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全てで恋をする(7)

 弁当を重箱に詰めたのは失敗だったかもしれない。
 それを雛子の前に持っていくと、彼女はぽかんと口を開けて数秒間固まった。その後で目に見えて恐縮し始めた。
「適当な弁当箱がなかっただけだ。そこまで張り切ったつもりはない」
 俺は釈明した。実際張り切って拵えたという意識はなく、雛子が喜んで食べてくれるならと苦もなく作っただけなのだが、客観的にみればそれを『張り切った』というのかもしれない。
「もしかして、すごく早起きして作ってくれたのでは……」
 雛子が申し訳なさそうに俺を見たので、大急ぎで否定しておく。
「そうでもない。気に病むな」
 今朝はいつもより少し早く起床しただけだ。嘘ではない。ただそれも前日から仕込みをしておいたからこそであり、そういう話をすれば雛子はますます気に病むだろう。黙っておくことにする。
 俺はいそいそと重箱の蓋を開け、次に上段を持ち上げて下段の隣に並べた。雛子はその中身を見るとたちまち目を輝かせた。
「全部、先輩が作ったんですよね」
「当然だ」
「すごい……先輩は揚げ物もできるんですね。素敵です」
 雛子が羨望と尊敬の眼差しで俺を見る。自然と鼓動が早くなり、俺はそれを押し隠す為に何でもないふうを装う。
「感心されるような話か? このくらい、どこの家でも作るものじゃないのか」
 ただ、それも事実ではある。コロッケや春巻きは普通の家庭の食卓になら頻繁に並ぶ、ありふれた献立だろう。きっと彼女の母親も毎日こういう夕食を作って、受験勉強や部活動に勤しむ雛子の帰りを待っているに違いない。
「うちの母なら作りますけど……私はもう、知っての通りからっきしですから」
 そう語った時、雛子は表情に引け目のようなものを覗かせた。
「澄江さんは揚げ物を食べない。だから食べたければ、自分で作るしかなかった」
 俺は彼女に打ち明けてから、古い記憶を掘り起こす。
 小学校に入学してすぐ、給食にハムカツが出た。クラスメイトたちはそれと千切りのキャベツを食パンに挟んで、ぼろぼろ零しながらも美味しそうに食べていた。俺は食べ方がわからなくてそのまま箸で食べたが、あまりの美味さにまた食べたいと強く思った。
 俺の母親は俺の為に手の込んだ食事を作ってくれるような人間ではなかったし、澄江さんは大分前から脂っこいものを食べられないようになっていた。だから小学校に入るまでは揚げ物の味をほとんど知らなかった。知ってからは、自分で作れるようになりたいと思った。
 こういうものも家庭の味と呼んでいいのだろうか。自学自習で、澄江さんには火と揚げ油の扱い方だけ習って、あくまでも俺一人が食べたいというだけの理由で作るようになった献立も、家庭料理と言えるのだろうか。
 そんなことを考えていたら、顔に出ていたのかもしれない。雛子がしげしげと俺を見つめてきたので、彼女の興味を弁当に戻してやる。
「食べないのか? 早くしないと夕飯が入らなくなるぞ」
 恐らく彼女もお腹が空いていたのだろう。すぐさま居住まいを正し、ぱちんと音を立てて小さな手を合わせる。
「いただきます」
 行儀よくそう言って、雛子は弁当に手を伸ばした。
 彼女は甘い物以外の食べ物もそれなりによく食べた。まずおにぎりに手を伸ばしてあっという間に食べきった後、取り皿に厚焼き卵とベーコン巻きを取って次々と口に運んだ。その後はいなり寿司にかじりつき、嬉しそうに頬を緩めた。
「美味しいです」
 しばらくしてからそう言ってくれて、俺は素直に安堵した。彼女に喜んでもらえないことには作った意味もない。
「口に合ったならよかった。お前の為に作ったものだからな」
「ありがとうございます、先輩」
 雛子から感謝されると、不思議なくらい心が弾んだ。それでなくても今、俺の気分はかつてないほど軽く、おかげでつい口数が増えている自覚もある。
「どういたしまして。俺も一人で食べるよりは、お前と一緒の方が楽しい」
 一瞬だけ、雛子が目を瞠った。しかしすぐにその目を柔らかく細めた。いつもと同じはずの控えめな微笑も、今ばかりはしっとりと艶っぽく映る。
「先輩も卵焼きにはお砂糖入れて、甘くするんですか」
「ああ。口に合わないか?」
「いえ、私は甘いのが好きです。先輩もそうなんですか?」
 雛子が聞き返してきたので、恐らく柄沢家の卵焼きにも砂糖が入っているのだろう。
 俺もいつも砂糖を入れて作る。卵二個に対して砂糖を大さじ一、それから塩をほんの少しだけ。焼き上がったら巻き簾で形を整える。全て澄江さんから習った作り方だった。
「澄江さんがこういうふうに作るから、俺も同じようにしている」
 そう話すと雛子は優しい顔つきになり、
「へえ。じゃあこの卵焼きは、澄江さんの味なんですね」
 腑に落ちたそぶりで呟く。夏休みに一度食べた、澄江さんの料理を思い返していたのかもしれない。
「そういうことだ。甘いのは苦手だが、こればかりは甘くないと落ち着かない」
 どうも俺は気分だけではなく、口まで軽くなっているようだ。思えばこういう些細な思い出話も今まではあまり打ち明けたことがなかった。そのせいか、話してしまってから妙に照れた。
 雛子はそれを微笑みながら聞き、そして聞きながら次は丸いコロッケを手に取った。プラスチックのピックが刺さったコロッケは彼女の好みに合ったようだ。にこにこしながらぺろりと食べた。
「お前が好きそうだから、かぼちゃのコロッケにした」
 献立の一つ一つに解説をするのもどうか、と俺は思う。思うのだが、こうして弁当を囲みながら、雛子といろんな話をするのが幸せだった。彼女と食事を取るのはとても楽しくて、ここにいるのは俺たち二人だけなのに不思議なくらい賑やかに感じられた。
「とっても美味しいです。それに秋らしくていいですね」
 そして雛子は俺を誉めてくれる。誉め言葉が嘘ではないとわかるくらい、熱心に食べてもくれる。
 誰かの為に食事を作り、それを美味しいと言って食べてもらえるのは幸いなことだ。ささやかで、日本中どこの家庭にも普通に存在するであろうその幸いがここには存在している。
「何だか、肩の荷が下りたような気分だ」
 向き合って弁当を食べながらも、俺は彼女に話しかけ続けた。
「思えば、自惚れていたんだろう。どんな苦悩も自分ひとりでどうにかできると考えて、それで行き詰まっていたというんだから、滑稽なことこの上ないな。初めからきちんとお前に話しておけばよかった」
 反省しきりの俺の言葉を、雛子は黙って聞いてくれている。
 昔からずっと、彼女は俺の話をよく聞いてくれた。耳を傾けるだけではなく、俺が話したことについて深く、真剣に考えてくれた。彼女が俺を馬鹿にしたり、俺の話を聞き流したり、ろくに考えもせず適当な返事をしたことはこれまで一度としてなかった。いつでも真っ直ぐに俺を見ていてくれた。
 それを知っていたのに、何よりも嬉しく思っていたはずなのに、俺は彼女に話すということを軽んじ、疎かにしていた。これからはもっと、話すということを大切にしなくてはならない。
「お前はいつでも、俺の話を聞いてくれていたのにな」
 俺は締まりのない顔にならないよう口元を引き結ぼうとしたが、駄目だった。じわじわと込み上げてくる笑みをどこにも隠しておけず、結局諦めて、雛子に対して向けてしまうことにした。
 雛子は俺を見て、しっかりと頷いた。それから同じように笑いかけてくれた。
 だが、今の彼女の微笑は直視しがたい色気を含んでいる。目が潤んでいるからそう見えるのか、頬がほんのり赤く染まっているからなのか。それとも先程まで、俺にしか見せないような顔をしていた彼女をまだしっかりと覚えているからなのか。あんな雛子を見たのは俺も今日が初めてで、こんな時に思い出すべきではないとわかっているのに、ふと気を抜くと鮮明に蘇ってくるから慌てて打ち消す。
「だが、しばらくは別の悩みに苦しめられそうだ」
 彼女から目を逸らし、俺は低く呻く。
「その、今日のことを後でふと、思い出してしまいそうで……」
 今はまだ、雛子と二人きりだからいい。俺が一人で赤面したところで彼女はその理由にすぐ思い当たるだろうし、問い詰めても来ないだろう。
 だが大学にいる時にそんな記憶が蘇ってしまったら気まずい。それが大槻の前だったならもっとまずい。大槻は目敏い上に勘もいいので、俺が黙秘を貫いたところでどうにもならない気がするのだ。俺を何かと気にかけてくれる教授も、俺が顔を赤くしていたら何事かと尋ねてくるだろうし、バイト中に思い出して船津さんに絡まれるのも面倒だ。
 それに何より、一人でいる時に思い出したら、間違いなく寂しくなってしまうだろう。
 雛子が今までにないほど傍にいた時のことを考え、今は傍にいないことを思い知らされて、とても寂しく思うことだろう。
 俺の懸念を聞きつけた雛子が、いたたまれないという顔をして俺を見る。どうやら彼女も思い出してしまったのだろう。恨めしげな視線に俺は一層慌てた。
「い、今はまだ、おかしなことは考えていない。思い出したりもしていない」
 思い出しそうになっているのをすんでのところで踏み止まっている。俺の胸中での懸命な努力を知ってか知らずでか、雛子は宥めるような口調で言う。
「そんなに慌てなくてもいいです先輩。私は別に軽蔑しませんから」
 軽蔑、という単語が飛び出すと余計に、図星を突かれたようで心臓が大きく跳ねた。
「そもそも思い出すと言っても変な意味じゃない。誤解をするな」
「じゃあどういう意味なんですか」
 俺はうっと詰まった。だが彼女に対しては嘘をつける気がせず、決まり悪く打ち明ける。
「だからそれはつまり、もしお前のことばかり考えて暮らす日々が来てしまったらどうしようかということであって、至って健全な考えでしかない――いや、お前のことを考えている時点でさして健全でもないか……とにかく、そういうことだ!」
 彼女のことばかり考えて過ごす日々も今に始まったことではない。
 だがこれまでは、雛子について考える時、いくらかの後ろめたさや罪悪感が少なからず存在していた。
 そういうものが全て、霧が晴れるように取り払われた今、俺はどんな顔をして彼女について考えればいいのかわからない。どんな気持ちで次の春を、来年の四月まで待っていればいいのか、ちっとも掴めない。晴れて迎えた次の春、大学構内を俺と並んで歩く雛子がいたなら、俺は幸せのあまり笑う以外の表情が取れなくなりそうな気がしてならない。そこを大槻や教授や、他の幾人かの顔見知りに目撃されようものなら、さぞかしいたたまれないことになるだろう。
「毎日じゃなくて、程々くらいだったらいいんじゃないでしょうか」
 人の気も知らず、雛子は軽くそんなことを言う。
 俺はそんな彼女を目で咎め、
「簡単に言うな。俺はお前のことに関しては考え出すと底なしなんだ」
 と告げると、雛子が目を瞬かせる。
「そ、底なし、なんですか……!」
「いい時間を過ごした後ほどそうなる。おかげで明日以降の反動が恐ろしい」
 電話でじっくりと話した夜、切るのが惜しいと思うような、あの切ない気持ちがずっと続くのかもしれない。
 それでいて少し先の未来を夢想しては、幸せな先行きを信じて一人で笑ってしまうような、そんな日々もやってくるのかもしれない。
 もっとも、どちらにしても一人で悩み苦しむよりは、ずっと素晴らしいものに違いない。

 弁当を食べ終えた後、雛子は食器を洗うと言い出した。
 俺はその申し出を一旦は断ったが、彼女が梃子でも動かない意思を見せたので仕方なく譲歩した。
 代わりに彼女が食器を洗っている間、俺は彼女の為に紅茶を入れてやることにする。あのチョコレートがまだ残っていたし、それに残り少なくなってきた時間を、彼女の傍から離れずに過ごしたかったからだ。
「雨、結局止みませんでしたね」
 雛子は右手にスポンジを持ち、左手に持った食器を丁寧に擦っている。オレンジ色のカーディガンとその下に着ているブラウスの袖が丁寧に折り畳まれて、そこから柔らかく白い腕が伸びている。食器を洗う手つきは悪くなく、慣れているようにも見えた。
 俺はコンロの火にかけられたやかんを見下ろしながら、そっと耳を澄ませた。湯が沸き始める音に紛れるように、さらさらと微かな雨音が聞こえてくる。台所の小さな窓は磨りガラスが填められており、外の景色ははっきりと見えない。だが空の色は暗くなく、もうじき止むのではないかという気もしていた。
 予定はすっかり狂ってしまったが、雨を恨む気には到底なれない。この雨が降らなければ俺は、今でもつまらないことで思い悩み続けていたかもしれない。
「またどこかでピクニックに行けばいい」
 俺は元気づけるつもりで雛子に言ったが、彼女のカーディガンに視線が留まると、つい不安になって付け加えた。 
「だが、近頃気温が下がってきた。暖かくなってからの方がいいだろうな」
「それだと随分先の話になりそうですよ」
「風邪を引くよりはいい。面倒事が片づいてから花見をするというのはどうだ」
 まだ秋も終わらぬうちから、俺は春を待ち望む気分になっていた。
「桜が咲いてるといいんですけど……二重の意味で」
 雛子が蛇口の栓に手を伸ばして笑う。
 ちらりと窺った横顔には複雑そうな影が差していた。
 俺は春を待っていればいいだけだが、彼女は春の前にどうしても乗り越えなければならない関門がある。既に残り四ヶ月を切っているはずのその日に向けて、気負いもあって当然だろう。
 俺にできることは、彼女を信じていることだけだ。
「お前なら大丈夫だ。待っているから、早く来い」
 励ましの言葉をかけると、彼女の横顔から瞬時に影が消えた。同時に蛇口から流れ出てきた水が湯に切り替わり、彼女が手にした食器類を覆う泡が流れ落ちていく。白く小さな手が丹念に、優しく、重箱や取り皿を濯いでいく。
「私、頑張ります」
 そうして食器を洗いながら、雛子は頼もしげな声を上げた。
「受験が済んだら、またデートしてくださいね、先輩」
 まるで念を押すような言葉の直後、ちょうどやかんの湯が沸いた。コンロの火を止めても沸騰したての湯はぐつぐつと音を立てている。俺は振り向いて、背後に置いてある食器棚の戸を開けようとした。その中に紅茶の葉もしまってあったからだ。
 だがふと思い直して、流しに立つ雛子の傍へ戻る。彼女の両手が塞がっている隙に顔を覗き込むと、雛子は銀のフレームに囲まれた瞳を怪訝そうに見開いた。俺はその前髪を片手で持ち上げ、眼鏡のフレームを避けるようにして彼女の額に口づける。
 初めてこうした時も、そのフレームが邪魔だと思ったような気がする。真正面から唇を重ねたらぶつかるような予感がしたからだ。そうならないようにするやり方も今は知っていたが、あえて額にしておいた。
 彼女が目を閉じようとするよりも早く、すぐに唇を離して、俺は改めて紅茶を取りに向かう。
 背後では湯の流れる音と、彼女の震える声がする。
「な……ど、どうしたんですか、先輩」
 こんなことは初めてでもないのに、雛子は随分驚いているようだった。理由を尋ねようとしてきたから、俺は逆に問い返す。
「何か理由が要るのか、こういうことをするのに」
「要らないですけど……結構、びっくりするって言うか……」
「なら、今日くらいいいだろう。馬鹿みたいに振る舞ったって罰は当たらん」
 今日はもう、つまらない見栄や自尊心を脱ぎ捨てていた。俺は雛子の傍にいて、他愛ない会話を交わしたり笑い合ったり、気が向いた時にいつでもキスをしたり、抱き締めたりしたいと思っている。この時間も飛ぶように過ぎてしまうのだろうから、もう少しだけ、全てで恋をしていたい。
「どうせ今日はもうすぐ終わる。お前を帰さなきゃいけなくなる」
 俺が本音を零すと、雛子が元気づけるような口調で言った。
「文化祭には来てくれるんですよね? もちろんその前に、またOB訪問してもらえたらもっと嬉しいです」
 元気づけると言うよりは、自分に言い聞かせているようでもあった。彼女も帰りたくないと思ってくれているのかもしれない。
 だったら、帰らなければいいのに。
「気休めのつもりか」
 拗ねたい気分で応じた俺に、雛子もまた、少しばかり不満そうな声を立てる。
「私に会えるのに嬉しくないんですか?」
 それはもちろん、嬉しくないはずがない。
 だが、二人きりで会うのとはまた違う緊張がその時にはあるだろう。文芸部には後輩たちがいるし、文化祭なら更に大勢の人がいる。そういった衆目の中で、今日の記憶を引きずった俺たちは、果たしてまともに顔を合わせることができるだろうか。今でこそ余韻に浸るように素直になれているが、時間を置けば羞恥心が勝るであろうことも想像に難くない。
「……次に会う時は、どんな顔をして会えばいいんだろうな」
 俺は溜息をつく。
 雛子も軽く咳払いをして、蛇口の栓を閉めた。水音が止み、気がつけば全ての食器を濯ぎ終えたようだ。俺は彼女に布巾を手渡し、彼女が食器を拭いていくのを横目に見ながら紅茶を入れる。
 彼女が軽く下を向いて、重箱にまとわりつく水滴を優しく拭き取っている。二つに束ねた髪の間にある首筋は熱が引いて白さが戻り、触れたくなるほどなめらかだった。しかし俺が手を伸ばすより先に、雛子がこちらを向いて笑った。
「言いましたっけ。私のクラス、文化祭では劇をやるんですよ」
 東高校の文化祭において、三年生はステージ発表をすることが義務づけられていた。高校生活最後の文化祭を団結して何か成し遂げようというご立派なお題目があるようだが、そういうお仕着せの理想が上手く働くケースが果たしてどれだけあるものか。俺のいたクラスは校内でアンケートを取ってそれを発表するという実にくだらない企画をやっていたようだが、俺は集計結果のパネルを作る手伝いをしただけで、発表当日はステージに上るどころか見に行くことすらしなかった。
 雛子のクラスは劇をやるということだが、彼女ならそれも楽しく成し遂げられるのだろう。
「初耳だ。演目は?」
 俺が聞き返すと、彼女はどこか得意げな顔をする。
「シンデレラです。私の役は意地悪なお姉さんです」
「また随分不似合いな役になったものだ。ちゃんと務まるんだろうな」
 シンデレラの姉と言うと、血の繋がりのない妹をいじめ抜く手の施しようがない悪役である。雛子のような人間が誰かに嫌がらせをする姿は全く想像がつかない。もし雛子がシンデレラの姉なら家庭内に不和は起こらず、至ってのほほんと平穏に過ごせそうな気がするのだが。
 こちらの懸念をよそに、雛子は声を弾ませている。
「それで、舞台ではドレスを着ようと思ってるんです。と言っても手持ちの服を工夫して作ったり、アクセサリーでそれらしく着飾ったりする、手作り感いっぱいのドレスなんですけどね」
 うきうきと語る彼女は、芝居そのものよりもドレスを着ることに関心が向いているようだった。
「上手くできたら先輩にも見てもらいたいです」
 彼女がそう言ったので、俺は紅茶を入れながら横目で雛子を見やる。カジュアルな服装に身を包んだ雛子はそれはそれで可愛らしかったが、そこからドレスを着た姿を想像するのはやはり難しかった。彼女の肩はすんなりと細く、身体の他の部分と同様に丸みを帯びている。それにドレスをまとったら――どうなるのだろう。
 しかし彼女の言う通り、着飾る為にはいろいろと入用だろう。俺も雛子の晴れ姿は是非拝見したいところだ。彼女について、俺にもまだ知らないことがたくさんあるのだと今日、改めて思い知らされた。もっといろんな雛子を見てみたい。
 ティーポットの中で開いた茶葉がいい色味を滲ませて、紅茶の用意ができる。
「ちょうどいい。誕生日のプレゼントを何にしようか、聞こうと思っていた」
 俺は二人分のカップを並べながら切り出した。
 途端に雛子が戸惑った声を上げる。
「え……あの、お弁当をいただきましたから」
 だが遠慮をされることは想定済みだった。だから俺は彼女の頭を掴み、素早くこちらに引き寄せて、続きを紡ごうとしていた彼女の唇に自分の唇を押しつけた。今日、これで何度目だろうと頭の片隅で考えたが、もう数え切れなくなっていた。
 口を離してから俺は、すぐ目の前にある彼女の瞳を覗き込む。狼狽の度に内心を反映して揺れる彼女の瞳は、とてもきれいだった。そこに俺の影が映り込んでいたが、さすがに自分の顔まではよく見えない。どうせだらしのない顔をしているだろうから見たくもない。
 俺は本当に彼女が好きで、そして可愛くて堪らなかった。
「アクセサリーが必要なんだろう。俺もお前に身につけてもらえるものを贈りたい」
 こちらの言葉に雛子は、金魚のように口をぱくぱくさせた。口を開けた回数と実際に出てきた言葉の数にはかなりの乖離があったが、さておきたどたどしくもようやく言ったのは、
「ほ、本当に、どうしたんですか先輩……!」
「何がだ。去年のプレゼントだって似たような品だったじゃないか」
「いえ、そっちじゃなくて……あの、別にいいんですけど……」
 どぎまぎしている彼女を見るのも、悪い気がしない。俺はカップに紅茶を注ぎ終えると、布巾を握り締めている雛子の真っ赤になった顔に告げる。
「どんなものがいいか考えておけ。文化祭に間に合うようにな」
 そして二つのティーカップを手に、一足早く台所を出る。
 入れたての紅茶はいい香りがした。思えば雛子が俺の部屋を訪ねてきた時、いつもこの香りが部屋の中には漂っていた。

 俺たちは残りわずかな時間を、肩が触れ合うほどぴったり並んで座り、紅茶を飲みながら過ごした。
 これからしばらく会えなくなることを考えて、他愛ない話もたくさんした。
「しかし、劇でもドレスを着て、なおかつ文芸部でも仮装をするとはな。お前には変身願望でもあったのか」
「最後の文化祭ですから。やりたいことは全部やっておこうと思ったんです」
 雛子は高校生活最後の文化祭に強い意気込みを見せているようだ。
「先輩も必ず来てくださいね」
 期待の眼差しと共に念を押されて、俺は少々返答に迷う。
 文化祭にはもちろん足を運ぶ気でいるのだが、前回のOB訪問では気がかりな話も聞かされていた。
「仮装の件は、まだ承諾したわけではないんだがな」
 俺が釘を刺すと、雛子はその反応を予見していたように微笑んだ。
「やりましょうよ、先輩も。絶対楽しいですよ」
「保留にさせてくれ。今日はお前に対して、甘い顔をしそうになる」
 俺は雛子に頼られたり、縋られたりするのに弱いとわかった。仮装の件も強くねだられたら拒めない気がしてならない。しかし雛子ならともかく、俺なんかが仮装をして客に引かれたりはしないだろうか。俺だってあからさまに不似合いな仮装ぶりを人前に晒すのは抵抗がある。
 彼女の言う、楽しいという言葉にも疑問がある。仮装をして、何が楽しいのだろう。俺が在学中は毎年毎年全く代わり映えのしなかった文化祭が、今年、何か変わるのだろうか。
「……先輩の、寄稿原稿の件ですけど」
 ティーカップを両手で持つ雛子が、不意にぽつりと切り出した。
「前に読ませてもらった時、上手く感想が言えなかったんですけど」
「そうだったな」
 その時は、彼女も忙しくて疲れているのだろうと思った。だから俺も急がないと言っておいた。
「その、今でも上手く言えそうにないんですけど……先輩にとっての青春って、ああいう感じなのかなって思って、それが何て言うか、寂しかったんです」
 雛子が紅茶に息を吹きかける。ゆらゆらと立ち昇る湯気が追い払われて、水面がわずかにさざ波立つ。
「寂しい?」
 俺は聞き返し、彼女が頷いた。
「そうです。先輩は青春を寂しくて、陰鬱なものと捉えているのかと……いえ、そういうお話だというのは百も承知なんですけど、もし先輩自身がそう考えているのなら、そんなことはないんじゃないかな、って思ったって言うか……」
 言葉を選ぶように語る、雛子自身の方が少し寂しげだった。
 俺は青春というテーマに沿って作品を書いただけで、自らの青春時代をその中に投影させたわけではない。もちろん俺が過ごした青春はほとんどが孤独に彩られた物寂しい風景だったが、だからああいう作品にしたというわけでもなかった。俺が書くものは昔からずっと変わらない。俺ではない誰かの、つくりものの人生だ。それは雛子もわかっているはずだ。
 だが、わかっていても尚、彼女は言いたくなったのかもしれない。俺の青春時代に、短い間ではあったが彼女が確かに存在していたこと。いや――そもそも青春という時期を、俺はまだ終えていないのかもしれない、ということ。案外と俺はまだその只中にあり、他の連中が当たり前のように手に入れているものを大分遅れて取り戻しつつあるのかもしれない。そう考えると俺の青春というやつも、なかなか真っ当で、素晴らしいものだと思う。
 だとしても俺の書くものは、きっと、しばらくは変わらないだろう。
 いい香りのする紅茶を一口飲んでから、俺はカップを置いた。すぐ隣にある雛子の頬に手を添えて、彼女に語り聞かせる。
「雛子、俺はな」
「は、……はい」
「誰かに聞いてもらいたくて書いている、と前に話したな。だからお前の話を書こうとは思わない。お前の話は他人にしたい話じゃない。俺が独り占めしたい話だからだ」
 世の中には私小説というジャンルがあり、実体験を元に物語を綴る者も大勢いる。
 しかし俺は、雛子のことは、どんな物語の中にも閉じ込めたくはなかった。彼女は俺の傍にいて、笑ったり、どぎまぎしたり、黙って話を聞いていてくれればいい。俺は本物の彼女にだけ興味があり、つくりものの彼女を作り出そうとは断じて思わない。彼女について想像を働かせてみたことは数え切れないほどあるが、俺の想像は面白いほど当たらず、時として事実の方が驚くような出来栄えを見せることもある。それもやはり、今日思い知ったばかりだ。
 どうせ想像力だけでは、彼女を全て知ることなどできやしない。
 彼女のことは、彼女自身に聞いてみなければわからないのだ。
「えっ、あの、せ、先輩?」
 雛子はうろたえている。今日何度目かわからない赤面をして、俺の手のひらの下で彼女の頬が熱を持つ。
「それに仮にお前の話を書いたとしても、賭けてもいい。ただの惚気にしかならん」
 俺は彼女から手を離し、再びティーカップを持ち上げる。雛子がいる時だけ飲む紅茶を、時間の許す限りじっくりと味わう。
「だから俺の書くものはあれでいい。たとえつくりものの人間相手であってもお前を渡したくはないし、お前が出てくる物語を誰にも読ませたくはない。そういうことだ」
 雛子は物語の中ではなく、俺の人生の中にこそいて欲しい。
 そうでなければ彼女が望むような幸せな結末も、共には迎えられないだろう。それがどこにあるのかは依然としてわからないが、彼女がそう願うのなら、俺もまた見届けてやりたいと思う。
 恋の、幸せな結末というものを。

 雛子が帰る頃には雨も止み、駅までの道を歩くのに傘は要らなかった。
 彼女を送ってから、俺は一人で部屋に戻る。そして座卓の上に残された空のティーカップ二つと、チョコレートの箱を片づける。チョコレートの方はさしもの雛子も食べ切れなかったようで、五粒だけ残されていた。カレーに入れると美味しいですよ、と彼女は教えてくれたが、俺はカレーを作る習慣がなかった。
 しかしこの箱は、こうして見るとやや幅があって嵩張るようだ。薄いから長らくしまっておいても気にならなかったのかもしれないが、よくもこんなものをずっと忘れていたものだと思わなくもない。忘れていたのか、見て見ぬふりをしてきたのか、自分でもわからない。
 それならと、俺は箱の蓋を開ける。
 ――チョコレートの味、しませんか?
 彼女の声を思い出しながら、一粒、気まぐれに口へ運んでみる。
 チョコレートを口の中で転がすと、たちまち溶け始めてその味が広がる。久し振りに食べたせいか、意外に少し苦かった。もっと甘ったるいかと思っていた。きっと、これより甘い物を存分に味わったせいだろう。
 だが、とてもいい香りがした。
 彼女にまつわる記憶として、後々まで覚えていられそうな、とてもいい香りがした。
 俺は、全てで恋をしている。彼女に関わるものの全てを、いとおしいと心から思う。
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