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古書に埋もれた夏の話(6)

 俺は現実的な話に戻ることにする。
 そろそろ八月の件についても説明しておかなければなるまい。
「来月の、旅行の話だが」
 そう切り出すと、雛子はどぎまぎしたように目を瞠った。次いで居住まいを正す。
「え? は、はい」 
「行き先が決まった。宿泊先は俺の、親戚の家だ」
 その説明が事実に即しているかどうかは、俺にもよくわからない。だが他人に説明するならこう言うより他ない。
 雛子は俺の言葉を聞き、一層驚いたようだ。こわごわと口を開く。
「あの、もしかしてそれって、ご挨拶に行くということじゃ……」
「馬鹿、誤解をするな。宿泊費が浮くから都合がいいというだけだ」
 慌てて俺は彼女の言葉を遮る。
 紹介はしたいと思っていたが、そういうことでは断じてない。大体、挨拶などというのは俺たちにはまだ早い話だ。それはもちろん、いつかはと思っているが、その場合はまず俺が雛子の家に出向くのが筋だろう。
 そんな話はどうでもいい。
「そ、そういうことですか。なんだ、びっくりしました」
 雛子が胸を撫で下ろしている。驚いたのはこっちだと、俺は彼女を睨んだ。
「それにお前を連れて行くなら、おかしなところには泊められまい」
 端からこの度の旅行は泊まりがけで行くものと決めていたはずだった。なのに、雛子は一向にそのことを気にしない。どこに泊まるのかという点はこういった旅行において大変重要なファクターではないのか。
 にもかかわらず、雛子が気にするポイントはどこかずれている。
「そちらに泊めていただいて、ご迷惑じゃないでしょうか」
「迷惑なら端から話を進めてない。お前が気にすることは何もないから、せいぜい気楽に過ごせ」
「そうですか……。あ、手土産とか持参した方がいいですか?」
「それも要らない。余計な気を遣うとかえって迷惑だ、身の回りの品だけ持ってこい」
 もう少し気にすべき点があるだろう。よほど言ってやろうと思ったが、どう切り出すべきか迷う。
 どうして彼女はここまで暢気というか、迂闊でいられるのか。
「では先輩、交通費がどのくらいかかるか、ざっとでいいので教えてください」
 更にはそんなことまで言い出したので、いい加減面倒になった俺はあっさりと答えた。
「必要ない。俺が払う」
 すると雛子は息を呑み、すぐに慌てふためいた。
「だ……駄目ですよそんなの、自分で払いますから」
「いやいい。こういうのは大人が支払うものだ」
「そんな、大人とか子供とか関係ないですよ。私が行きたいって言い出したんですし……」
 だが行き先を決めたのは俺だ。
 旅行の発端が彼女の意見によるものだったとしても、俺はそれを自らの目的を果たす為に利用しようとしている。彼女に会わせたい人がいる。話しておかなければならないことがある。その為に俺は、あの潮風の吹く港町へ彼女を連れていく。
 それなら今回は俺が金を払うのが筋だろう。
「俺が何の為にアルバイトを始めたと思ってる」
 率直に事実を述べる。
 ここまで来ればもう隠す必要もあるまい。むしろ言ってしまった方が、彼女も納得するはずだった。
「先輩……」
 雛子がぼんやりとした声を立てる。
「お前を連れ出すからには責任があるからな。そのくらいの義理は果たすべきだろう」
 そう言ってから俺は、横目で彼女の表情を窺った。
 雛子は神妙な顔をして、真っ直ぐに俺を見ていた。ステンドグラスのランプの光が、彼女の瞳を濡れたように輝かせている。その瞳を柔らかく細めた彼女の表情は、こちらが面食らうほどの好意と感謝に満ちていた。全幅の信頼を感じさせる穏やかな眼差しを向けられ、俺はたやすく狼狽した。
「何だ、そのしおらしい顔は。柄でもない! この間まではわがままばかり言っていたくせに」
 狼狽のあまり、俺は思わず彼女を咎めた。
 それで雛子がはっとしたように唇を結び、先程の表情は消え失せてしまう。そうなるとかえって決まりの悪い思いがして、俺は急いで言い添えた。
「気に障るとは言ってない」
 いっそわがままばかり言ってくれる方がよほど気楽でいい。そんなふうに顔に出されたら、俺の方まで内心が顔に出そうな気がしてならない。俺は彼女のように、全てを詳らかにできるような思いばかり抱いているわけではない。押し隠した思いも、抱くべきではない思いもあるからこそ、面に出ないように心がけているのに。
 だが、今日ばかりは既に何がしかの顔色が表れているのかもしれない。雛子は俺を見て微笑み、この上なく嬉しそうにしていた。
「ありがとうございます、先輩。私、今からすごく旅行が楽しみです」
「そうか」
 唸るように応じた後、俺は雛子がいつまで経っても確かめようとしない、旅行における重要なファクターについて宣告することにした。
「お前が聞かないからあえて俺から言うが、泊まるのは別々の部屋だ」
 俺たちの立場を鑑みればいちいち言うまでもなく当たり前の話なのだが、しかし彼女を安心させる意味でも、少しは気にした方がいいと喚起する意味でも、俺の方から伝えておかなくてはならないだろう。
「えっ、……あ、そうなんですか」
 それを聞いた時、雛子は気の抜けたような反応を示した。そんなことは念頭にもなかった、という態度にも思えたので、俺は呆れた。
「……こういうことを全く気にも留めないお前の神経もどうかしている。先に聞くだろう、普通」
 ここで彼女がどんな顔をしているか、確かめる気には到底なれない。
 少しは気にして欲しいものだ。
 俺がせっかく、彼女を大切に、守ろうと考えるようになったのだから。
 しかし雛子はその点については特に異論を唱えず、納得もしたようだ。そういうところの考え方を見るに、彼女はやはりまだ子供なのだろう。
 ただ旅行を楽しみにしてもらえたことは、俺にとっても幸いだった。何にもないただの田舎町だが、二人で静かに本を読むのも、話をするにも適した環境であると言える。五月に彼女がくれたはがきの一文も、きっと叶えることができるだろう。
 そして俺にとっても、たった一泊ではあるが、初めて彼女を家に帰さずに済む日となる。当たり前の別離を気にしなくてもいい、いつもよりも長く共にいられる日。それは楽しみでもある反面、純粋に楽しみにしていられるよう自分を律することが肝要な時間でもある。

 八月に入るとようやく古書店の整理も終わり、俺たちの雇用期間も無事終了となった。
 店主の船津さんは俺たちに手渡しでバイト代を支払ってくれた。そして別れ際にこんな言葉もくれた。
「じゃあまた来月にでも。暇だったら来いよ、待ってるからな」
 その言葉に関しては、俺も大槻も『学業が忙しいかもしれない』と曖昧な答え方をするに留めた。ここで肯定的な返事をすれば、船津さんはまた三代続く伝統の乱雑さで店を散らかしてしまうかもしれない。俺たちを再び雇うのは緊急手段にして、できれば日頃から整理整頓の概念を大切にして欲しいものである。
 ともかく、俺と大槻はバイト代を手に店を後にした。取り置きの本と差し引きしても、旅費を賄うのに十分な額の金が俺の手元にやってきた。
 だからというだけではないが、
「それじゃバイト代も入ったことだし、打ち上げでもします?」
 大槻のそんな提案にも、何となく乗り気になって応じた。
「たまにはいいか、そういうのも」
「お、いい返事! やっぱ仕事の後は冷たいビールでも飲まないとね!」
 お互い二十歳になっていたので、すんなりと酒を飲むことに決まった。

 もっとも、せっかく入ったバイト代を居酒屋の薄いアルコール飲料で浪費するのも馬鹿馬鹿しい。できるだけ安く上げてやろうと考えた結果、打ち上げ会場は俺の部屋となった。
 近所のスーパーでビールの六缶パックとつまみの材料などを購入し、俺は大槻を連れて自分の部屋へ向かった。
 大槻を部屋に呼ぶのはこれが初めてではなく、互いの部屋を何度か行き来している。だが部屋の趣味においても俺と奴の好みは全く違っており、大槻は俺の部屋に来る度にこの殺風景ぶりをあれこれ言ってくる。
「君の部屋って本当にさっぱりしてるよね。実質、机と本棚とテーブルだけだもんなあ」
 そう語る大槻の部屋は、俺からすればごちゃごちゃしていて息苦しそうに思えた。実質一間の部屋をオーディオ機器に占拠され、奴の寝床は天井すれすれの高さがあるロフトベッドに追いやられている有様だ。目覚めてすぐに見えるのが眼前にある天井というのも窮屈な気がするし、仮に俺がそれをやったら天井に頭をぶつけてばかりいそうだと思うのだが、大槻はロフトベッドこそ大学生っぽくて格好いいと言い張って譲らない。
「つか、君こそ毎日布団敷きってめんどくないの? ベッドの方が楽じゃん」
「その方が部屋が広く取れていい。面倒だと思ったこともないな」
「え、じゃあ、雛子ちゃん来た時はどうしてんの?」
「当然片づけている。出しっ放しなんてみっともない真似ができるか」
 俺の答えを聞いた大槻は釈然としない顔をしていたが、ともかく互いの部屋についての持論は平行線を辿るばかりのようだ。無駄な会話は程々にして、俺たちは打ち上げの支度を始めた。
 台所で枝豆を茹で、冷や奴ときゅうりの酢の物を用意する。その間に大槻がスーパーで見繕った焼き鳥を温め、皿に盛る。全ての品を部屋の座卓に並べると、安価なりに体裁の整った打ち上げ会場が完成した。
「ほらほら、鳴海くんも座って。乾杯するよ!」
 大槻はいち早く座卓の前に腰を下ろすと、缶ビールを一本取って蓋を開けた。炭酸の逃げ出す音が部屋に響く。
 俺は大槻と差し向かいに座り、とりあえず缶を開ける。大槻がそれを見計らって自らの缶を掲げた。
「では、かんぱーい! アルバイトお疲れ様でしたー!」
「……お疲れ様でした」
 酒を飲む前から賑々しい大槻にはついていけそうになかったが、乾杯を済ませると俺も人心地つくことができた。
 このアパートは全ての部屋が埋まっていると聞いている。だが他の住人の気配を感じることはあまりなく、真上の部屋に夜明け頃出入りする人間がいること以外は至って静かだった。同じ一階の隣室はどういう使い方をされているのか、押し込まれているチラシが自然と片づいていることはあるが、人の気配を感じることは年に数度あるかどうかといった具合だった。
 俺の部屋も普段は静かなものだ。俺一人では騒ぎようもないし、雛子が訪ねてきたところで彼女も賑やかにする方ではない。この部屋がうるさくなるのはこうして大槻が来た場合だけで、そうなると俺も珍しく近所迷惑を考え、窓を開けずにエアコンを入れて暑さを凌ぐようにしている。室内は次第に程よい涼しさとなり、今日一日分の汗がゆっくりと引いていくようだった。
 勤労の夏がようやく終わる。次にやってくるのは果たしてどんな夏だろうか。
「とりあえずバイト代も入ったことだし……」
 大槻は早くも軽くなった缶を片手に、にやにやと俺を見る。
「鳴海くんは雛子ちゃんに、何かプレゼントでも買ってあげたらいいんじゃないかな」
「誕生日でもないのにか?」
 俺は奴にペースを乱されないよう、ビールを少しずつ飲む。実は大槻と二人で酒を飲むのは初めてだった。何度か飲もうと誘われていたのだが、お互い二十歳になるまでは駄目だと断り続けてきた。
 他人を交えての飲み会なら何度かあった。俺が所属する文芸サークルの会合になぜか大槻がついてきたことが五、六度あり、その度に大槻はあの無駄な社交性を発揮してサークルに溶け込み、俺が一人で飲み食いする横で先輩がたと肩を組んでどこぞから検閲がかかりそうな歌を歌ったり、くじ引きをしては各々に罰を科せあうという、酔っ払いに刃物を持たせるような危険なゲームを始めたりしていた。普段から陽気な男なので酔ったところでわかりにくいのだが、実は相当酒に強いらしいということも知っていた。
 つまり二人で飲む場合、奴の速いピッチに引きずられないよう注意を払う必要がある。
「わかってないなあ君は。『バイトしてる間、寂しがらせてごめんな』って気持ちをプレゼントで示すんだよ」
 言い切った大槻は、枝豆をまとめて数粒口に放り込む。それを全て飲み込み、また缶を呷ってから続けた。
「大体、雛子ちゃんだって寂しいと思ったから君を店まで訪ねてきたんだろ」
「そんなことはない。あれはただの興味本位だ」
 すかさず俺は答えたが、事実がどうなのかは測りかねるところもあった。
 雛子は俺がいかに連絡不精であろうと、会うのが久々になろうと、俺を責めるような言葉は口にしなかった。時には彼女の方から連絡をくれたり、会いに来ることもあったから、寂しがらせているという意識はまずなかった。
 だが、彼女が俺と同じ気持ちでいたとしたならどうだろう。
 離れがたい、電話を切りたくない、家に帰したくない。そういう気持ちを彼女も同じように持っていたとしたら。その気持ちの延長線上で彼女が俺のアルバイト先を訪ね、更には仕事が終わるまで一人で待っていてくれたのだとしたら。
 だからこそ彼女も、あえて泊まりがけで旅行に行きたいと言っていたのだろうか。
「雛子ちゃんが冷やかしで君を見に来るはずがないよ。わかってるくせに」
 大槻が缶を空にする。俺は席を立ち、奴に新しい缶ビールを持ってきてやる。
 礼を言って受け取った後、開けてすぐさまぐびぐびと飲んだ大槻が、更に言った。
「あの子はもう君にべた惚れだからね。君に会えるとわかったらそりゃ店にだって来てくれるだろ」
「……うるさいな」
 俺は大槻の言葉を否定しきれず、逃げるように横を向いてビールを飲む。
 無論、俺も雛子の好意を知らないわけではない。むしろ知っているからこそ、彼女が寄せてくれるだけの好意に見合う、真っ当な人間でありたいと思っている。
「でもその気持ちにあぐらを掻いてちゃ駄目だね。お詫びにプレゼントでもしてこそスマートな男ってもんだよ」
 知ったふうな口を叩いた大槻に、俺は反論の材料も見つけられない。とりあえず酒を飲み、黙々と冷や奴をつつく。
「んで、この後の夏休みはどうすんの?」
 大槻が焼き鳥に手を伸ばす。男二人の飲み会では、焼き鳥を串から外して皆で食べるという無粋な風潮は存在しない。串ごと取り上げてかぶりついている。
「どっか行くんでしょ、雛子ちゃんと」
「それはいちいちお前に言わなければいけないような話か?」
 苦し紛れに質問を返せば、大槻は焼き鳥の串を咥えたままにやりとする。
「何、俺に言えないくらいやましい話なの?」
「そ……うは言ってない。言う必要があるのかと聞いているまでだ」
「別に俺も無理に聞こうってんじゃないよ。ただどうなのかなあって思ってみただけ」
 そう言っておきながら大槻は、焼き鳥を一本食べ終えた後でぼそりと、
「泊まり?」
 問いかけのような確認のような単語を口にした。
 俺はその意味を一秒で把握したが、もちろん答える必要はないはずだ。黙って残りのビールを飲み干した。
 にもかかわらず大槻は直後、妙に得心したような顔をする。
「やっぱそうか。そうだよねえ。いいなあ羨ましいなあ」
「何を一人で納得している。俺は何も言ってない」
「いや言わなくてもわかりますって。君、図星だと顔に出るからね」
「だ……」
 俺は言葉に詰まった。慌てて言い直す。
「だとしたら、どうだと言うんだ。俺にはやましいところなどない」
「嘘だろ。ってか鳴海くん、缶空いたんじゃない? おかわりしないの?」
「嘘じゃない!」
「はいはいわかったからもう一本持っといでよ。俺は信じてないけどさ」
 首を竦める大槻はまるで聞く耳持たずといった調子だ。
 腹が立った俺はとりあえず台所へ向かい、冷蔵庫からビールを二本取り出す。一本は自分の席に、もう一本はわざと音を立てて大槻の目の前に置いてやった。大槻がびくっとして、俺を恨めしげに見上げる。
「乱暴にすんなよ! ってか俺はまだ頼んでないし!」
「どうせもうじき空くだろう。また取りに行くのも面倒だ」
「顔だけじゃなく態度にも出すよね、君は……」
 ぶつぶつ言いながらも、大槻は二本目の缶を一息に空にする。俺が卓上に置いたばかりの三本目は慎重に、ゆっくりと開けてみせたが、それでも泡が溢れ出てきてあたふたと啜っていた。
 俺も二本目のプルトップに指をかける。酔い始めているなと自分で思う。
 普段ならたった一本のビールで酔うほど弱くはないのだが、疲れているせいだろうか。二本目のビールを喉に流し込む間中、掴みどころのない考えが頭の中に浮かび、消えていく。
「けどさあ、実際そうだろ。男の言う『何にもしないから』なんて、女の子の言う『寝てたからメールできなかったの』と同じくらい信用できないっつうか」
 大槻がべらべらと勝手なことをのたまう。
「まあ、君は案外そういうの、有言実行しちゃうタイプかもしんないけど。普通は泊まりで旅行っつったら、お互いそういうの織り込み済みって思うじゃん」
 馬鹿げた意見だと怒りを覚える一方で、大槻がそう思うのも無理はない、という認識も確かに存在していた。
 俺自身、一時期は雛子に対するそういった衝動を素直に認めていたし、それを表すことが愛情表現の一つになりうるのではないかとも考えていた。
 だがそうするには彼女はまだ幼く、俺は幼い彼女に対し、模範的な先輩であらねばならない。
「そもそも、性欲なんて要らないものだと思わないか」
 俺はふと、その考えを口にした。
 三本目のビールを傾けていた大槻が、こちらに目を剥いてみせた。
「は? 何それ」
「だから」
 言い含めるように繰り返す。
「性欲なんて要らないものだ。そんなものなくても恋愛感情は十分成立する。そう思わないか」
「え……いや、どうなんだろ……」
 授業中にいきなり当てられた生徒みたいに、大槻は首を捻り始める。
「俺は、雛子に対してそうありたい。彼女を精神的に愛し、深く慈しむ人間でありたい。だからやましい気持ちなど持ちたくもない」
 きっぱりと声に出して告げると、その思いは一層強固になったようだった。
 彼女の傍にいられるだけでいい。いつもより長い時間を共に過ごせるだけでいい。そう思い、俺は彼女を旅行に連れ出すのだ。
「いきなり極端なこと言うね」
 大槻はいくらか驚いた様子で、呆れたような笑みを口元に浮かべた。
「極端だろうか。恋愛をするのに性欲は邪魔だと、俺はつくづく思う」
「思うようなこと、あったんだ?」
 奴が挑発的に聞き返してきたが、あえてそれには乗らず、黙って頷く。
 すると大槻は一転して難しげな顔になり、
「ええ……でも、それって、成立しなくない?」
「そんなことはないだろう。相手を守りたいという気持ちも慈しむ気持ちも、傍にありたいという気持ちも全て恋愛感情に違いない」
 元々は、話し相手が欲しいと思っていただけだった。
 雛子は俺のよい話し相手になってくれた上、俺に好意も向けてくれた。自分から俺と話したいと電話をくれることもあれば、わざわざ会いに来てくれることもある。時々は心配もしてくれるし、俺を喜ばせようともしてくれる。逆に、俺の言動に嬉しそうな顔もしてくれる。
 だったら俺も、それだけでいいと思う。
 彼女のことを考え、彼女と話し、彼女の傍にいて幸福を感じる。それだけで十分だと思う。
「いや、それはそうだけどさ……」
 大槻は自分でも何が言いたいのかわからないというように、軽く頭を振ってみせた。
「でも何か、違うんじゃねって思うんだよなあ」
「何がどう違うんだ」
「わかんないけど。君の言いたいこともわかんなくはないんだけど」
 と言ってから、奴はビールをずるずると啜り、その後で力なく呟く。
「強いて言うならさ。俺、多分、性欲抜きで女の子を好きになったことないよ」
「ないのか?」
 今度は俺が目を剥く番だった。
 すると大槻も苦笑して、
「そんな珍しそうにすんなよ! 普通そんなもんだろ!」
 抗議の声を上げてくる。
 だがそうであれば、俺は大槻の言う『普通』には当てはまらないように思うのだ。少なくとも、雛子とあの東高校の文芸部で共に過ごしていた頃は、そういった思いや衝動は微塵もなかった。
 ただ、彼女と話がしたい。そう思っていた。
 それならば、あの頃の気持ちだけを持ち続けていればいいことだ。
「だから俺、君の言うことがそれほどぴんと来ないって言うかさ……」
 大槻は考え考え、続きを語る。
「もっと言うと、そんな恋愛って楽しいの? って思っちゃうけどなあ」
「二人でいれば楽しい。楽しくない相手と一緒にいる必要はないだろう」
「そうだけどさ。そういうことじゃなくって……何て言ったらいいのかな」
 それ以降も大槻は、俺に対する反論を考えていたようだが、結局特に浮かばなかったらしい。ずっと首を捻りながらビールを飲んでいた。
 俺もビールを飲みながら、その後は何となく黙った。これ以上何を言われても自分の考えが変わる気はしなかった。それに、性欲抜きの恋愛をしたことがないという大槻とは、価値観の相違が甚だしいこともわかった。恐らくこの先どれほど意見を戦わせても、平行線を辿るばかりで無意味な議論となるだろう。
 冷蔵庫のビールも残り一本だ。そろそろ、つまみを片づけることに集中すべきかもしれない。
 そう思い、残りの枝豆に手を伸ばした時だった。
「……あ」
 不意に大槻が小さく声を上げた。
 俺が視線を向けると、目が合うなり奴は照れ笑いを浮かべてみせる。
「ちょっと思い出したんだけどさ」
「何をだ」
「さっき『性欲抜きで好きになったことない』っつったけど、そう言や一回だけあったなって」
 大槻の言葉に、俺は俄然興味を持った。場合によれば奴のその話が俺の今後にとっての指針となるかもしれない。思わず尋ねた。
「詳しく聞かせてくれ」
「え、詳しく言うの? 恥ずかしいんですけど」
 奴は及び腰だったが、
「自分から話題に出しておいて何を言う」
 俺が指摘すると肩を竦め、観念したように口を開いた。
「小学生の頃に好きだった子。よく言うところの幼なじみだったんだけどさ、ちっちゃかったからってもあるんだろうけど、確かにそういう気持ちはなかったよ」
 懐かしむような、しかし照れのせいで居心地悪そうでもある口調だった。
「でもあの頃だって性欲とかない分ピュアだったかっつったら、そうでもないよ」
 と、大槻は思いを馳せるように頬杖をつく。
「俺、めっちゃ独占欲強かったもん。その子が他の奴と遊んだりすると嫌な気分になったりさ、自分ではその子のことしょっちゅうからかってたくせに、他の男子がからかってんの見るとむかついて、即喧嘩売りに行ったりさ。別に付き合ってたとかじゃないのにその子のこと、自分のものみたいに思ってたからね」
 高校時代の大槻は想像がつかないが、小学生の大槻はおぼろげにながらも想像できる気がした。
「だから、恋愛なんて結局純粋なもんにはなりえない、って俺は思うんだけどなあ」
 大槻はそこまで言ってから、決まり悪そうに笑んだ。
「まあ、君の持論に対する反証にはなんないね。俺の経験上はそうだった、ってだけだから」
 確かにその通りだろう。大槻の経験もとどのつまり、奴の思想や人格を反映したものばかりだろうし、元々の考え方が違うのならば同じ結論に行き着くはずがない。
 奴には実現できなかったことが、俺にはできるかもしれない。
 惜しむらくは、奴の持論に対して俺もまた、反証の材料を持ち合わせていないことだ。俺の経験は奴から比べれば非常に乏しく、実例に照らし合わせることもできない。
「その子とは、もう付き合いがないのか」
 酔いも手伝ってか、俺はつい、そんなことを大槻に尋ねた。何となく聞いてみたい気分だった。
 大槻はそこで拗ねたような顔をした。
「それ聞いちゃいますか。まあお約束の展開ってやつだよ、あんなに仲良かったのに中学入る頃にはぎくしゃくし始めていつの間にか口も利かなくなって、高校は別になったからどうしてたのか全然知らないし、高校出てからはご近所情報で、県外に進学したって話しか聞いてない」
 そして乾いた笑い声を立てる。
「そんなもんだろ。初恋は得てして上手くいかないもんだって言うじゃん?」
 と、言われた。
 その言葉が、酔いの回った頭の中に深く、鋭く刻み込まれる。
 俺は飲んでいた缶ビールをテーブルに置く。こん、と軽い音が室内に響いた。
「――それは、きちんと証明されている理屈なのか」
 こちらの問いに大槻が面を上げる。訝しそうな表情だった。
「ん? 何が?」
「だから、初恋は上手くいかないものだ、という今の言葉だ」
「え、いや。証明っつうか、よく言うじゃん? 漫画とか、ドラマとかでもさ」
 奴のその答えは到底納得しかねた。俺は重ねて尋ねた。
「つまり俗説ということか? 根拠もないのにお前はそんな説を言い触らしているのか?」
「まあそうだけど……一応、理屈には適ってんじゃん」
「どこがだ。俺には納得がいかない」
「だってさ、何でも経験不足じゃ上手くいかないもんだろ。初恋ってのもそれと同じで――」
「経験のない人間が全てにおいて失敗するというわけではないだろう」
「――え。あの、もしかして……鳴海くん?」
 大槻が顔色を窺うような目を俺に向けてくる。
 俺は不退転の決意を胸に、追及の手を緩めない。
「お前は本当にそんな俗説を信じているのか? そんな乏しい根拠で?」
「い、いやいやいや、そういうことじゃないんだけど! ってかごめん!」
「なぜ謝る。俺はお前の認識を尋ねているだけだ」
「なぜって……ほ、ほら、知らなかったんだよ俺! まさか君がそうだとは」
「俺の事情はどうでもいい。俺はその説を裏づける証となるものを知りたい」
「そんなもんないから! 大丈夫、上手くいく初恋もあるから!」
「ではお前が大丈夫と主張するだけの、確たる論証はあるんだろうな?」
「それもないけど! でも雛子ちゃんとなら大丈夫だと思う! いい子だし!」
 その程度の事実を出されただけでは、やはり証明にはならないだろう。
 初めてのことだから、経験がないから上手くいかないという説には納得できない。そうであっては困る。俺は生まれて初めてで他に経験のないこの事象を叶え、成就させるつもりでいるのだ。何の根拠もない俗説如きに揺るがされてたまるものか。

 結局、俺の追及は大槻が土下座の構えを見せるまで続き、床に擦りつけるほど頭を下げた大槻が、その後で冷やかすように言った。
「君だって、自分の恋愛はハッピーエンドがいいって思ってんだね」
「そんなのは当たり前だ」
 俺は言い切ったが、同時にこうも思った。
 では恋の結末とは、一体どこにあるのだろうか。
 どこまで辿り着いた時に、それは、幸せな結末と呼ばれるようになるのだろう。
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