。
 どちらにせよ、今の俺には検証のしようがないことだ。
「今更、俺が雛子を落としてどうする」
 きっぱり言い返すと、大槻は見るも腹立たしいしたり顔になった。
「それもそうだったね。もうとっくに落ちちゃってるもんね、雛子ちゃんに君が」
「待て。逆だ、俺が雛子を落としたんだ」
「逆じゃないだろ。どう見てもめろめろに落っこちてんのは君の方だよ」
 どちらが先か、などというくだらない定義に囚われるつもりはなかったのだが、今となっては少々気にならなくもない。
 俺と雛子は、果たしてどちらが先に恋に落ちたのだろう。
 はっきりしているのは、俺の方が先に声をかけたという事実だけだ。そして俺の行動を発端として今の関係があることを踏まえると、やはり俺が彼女を落としたのだと考えるのが自然だろう。
 俺たちなら案外、二人同時に、いっぺんに落ちてしまったということも考えられそうだが。
「じゃあさ、こういう話は知ってる? これもネットで見たんだけどさ」
 大槻が再びジョッキを空にする。
 それから息をつき、重大な世界の真実を詳らかにするような、厳かな口調で言った。
「女の子の傘の色は、女の子が着けてる下着の色と同じなんだって」
 いくらざわざわと騒々しい居酒屋の店内とは言え、公の場でそういう話はどうなのだろう。そして大槻のネットの使い方には一層の憂慮を抱いた。
「お前は、インターネットという素晴らしい技術をそんなくだらんことの為に――」
「いいじゃん堅いこと言うなって! いつの世も男の興味の第一の対象は女の子なんだよ」
 後半の言葉には頷けるところもあるが、それにしても酷い。そして馬鹿馬鹿しい。
「ってか、ぶっちゃけ納得できるとこもあるだろ?」
 そこで大槻は妙に得意げな態度になり、
「やっぱ傘の色って、その子の一番好きな色だったりするじゃん。ってことはその色のものを身に着けてるって可能性も高いわけだろ。これはあながち的外れじゃない!」
 と言い張るので、俺は鼻で笑ってやりたくなった。
「お前はもっと有益なことの為にネットを利用すべきだ」
「そうかなあ。頭ぽんぽんよりかは信憑性ありそうって思ったんだけどな」
 確かに雛子の愛用の傘は水色で、彼女の一番好きな色だ。それは当たっている。
 だが当たっているのはそこまでだ。
「ないな。そんなもの、鵜呑みにする方がどうかしている」
 俺が一蹴すると、大槻はまるで待ち構えていたように一言、
「確かめてみた?」
 ぎくりとして、思わず俺は口を閉ざす。
 一瞬の沈黙の後、大槻の顔にはまるで勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。
「あ、図星? やっぱね、随分自信たっぷりに否定してきたと思ったよ!」
「な……俺は何も言ってない。勝手に決めつけるな!」
「もう言ったようなもんだって。顔に書いてあるしさ」
 もしかするとここまでが全て大槻なりのはったりで、押し切れば俺が自白するとでも思っていたのかもしれない。奴の目敏さは言うまでもないが、奴自身が言っていたように、確定的な情報を目測だけで読み取るまでには至らなかったのだろう。
 だが俺は反応してしまった。必要以上のことは話していないが、顔に出ていると言われればそれまでだ。苦々しい思いで飲む烏龍茶は、敗北の味がした。
「そっかそっか。こっちのネタは既に検証済みかあ、おめでとう鳴海くん!」
 大槻は遠慮のない口調で言うと、怒りに打ち震える俺を見て宥めるように手を振った。
「ってかよかったじゃん、雛子ちゃんが君のむっつりなところも受け止めてくれる子で」
「誰がむっつりだ! お前と一緒にするな!」
「いや、俺は違うだろ。君と違って、俺はそういうの全く押し隠さない派だからね!」
 それはそれでどうなのかと思うようなことを、大槻は言い切る。
 俺はいろいろ否定したい気持ちも、ごくわずかな失言を挽回したい思いもあったが、ここは何を言っても窮状を招くだけだと知っていた。
 なので一刻も早くこの場を立ち去ってやろうと、注文した夕飯代わりのメニューを黙々と口に運んでやった。
「そんな急ぐなよ。もうちょっと話そうぜ、鳴海くん」
 大槻はそんな俺を笑顔で押し留めようとする。
 卓上メニューを取り上げてアルコール類の欄を指差しながら、
「何だったら今から飲むのもいいんじゃね? 今夜はもう何杯でも付き合っちゃうよ!」
 と言い出したから、それは御免だとかぶりを振る。
「今日は用事があると言った。閉店前に立ち寄りたい店がある」
「店? 買い物でもすんの?」
「そうだ」
 俺が頷くと、大槻はその買い物が何か知りたいという顔をした。
 だが当然、教えるわけにはいかない。

 雛子への誕生日プレゼントを買いに、アクセサリーを見に行くのだと言ったら、ますますからかわれるに決まっている。
 それでなくても大槻は目敏くて、おまけに無益なことにばかり弁の立つ男だ。これ以上迂闊なことを言って、しばらくの間切り札として事ある毎に持ち出されるのは困る。
 俺が冷やかしの言葉を笑い飛ばせるようになるには、まだまだ長い時間がかかりそうだった。
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