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笑いある日々(5)

 駅までの道を歩く間、雛子はいつになく口数が多かった。
 会っていなかった一ヶ月を埋め合わせようとするみたいに、絶えず俺に話しかけてきた。
「先輩、今日は部活で文集の表紙レイアウトを決めたんです」
 ぽつぽつと立つ街灯が。遠く伸びる道をところどころ照らしている。住宅街を抜ける秋の夜道は人影まばらで、雛子の楽しげな声と虫の声が聞こえる他は至って静かだった。
「へえ」
「今年度は青春がテーマですから、いかにもそれらしいものにしてみました」
「それは楽しみだ」
 俺の曖昧な相槌にもいちいち反応する。ぱっと顔を輝かせたかと思うと、
「本当ですか? 先輩が楽しみにしてくれるなんて嬉しいです」
「まあ、一応はな」
 こんなに喜ばれているのにいい加減な返答しかできないようでは心苦しい。俺はなるべく彼女の話に耳を傾け、彼女には喋りたいだけ喋らせることにした。
 夏の旅行から戻った後の一ヶ月間、俺がいろんなことを考えていたように、彼女もまた何かを思い、考えてきたはずだ。積もりに積もった感情が雛子をいつも以上に饒舌にしているのだろう。そしてそれを聞く俺も、恐らくかなり浮かれているのだろう。繋いだ手はまだ離さないでおいた。
「先輩が寄稿してくれるって話をしたら、後輩たち、すごく喜んでました」
 雛子が、文芸部の後輩たちについて言及した。
「そんなに喜ぶものなのか」
 俺は少し驚いたが、雛子は俺を見て微笑み、深々と頷いてみせる。街灯の光が彼女の上を通り過ぎる度、彼女の黒い瞳は光を浮かべて瞬いた。
「もちろんです。後輩の為に無償で動いてくれる先輩なんて、とても立派ですよ」
 それは誉めすぎだ。俺は溜息をつく。
「立派なんてものじゃない。俺だって、お前の頼みでなければ動かなかった」
 他の人間にどれほど頭を下げられたところで、手を貸そうとは思わなかっただろう。あいにくと俺は東高校にいい思い出などないからだ。雛子のことを除いては。
 在学中にたった一人だけ、交流らしい交流を持てた相手の頼みだからこそ、OBとして手を貸そうと思ったのだ。
「私も本当に嬉しいです。先輩と再びご一緒できる機会が在学中にあるとは思わなくて」
 雛子は俺の本心をわかっているのだろうか。至って明るい口調で話す。
 だが昔のことを考えていたのは同じのようだ。
「ああ、一昨年以来か。随分昔の話のような気がするな」
 俺は頷き、当時彼女と交わした数々のやり取りを振り返る。
 高校三年生として迎えた最後の文化祭に特別な感慨はなかった。あの文芸部で作った文集はまだ手元に残っているが、雛子の作品が載っているから捨てにくいだけで、読み返すことはほとんどない。だが文集で使用した彼女の写真は未だ手元に保管してある。三年生として文集製作に携わったのをいいことに、無断で持ち帰ったものだ。
 よくよく思い返してみれば、俺が彼女にまつわる事柄についておよそ直情的なのも、今に始まったことではないようだ。
「前にも言いましたけど」
 雛子は笑う。あの頃の写真よりも朗らかに、いい思い出を振り返っているかのように笑う。
「もし私と先輩が同い年だったら、三年間ずっと一緒にいられたのにって思ってます」
 とてもではないがその意見に賛同はできない。たった一年接しただけだというのに、彼女は俺のせいで多大な迷惑を被った。
「そうじゃない方がお前にとってはいいはずだ。俺がいると部の空気が悪くなる」
 俺が否定すると、雛子はむきになってかぶりを振った。
「先輩、そんなことはないです」
「いいや。もし俺が今でも文芸部にいたら、部長のお前は大層苦労していただろうな」
 部長という立場で俺のような問題児を御すのはさぞかし大変なことだろう。たとえ俺が今のように、彼女の意見には耳を貸す人間だったとしても、俺が部内で買った数々の反感までフォローするのは到底不可能だったはずだ。
 今は、その問題児もいない。また雛子にあれこれと余計なことを吹き込みたがる連中もいない。ただ彼女にとって穏やかな時間が、あの文芸部には流れているようだ。
「今のお前はとても楽しそうだ。それはある意味、お前の才能なんだろう」
 俺は隣を歩く雛子を見下ろす。今の彼女は文芸部についての話を、本当に明るく話してみせる。一時期は思いつめていたようだったから、それは、本当に幸いなことだと思う。
「才能……ですか」
 雛子が俺の言葉を繰り返した。
「文化祭が楽しみだな。お前がどんな顔で部長をやっているのか、見てみたかった」
 部長として彼女がどんな振る舞いをしているのか、俺には全く想像がつかない。先輩風を吹かせている雛子というのも何だか不自然に思えるが、実際はどんな部長なのだろう。後輩たちと良好な関係を築けているのを見るに、優しい先輩であるのは間違いなさそうだが。
 俺の疑問に応じるように、雛子がひらめいた顔をする。
「それなら先輩、文化祭前に一度、OB訪問に来てはどうですか?」
 今日の彼女はつくづくはしゃぎすぎているように思えた。
「お前はともかく、お前の後輩たちはOBに押しかけられても迷惑だろう」
 こちらとしては気を遣ったつもりだったが、そこで雛子は軽く笑んだ。
「あの二人なら大丈夫です。先輩のことを知っている子もいましたし……」
 現在二年生だという雛子の後輩たちと俺に、直接の接点はないはずだ。知っていると言われるとあまりいい気はしなかった。
 彼女に会う前に訪ねた船津さんとの会話が、まだ頭の片隅に残っていたせいでもある。
「まさか、俺の悪名もそこまで轟いていたとはな」
 俺が憂鬱な思いでぼやくと、雛子は慌てたようだった。
「そ、そんなんじゃないですよ。いい意味でです」
 そして彼女は簡潔に、後輩たちが俺の文学賞受賞を知っていたこと、一昨年の文集に目を通した上で誉めてくれていたことなどを語り聞かせてくれた。
「――だから後輩たちも一層喜んでたんです。鳴海先輩が寄稿してくれることを」
 雛子の言葉を疑うのもよくないだろうが、警戒したくなるほどの歓迎ぶりに聞こえた。作品を評価されるのはありがたいが、それなら尚のこと実際に顔を合わせていざこざが起きるのは控えたい。
「陰口を叩かれるのも不快だが、陰で誉められるのも落ち着かんものだ」
「照れてるんですね、先輩」
 率直な感想を零す俺を、すかさず雛子がからかってくる。
「うるさい」
 思わず俺は彼女を睨んだ。だが本気で腹を立てていたわけではなく、そう指摘されても仕方がないとさえ思っていた。
 彼女の後輩たちは、一体どんな連中なのだろう。雛子に似て多かれ少なかれ物好きなのかもしれない。
「でも本当に、あの二人なら先輩のことを歓迎してくれると思います。よかったら……」
 雛子がそう続けたので、俺もいくつかの覚悟を決める。
 そこまで言うのなら悪くないかもしれない。何よりも雛子に会える。外で、二人きりで会うのが憚られるのだとしても、OB訪問という形でならやましいこともないだろうし、彼女の受験勉強の妨げにもならない。
 なら、今こそ告げるべきなのだろう。
「確かに、そういうのも一つの手か」
 俺は呟いて、歩くのをやめた。

 やめただけではなく、繋いだままの手を強く引いた。彼女にも立ち止まるよう促した。
 それで雛子は俺のすぐ傍で足を止める。道端に立つ街灯と街灯の間、楕円形の光が照らしきれずにわだかまる薄闇の中に俺たちはいた。一ヶ月前、あの海辺で話をした時と同じように。

「雛子」
 俺が名前を呼ぶと、雛子は眼鏡の奥の瞳で忙しなく瞬きをした。それからゆっくりと応じた。
「……はい」
 瞬きを終えると彼女はじっと俺を見る。真っ直ぐな眼差しが今の俺には非常に気まずい。これまでに犯した全ての罪状を見透かされているような気さえする。
 だからこそ俺は、彼女との関係について今一度見つめ直さなくてはならない。
「先月の旅行の後、この一ヶ月ずっと考えていたことがある。今日はそれを告げに来た」
「な……何ですか?」
 雛子の声がかすれた。身構えているのが口調からわかる。
「今から話す。回りくどいことはせず、結論から言うからな」
「は、はい。どうぞ」
 了承を貰ったので切り出そうとしたが、いざとなるとどこから触れていいものか、全く難しい問題だった。
 俺は雛子をとても大切に思っている。これからも交際を続けていきたいと思っている。だが今の俺は彼女にとってふさわしい人間ではまだない。そして彼女は現在受験生だ。何を差し置いても彼女の勉学に差し障るようなことだけはしてはならない。
 この一ヶ月、ずっと考えてきたことだ。
 言葉にして、彼女に自分の意思を伝えなくてはならない。
 どこかの家から犬の遠吠えが聞こえた。気のせいか心細げに響いたその声は、満天の星空に吸い込まれるように消えていった。
 それが完全に消えたのを合図に、俺は口を開く。
「俺は、お前と、仰いで天に愧じることのない交際をしたい」
 言いよどむこともなく、これ以上なくはっきりと告げたにもかかわらず、
「えっ?」
 雛子は戸惑い気味に聞き返してきた。
「いや、だから、二度も言わせるな」
 こんなことを繰り返すのも気恥ずかしい。俺が咎めると雛子も腑に落ちないというように眉を顰める。
「あの、お言葉ですけど。当初から私と先輩は、誰に恥じることもないお付き合いをしてると思っていました」
 だがもちろん、俺は首を横に振って彼女の意見を否定した。
「そうではない。お前に旅行のことを隠させたのは俺の責任だ」
「あ、それはその……」
 途端に雛子は口ごもる。やはり彼女もその件については気に病んでいたようだ。
 だが俺に対しては気を遣わせまいと思ったのだろう。すぐに言い返してきた。
「先輩は悪くないですよ。両親にも、時期を見てちゃんと先輩のことを話しますから」
「悪くないはずがない」
 再び俺はかぶりを振る。
「無論、お前のご両親には一度ご挨拶に行かねばと思っている。だが今は時期が時期だ。お前がちゃんと大学受験を終えて、結果が出てからというのが相応だろう」
 説き伏せるつもりで言葉を並べると、やがては雛子も納得したのだろう。しばらくしてからぎこちなく顎を引いた。
「そう、ですね」
 わかってもらえたならいい。話にはまだ続きがある。
 本題はここからだった。
「そういうわけだからな。お前の受験が片づくまでは、二人で会うのは極力控えるべきだと思う」
 俺はなるべく彼女を驚かさないよう、そして傷つけないよう表現を選んで告げたつもりだった。
 だがいくら選んだところで無駄だったのかもしれない。
「えっ」
 雛子は目を見開いて声を上げ、それから訳がわからないといった調子で、
「ど、どうしてですか?」
「さっき言ったばかりだ。俺はお前と、後ろ暗いところのある付き合いはしたくない」
 もっと早く、そうするべきだったのかもしれない。
 彼女を大切に思うなら俺は自制すべきなのだろうし、それができないのなら傍にいるべきではない。俺は心を入れ替えなくてはならない。模範的な人間でなくてはならない。
「後ろ暗くないですよ! 両親に挨拶してないくらいでそんな……」
 尚も雛子は食い下がってきたが、俺はもう決めてしまっていた。この決定を翻すつもりなら、きちんと筋道立った反論を持ってきてもらわねばならないだろう。雛子が俺に今後も会いたいと思ってくれている、その気持ちは嬉しいことだが、それは今はお互いの為にならない感情だった。
「いや、駄目だ」
 俺は彼女を突っ撥ね、続ける。
「それに俺は、お前にとって有害な人間にもなりたくない。俺と会うことで受験勉強がより捗ると言うなら話は別だが、そうではないはずだ。違うか?」
 何よりも俺がそうだから、理解できてしまうのだ。恋愛感情に囚われた人間の何と愚かなことか。彼女のことを考えるだけで読書も手につかず、夜も眠れず、日中はそればかりに思考が占領されてしまう。そういう苦しみを雛子には、ましてこの大切な時期に味わって欲しくない。
 目の前で雛子が俯く。見下ろす俺からつむじが確認できるほど深く深く項垂れて、彼女は気の抜けた声を上げた。
「しばらく、会わないってことですよね」
 沈んだ問いは俺の心を十分すぎるほど狼狽させた。この決定事項が彼女を喜ばせるものではないと覚悟していたつもりだが、それにしても何て声を出すのか。彼女は。
「そんなに落ち込む奴があるか。お前の為に言ってることだぞ」
 俺は慌てて彼女を叱ったが、彼女はそれでも項垂れている。
「わかってます」
「わかっているなら顔を上げろ」
 促したが返事はなく、やむを得ず俺は彼女の頭に手を置いた。そのまま強引に上を向かせると、思った以上に恨めしげな雛子の顔が現れた。今にも泣き出しそうな表情にも見え、俺はますます慌てふためいた。
「俺も、何の考えもなく言い出したわけじゃない」
「それもわかってますけど……」
 どう見てもわかっているようではない。それを強気に面に出すならまだ諭しようもあるのだが、こうして落ち込まれてしまうと決意が揺らぎそうになる。
 俺だって、どうせなら雛子を喜ばせたいと思っている。誰よりも彼女を幸せにできる人間でありたいと――だが時として彼女が俺を深く悩ませるように、彼女にとっての俺もまた、その言動が多大な影響を及ぼす存在なのだろう。
 少しは優しくしてやろう、と思う。 
「来月の二十二日は空けておいてやる」
 俺は勘の鈍い彼女にも伝わるよう、あえてはっきりと日付を口にした。
 たちまち彼女の表情が変わる。希望の光が差し込んだような明るさが戻ってくる。
「……先輩?」
「お前の誕生日くらい覚えてる。去年だって祝ってやっただろう」
 十月二十二日は雛子の誕生日だ。その日くらいはお互い、堅苦しいことを考えずに過ごしたいと思う。その為の準備も始めることにしている。
「いいんですか?」
 雛子はまだ喜ぶのは早いとばかり、ためらいがちに確かめてきた。
「そのくらいはな。息抜きになるかどうかわからんが、どこか付き合ってやってもいい」
 ただし彼女と会う場合、どこで会うかは熟慮しなければならないだろう。俺の部屋などもっての他だ。当面の間、あのアパートには彼女を上げるべきではない。
 もう少し健全な、高校生を連れて行くにふさわしい場所で彼女の誕生日を祝うことにしよう。
「それから、お前が望むならOB訪問とやらもしてやろう」
 彼女を寂しがらせるのも本意ではない。俺としても時々は、彼女が元気でいるかを確認したい。
「どちらにしろ、仕上げた原稿を渡す手間もあるし、お前だって校正の手助けは欲しいだろう。部の後輩に、お前の言うように歓迎されるかはわからんが、どうしても俺の顔が見たいと言うならいくらでも訪ねてやる」
 あれこれと案を並べ立てると、雛子は理解が追い着かないのかぎくしゃくと小首を傾げた。
 だが、
「あとは……そうだな。お前が望むなら、携帯電話を持ってやってもいい」
 俺がその点に言及した時は、跳ね上がりそうな勢いで驚いてみせた。
「え!? でも先輩、持つのが嫌だって……」
「メールができれば便利だと、さっき言ってただろう。いざとなったらお前から以外の連絡は受けなければいい話だ」
 俺も、できることなら電話を好きになりたかった。彼女が連絡をくれるのを純粋な気持ちで心待ちにしていたかった。俺にかかってくる電話が、全て嬉しい知らせばかりだったならいいと思う。
 それが叶わなかったとしても最大限、彼女を幸せにする。彼女を寂しがらせない為の努力をする。
 雛子はようやく全てを呑み込んだ顔で息をついた。感情か、衝動か、何か湧き上がってくるものを押し隠すように微笑んで、静かに口を開く。
「誕生日、楽しみにしてます」
 そう言った後で彼女はこちらに、正面からもたれかかってきた。一瞬貧血でも起こしたのではないかと恐れたがそうではなく、俺の胸に額を預けるようにして寄りかかると、片手だけをこちらの背に回し、抱きついてきた。久々に触れた彼女の感触にたちまち全身が緊張した。
 あの夜のことを思い出す。
「雛子、ここは外だぞ! 人目についたらそれこそ――」
「こんな時間なら誰も通らないですよ」
 俺が咎めても雛子はどこ吹く風だ。一向に離れようとしない。
 仕方なく、俺たちは不完全な抱擁のまましばらく道端で立ち尽くした。日が暮れたとは言え、人目がないとは言え彼女を抱き締め返すのはためらわれ、俺は彼女の小さな背を撫でるに留めた。触れたところから伝わる体温が今は熱いくらいだった。
 だが、彼女を引き離さなければいけない瞬間がやってきた。振り向いた道の向こうから目も眩むような小さな光が近づいてきたのだ。
「自転車が来た」
 雛子の耳元で囁くと、彼女は不承不承俺から離れた。

 自転車は二人乗りだった。
 こんなに暗い夜の道を、後ろに一人乗せた上ですいすいと漕いでくる。
 こちらに突っ込んでこないか注意深く見守っていると、近づいてくるうち、前に乗ってペダルを漕いでいるのが学生服を着た男であることがわかった。来た方向と制服の形からして、東高校の生徒だろう。
 と思った矢先、
「あれ、部長? 部長じゃないですか」
 俺たちの前を通過しようとしていた自転車から、少年らしき声がした。まだ変声期を迎えていないとはっきりわかる高めの声だった。
 すぐに自転車は軋むようなブレーキ音を立て、後ろに乗っていたセーラー服の女子が男子生徒の背中に衝突する。軽い悲鳴も聞こえたが、雛子の注意は別のところに向いていたようだ。停まった自転車に向かって言った。
「有島くん?」
 聞き覚えのあるような、ないような、どちらにせよそう珍しくもない名前だった。だがこの男子生徒は先程、雛子を部長と呼んでいた。それだけで彼が何者か判断できた。
 有島と呼ばれた男子生徒は自転車の上から頭を下げる。 
「どうも、こんばんは。さっきまで一緒でしたけど」
 薄暗いせいかもしれないが、あまり目立たない顔つきをした少年だった。中肉中背、校則を遵守したさっぱりとした髪型、威圧感もないが気弱さもない顔立ちと、第一印象だけでは判断しづらい相手だ。
「こんばんは……って、今帰りなの? 荒牧さんも……」
 雛子は驚きながらもその挨拶に答える。
 荒牧という名らしい女子生徒が、危なっかしい動作で自転車の後ろから降りた。雛子に対して親しげに応じる。
「教室に忘れ物しちゃったから、有島くんに付き添ってもらってたんです」
 すかさず有島が会話に割り込み、
「荒牧が暗いの怖いって言うから仕方なく。びびりすぎなんですよ、こいつ」
 それを聞いた荒牧が有島を睨む。髪の短いこの女子生徒は随分と線が細く、顔立ちにもどこか儚げな印象があった。前情報が何もなければもう少し年下に見えていたかもしれない。
「有島くんがお化けの話とか始めなければ、もっと早く出てこれたのに……」
「お化けじゃないよ。女の子ばかり狙って攫う地底人の話しかしてないだろ」
 有島と荒牧が言い合いを始める。それを雛子は慣れた様子で、温かく見守っている。
「どっちにしても怖いからやめてよ」
 最終的に荒牧が釘を刺すと、有島は肩を竦めた。
「はいはい。じゃあ急ぐから、さっさと乗り直せよ」
 その時、ほんのわずかな間だけ、奴の顔に実に愉快そうな笑みが浮かんだ。辺りが暗いせいで見間違いではないかと思うほど、豪快な会心の笑みだった。
 もっとも肩を竦めた時にはその笑みも消え失せ、代わりに有島はこちらに目を凝らすようにして俺を見た。
 初めて目が合う。
 ――いや、違うかもしれない。
「ところで部長は……えっと、もしかして彼氏さんと一緒なんですか?」
 有島は雛子に向かって尋ね、雛子がどぎまぎしたように頷く。
「あ、うん。そうなんだけどね」
 それから俺をちらりと見て、何か大切なことに思い当たったらしい。
「ちょうどよかった、今日話したよね。この人が鳴海先輩」
 思いがけない形ではあったが、いち早く後輩たちとの顔合わせとなったようだ。
 俺の素性を聞いた二年生二人は、すぐに姿勢を正して口々に、
「あっ、先輩初めまして! 二年の有島です、寄稿の件ありがとうございます!」
「同じく二年の荒牧です。あの、文集へのご協力、本当にありがとうございます!」
 意外と元気のいい連中だ。もう少しおとなしそうな二人組だと思っていた。
 驚く俺に間髪入れず、雛子が紹介を添えてくる。
「先輩、さっき話した文芸部の後輩です。有島くんと荒牧さん」
「初めまして。こちらこそ文集に招いてもらえて光栄だ」
 それで俺が口を開くと、有島が目で頷いた。
「いえいえ、鳴海先輩とご一緒できるなんてこっちこそ光栄です」
 この少年とどこかで会っただろうか。先程から漠然とそう感じているのだが、いつ、どこで会ったのかわからない。向こうも初対面だと言っているからただの気のせいかもしれない。
 俺が考えていると、不意に有島が申し訳なさそうな顔をした。
「あ、でもすみません、先輩。今日は荒牧が忘れ物したくせに電車の時間ないって言うんで、挨拶はまた後日改めてってことでいいですか?」
 それから荒牧に自転車に乗るよう促し、荒牧がおずおずとそれに従う。
「部長、慌しくてすみません」
「ううん。じゃあ、また明日ね」
 雛子が軽く手を振ると、後輩たちも頭を下げた。
「はい、部長。先輩もまた今度、是非お話をさせてください」
「お先に失礼します、部長。あと先輩も」
 急ぎ足の挨拶を残し、二人乗りの自転車が走り出す。
 ダイナモライト特有の引きずるような低い音が光源と共に遠ざかり、駅まで続く道の向こうへ消えていく。
 それをしばらく見送った後、俺は懐かしい記憶を蘇らせていた。
 自転車の二人乗りか。全く、懐かしいと言っていいのかどうか。
「……あんな感じで、とてもいい子たちなんです」
 同じように後輩たちを見送っていた雛子が、急にこちらを振り返った。目が合うと彼女は微笑み、俺は決まりの悪さを覚えつつ言った。
「言う通り、悪い連中ではなさそうだ」
「はい。なのでどうぞ心配なく、OB訪問に来てください」
「わかった。近いうちにな」
 頷いた俺はもう一度、夜道の先に視線を馳せる。
 二人乗りの自転車はもういない。ライトの明かりすらとうに見えなくなっていた。
 あの時はどうだっただろう。六月、雨上がりの夕刻は、今ほど暗くはなかったように思う。俺は古い中古の自転車に雛子を乗せて、駅までの道を急いだ。建前は、雨のせいで彼女の帰りが遅くなってしまったからだ。だが本音はもう少し別のところにあった。
「柄にもないな。懐かしいと思ってしまった」
 俺の呟きを雛子は逃がさない。すぐに捕まえて聞き返してくる。
「懐かしい? 何がですか?」
「いや。お前と二人乗りをした時のことを思い出しただけだ」
 もしかすると彼女は忘れているかもしれない。そんな不安も抱きつつ打ち明けた。
 だが杞憂だったようだ。次の瞬間、雛子は嬉しそうに目を細めた。
「先輩、覚えていてくれたんですね」
 俺も弱く笑んだ。あの頃のことを振り返ると気まずさも気恥ずかしさも一緒くたになって蘇る。馬鹿なことをしたものだと思う反面、必死になって彼女を駅まで送り届けた自分を滑稽だと笑う余裕もあった。
「急いでいたとは言え、校則も交通法規も破った。今となってはいい思い出だ」
 思えばあの頃から俺は模範的な人間ではなかった。そんな奴が今更、誰かの規範になろうとするなど端からおかしな話なのかもしれない。
 だがあの頃は、そんなことすら考えなかった。
 自分が他人に与える影響も、自分が他人からどう見られているかもまるで気にしなかった。気にするようになったのはごく最近だ。彼女といるようになってからだった。
「俺はお前が思うほど、尊敬できるような先輩じゃない」
 そう俺が口にした時、雛子は思いも寄らないというように表情を曇らせる。
「そ、そんなことないですよ。先輩は……」
 庇ってもらわなくてもいい。自らの情けなさは俺自身がよくわかっている。
 ただ、思う。俺は初めから彼女に尊敬されたかったわけではないのかもしれない。模範的な先輩であるべきだと思ってはいるが、模範的な先輩と仰がれたいわけではなかった。
 それでも俺は、正しいと思うことをする。
 自分がどうしたいかではない。雛子にとって一番有益な行動を取ればいい。
「お前がわかってないようだから、俺が余分に考えるんだ」
 俺は結局黙り込んだ雛子に釘を刺す。
「その辺りを汲んだ上で、誕生日の予定も決めてもらえると助かるんだが」

 雛子は相変わらずの勘の鈍さで首を傾げていたが、やがて誕生日の予定を考え始めたのだろう。幸せそうに微笑み始めたのを見て、わかりやすいことだと俺まで口元が緩みそうになる。
 俺が笑う時、傍にはいつも彼女がいる。雛子は純粋なおかしさや可愛らしさ、あるいは幸福感で俺をよく笑わせる。
 同じように俺も彼女を笑わせていたいと思うから、十月二十二日のこと、そしてこれからについて考える。
 どんなふうに過ごせたら、雛子はずっと笑っていてくれるだろう。
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