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嘘はつけない(1)

 海沿いを走る電車に揺られていると、古い記憶が蘇る。
 初めてこの電車に乗った時、俺はまだ小学生だった。
 祖母だった人と会うのが本当に楽しみで、一人旅への不安は何もなかった。隣の席に知らない大人が腰かけてきても怖くなかった。座席の上にある網棚に手が届かなかったから、ランドセルは膝の上に、ドラムバッグは足元に置いていた。手には切符を握り締め、旅の間中一切飲み食いもせず、流れていく車窓の景色をわくわくしながら眺めていた。海沿いの景色はあの町に近づくにつれ寂れていく一方で、打ち捨てられたような古い家々やぼろぼろの船が点在するを見つける度、これから行く町はどんなところだろうと考えた。
 今の俺は、あの港町の景色を知っている。長い線路を辿った先にもやはり寂れた町並みしかなく、そこに暮らす人々が優しいばかりではないことも知っている。あの町で過ごした数年間のうちにできた数々の思い出が、海辺の物寂しい景色に一層の寂寥感を加えているようにも感じられた。
 だが今はもう、隣の席に知らない人間が座ってくることはない。
 俺の隣には雛子が座っている。電車に乗り込んでから、目的地に到着するまでずっとだ。
 隣の席がこうして埋まっていることに俺は不思議な感慨を抱く。あれから長い時が過ぎ、俺はもう子供ではなくなっていた。
 そして憂鬱極まりない過去を塗り替えるような思い出が、この旅の果てに待っているかもしれない。

 もっとも、彼女は彼女でおとなしく座ってはいなかった。口数こそ多くはないのだが、何か言いたげに視線を向けてくるのに辟易していた。
 この旅が始まってからというもの、雛子は事あるごとに俺を見つめてくる。俺が窓側に座っているから、彼女も景色を見たがってこちらを向いているのだと思ったが、そうではないらしい。
「どうした」
 彼女に視線の意味を尋ねてみると、雛子は決まっておかしそうな顔をする。
「いいえ、何も」
 こちらが気づくほどじっと見つめておいて、何もないはずはないだろう。俺は訝しく思うのだが、雛子は笑いを堪えるばかりでその理由を言いたがらない。
 やむを得ず視線を逸らして窓の外を眺める。
 すると数分も経たないうちに、また雛子が俺を注視し始める。頬の辺りに視線を感じるたび、どうにも落ち着かない気分になる。夏の日差しを浴びるよりも熱く感じられてならない。
「何か言いたいことでもあるのか」
 しかし聞けば聞いたで、彼女は子供みたいに双眸を輝かせながら言うのだ。
「いえ、特にありません」
「だったらこっちを見るな」
 そうやって視線を送られたところで、何が言いたいのか伝わるはずもない。言いたいことがあるなら口で言えばいいのに、なぜこんな回りくどいことをするのだろう。
「でも、窓の外を見るにはそちらを向くしかありませんから」
 雛子が澄ました顔で、可愛げのない言い訳をする。今日は紺色のブラウスに、膝が隠れる丈の白いスカートをはいていた。ブラウスの袖はビードロのように丸くふくらんでいて、スカートはさっぱりとした涼しげな素材でできていた。惜しげもなく晒した白い素足が履いているのは洗いたてのスニーカーで、そこだけがかろうじて旅らしい装いだと言えた。
 服装は可愛いのに、言うことは随分と生意気だ。声が心なしか浮かれているようにも聞こえたが、それも状況を思えばやむを得ないのかもしれない。
「勝手にしろ」
 俺は観念して、そのまましばらく彼女からの視線を浴び続けた。居心地悪い思いはあったが、そうやってはしゃいでいる雛子にほんの少し安堵も抱いていた。俺だけが楽しんでいるのでは旅に出た意味がないからだ。
 頭上の網棚には俺と彼女の鞄がそれぞれ載せてある。彼女の鞄は修学旅行用に購入した旅行鞄だが、一泊の旅行とは思えないほどずっしりと重たく、棚に載せるのも難儀した。
 切符は既に財布にしまい、俺と雛子は朝からずっと電車に揺られている。長くなるから好きに過ごせと言っておいたのに、彼女は本も読まず、ひたすら俺ばかり見ている。本よりも面白いと思われているのだろうか。それとも彼女の目に映る俺も、どことなく普段と違っているのだろうか。

 何にせよ、二人の旅は始まっていた。
 電車に乗り込んでしまえばもはや引き返すことはできない。着いてしまってから気が変わっても、簡単に帰ることができる距離でもない。
 しかし雛子のはしゃぐ態度を見ていれば、彼女がこの旅を楽しんでいることは明白だ。電車に乗っただけでこんなにも浮き足立っている様子は滑稽ですらあるが、何もなくてつまらないとふくれっ面をされるよりはずっといい。俺としても、受験生である彼女の息抜きになるような時間を、できる限り作ってやれたらと思う。

 折りしも小腹が空いてきた。
 雛子も今朝は随分と早起きをしたと言っていた。恐らく朝食も早目に取っていたはずだ。
 俺は腕時計を確かめる。現在の時刻は午前十一時を回ったばかりだった。電車が向こうに着くのは昼過ぎだから、ちょうどいいタイミングだろう。
「昼食にするか」
 そう声をかけると、雛子も俺の腕時計を覗き込もうとする。よく見えるように少し傾けてやると、すぐに彼女は頷いた。
「いいですね。着いたらご飯にしましょうか」
「いや、今にしよう」
「今ですか? その、車内ででしょうか?」
 途端、雛子は怪訝な表情を浮かべる。
「そうだ。電車に揺られて食事をするのは、旅の醍醐味の一つだ」
 俺は当たり前のように語ったが、その醍醐味を身をもって知っているわけではなかった。
 小さな頃は飲まず食わずで電車に乗っていた。当時の俺はまだ料理ができなかったし、弁当を作ってくれるような人間もいなかったからだ。少し歳を取ってからは電車の中で食事をする機会も何度かあったが、一人きりでは醍醐味を感じるのも難しく、空虚な思いがするだけだった。
 無論、世の中には一人旅を好む人間もいる。そういう人々の考えを否定するわけではないが、もしこれが俺一人きりの旅だったなら弁当など作ってこなかっただろう。雛子と一緒なら楽しいかもしれないと思ったから、俺だって早起きをしたのだ。
「でも私、何も用意してきていません」
 雛子は今頃思い当たったというように、残念そうな顔をした。前に聞いた話によれば彼女は料理をする機会がまずないそうだが、そう言うからには多少腕を上げたのだろうか。
 俺は黙って立ち上がり、網棚の上に載せていた自分の鞄を下ろした。中にしまっておいた水筒と布包みを取り出し、彼女に告げる。
「おにぎりを作ってきた」
 こちらの言葉に雛子は目を白黒させていた。
「え……あ、あの、先輩がですか?」
「そうだ。他に誰がいる」
 至極当然のことを聞くものだと思いつつ返事をすると、数瞬の間の後、雛子が笑いを噛み殺すような顔をした。
「なぜ笑う」
「い、いえ、すみません。とっても、意外だったもので」
 問い質す俺に雛子はかぶりを振る。だがまだ笑いは収まらないようだ。肩が震えていた。
「やむを得ない措置だと思え。駅から出た辺りは食事をするところもないし」
 俺は話しながら布包みを解く。
 中から今朝握ったばかりのおにぎりが現われる。夏場であることを考慮すれば中の具は梅しかありえない。ちゃんと種も抜いてある。
「かと言って腹を空かせたままお前を連れ回すわけにもいかない」
 本当はもう少し手の込んだものを作りたかったところなのだが、八月に手作り弁当は少々危険が伴う。せっかくの旅行が台無しになるのも困るので止めた。駅弁を買うというのも一つの手段だったが、そうなるとまたどちらが代金を持つかで揉めそうだと思ったので、あえて黙って用意してきた。
 そこでふと、雛子に言っておかなければならないことがあったのを思い出す。
「それに、早めに食べておく必要もある」
 俺の言葉に、雛子が不思議そうな顔をする。俺はその疑問に答える。
「言い忘れていたが、大切なことを先に言っておく。夕食は午後四時だ」
「……四時?」
 間髪入れず聞き返してきたところを見るに、相当早いと思われたのだろう。
 俺もいつも早すぎるのではないかと思っているが、澄江さんは食事の時間も早ければ、床に就くのも非常に早い。
「そうだ。あの家は何でも早いんだ。年寄りの一人暮らしだからな」
 おかげで幼い頃の俺は、長い夜のひとときを毎日一人きりで過ごすことになった。俺が読書を好み、創作に打ち込むようになった土壌はこうして育まれたというわけだ。
 ただ、雛子の興味は夕食の時間の早さより、もっと別の箇所にあったようだ。
「あの、先輩。伺ってもよろしいですか」
 彼女が勢い込んで切り出した言葉に、何を聞かれるのか予想がついた。
 これも言っておかなければならないことなのだろうが、果たしてどう答えていいものか。
「何だ」
 俺が質問を許すと、彼女はすかさず口を開く。
「今日ご厄介になる先輩のご親戚というのは、どういうお方なんでしょうか。もし差し支えなければ教えていただきたいのですが……」
 そこまで言ってから、雛子は急に眉を下げ、
「差し支えるようなら、いいですけど」
 遠慮がちに言い添えた。
 予想通りの問いに俺は短い間黙り込んだ。差し支えるわけではなかった。ただ言いにくく、そして正しく打ち明けるには気が重い話でもある。少なくとも電車に揺られて、これから旅の醍醐味である弁当を食べようという時に聞かせるべき話ではない。
 だからなるべくわかりやすいように答えた。
「祖母だ」
 嘘ではない。
 だが、そう言ってはいけないということも幼い頃に教えられていた。
 俺の簡潔な答えを聞いた雛子は、確かめるように続けた。
「おばあさんですか」
「ああ」
 それ以上は、今は答えられない。
 すぐさま俺は話題を変える為、彼女におにぎりを差し出した。
「食べないのか。もたもたしていると電車が着くぞ」
「は、はい、いただきます」
 雛子は釈然としない顔つきだったが、やはり腹が減っていたのだろう。おにぎりを受け取った後は食べることに集中し始めたようだ。
 彼女は甘い物以外もよく食べる方で、大きめに握っておいたおにぎりを二個、程なくしてぺろりと平らげた。俺は塩加減や具の梅干が口に合うか気になっていたが、彼女は何も聞かないうちから美味しいと言ってくれたし、食後にお茶を飲む顔も実に満足そうだった。
 その顔を時々横目で見ながら、俺も黙って食事を取った。旅の醍醐味とは言うものの、どこにいようと関心があるのはいつもと変わらず、彼女のことばかりだった。

 電車は俺たちを小さな駅へと送り届けた。
 改札を抜けて駅舎を出ると、そこには記憶とさして変わりない街並みが広がっていた。背の低い建物が並ぶ駅前は人通りが全くなく、軒を連ねる土産物屋や食堂はどれも営業しているのかどうかすら怪しい佇まいだった。駅前のロータリーにはタクシーすら停まっておらず、分離帯には青々と繁茂した雑草が強い日差しを浴び続けていた。時折吹きつける海風は潮の香りと共に、砂埃の乾いた匂いも運んでくる。記憶とことごとく合致する寂れた風景は、まるでこの街ごと長らく浜辺に打ち捨てられていたようだった。
「少し歩く。十五分くらいだ」
 昔を思い起こしながら、俺は雛子にそう告げた。そして荷物を持ってやろうと手を差し出す。
 見るからに重そうな鞄を両手で提げた彼女は、俺の手をまじまじと見た。駅の階段を上り下りする時点で息を切らしていたくせに、雛子は俺が何を言わんとしているかわかっていないようだ。
「鞄を寄越せ」
 仕方なくはっきり告げると、途端に慌てたそぶりを見せる。
「いえ、大丈夫です。自分で持てます」
「少し歩くと言ったはずだ。途中で音を上げても知らんぞ」
 ここから澄江さんの家までは距離がある。何せ一度、海の傍まで出なくてはならない。
 俺も昔、自分の手に余るほどの荷物を引きずって歩いたことがある。あの時の辛さを覚えているからこそ、雛子には無理をさせたくなかった。
 にもかかわらず、
「平気です。それに私の鞄なんて持ったら、先輩の方が音を上げてしまいますよ」
 雛子は全く可愛げのないことを言う。それは遠慮なのかもしれないし、もしかすると事実なのかもしれないが、後者ならば尚のこと彼女には持たせられまい。
「いいから鞄を寄越せ」
 俺は再度彼女に手を差し出した。
 すると彼女は少し考えてから、いかにも名案だというように応じた。
「じゃあ、私が先輩の鞄を持ちます」
「そんなことはしなくていい」
「でも」 
「俺の言うことが聞けないのか、お前は」
 真夏の炎天下でする押し問答ほど疎ましいものもない。俺は彼女を説き伏せるのを諦め、強引にその鞄を取り上げた。
 彼女が遠慮したがるのもわかるほど、彼女の鞄はずっしりと重たかった。一泊二日の旅行であることは彼女も当然知っているはずだが、なぜこんなにも荷物が多いのだろう。本や着替えが入っているだけとは思えなかった。
「何が入ってるんだ」
 思わず尋ねた俺に、雛子は恥じらう表情で答える。
「女の子は荷物が多いんです。それはもう、自然の摂理というものです」
 随分と大仰な物言いをするものだ。それならば男には想像も及ばないような代物が、この鞄には詰まっているのだろう。
 俺は中身について考えるのを止め、
「重いなら私が責任持って運びますから」
「重くない。ほら行くぞ」
 往生際悪く食い下がってくる雛子を振り切るように、先に立って歩き出した。

 歩道のない田舎道を、雛子と二人で辿った。
 八月らしく、うんざりするほど暑い日だった。潮風が舞い上げる砂がアスファルトを覆うように広がっていて、靴底の裏でざりざりと音を立てる。民家の前を通る度に騒々しい蝉の声に迎えられ、噴き出す汗が目に入り込んでくるのが忌々しい。
 田舎の町並みには見るべきところもないようで、途中までは雛子もほとんど口を利かなかった。俺も、道の途中で昔通っていた小学校の校舎を見つけたが、今更浸る思い出もなく、黙って通り過ぎるだけだった。
 いくつかの角を曲がり、緩い勾配の下り坂を進んでいくと、やがて景色が一変する。
 背の低い建物すら景色から消え、覆うものがなくなった視界いっぱいに水平線が広がる。海の手前にはコンクリートの岸壁が、海岸線をなぞるようにずっと続いている。その向こう側を満たす海の水は日の光を受けて銀色に輝き、思わず目を眇めたくなる。
 海が見えてきたからだろうか。急に雛子が速度を速め、俺の隣に並んだ。
「先輩、海ですよ!」
 海なんてあの街にもあるだろうに、彼女は声を張り上げた。
 俺は岸壁の手前で足を止め、同じく立ち止まった雛子を窘める。
「はしゃぐな、子供じゃあるまいし」
「無理です! だって、こんなにきれいなのに」
 そう言うが早いか、彼女の目は海に吸い寄せられてしまったようだ。薄く口を開けて、しばらく呆けたように海を眺めていた。
 ここで先を急がせるのも無粋だろう。俺も付き合って、海を眺めておくことにする。
 と言っても、幼い頃よく目にしていた海に目新しさなどあるわけがない。魚の鱗のように輝き波立つ海も、海沿いの干上がったような白い道も、岸壁の連なる先にある小さな漁港も、やはり記憶の中のものと大きな違いはなかった。
 違うのはただ、彼女と共に眺めているということだけだ。
 この町の海をこんなふうに、まるで観光客気分で眺める日がやってくるとは思わなかった。
「とってもきれいです」
 海に見とれる雛子がしみじみと呟く。
 潮風が吹くと彼女の髪は風に踊るようになびき、光る波間にひけをとらないほど輝いて見えた。普段、休みの日には髪を下ろしていることも多いのだが、今日は学校へ行く時と同じように二つに束ねている。その髪が風に弄ばれて肩の上で揺れているのが眩しくて仕方がない。
 そうなると俺も水を差す気にはなれず、彼女の言葉に同意を示しておく。
「そうだな。よく晴れた日でよかった」
「はい」
 雛子は嬉しそうに頷き、その後何を思ったか、俺の腕にぴたりと寄り添おうとした。
 とっさに俺は飛び退いた。
「暑い。近寄るな」
 汗を掻いているので触れられたくなかったのもあるが、何よりも彼女の思い切った行動に驚かされていた。海に行くと開放的な気分になる、と言ったのは誰だったか――それを鵜呑みにする気はないが、それでも一瞬脳裏をかすめるくらいには動揺した。
 そして雛子は俺に咎められたところで拗ねもせず、反省の色ももちろんなく、むしろますます上機嫌になって朗らかな笑い声を立てた。
 それから白い手で海を指差し、あどけない口調で言った。
「先輩、向こうに舟が浮かんでいますよ」
 指差す方向には確かに白いプレジャーボートが、波に揺られてゆっくりと上下しているのが見えた。釣りでもしているのだろうか。
 しかし海にしろボートにしろ、そう珍しいものでもないはずだ。俺は雛子の、好奇心に溢れた横顔を見ながら言った。
「随分と珍しそうな顔をするんだな。海を見たことがないみたいだ」
 すると雛子は微笑んで答える。
「だってここの海と、あの街の海は少し違います」
 海と一口にいっても様々な海がある。大抵の人間は夏の海と聞けば、いつか大槻が語ったような砂浜があって泳げる海を想像するのだろうし、南国のようなエメラルドグリーンの海を思い浮かべる者もいるだろう。
 だがこの町にある海はそういう海とは趣が異なる。岸壁は波に洗われてすっかりくすんだ色をしているし、停泊する漁船はどれも小さく、年季の入ったものばかりだ。海の色にも温かみはなく、日中はいつも波が高く、風のある日は海一面が白波立って見える。
 そういえば、向こうの港の景色は、彼女がくれた絵はがきの写真とよく似ていた。
「気に入ったならよかった」
 俺は深く息をつく。
「連れてきた甲斐があった」
 心底からそう思えた。
 それに雛子がいつになくはしゃいだ様子を見せるので、救われたような気分にもなっていた。ここへ戻ってくれば昔を思い出して憂鬱になるかもしれないと懸念していたが、そういうつまらないものも全て彼女の笑顔一つで雲散していくようだ。
 息をついた俺を、雛子が見上げてくる。今度は控えめな笑顔で申し出てきた。
「鞄、私が持ちますよ」
「大丈夫だ。もうすぐ着く」
 余計な心配はせず、お前はひたすら旅を楽しんでいればいい。
 俺は彼女に食い下がられないよう、さっさと歩き出すことにする。海を眺めるのもいいが、雛子にはまだ見せたいものがある。会わせておきたい人もいる。
 その人はいつかのように、また外で待っていることだろう。夏空の下を長々と待たせるわけにもいかない。
 雛子もまた俺を追い、歩き始めたようだ。近づいてくる声が言った。
「先輩。ここへは、よくいらっしゃるんですか」
 その質問に俺は、振り向かず答える。
「昔、住んでいたことがある」
 彼女が驚くのが気配でわかった。
「そうなんですか?」
「子供の頃の話だ」
 そういう話も、後ですることに決めていた。
 ここまで連れてきたからには嘘はつけない。真実を話さなくてはならない。
 だがその時の憂鬱も、不安も、きっと彼女が取り払ってくれることだろう。
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