日向の道を行く(2)
雛子への誕生日プレゼントはイヤリングにした。俺が女物のアクセサリーに詳しいわけはないから、事前に雛子からメールで希望を聞き出していた。彼女は文化祭の衣裳を用意している最中で、ドレスの色だけはピンクと決まっていたようだが、具体的にどんな装いにするかは共演者と調整を重ねているところらしい。彼女は脇役なので主役のシンデレラより目立ってはいけないし、もう一人の姉役と違いすぎても駄目なのだそうだ。そこでどんな衣裳を着ることになってもいいように、例えば襟元が開いていようと閉じていようと、あるいは半袖であっても長袖であっても支障のないアクセサリーにしたい、と彼女がイヤリングを所望した次第だった。
舞台映えするものであればデザインや素材はお任せしますと言われ、俺はアクセサリーの店に単身乗り込んだ。店員は女だらけ、客層も女かカップルかという空間で多少落ち着かない思いをしつつも、無事にそれらしい品を選び購入することができた。
買ったのは白蝶貝の、雫型をしたイヤリングだ。彼女の小さな耳元で揺れるイヤリングはさぞかし舞台映えするだろうし、色白の雛子に白蝶貝の光沢は、まるで身体の一部のようによく馴染むだろうと思った。
店員から贈り物用のリボンをかけるかどうか尋ねられたので、水色のリボンでお願いした。彼女の好きな色だからだ。
プレゼントを用意し、そして寄稿の為の原稿を仕上げた十一月の初め、俺はようやく意を決して彼女に電話をかけた。
コール音が鳴り響く間、まず何と言って挨拶をしようかと考えていた。長らく電話をしなかったことを詫びなくてはならない。メールだけで連絡を取り合っていた間もずっとお前のことを考えていた、話がしたかったと伝えなくてはならない。
だがあれこれ言葉を練り上げたところで、それを上手く言える自信もなかった。彼女の声を聞く前から既に心臓は早鐘を打ち、電話を持つ手にはじっとりと汗を掻いていた。
永遠にも思えるコール音の繰り返しが、突然ふっと途切れて、
『も、もしもし、先輩ですか?』
やや勢い込んだような声が耳に届く。
雛子の声は、十月の誕生日でたびたび見せたのと同じ調子で慌てていた。何の変わりもなかった。おかげで俺は込み上げる笑いを噛み殺すのに大変苦労した。
「……ああ。久し振りだ」
自分でもわかるほど張りつめた声が出て、彼女のことは言えないなと思う。
それから、何はなくともこれは言っておかなければと謝罪の言葉を告げた。
「しばらく連絡せずにいて、済まなかったな」
『いいんですよそんな!』
すぐさま雛子は俺の言葉を否定した。
その後で、声だけでもわかるほどまごつきながら続ける。
『あ、連絡しなくていいってことじゃないですけど、あの、ほら、メールはしょっちゅう貰ってて嬉しかったです。それは確かに久々に声を聞けたこともすごく嬉しいって思ってますけど、えっと……』
恐らく彼女の方も、俺に話したいことがたくさんあったのだろう。しかし堰を切ったように溢れてきた言葉は次第に弱くなり、やがてぱたりと止んでしまう。
ノイズ混じりの沈黙の後、雛子が息を吸い込むのが聞こえた。
『……す、すみません。何か私、変ですよね』
そして、恥ずかしそうに詫びてきた。
謝ってもらうようなことでは決してないのだが、変だというのも事実には違いない。どうやら雛子も緊張しているようだ。
彼女があの日の出来事を覚えていてくれたことがわかり、甘いような、震えるような喜びが胸の奥に広がる。たやすく忘れられるようなことではないし、嬉しいと思うのも妙なのだろうが、なぜか甘美な感慨を覚えた。
「気にするな。俺もいささか緊張している」
俺が包み隠さず打ち明けると、雛子は安堵の息をついたようだ。
『先輩もですか、よかったです……いえ、よかったっていうのも妙ですけど』
「そうだな」
よかったということもないだろうと、俺は笑った。
俺たちはもう二年近く一緒にいるのに、初めて二人きりで会った時よりも緊張して、うろたえている。彼女の初々しいそぶりは堪らなく可愛らしいが、俺はもう少しこういった状況に慣れておきたいものだ。彼女が困って縋ってきた時、頼りにしてもらえるように。
そこで、乱れる心を落ち着けながら続けた。
「連絡をしなければとずっと思っていた。確かにメールはしていたが、それだけではあまりに不誠実だろう。しかし何の用もないのに電話をするのも、受験生のお前には申し訳ない。それでしばらく迷っていた」
プレゼントも原稿も、今となっては口実のようなものだった。
雛子に電話をする為の。そして、雛子に電話をしなくてはならないと、自分を奮い立たせる為の。
彼女の声を聞きたい、彼女と話がしたいという思いとは裏腹に、俺は彼女に連絡をすることをためらってきた。彼女の声を聞けば浮かれてしまうのは目に見えているし、舞い上がった挙句に電話越しに言うようなことでもない言葉を口走ってしまいそうで心配だったからだ。それで雛子が、勉強も手につかないという事態に陥るようでも困る。
だがこうして話をすると、もっと早く電話をしておけばよかったという気分になった。
『私は先輩がどういう人か、ちゃんと知っていますから』
雛子の囁くような声が俺の耳をくすぐる。
吐息が触れたわけでもないのに、本当にくすぐられたように感じられた。背筋が震え、自然と喉が鳴る。彼女を抱き締めたくなる。
残念ながら、雛子は傍にはいない。電話越しの距離が今は少しもどかしい。
「本当はずっと、お前と直に話がしたかった」
俺も雛子を真似て、彼女の耳元に囁いた。
「だが一度電話をしたら、歯止めが利かなくなりそうな気もしていた」
それを彼女はどう聞いたのだろう。息を呑むのが聞こえたが、その後しばらく俺たちの間に会話はなかった。
雛子が黙っていると俺も気恥ずかしくなり、急かすように語を継ぐ。
「なぜ黙っている」
『いえ、別に、何でもないんですけど……』
口ごもる彼女は明らかに何でもないという様子ではなかった。むしろ非常に動じていた。
「何でもないようには聞こえない。言いたいことがあるなら言え」
更に促せば、雛子は申し訳なさそうに答える。
『すみません。何て言うか、先輩にそういうこと言われるの、慣れてなくて』
確かにそうだろう。俺は一瞬だけ言葉に詰まり、とうに歯止めが利かなくなり始めている自分に気づく。
「そうか。俺も、我ながら随分と包み隠さず語っていると思う」
『はい……もちろんそれがよくないってことでは決してないんですけど』
雛子は柔らかく包み込むような口調で言ってくれた。
心地よさに、俺は思わず目をつむる。
彼女には言いたいことがたくさんある。俺の話に耳を傾けてくれる彼女になら、俺はいくらでも、言葉尽きることなく話し続けられるような気がする。今までどうしても告げられなかった数多の胸の内も、打ち明けるべきではないと思ってきたいくつかの感情も、こうして電話をするまでの十日間に過ぎった全ての思いも、彼女に話したくて仕方がなかった。
「本音を語れる相手がいるのが、こんなにもいい気分だとは知らなかった」
至上の幸福だと言ってもいいだろう。本音を誤魔化す為に口を噤む必要も、表情を繕う為にわざと顔を顰める必要もないのだ。雛子の前では思うがまま、好きなだけ笑っていればいい。幸せであることを隠す意味だってもうない。
もっとも、しつこいようだが現在の彼女は受験生である。俺がその貴重な時間を身勝手な理由から奪い去るのもどうかと思うから、急ぎではない話したいことはまたの機会に、彼女が受験生ではなくなってから打ち明けることにしよう。
「いや、そういう話は会ってからするべきだな。今日は別に用件があったんだ」
ひとまず急ぎの用だけ切り出した。
『どんなご用ですか、先輩』
「寄稿の件だ。完成稿が仕上がったので届けに行きたい」
『お疲れ様です! それと、この度は本当にありがとうございます』
「ああ」
彼女の労いに俺は深く頷き、更に続けた。
「ついでに……と言うよりこちらも重要な用件だが、プレゼントを渡したい」
水色のリボンがかけられたプレゼントの箱は、今はまだ俺の机の上にある。それを目の端に捉えながら告げた。
「すっかり遅くなってしまったが、お前の希望通りの品を用意した」
『ありがとうございます、先輩。散財させてしまってすみません』
雛子のその物言いは、どこか四月下旬の俺たちの不毛な押し問答を連想させた。
恐らくわざとだろう。彼女が『散財』という単語を意味ありげに持ち出したのは。
「大した額じゃない。余計な気を遣うな」
俺は決まり悪く思いながらも念を押す。
今なら――どうだろう。彼女が俺の誕生日に何かプレゼントをと言ったら、俺は何と答えたくなるだろう。
欲しいものなら一つある。
『来年は私からも何か贈らせてくださいね』
タイミングよく、雛子もそんな話を持ち出した。来年の春の話など気が早いにも程がある。
だが俺も、次の春はことさら強く、焦がれる思いで待ち望んでいた。
「要らない。お前がいればいい」
最も欲しいものを伝えてから、俺は彼女の反応を待たずに話題を戻した。
「それで、いつなら空いている? 暇がないようなら帰り際にでも迎えに行く」
東高校の文化祭も目前に迫ったこの時期、彼女は一際多忙な日々を過ごしているようだった。文芸部では展示の為のセットを作り始めたという話だし、クラスの劇の練習も既に始まっているらしい。そして部の恒例行事である文集作りもいよいよ編集作業に入ったと聞いている。俺もなるべく早く原稿を、そしてイヤリングを届けなければならない。
『え、ええと……また部室に来ますか? 今、ちょっと手狭になってますけど』
雛子がためらいがちに言ったのは、恐らく部室に俺が見たことのないものがたくさん置かれているからなのだろう。
今年度の展示がどのように決まったのか、まだ詳しい話は聞かされていない。当日のお楽しみというのも悪くはない。
だが俺の方にも、訪問を躊躇するだけの理由があった。
「部室だと後輩たちがいるだろう。そこではさすがにな」
どうせなら二人きりで会いたいという気持ちもあったが、それ以上に差し迫った問題がある。第三者の存在する場で、一体どんな顔をして雛子にプレゼントを渡せばいいのだろう。ただでさえ近頃の緩みがちな顔のことで、大槻にとことんからかわれたばかりだというのに。
「お前には今更、どんな顔を見せても気にする必要はないだろうが……他の人間には見せられん。こうして久し振りに顔を合わせるとなれば尚更だ」
すると雛子は少し考えてから、
『じゃあ、明日ならどうですか?』
と言った。
『明日は後輩たちがクラスの方の手伝いに出てて、部活に出られないんだそうです。私も劇の練習があるから、それなら部活は休みにしようかって話していたんですけど』
あの二人がいないのならこちらとしても都合がいい。酷い顔を晒してぎょっとされる心配もないだろう。
『劇の練習は五時に終わるんです。その後でよければ部室開けておきますから』
「わかった。五時過ぎにそちらへ向かう」
俺は雛子の提案を受け入れた後、一応彼女に対しても釘を刺しておくことにした。
「しかし、雛子。先に言っておくが、俺の顔を見ても笑うなよ」
『どうして、私が笑うって思うんですか?』
雛子は怪訝そうでも、不服そうでもあった。
「大槻には散々笑われた。顔に出ていると言われた」
俺は、日曜日に奴と行った居酒屋でのやり取りを思い出す。
すると交わした会話の中身はもちろん、あの時の悔しい思いさえ鮮明に蘇ってきて思わず歯噛みした。
「あいつはこういうことに関しては、気持ち悪いくらい洞察力に優れている。問い質してくるのを突っ撥ねてやったが、向こうは向こうでわかった気になっているのが非常に腹立たしい」
振り返ってみても、俺は断じて奴の問いには答えていないし、断定できる証拠も口にしてはいないはずだった。
だが言葉ではなく、こちらの反応だけで大槻は確信を得た様子だった。返す返すもあの時、反応してしまったのが惜しまれてならない。あれからというもの大学で会う度に一層からかわれるようになり、根掘り葉掘り詳細を聞き出そうとする大槻を突っ撥ねるのに忙しい日々を送っていた。
『私もちょっと、大槻さんと会うの恥ずかしいかも……』
ぽつりと雛子が呟く。
それをきっかけに俺は、十月二十二日の記憶をうっかり掘り起こしてしまった。
恐らく雛子も同じだったようで、一瞬だけ流れた気まずい沈黙の後、慌てて言われた。
『あ、あの、すみません先輩! 私、別に変なこと考えてるわけじゃなくて――』
「わかっている。そんなに慌てなくてもいい」
『どうしよう……私、本当に恥ずかしいです……』
困り果てた彼女の切なげな声を、電話越しに聞かされるこちらの身にもなって欲しい。
俺は今でも、電話はそれほど好きではない。と言うよりこの状況下ではひたすら憎らしい。
はっきり言って、拷問だ。
翌日、俺は東高校の文芸部部室を訪ねた。
母校の校舎はどこもかしこも文化祭の支度を始めており、校舎の外まで漏れ聞こえてくる吹奏楽部の演奏や廊下のところどころに貼られたサイケデリックなポスター、どこかから漂う塗料や木材の匂いなどが非日常的な雰囲気を早くも醸し出している。
だが学校行事にいい思い出のない俺が、そういうものに懐かしさを覚えるはずもない。
緑色のスリッパを履いて校内を歩きながら、俺はやはりひたすらに雛子のことを考えていた。彼女に会えると思うと楽しみと緊張と嬉しさと急く思いとでとても平静ではいられない。そわそわと歩くうちに図書室の隣の部室に辿り着き、一呼吸置いてからノックをする。
「はい、どうぞ」
雛子の声がして、部室のドアはすぐに開いた。
だが中から覗いた顔を見て、俺は少し驚く。
「どうした、疲れてるのか」
俺を出迎えた彼女はすっかりくたびれた様子だった。束ねた髪はほつれ、唇は乾き、浮かべた笑顔にも力がない。それはどうやら心労ではなく、純粋な身体疲労を背負っている顔だった。
「ちょっとだけ……。練習、結構ハードなんです」
雛子は肩を落としながら無理に微笑むと、俺を部室内に招き入れた。
「肺活量を鍛えておけばよかったって、今頃思っているところです」
パイプ椅子に吸い込まれるように座り、雛子は嘆く。
「泥縄にも程がある」
「全くです」
俺の指摘に雛子が照れ笑いを浮かべた。疲れてはいるようだが表情自体に陰りはなく、あれから変わりはないようだ。
ただ文芸部の部室は思っていたよりも様変わりしていた。壁際に寄せて置かれているのは初めて見る大きな書き割りたちで、そのせいで狭い室内はより窮屈に感じられた。手描きの書き割りの上には覆い隠すように布がかけられていたが、わずかにだけ垣間見えた絵柄は現実離れしたカラーリングのキノコや森の木々、それに藁葺きというより、毛皮葺きの屋根を持った家――煙突がうさぎの耳の形をしているようにも見えるが、あれはどういうことだろうか。
どうやら有島の懸念は現実になりかけているようだ。俺は密かに奴を哀れんだ。
いや、俺も既に他人事ではないのかもしれないが――まあ、その件はあえて考えないでおく。
「そういうことなら長居はしない。お前も早めに帰って、少しでも休んだ方がいい」
俺は言いながら鞄を開け、原稿の束とリボンをかけたプレゼントの箱を取り出した。
雛子の目がまず箱の方へ向いたので、プレゼントから先に渡してしまうことにする。
「これを見てもらってからでなければ他のことが手につかん。開けてみてくれ」
手渡した箱を、雛子は壊れ物でも扱うように丁寧に受け取った。
「あ……ありがとうございます、先輩」
声を震わせながら礼を述べると、彼女は箱をテーブルに置き、白い手でリボンを解き始める。天井に設置された蛍光灯は既に点されており、彼女を含めた辺り一面を白っぽい光で照らしていた。薄暗い校庭に面した窓にもその光がくっきりと映り込み、夜の訪れと秋の終わりをしみじみと実感させる。
衣擦れのような微かな音の後でリボンがはらりと卓上に落ち、次に雛子は包装紙を剥がしにかかった。紙を破かぬよう慎重に、息を詰めながら剥がした後、現われたスエード調の小箱を見て感嘆の吐息を漏らす。
箱の蓋を開けた後はたちまちその目がきらきら輝き、乾いた唇には衒いのない微笑みが浮かんだ。
「きれい……! これ、すごく素敵ですね」
布貼りの箱の中に横たわる白蝶貝のイヤリングを、雛子はうっとりと眺めた。そして顔を上げるなり俺を見て、
「触ってみてもいいですか?」
「聞くまでもない。それはもうお前のものだ」
何の為に買ってきたと思っているのだろう。俺が笑うと彼女も零れるような笑い声を立てた。
その後で雛子はイヤリングの片方を指先で摘み上げ、軽く揺らしてみせる。光沢のある貝殻の表面が虹色に輝くのを二人で眺めていた。
「もしかして、貝殻でできてるんですか?」
「ああ。白蝶貝だ」
「とってもきれいです。本当にありがとうございます、先輩!」
「どういたしまして。高いものじゃなくて申し訳ないくらいだが」
もっと値の張る、品質のしっかりした物を贈りたい気持ちもなくはない。だが学生の身分に不相応なプレゼントはお互いに負担になるだけだろう。そういうものは今ではなくても、何年か後にすればいい。
何よりも、雛子がこれほど喜んでくれているのだからそれでいい。
「白い貝殻のイヤリングなんて、森のくまさんを思い出しますね」
雛子がイヤリングを見つめた後、こちらへ視線を走らせる。何を想像しているのか愉快そうな光がレンズの奥の目に宿り、俺はそれを気まずく思う。
「それより、せっかく買ってきたんだ。つけてみないのか?」
話を逸らす為に俺が促すと、雛子は試すような口調で応じる。
「こういうのは先輩がつけてくれるのだとばかり思ってました」
「……仕方ないな。貸してみろ」
俺は雛子からイヤリングを受け取ると、椅子に座る彼女の右側に屈み込む。
雛子の耳は小さく、今日も変わらずに眼鏡のテンプルを支えていた。指先で挟むようにその耳たぶに触れると、柔らかさと共に少しの冷たさを感じた。イヤリングの金具を緩め、彼女の耳に近づける。
その時、雛子の頭が軽く動いた。首を傾げたのか、こちらを見ようとしたのかはわからないが、俺の指とイヤリングの金具から彼女の耳が逃げ出し、俺は彼女に抗議する。
「動くな」
「すみません」
雛子が謝った時、ようやく右耳にイヤリングをつけることができた。痛くならないようにゆっくり、優しく金具を締め、手を離すと雫型のイヤリングがゆらりと下がる。
感触を確かめるように雛子が頭を振ると、イヤリングが鈴のような音を立てて揺れた。
もう片方。俺は一度立ち上がり、もう一つにイヤリングを手に今度は雛子の左側で膝をつく。彼女の耳の下には束ねた漆黒の髪と対照的に白い首筋があり、どうしてもそちらが気になってしょうがない。知らず知らずのうちに呼吸すら堪えていた俺は、左耳に金具を近づけた瞬間に堪え切れず息をついてしまった。
吐息がかかってしまったのだろう。途端に雛子の肩は電流が走ったように跳ね、震え上がった。
当然のように金具は耳から外れ、俺は今度は彼女に息をかけないよう、横を向いて嘆息する。
「本当にすみません」
彼女には謝られてしまったが、どう考えても今のは俺のせいだ。
「別にいい。今のは俺も悪かった」
余計なことは考えないように努めながら、俺は手早く左耳にもイヤリングを下げる。白蝶貝の虹色の光沢が彼女の左右の耳を飾ると、思っていた通り、彼女の身体の一部のように馴染んで見えた。
「ありがとうございます。……似合いますか?」
雛子が立ち上がる俺に向かって小首を傾げてみせる。
俺は高い位置からその姿を見下ろした。彼女は冬用の、紺色にセーラー服を着ており、それと白蝶貝のイヤリングとはどう贔屓目に見ても調和していなかった。俺はこのセーラー服というものがあまり好きではない。無個性で陰気で面白みがなく、雛子にはまるで似合っていないからだ。
だがその点だけ目を瞑れば、彼女に白蝶貝のイヤリングはとてもよく似合っていた。髪を束ねているせいでどこから見ても白い雫型の飾りが覗き、彼女のわずかな動きにも同調してゆらゆら揺れてみせる。
「よく似合う。あとはステージ上でどう見えるかだな」
俺が誉めると、雛子は満足そうに微笑んだ。小さな耳が天井からの光を透かして、ほんのり赤くなって見える。
「先輩に見立ててもらったなら大丈夫ですよ。舞踏会でも人目を引きそうです」
「お前が引いてどうする。王子がお前を選んだら、話が酷いことになるぞ」
シンデレラの絵本は既に読み終えていたが、舞踏会に出た王子はシンデレラの義姉二人を歯牙にもかけない。王子が惹かれるのはたった一人、シンデレラだけだった。
つまりもし雛子が王子の目を引くような事態が起きては、物語が破綻してしまう。是非とも舞踏会では隅の方でひっそりとしていて欲しいものだ。彼女が他の男の目に留まるようなことがあっては俺が困る。
「とんだ番狂わせですね」
雛子は朗らかに笑っている。その耳元で白いイヤリングが揺れている。
するとイヤリングが作る雫型の影が彼女の首筋にかかり、同じようにゆらゆら揺れた。彼女のきめ細やかで白い肌はほとんど大部分が紺のセーラー服で覆われていたが、なめらかな首や美しい顎のライン、それにちらりとだけ覗く鎖骨はこうしていても眺めることができた。
彼女はどんなドレスを着るのだろう。俺はふとそのことが気がかりになり、次いで少しの嫉妬を覚えた。
どうせなら全て隠しておけばいいのに、人前で晒すような真似はして欲しくない。
「人目を、引くだろうな。こんなにきれいで滑らかだ」
無意識のうち、俺は呟いていた。
「そうですよね。こんなに素敵なものを選ぶなんて、さすがは先輩です」
雛子がその呟きに同意したが、それが自画自賛であることには気がついていないようだ。屈託のない表情を見下ろしていると、かえって嫉妬心が募り、溶岩のようにどろどろと溶け出してくるのがわかる。触れられぬほど熱く、重たい衝動がゆっくりと俺を満たしていく。
「全くだ」
俺はそう言って、彼女の無防備なうなじに手を伸ばす。
ここに触れられるのは俺だけだと思いたい。彼女がそれを受け入れるのは、世界でたった一人、俺だけだと。
人差し指の先で軽く触れると、それだけで彼女の体温が感じ取れた。指の腹で上から下へ、つうっと撫でてみる。
瞬間、雛子が背筋をぞくぞくと震わせたのが、厚いセーラー服の生地を通してでもわかった。彼女は反射的に目を閉じ、首を竦めたが、その後で咎めるような声を上げた。
「何するんですか」
拒絶というよりはただただ驚いているような口調だった。俺の行動があまりに予想外で、愕然としているようにも見えた。
俺もどきりとして、思わず手を離す。
「いや、特に何も……。気にするな、ちょっと触ってみたくなっただけだ」
いくら本音を語れる相手とは言え、そこまで正直に語ってしまったことをすぐに後悔した。
雛子は瞠目し、目に見えて狼狽し始める。
「ここ、学校ですよ」
俺もそのことを忘れていたわけではない。だがこうして二人きりでいると、つい彼女の存在ばかりに気を取られてしまう。
雛子の抗議に俺もうろたえ、
「わかっている。別に、何をしようとしたわけでも……」
弁解しようとしてすぐに、彼女が俺の行動ではなく、場違いであることを咎めたという事実を思い出す。
つまりそれはここでは駄目だということであって、ここでなければ、違う場所であればいいという解釈で問題ないだろうか。
何となく、受け入れられたら受け入れられたで妙に気恥ずかしいと言うか、落ち着かない心持になるのはなぜだ。
「……先輩、あの」
沈黙が漂い始めて数十秒後、雛子がおずおずと口を開いた。
「何だ」
聞き返すと彼女はひどく困った顔をして、頬を赤くしながら言った。
「今日のところは早く帰りましょうか」
「そうだな。その方がいい」
俺は必要以上にそわそわしながら、彼女に対して頷いた。
雛子は俺の原稿を駆け足気味に確認した後、俺を促し部室を出た。
二人並んで校門をくぐり、暗い駅までの道を共に歩いた。雛子は今頃になってどっと疲れが押し寄せてきたのか、足を引きずるような歩き方をしていた。俺は早々に手を繋いでやり、彼女のペースに合わせて歩いた。
「随分くたびれているようだが、大丈夫か」
手を引きながら俺が尋ねると、白いマフラーを巻いた彼女は歯を覗かせて笑った。
「電車が家まで走ってくれたらいいのにって思ってます」
「横着なことを言うな」
俺は思わず叱ったが、笑うだけの気力がまだ残っていることにはほっとした。
だが気がかりもある。雛子はこれから電車に揺られて帰るのだ。
「しかし、それだけ疲れていると車内で寝てしまわないか心配になるな」
感じた不安を俺はそのまま口にする。
すると、雛子はあどけない顔つきで言った。
「やったことはありますよ。プール授業の後とか……」
「それで乗り過ごしたりはしないのか?」
「今のところはどうにか平気です。駅の名前聞くと、ぱっと目が覚めるんです」
どうも話を聞いていると、かえって不安が募るようだ。
「単に運がよかっただけじゃないのか」
「かもしれないですね」
雛子は笑っているが、どう考えても笑い事ではない。
校内でのやり取りが尾を引いているせいもあってか、俺は彼女が心配で堪らなかった。できればずっと付き添って家まで送り届けたいとさえ思っていた。そこに独占欲や離れがたい思いがあったのも事実ではあるが、それすら今となってはやましいものでもないはずだ。
かつては、彼女がどこへ帰るのか、知りたいようで知りたくないと思っていた。部活動を終えた放課後、駅のホームで彼女を見かけた時も、その行き先をあえて気に留めないようにしてきた。
だが今は、そうは思わない。彼女を待つ温かい家があることを、まるで我が事のように幸せに思う。
だからか見てみたい気持ちもあった。雛子がどんなところに住んでいるのか。どんなふうに暮らしているのか。
「どうせなら俺が、家まで送ってやろうか」
俺が尋ねると、雛子は静かにかぶりを振った。
「お気持ちだけで十分です。優しいんですね、先輩」
それから繋いだ手に少しだけ力を込めてくれた。彼女は手袋を持ってきたのに、今はしていない。繋いだ手のひらはしっとりと温かく、離さずに済めばいいのにと思ってしまう。
「帰ったらちゃんとメールしますから」
安心させようとする彼女の言葉が嬉しくも、切なくもある。
結局俺たちは駅の改札の前で別れた。
定期を手に改札をくぐる雛子を、俺はしばらく立ち尽くしたまま見送っていた。雛子は改札を抜けた後で一度だけ振り返り、俺に向かって笑顔で手を振ってくれた。
シンデレラを見送る王子の気分の心情がわかった気がして、俺はほんの少し笑った。