全てで恋をする(2)
答えの出ない迷いはともかく、俺は雛子とメールを交換し合うようになった。電子メールと言っても要は、形式を変えた手紙のようなものだ。彼女に宛てて手紙を書くなら告げたいこと、尋ねたいことがたくさんある。
季節の変わり目だが体調を崩してはいないか、受験勉強は順調か、文化祭の準備の方はどうか――次から次へと彼女の近況を尋ねていくうち、メールの文面は長くなる。大槻が一言二言だけのメールを寄越し、俺が同じように素っ気なく返事をするのとはまるで違い、雛子宛てのメールはいつもそれなりの分量に膨れ上がった。
となるとやはり大槻のように日がな一日メールを送り続けるというわけにもいかず、じっくりと時間を取って文章を推敲しなくてはならない。加えて雛子に宛てるメールを書くのは、たとえ近況だけを尋ねる内容であっても並々ならぬ集中力を必要とした。日中、明るいうちに書こうとするとどういうわけか捗らず、大学にいる時は人目が気になり書き進められない。やはりこういうものは夜更けに一人の部屋でひっそりと書くべきではないかと思う。
そうして手紙と変わらぬボリュームに膨れ上がった雛子へのメールは、当然ながら一日に一通送れればいい方だった。大槻はメールの魅力をタイムラグのない迅速さだと語っていたが、俺はまだその迅速さを上手く役立てていないようだ。
一方で、雛子が俺にくれるメールもそこそこ読み応えのある長い文面だった。
それは当然ながら、俺のメールに丁寧に返事を書いてくれているからこそそうなるのだが、体調はすこぶるいいこと、受験勉強も文化祭の準備も滞りなく進んでいることなどを生真面目な文章で教えてくれる。勉強でわからない部分があればそれを尋ねてくることもあったし、文化祭用の原稿を書く上での疑問点などを寄せてきたこともある。俺はそのメールを隅から隅までつぶさに読み込み、そしてまた日が落ちるのを待って自室で返信を打つ。さながら古式ゆかしい文通のようなメールが俺たちの間を行き交っていた。
彼女のメールは当人よりもどこか落ち着いて、大人びて見えた。澄ました顔でメールを打つ彼女の顔が思い浮かぶようで微笑ましくもあり、同時に彼女の顔が見られないことへのもどかしさも覚えていた。
雛子に会いたい気持ちは当たり前のように存在していた。
送られてくるメールの文章から彼女を感じ取り、今頃どうしているのかと想像するにつけ、その気持ちは一層募った。
メールはそういう時、内心を押し隠して取り繕うのにも大いに役立った。顔の見えない電話ですら声音を装う必要があったり、つい言うべきではないことを口走ったりもしたものだが、メールにはそのような心配はない。細心の注意を払い、推敲に推敲を重ねて送れば、彼女に俺の本心全てが伝わることもなくなる。彼女にふさわしい模範的な人間でいられる。
だから彼女への募る想いとは裏腹に、俺はこのやり取りに大きな満足感も抱いていた。
きっと俺には、彼女を案じ思いやるこの心だけがあればいいのだろう。
他のものは何もなくとも、こうして彼女と繋がっていられるのだから。
そんな日々がまずは二週間、平穏に過ぎた。
その頃俺は雛子に依頼された文集の為の原稿に取りかかっていた。青春という漠然とした主題には手を焼かされたが、それでも俺なりに考えをまとめて短い物語を創っていた。
普段、サークルの冊子などには自分の書きたいものを好きなように書いて載せているが、寄稿となると勝手が違うものだ。まして高校の文化祭で展示するものともなれば教師や父兄の目に触れる可能性もあるのだろうし、何より部の雰囲気から逸脱するものであってはならない。
そこで書いたものを一度、現部長に見てもらうことにした。ちょうど日中、大学での空き時間を利用して書き上げたので、初めてメールの迅速性を活用することにした。いつもと違う短い文面で、原稿を一度読んでもらいたいので今日あたり訪ねてもいいかと伺いを立ててみた。
雛子は高校でも携帯電話を持ち歩いており、返信はすぐにあった。『今日ならOKです。待ってますのでいつでもお越しください』――そんな短い文章の後に笑顔を表す顔文字を載せてきたので、俺は少しばかり面食らった。いつもの長いメールと文体こそ変わらないが、素の彼女がそこには表れているような気がした。
放課後までに余裕があったので、駅前でドーナツを購入した。
せっかく後輩たちを訪ねていくのに手ぶらというのもまずいだろう。それに雛子は甘いものが好きだ。以前差し入れした際も上機嫌で食べてくれていたし、今日も持って行けばさぞかし喜んでもらえるに違いない。
東高校に着いたのは午後四時半頃だった。俺は事務員に一言断り、教員玄関から中に立ち入った。校名が印字された緑色のスリッパを履き、校舎の隅にある文芸部の部室を目指す。
母校に立ち入るのは約一年ぶりだが、部室まで訪ねていくのは卒業以来初めてのことだった。去年の文化祭では展示をしている教室に立ち寄っただけで、部室まで見ていく余裕はなかった。何より去年までは顔見知りの連中がまだ在籍していたので、部室を訪問しようとは露とも思わなかった。
もう二度と部室に足を運ぶことはないだろうと思っていた。だがこうして雛子を訪ねていくことになったのは、恐らく縁というやつなのだろう。
図書室がある静かな廊下に差しかかると、眠っていた記憶が目覚めて目の前の光景とことごとく重なる。
夕暮れの赤い陽光が差し込むアルミサッシの窓、中央にラインが引かれた傷だらけの廊下。突き当たりには近年増築された司書室があり、その手前、向かって右側に並ぶのが文芸部の部室と図書室のドアだ。図書室には貸出日であることを知らせる札が下げられていた。黒ずんだ木の札は俺の在学中とまったく同じもので、フォントまで記憶と一致した。そして部室のドアには新入部員随時募集中と書かれたポスターが貼られていたが、こちらには見覚えがなかった。扉を開ける人間の手と、その隙間をくぐる虎模様の猫が写実的なタッチで描かれている。ポスターの元ネタは恐らく『夏への扉』といったところだろう。雛子は美術が苦手だと言っていたので彼女の描いたものではないだろうが、後輩たちが描いたのだろうか。
懐かしいものと初めて見るものが混在する空間で、俺はここへ通った日々を馬鹿正直に蘇らせていた。
部室のドアの前に立つ。
中からは微かな話し声が聞こえてきた。俺は一呼吸置いてからドアをノックし、こちらに近づいてくる足音を落ち着かない心境で聞いていた。
音を立ててドアが開く。そう重い扉でもないはずなのにやけにゆっくり開いたかと思うと、中から雛子がおずおず顔を出した。はにかんだ、緊張気味の笑顔がこちらを向く。
もう少し部長らしい顔で出てくるかと思っていた。とは言え威厳ある態度の雛子というのも違和感があるし、後輩たちの前でも偉ぶったところがないのが彼女らしさなのかもしれない。
「い、いらっしゃいませ……」
目が合うと彼女はわずかに微笑み、頼りない声で挨拶をした。俺を見て照れているのは明らかだが、それを隠そうとしているのもしきりに引き締めようとしている口元から見て取れた。
こちらにまで緊張がうつりそうだ。俺は笑いを堪えて平静を装う。
「悪いな、邪魔するぞ」
そう断ってから、持参したドーナツの箱を彼女に差し出した。
「手ぶらで来るのも何だからな。差し入れだ」
「あっ……すみません。ありがとうございます」
恐縮した様子で頭を下げ、雛子がドーナツを受け取る。
それから俺は彼女に招き入れられ、部室に足を踏み入れた。元は司書室として使用していたという小部屋は二年前と比べてもさしたる変化はなく、折りたたみテーブルとパイプ椅子、簡素なスチール棚があるだけだった。図書室は壁一枚を隔てた距離にあるが、この時期は文化祭の準備のせいで利用者が少ないのだろう。向こうからは物音一つ聞こえない。
一方、こちらの部室には雛子の他にも人がいた。先月顔を合わせた二年生部員たちだ。有島と荒牧という二人の後輩たちは、やけに姿勢よく直立して俺を出迎えてくれた。
「先輩、いらっしゃいませ。先日はろくに挨拶もせずすみませんでした」
まず有島がはきはきと口火を切り、
「先輩、こんにちは。文集の寄稿の件、本当にありがとうございました」
その後で荒牧が内気そうな声で続く。
急な訪問で気を遣わせていなければいいのだが、向こうからすれば気を遣うなと言われても無理な話だろう。あからさまに迷惑がられていないだけでもありがたい。
俺は二人に挨拶を返す。
「こんにちは。今日は急に押しかけて、悪かったな」
「いえいえ、またお会いできて光栄です!」
有島はにこやかに否定すると、わざわざこちらへ駆け寄ってきて椅子を引いてくれた。すかさずどうぞと勧められ、俺は内心戸惑いながら腰を下ろす。いやにサービスがいい。
ひとまず用を済ませてしまおう。俺は鞄を開き、雛子に見てもらう為の原稿の束を取り出したところで、視線を感じてふと振り向いた。
雛子が、まだドアの前に立っていた。
先程手渡したドーナツの箱を抱え、気の抜けたような顔でこちらを見ている。眼鏡の奥の瞳は焦点が曖昧で、俺を注視しているようにも、ここにはもうない何かを見つめているようにも映った。後輩たち二人が怪訝そうにしているのも気づかぬ様子で立ち尽くしている。
「……どうした?」
何をぼうっとしているのだろう。俺が声をかけると、雛子は夢でも見ているような声で答える。
「いえ、別に……何でもないです」
彼女も彼女で、昔を思い出しているのだろうか。俺がここにいた頃を、ちょうど今のように椅子に座って本を読んでいた過去の光景を蘇らせ、懐かしいと感じているのだろうか。
俺にとってこの部室で雛子と共に過ごした時間は、今や何物にも変えがたい記憶だった。二人で読書について話し、創作について語ったわずかな一時だけが、当時の記憶を明るく照らしてくれている。しかしあの頃へ戻りたいかと尋ねられたら、俺は間違いなく首を横に振るだろう。今日に辿り着くまで俺たちが重ねてきた試行錯誤の数々を、今更やり直したいとは思わない。むしろ現在も試行錯誤の只中にあると言えるほどだ。
それでも、あの頃よりはいい方向に変わったと信じたい。
「早速だが、目を通してみてくれ。お前の意見が聞きたい」
俺は雛子に原稿を手渡そうと声をかけ、まだぼんやりとしている顔を見て、もう一言添えた。
「頼んだぞ、部長」
あの頃の俺と同じ三年生になった雛子が、その呼びかけにはっと目を見開く。
「は、はい。任せてください」
慌ててドーナツの箱をテーブルに置き、俺から原稿を受け取る。そして差し向かいの席の椅子を自分で引いて、スカートの裾を気にしながらいそいそと座る。
やはり彼女は威厳ある部長ではないようだ。むしろ俺に声をかけられて慌てた様子は、二年前、一年生だった頃と何ら変わりがなく、こうして向かい合わせに座っていると昔に戻されたような気分にさえなった。
初めのうちは、声をかけただけで怯えられるほどだった。二人で部室にいても挨拶以外の会話はなく、恐れられているのが態度でわかった。そのくせ彼女はたびたび俺に視線を向けてきた。読んでいる本で顔を隠すようにしながらじっと見つめてくるので、俺はその意味を測りかねては鬱陶しく思っていた。
そして今、現在の柄沢雛子も、やはり俺に視線を向けている。真向かいに座る俺をしげしげと、穴の開くほど熱心に眺めている。昔と違い、手にした原稿に顔を隠すようなことはしないし、こそこそしたそぶりがないのはいいが、彼女の視線の意味がいくらかわかるようになったせいでかえって居心地が悪い。
そうすると今度は俺の方が目を逸らしたくなる。
「俺を見てどうする。いいから早く読め」
顔を背けてから咎めると、雛子がびくりとしたのが視界の隅に見えた。
「すみません」
一言詫びて、彼女はようやく俺の原稿に目を通し始めたようだ。
俺もほっとして、雛子が原稿をめくる微かな音に耳を澄ませる。今はその物音すら感慨深いように思える。
しばらくは黙って、この懐かしい時間を過ごそうと思った。
だが、あの頃と違うのは俺たちだけではない。
すぐに、
「鳴海先輩!」
有島の甲高い声が俺の名を呼び、俺は物思いから強制的に引き戻された。
何事かと声のした方を向けば、それよりも早く有島が俺のすぐ隣の椅子を引いた。断りもなく真横に座り、膝を乗り出すようにして俺に話しかけてくる。
「この間に一つ、ご意見伺いたいことがあるのですが!」
女の声に負けず劣らずトーンの高いその声は、すぐ傍で聞くと耳が痛くなりそうだった。おまけにこちらを向いた有島の顔つきはどこか愉快そうでもあり、そのくせいやに切実そうでもある。
俺は訝しく思いながら返事をする。
「……何だ」
すると有島はほとほと困り果てたという顔つきになって続けた。
「実は今年度の文化祭で、仮装したり展示を装飾したりしようって話が出たんです」
「かそう? 着る方のか?」
聞き返すと、奴は深刻そうに頷く。
「そうです」
文化祭での仮装は東高校においてもさして珍しいものではなく、毎年そこかしこのクラブ展示や模擬店などで見かけていた。俺はお祭り騒ぎに便乗して悪趣味に着飾る連中を好ましくは思わなかったが、一方で自分に被害が及ばなければどうでもいいとも考えていた。
ただ、この文芸部で仮装をしたケースは過去四年間で一度もない。作品を並べておくだけの展示に仮装は不要だろうし、そんなことをしたところで来客が増えるわけでもないだろう。もし仮に、在学中にそういった案が飛び出していたなら俺は断固反対しただろう。
しかし今の俺はOBであり、この文芸部でどんな展示をしようと口を挟める立場ではなかった。
「それで、部長ともう一人の部員がすんごいメルヘンなテーマにしたいって言うんですけど……」
有島は嘆きながら雛子と荒牧の顔を見る。雛子は苦笑を浮かべているし、荒牧は有島に向かって何か言いたげに頬を膨らませている。
それから再びこちらを向いて、勢いよくまくし立ててきた。
「先輩はどう思います? 真面目なうちの部にメルヘンはちょっと合わないですよね? どう見ても明らかに俺だけ浮くって言うか、ぶっちゃけ女子しか喜ばないだろうって言うか!」
次々に噴出する有島の不満を、俺は全て把握することができなかった。部内で仮装をする案が出ているということだけはわかったので、とりあえず部長に説明を求めた。
「どういうことだ」
雛子が原稿を手にこちらを向き、おかしそうに応じる。
「まだ構想段階ではあるんですけど、物語の世界を模した展示にしたらどうかって意見が出ていたんです。今のところ候補に挙がっているのが『不思議の国のアリス』でした」
「なるほどな」
腑に落ちた。
物語の登場人物の仮装をするのは文芸部らしい試みであると言えなくもない。だがアリスを題材にするなら配役は限られてくる。主人公のアリスはもちろんとして、他には時計を持った白うさぎ、チェシャ猫とその飼い主たる公爵夫人、帽子屋、そしてハートの女王とトランプ兵といった辺りが相当するだろう。どれもそれなりに派手な仮装であり、言われているようにいささかメルヘンに過ぎる。有島の拒絶反応ももっともだ。
それならそれで対案を出すというわけにはいかないのだろうか。先程の有島の発言を聞くに、雛子と荒牧はそれぞれこの企画に乗り気のようだから、多数決で押し切られそうになっているのかもしれない。
だからと言って、部外者の俺に同意を求められても困るのだが。
「普通に恥ずかしいですよね? 鳴海先輩からも是非部長に言ってください、どうせ白うさぎか何かやらされるであろう男子の気持ちも考えてって!」
有島が尚も言い募る。
すると荒牧がここぞとばかりに口を開き、
「うさぎが嫌なら、有島くんがアリスでもいいんだよ」
「いいわけあるか! 論外だろ!」
喚く有島の声が喧しい。先月顔を合わせた際には気がつかなかったが、こいつも随分なお喋りのようだ。そして妙に馴れ馴れしいように思えるのは気のせいか。
ともあれ、部員の不満の受付窓口はこちらではない。俺は直接の返答を避け、まずは部長である雛子に告げた。
「随分と奇妙な企画を立案したものだ」
「そういうのも、お客さんを呼ぶにはいいかなと思うんです」
雛子は俺に向かって屈託なく笑ってみせる。
仮装をすること自体に迷いはないらしい。俺はその笑顔に、初めて彼女の部長らしさを見たような気がした。
「そんな話、昨年度までならありえなかっただろうな」
俺が率直な感想を述べると、雛子も深く頷いた。
「そうですね。今年度はちょっと、冒険してみようかなって」
更に率直に語るなら、雛子が仮装と言い出すこと自体が俺にとっては意外だった。彼女の生真面目さはよく知っているし、お祭り騒ぎに便乗して羽目を外すような人間ではない。仮装をする案は彼女の発案ではないのかもしれないが、彼女が乗り気になっているということには何か意味があるのかもしれない。
もしかすると、最後の文化祭だからということだろうか。彼女にとって最後の、それもうるさい連中がおらずのびのびとした空気で迎える文化祭を、彼女なりに華々しく盛り立てて三年間を締めくくりたいということなのだろうか。雛子ならそういうことも考えそうだ。彼女の学校生活に対する愛着もまた、俺はよく知っている。
それならば尚更、俺が要らぬ差し出口を利く必要はあるまい。
「今はお前が部長だ。必要だと思うなら、好きにやればいい」
俺はそう言って、彼女の背を押してやった。
「お前なら何をやっても、度を越したものにはならないだろうからな」
こちらも伝統や格式を重んじるようなOBではないし、そもそも俺の方にはこの学校にも部活動にもさしたる愛着はない。雛子がここで何をしようと構わない。それを彼女が楽しいと思うなら、の話だが。
そして雛子は、この三人だけの文芸部でとても楽しそうにしている。部長にあるべき威厳はかけらもないが、彼女なりによくやっているのだろう。それなら俺は、文化祭当日を楽しみにしていようと思う。
正直なところ、彼女の仮装なら見てみたいという気持ちもあった。
背を押された雛子はたちまち耳まで赤くなり、俺が渡した原稿の束に埋もれるように顔を隠した。わかりやすい態度を見せられて、俺の方が面映かった。
「なんてことだ。鳴海先輩なら男同士、俺の気持ちもわかってくれると思ったのに」
俺を味方につけようとしていたらしい有島が、そこで大きく嘆息した。
気持ちはわからなくもないが、そもそも俺は意見を言える立場にない。俺が何か言ったところで援護射撃にはなりもしないだろう。
「OBにそこまで口を挟む権限はない。意見の齟齬はそちらで擦り合わせてくれ」
そう言ってやると、有島はそこで意外そうな顔をした。
「え、先輩も寄稿してくださるんだから、もう当事者みたいなもんじゃないですか」
聞き捨てならない言葉を聞いたような気がした。
俺が反論するよりも先に、有島が雛子の方を向く。いかにも名案が浮かんだというように目を輝かせて言った。
「部長! 鳴海先輩も仮装に参加するようお願いしてもらうの、どうですか?」
思わぬ飛び火にぎょっとする。
「馬鹿なことを言うな。なぜ俺まで仮装しなきゃならないんだ」
まさかこちらに矛先が向くとは思わなかった。俺は大急ぎで食ってかかったが、有島は全く動じない。
「毒を食らわば皿までって言いますし。そっちも一緒にやりましょうよ」
そんな馬鹿な話があるか。
だが有島の心は既に決まってしまったようだ。意気揚々と雛子に提案を始める。
「部長からも是非。俺も道連れ……いや、仲間がいるなら頑張れそうですし! 何だったらアリス世界の花形、白うさぎさん役は鳴海先輩にお譲りしますんで!」
不覚にも一瞬、自分にうさぎの耳が映えた姿を想像してしまった。想像だけで目眩がした。
「誰がやるか!」
堪らず俺は怒鳴る。
何度も言っているが俺は部外者だ。雛子がそう言って止めてくれるであろうことを期待していた。だが雛子は援護射撃どころか、おかしくて仕方ないというように肩を揺らして笑うばかりだ。
「雛子、お前も笑うな!」
何をそんなに面白がっているのだろう。仮装なんてやりたい連中がやればいいことで、やりたくない奴を引っ張り込む必要はないはずだ。俺はことそういうお祭り騒ぎを嫌悪してきた。馬鹿みたいなことを嬉々としてやりたがる連中の神経が知れないと思っていた。
だが、雛子は本当に楽しそうだ。
「先輩、よかったら一緒にどうですか?」
笑いをどうにか堪えたらしい雛子が、それでも明るく弾む声で尋ねてくる。
彼女の黒い瞳は期待に美しく輝いており、身を乗り出して見つめられると動悸が速くなる。
俺はそれを誤魔化すつもりで雛子を睨んだ。
「いいからお前は原稿に目を通せ。俺はその為にここに来たんだぞ」
「あっ、すみません……。すぐ読みます」
小さく詫びて、雛子はまた原稿に視線を戻す。だが垣間見えたその表情から謝罪の意思は全く窺えず、やはり期待感に溢れているようだった。
となると俺は、後にやってくるであろう彼女との押し問答が予測できてしまう。これから雛子は事あるごとに俺を仮装へ引きずり込もうとするだろうし、それを拒むのも骨が折れることだろう。最終的には面倒になり、彼女の好きなようにさせてしまうような気もする。
「そんなに楽しそうな顔をするな。断りにくくなる」
今のうちに釘を刺しておこうと俺は言った。
雛子は返事をしなかったが、やはり楽しそうに微笑んでいた。
こんなに明るい顔をする彼女を、この部室で見ることになるとは思わなかった。
二年前とは何もかも違う文芸部に、今の俺たちはいる。