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全てで恋をする(1)

 十月に入ってすぐ、俺は生まれて初めて携帯電話を手に入れた。

 購入に当たっては大槻が力になってくれた。奴は楽団の練習に訪問演奏にと多忙を極めているようだったが、それでも空き時間を見つけては相談に乗ってくれた。
 俺は携帯電話各社のパンフレットを貰ってきたはいいものの、料金プランや各機種の機能についてぴんと来ないところも多々あったので、大槻が親身になってくれたのはとてもありがたかった。
「最初のうちは安い料金プランにしとけばいいと思うよ」
 パンフレットを指差しながら大槻が語る。
「後になってから無料通話増やしたいとか思ったら、その時にプラン変更すればいいんだし」
 奴の助言も踏まえて、まずはメールの通信を主とする料金プランを選択することにした。機種代を別としても、月額千円以下で自分の携帯電話が持てることに俺は驚いていた。恐ろしい時代になったものだ。
 携帯電話の機種は最低限の機能さえあればいいので、その中でもなるべく安価なものを選んだ。大槻に付き添ってもらって店頭まで出向き、いくつかの機種を実際に触ってみた後で決めた。
「鳴海くん、メルアドはどうすんの?」
 携帯電話ショップで順番を待つ間、大槻が興味深げに尋ねてきた。
 質問の意図がわからず、俺は眉を顰める。
「どう、とは? 何か決めなければいけないのはわかっている」
「うん。だからさ、どんなのにすんのかなと思って」
「そんなもの、イニシャルと学籍番号でいい。覚えやすいしな」
 俺がそう答えると、今度は一転してがっかりした顔になる。
「つまんねえ答え! 普通は彼女の名前入れたりとかすんじゃん。名前の後にラブ三つ、アットマーク、みたいな」
 大槻の語る普通は恐らく普通ではない。そんなみっともない真似をする男がいるとは思いたくないものだ。迂闊に他の人間と連絡も取れないだろうに。
「じゃあ、お前のメールアドレスはどうなんだ」
 逆に尋ねてみる。
 大槻はそこで苦い笑いを浮かべた。
「俺? 俺は今んとこ彼女とかいませんから、好きなバンドの名前入れてるよ」
「もしそういう相手ができたら、お前はわざわざメールアドレスを変更するのか?」
 更に追及すると奴は少し考えてから、
「そりゃまあ……向こうがしてくれって言ったらするかも。浮気防止とかでそうしてって言う子もいるし」
 と答えたので、俺は雛子がそう頼んでこないことを心から願った。さしもの彼女も、メールアドレスに自分の名前を入れてくれなどとは言わないだろうが――実際頼まれた場合、断りきれない気がしてならないから困る。
「雛子ちゃんがそうしてくださいって言ったら、ちゃんと聞いてあげるんだよ」
 心を読み取ったようなタイミングで、大槻がにやりとする。
 俺はあえて返事をせず、ひとまずはイニシャルと学籍番号だけのメールアドレスを設定することにした。
 ともかくも俺は現在、まだ液晶に薄いフィルムが貼られたままの、新品の携帯電話を手にしている。黒一色の本体はいわゆる中折れ式で、ジーンズのポケットに入れるには少々厚みがありすぎる。色は他に白やピンクなどもあり、一番無難なものを選んだつもりだ。驚くほど分厚い取扱説明書もいただいたので、当面はこれを愛読書にしようと決めた。
 携帯電話ショップを出た後、俺は今日の礼をしようと大槻をコーヒースタンドに誘った。本当は食事でも奢ろうと思ったのだが、大槻はこの後楽団の練習に出るそうで、ケーキセットだけでいいと言われてしまったのだ。
「疲れた時は甘い物欲しくなるよね。君はそうでもないだろうけど」
 どっしりとしたチーズケーキを食べる大槻は、言葉通りいささか疲れているように見えた。俺はコーヒーを飲みながら奴に詫びた。
「悪かったな、忙しい時に付き合わせて」
「いや、いいよ。俺もいい息抜きになったし」
 大槻は首を竦め、その後で思い出したように笑う。
「ってか、最近は鳴海くんも忙しいんだろ。船津さんとこ行ってんだから」
「まあな。と言っても日曜だけだ」
 先月約束したように、俺は『古本の船津』でのアルバイトを再開していた。週に一度、日曜日だけの勤務だがそれでも船津さんは喜んでくれた。俺としても十月二十二日に備えて金を貯められるのはありがたい。
「ぶっちゃけ、それだけで追い着きそう?」
 半分笑いながら、しかし心配そうにもしながら大槻が尋ねた。
「週一通っただけじゃなかなか片づかないんじゃない? 今どうなってんのか知らないけどさ」
「どうだろうな」
 俺は首を捻っておく。船津さんの物臭さも今に始まったことではなく、あの人は相変わらず在庫の管理を不得手としていた。俺たちはあの勤労の夏で店を埋め尽くすほどの在庫たちを全て片づけたはずだが、それ以降に船津さんが別の古書店から闇雲に仕入れてきた本、持ち込んできた顧客の泣き落としにあって渋々買い取った本などが居住スペースを早くも侵食しており、俺が週に一度通った程度では焼け石に水ではないかと思い始めていたところだった。
「暇できたら、俺も手伝いに行くよ。来月辺りになりそうだけど」
 大槻が気を揉むそぶりで言い、俺は頷いた。
「頼む。船津さんも猫の手も借りたいと言っていた」
 あの人に本当に必要なのは猫の手ではなく、店主としての自己管理能力ではないかという気もするが、さておき。
 見るからに甘ったるそうなチーズケーキをものの五分で平らげた後、大槻は俺の携帯電話を手に、いくつかの機能を説明してくれた。メールの打ち方送り方、電話帳への登録と呼び出し、マナーモードの設定などを丁寧に教えてくれた後、まずは自分の電話から俺宛てにメールを一通送った。
「とりあえず返事送ってみてよ。こういうのは習うより慣れろ、だからさ」
 大槻は扱いに慣れているだけあり、さすがに詳しい。だがここぞとばかりに先輩風を吹かせるのはいただけない。早く見返してやりたいと思ってしまう。
 しかしそうは言っても俺は今日初めて携帯電話を持った人間、そして今日までさほどハイテク機器と縁がなかった人間でもある。マニュアルと首っ引きでキーを打ち、狭い画面に小さな文字を並べ、どうにかメールを送り終えるとそれだけでどっとくたびれた。
「皆、こんなものを普通に持ち歩いているのか。すごいな」
 メールが大槻の電話に無事届いた後、俺は深々と嘆息した。
「鳴海くんは本当、生ける化石だなあ。こんなの当たり前だよ」
 大槻は逆に、俺に対して溜息をついてみせる。
「今時ケータイもなしじゃ、恋愛だってできないんだよ?」
 そんなはずがないと反論したいところだったが、俺がこれを持つことになった経緯を思えば、むしろ正鵠を射た発言かもしれない。
 つまるところ俺は、恋をする為の必需品の一つを遅まきながら手に入れた、ということになるのだろうか。

 ところで、携帯電話を手に入れたということは、新たな電話番号とメールアドレスを手に入れたということである。
 その新しい連絡先を、まずは雛子に知らせておいた。電話を購入した翌日の夜、彼女に電話をかけた。長くなるかもしれないので携帯電話ではなく、部屋に引いてある電話からにした。
『本当に、よかったんですか?』
 携帯電話を購入した旨を伝えると、雛子は気遣わしげにそう言った。
 買う前に言うならまだしも、買ってしまった後でよかったも何もない。俺は憤慨した。
「何を今更。誰の為に持ったと思っている」
 すると雛子も慌てて、
『ご、ごめんなさい。でも、本当に今更ですけど申し訳ない気もして』
「気に病むな。この程度で生活費が圧迫されるということもない」
 俺は現実的な言い方で彼女を宥めた。歯の浮くような台詞を並べ立てるよりよほど効果があるだろうと思ったからだが、どうやらその通りのようで、雛子はそれ以上気を遣ってはこなかった。
「これでしばらくは顔を合わせずに済むな」
 会えない時間を過ごす上で、携帯電話はやはり必需品となる。俺は内心安堵しながら彼女に告げた。
 しかしこれは雛子の気分を害したようだ。
『私は、先輩が携帯電話を持ってくれたことはとても嬉しく思ってます。でも、先輩と直接会う機会が減るのはやっぱり寂しいです』
 まくし立てるような反論を電話越しに聞かされ、俺はぼやきたくなる。
 人の気も知らず、言いたいことを言ってくれるものだ。俺が寂しくないとでも思っているのだろうか。
「お前の貴重な時間を、俺なんかに会う為に浪費する必要もあるまい」
『私にとっては先輩に会う時間だって貴重で大切で、意味のあるものです』
 こういう時の雛子は梃子でも動かぬ頑なな意思を見せるので厄介だった。きっぱりと言ってのけた後、
『二十二日、楽しみにしていますから』
 念を押すように誕生日の予定を口にした。
 今年の十月二十二日は幸いにして日曜だった。俺は前もって船津さんに断り、その日はアルバイトを入れないよう頼んでおいてある。
 あとは雛子とどこでどう過ごすのか、細かい予定を詰めていくだけだ。
「どこへ行きたいか、もう考えたのか?」
 俺が尋ねると彼女は待ち構えていたように答える。
『もし天気がよかったら、ピクニックなんてどうでしょう』
「それでいい」
 こちらも特に異存はない。元々は彼女の誕生日なのだから、彼女の好きなように過ごせばいいと考えていた。
 紅葉の時期にはさすがに早いが、野外の新鮮な空気を吸うのもたまにはいいものだろうし、木々の緑は勉強に疲れた目を休ませてくれることだろう。ちょうど日差しも和らぎ、風も涼しくなってきた頃合いだ。行楽の秋という言葉の通り、いい気分で過ごせるに違いない。
「しかし、もう十月だからな。身体を冷やして風邪を引かないよう服装には気をつけろ」
 屋外ということであれば天候の変化だけが難点だ。俺は前もって雛子に釘を刺しておく。
『わかりました』
 何がおかしいのか、雛子はそこでなぜか笑った。それから得意そうに続けた。
『よかったらお弁当を作っていきましょうか。サンドイッチは得意ですから』
 受験生が何を言い出すのか、と俺は心底呆れた。
「いや、駄目だ」
『どうしてですか。サンドイッチは料理じゃないからですか?』
 雛子が不服そうに申し立ててきたが、そういう問題でもない。
「そういうことじゃない。お前が包丁を持って、指でも怪我したらどうする」
 指を痛めればペンが持てなくなる。そうなると受験勉強に差し障ることだろう。これほど楽しみにしている自らの誕生日を、わざわざ流血沙汰で迎えることもあるまい。
『大丈夫です、多分。そのくらいで怪我なんてしません』
 雛子は口調こそ強気だったが、言葉に不安要素が表れていた。
 俺は彼女の料理の腕のほどを、八月の旅行でも垣間見ている。まだしばらくは一人で任せるべきではない。
「多分では駄目だ。危なっかしい」
『万が一怪我したとしても、指先くらいならどうってことないですよ』
 尚も言い募る雛子が物騒なことを口走ったので、俺は急いで対案を出した。
「勉強に差し障るだろう。俺が作るから、お前は手ぶらで来い」
『先輩がですか!?』
 受話器が震えたような気がするほど、彼女が声を張り上げる。
「何を驚くことがある。俺の作ったものなら先々月も食べたはずだ」
 俺が窘めるといくらか落ち着いたようだったが、
『いえ、あの、そういう意味の驚きではなくて……面倒じゃありませんか?』
 どうも今夜の雛子は、水くさいほど気を遣ってくるように思える。
 元からこうだっただろうか。
 俺の方が、彼女に気を遣われたくないと思っているだけなのだろうか。
「お前に怪我をさせるよりはずっといい。異論はないな?」
 何にせよ、弁当なら俺が作った方が安全で確実だ。ピクニックというからには弁当は必要不可欠だろうし、用意することにしよう。
『じゃあ……よろしくお願いします』
 最終的には雛子もそう言ってくれたので、俺は手早くこの話をまとめることにした。
「わかった。献立について要望があれば、前々日までに知らせるように」
『はい。楽しみにしてます』
 懸案事項が片づいたからか、雛子が声を弾ませた。彼女の明るい声は耳に心地よく、俺の気分まで解きほぐしてくれる。十月二十二日を彼女が楽しみにしてくれている、そのことが今の俺には何より嬉しかった。
「ああ、俺も楽しみだ」
 湧き上がる嬉しさをそのまま口にすると、電話の向こうでは一層はしゃいだ声が聞こえてきた。
『嬉しいです。先輩も、私に会いたいと思ってくれてるんですね』
 まるで今まで知らなかったかのように言う。
 そんなことはいちいち言うまでもなく、俺の普段の行動だけで十分伝わっていると思っていた。だが――そうではなかったのか。不意に胸が詰まり、俺は弁明に急いだ。
「当たり前だ。会いたくもない奴の為に携帯電話を持ったりはしない」
『ありがとうございます、先輩』
 応じた雛子の声は柔らかく、心底からほっとしているのがわかった。
「礼はいい。俺の為でもあるからな」
 何もかもそうだ。携帯電話も、二十二日の約束も、古書店でのアルバイトも、全ては彼女の為であり、俺自身の為でもある。彼女の笑顔が、幸せそうな姿が見たい。そう思って行動に出た。
 そういうものをいちいち口に出すのは恩着せがましいように思えて、あえて言葉にはしなかった。だが言葉にしなければ、勘の鈍い彼女には伝わらない。伝わらないだけならまだしも、彼女が余計な不安を抱え込むようなことがあっては困る。受験勉強にも差し障るし何より、かわいそうだ。
「……雛子」
 考え事の最中に、ふと、彼女の名前が口をついて出た。
『はい』
 まだ繋がっている電話から、雛子の迅速な返事があった。
 彼女も待っているのかもしれない。俺からの、何らかの言葉を。
 だが何を言えばいいのか、よくわからない。何を言えば雛子によく伝わり、彼女の不安を取り払えるだろうか。
 これから、会う機会は少なくなる。俺たちの繋がりは電話やメールが主なものになるだろう。そういう時に、顔を見て話せず態度に表すこともできない時に、何と言えば彼女を幸せにできるのだろう。
 考えてはみたのだが、それほどの効き目のある強大な言葉は思いつかなかった。
「いや、なんでもない」
 俺が話を打ち消そうとすると、彼女は拍子抜けしたようだ。
『ど、どうしたんですか? 何かあるなら言ってください』
「やめておく。くだらないことを言いそうになった」
『そういうの、私は是非聞いてみたいですけど……』
 雛子は残念がっていたが、限定された言葉だけでのやり取りでは発言に気をつけなくてはならない。くだらないことを言って、彼女の不安を煽るようであってはいけない。
「では、以後の連絡は主にメールでするように。お前の電話代も馬鹿になるまい」
 この電話も放っておけば長引きそうだ。話すべき用件は全て話し合ったことだし、俺はそろそろ通話を締めくくろうとした。
『はい……でも、たまには電話してもいいですよね?』
「たまにはな。だがお前がメールを寄越さなければ、電話を持つ意味もない」
 お互いにメールアドレスを教え合った。雛子のメールアドレスは彼女の下の名前と誕生日で構成されていた。大抵の人は覚えやすいようにそうするみたいです、と言った雛子は俺のイニシャルと学籍番号でできたメールアドレスに驚き、これは何の数字かと聞いてきた。俺は俺で、大槻の言葉を鵜呑みにしなくてよかったと深く安堵していた。
 大槻と言えば、
「それにお前がメールをくれないと、受信欄が大槻の名前で埋まってしまう」
 俺が現在の悩みの種について零すと、雛子は羨ましそうに言った。
『あ、大槻さんとはもうメール交換してるんですね』
「ああ。あいつに店まで付き合ってもらったからな」
『そうだったんですか。やっぱり優しい方ですね、大槻さんって』
 俺も、確かにそう思っていた。昨日までは。
 正確には、昨日の夕方、携帯電話を購入した直後までは。相談に乗ってくれて、店にも付き添ってくれて、いい友人を得たものだと柄にもないことを思っていた。
 だが大槻はメールのトレーニングと称して絶えずメールを送ってきた。その数は昨日から数えて既に二十通を越えている。それも何か用があってのことならやむを得ないが、奴のメールには中身がない。今何を食べているとか、また床で寝落ちしていただとか、道端に変なものが落ちていただとか、教授の後ろ姿を激写しただとか、そういう報告を時折画像つきでいちいち寄越しては俺に練習を兼ねて返信をしろと催促する。メールを打つことよりも文面自体を考えるのが億劫になり、今日の夕方、律儀に返事をするのをやめたばかりだった。
「だからな、雛子。負担にならない程度でいいから定期的に連絡をくれ」
 俺は事情を彼女にも打ち明け、そして彼女に催促した。
「そうでないと今後、俺は着信音が鳴る度にぬか喜びする羽目になる」
 元はと言えば雛子と連絡を取り合う為に購入したものだ。大槻からのメールを溜め込む為ではない。
『……わかりました』
 こちらの心情を酌んでくれたのか、雛子は神妙に承諾した。

 新しい連絡先を教えるべき相手は他にもいた。
 そのうちの一人、澄江さんにも早めに連絡を取った。そろそろ涼しくなってきたので向こうから電話が来るかもしれないと思っていたが、結局こちらからかけた。
『まあ、寛治さんが携帯電話を?』
 報告を聞いた澄江さんは非常に驚いたようだった。
『あなたはそういう文明的なものを好いていないみたいだったのにねえ』
「そういうわけでは……。電話がたくさんあっても仕方ないと思っていただけです」
 俺が苦笑すると澄江さんは普通に笑い、
『でも、雛子さんは持っているんでしょう?』
 見え透いているとはこのことかと俺は押し黙る。この人も伊達に二十年、俺と接しているわけではなかった。
 しかしその後で澄江さんは声を落とし、ためらいがちに切り出す。
『寛治さん。携帯電話を持ったこと、あの子には言ったの?』
 澄江さんがあの子と呼ぶのは、この世でたった一人、あの男のことだけだ。
 俺もたちどころに気分が沈んだ。父にはまだ、新しい連絡先を報告していなかった。
「いいえ。これから、言うつもりでした」
 言いたくないという気持ちが強かった。父の方も俺の連絡先を聞いたところで使うことはそうないだろうし、俺が携帯電話を持ったと知っても興味すら持たないだろう。
 だが、報告をしておくのが筋だろう。今でこそ通話料金はバイト代で賄えているが、この仕事もいつまでもあるものではなく、いつか生活費から出さなければいけなくなる。そうなると俺は父の金で電話を持ったということになるのだから、父の反応がどうであれ打ち明けなくてはなるまい。
『……言わなくていいんじゃないかしら』
 ぽつりと、澄江さんが言った。
 聞き違いかと俺が受話器を握り直した時、澄江さんのか細い声が更に聞こえてきた。
『ねえ、寛治さんはもう大人でしょう?』
「年齢的には、そうです」
『それなら、いいんじゃないかしら。あの子に言わなくたって。あなたの好きな人にだけ、新しい電話番号を話したって』
 澄江さんは堰を切ったように訴えてくる。
『あなたはこれから、あなたの好きな人とだけ電話をするようになるべきよ』
 俺は答えに窮し、少しの間黙り込む。
 その間を迷いと踏んだのだろう。澄江さんもしばらく沈黙してから、
『もしお金が足りなくなったら、私だっているんだから』
「そんなことはいけません」
 すかさず俺はその言葉を遮り、それでも、澄江さんの訴えには返事らしい返事をしなかった。
 澄江さんもそれ以上は言及せず、違うことを尋ねてきた。
『ところで、雛子さんとはあれからどうなの?』
「どうって、あの……」
 何を聞かれたのかわからずに俺がうろたえると、澄江さんはくすくす笑う。
『仲良くしてる? とても素敵なお嬢さんなんだから、離しては駄目よ、寛治さん』
「……そのつもりです」
 その為に携帯電話を持ったのです、とは、さすがに言えなかった。

 俺の新しい連絡先を、大槻、雛子、澄江さんにそれぞれ伝えていた。
 近いうちに文芸サークルのメンバーにも教えるだろうし、今後は各種手続きでもこの電話番号を使うようになるだろう。
 だが父には、まだ教えていなかった。
 正直なところ、迷っていた。
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