古書に埋もれた夏の話(5)
このアルバイトにも慣れてきたつもりでいた。だがすぐ傍に雛子がいるとなると勝手が違ってくる。意識すまいと思ってみても駄目で、どうしても彼女の存在を強く意識してしまう。
雛子は雛子で、ずっと物珍しげにしている。
読書家の彼女が、片づいていない以外は特筆すべきところもない古書店の店構えを珍しがるはずもなく、好奇心に目を輝かせながら窺っているのは俺だ。俺が本棚に本を収めようと手を伸ばした時、あるいはしまうべき本をケースから選別して取り出した時、本の並びを確認して数冊入れ替える時、全ての瞬間を見落とすまいと見つめてくるのがわかる。別に嫌な視線ではないし、彼女自身に俺をからかうようなそぶりはないから、面と向かって咎めにくい。
だが気が散る。集中力が削がれる。同じことを彼女にしてやったらどんな反応をするだろうと思う。大体こんなものの何が面白いのか。これを面白いというなら雛子は相当の、つける薬もないほどの物好きだ。
「じろじろ見るな」
結局、俺は彼女を一瞥して咎めた。
雛子はびくりとしてから、正面の本棚に慌てて手を伸ばした。立ち読みの客を装うつもりなのだろうが、何を思ってか経済学の分厚い本を抜き出して広げ、ふむふむと読み始めたのには危うく吹き出しそうになった。すんでのところで堪えたが、そういう彼女の迂闊さは時々俺を妙に浮ついた気持ちにさせる。
俺でさえそう思うくらいなのだから、きっと誰もが彼女を可愛いと思うことだろう。
「……たくさん売れた後、なんですか?」
結局、経済学の本では夢中になれなかったらしい。雛子が本をしまう俺に尋ねてきた。
「いや、違う。単に棚の入れ替えをしているだけだ」
「なら、在庫チェックをしているんですか」
二度目の質問には首を横に振っておく。
「それもあるが、それ以上に本棚の整理が目的だ。俺たちが来るまで、この店の陳列は酷い有様だった」
俺は彼女が背にしている、まだ手をつけていない本棚を指し示した。俺と大槻でどうにか体裁を整えて背表紙をこちらに向けるようにはしたのだが、それでも雑然とした印象は拭えない。自分を変えて人生を明るくしようと謳う自己啓発本の隣には飾り気のない表紙の自動車工学の専門書が置かれ、芸能人らしい人物の半生を赤裸々に綴ったとされる自伝の隣には爽やかな色鉛筆の画集が置かれ、五十音順でも出版社別でもなく、ジャンルや形式による分類もされていないごった煮の本棚は、犯罪心理学の専門家に見せたなら興味深いプロファイル結果を導き出してくれそうだった。
「こんな惨状では、本に関する問い合わせがあってもろくに探せない」
屈んで棚の下段に本を詰めながら、俺は雛子に事情を話す。
「だからこの度、人づてにバイトを雇ったということらしい。店番ついでに本棚の整理をさせるつもりだったそうだ。それにしたって、もう何十年もこの状態を続けてきたという店主の神経が俺にはわからんが」
少なくとも三代受け継ぐような伝統ではないと俺も思う。船津さんも父親を見習うのではなく、反面教師にすればいいものを、何だって同じ轍を踏もうとするのだろう。
何でも父の背中を追えばいいというものではない。受け継がれた血筋をあえて否定し、逆らう生き方だってあるのではないだろうか。少なくとも俺は、そう思う。
「もう少し経ってからまた訪ねてみたら、きっと見違えているでしょうね」
雛子が本棚を眺めて、明るい声を上げる。
残念ながらその言葉にはかぶりを振るしかない。
「どうだろうな。俺たちがいくら頑張ったところで、整頓された状態が何ヶ月持つか怪しいものだ」
「それなら先輩は、冬休みにも来なくちゃいけなくなりますか」
そう尋ねる彼女の声は心なしか不安げだった。心配してくれているのかもしれない。
「ありえそうで嫌だ」
俺は嬉しさ半分、彼女の言葉まで予言になりそうな予感半分で笑むと、空になったケースを持ち上げた。
「そういうわけだから、お前も読んだ本は所定の位置に戻すように。客として来たんであっても、そのくらいは協力してくれ」
そして彼女に一応注意を促すと、空のケースを提げて次の作業へと向かう。
次に整頓を始めた本棚の前からは彼女の姿は見えなかったが、果たして彼女はあの経済学の本を真面目に読んだのだろうか。それとも早々に、気まずい顔をしながら棚へ戻したのだろうか。一部始終を観察できないのが残念だった。
雛子は実際、俺に比べれば遥かに社交的だ。
彼女を可愛いと思う人間は少なくないだろうし、現に学校では友人も多いようだった。その上、それほど親しくない相手とも楽しげに話してみせる。例えば大槻とはまだ数えるほどしか会っていないはずだが、まるで旧知の間柄のように話をする。
俺が雛子の傍を離れ、作業に没頭している隙に、大槻が店内に戻ってきたようだ。気がつくと俺の耳には二人の会話が聞こえてきた。
「中でも海外の児童文学が特に好きなんです」
どうやら雛子は大槻に、本の好みを尋ねられたらしい。
彼女の答えを聞いた大槻が考え込むように唸る。
「へえ。じゃあ、例えば……トム・ソーヤー的な感じの?」
「あ、そうですね。その辺りだと赤毛のアンとか、あしながおじさんなんかが好きです」
「なるほど、何かちょっとわかってきた」
何がわかってきたのか怪しいが、ともあれ大槻は雛子をどこかの本棚へ案内したようだ。恐らくは彼女が申告した通りの海外文学の棚だろう。そちらに年季の入った児童向けの文学全集を並べておいたのを覚えていたからわかった。
しかしその文学全集に載っているような有名どころの話は、あの雛子なら既に読了済みだろう。彼女は読書家である上、読むのもなかなか速いと来ている。学校の図書室にありそうな文学全集など全て読破していると考えるのが自然だ。
案内した大槻が本を勧め、雛子がそれを手に取ろうとしたやり取りまで聞こえてきた。
「重たい?」
「……すみません、ちょっとだけ」
「謝ることないよ。むしろごめんね、こんだけ分厚いと女の子にはきついよね」
狭い店内ではどこで会話をしようとその一切が筒抜けだ。作業の妨げになる。大槻は普段からうるさいが、女の前だと輪をかけてうるさいように思う。大体、今日やるはずだった外の本棚はどうした。たったあれだけの時間で全て終わったとは到底思えない。
「雛子ちゃんはこう、いかにも文学少女って感じするもんな」
そのうるさい大槻が本とは全く関係のないことを口走る。
雛子がまるで楽しげに、声を立てて笑う。
「見た目でわかる感じですか?」
「うん、いい意味でね。日陰で読書をするのが似合うような、可憐なお嬢さんのイメージ」
「そんな、誉めすぎですよ」
彼女の社交性はこういう時に厄介で、見え透いた誉め言葉すら喜んでいるように聞こえるから困る。いや、雛子なら実際に喜んでいるのかもしれない。そして大槻もそういう歯の浮くような台詞は割と本気で口にするような性格だ。
そもそも今の会話は何だ。彼女好みの本を紹介していたんじゃなかったのか。本の話を離れて余計なことを話し始める大槻には苛立ちを覚えたし、雛子も雛子で適当にあしらえばいいものをなぜ真面目に相手をするのか。
本のことなら活字嫌いを自称する大槻より、俺に聞くのが手っ取り早いというのに。俺なら雛子の読書遍歴も知っているし、彼女が本を選ぶ際の趣味も熟知しているし、自信を持って何冊か薦められる。現にそういった、彼女が楽しんで読めそうな本をこの店でも見つけており、取り置きもしておいたのだ。俺の部屋に置いておけば彼女も喜んでくれるだろうと思って――。
「そりゃこんな可愛い子がバイト先に訪ねてきたら、彼氏も仕事に集中できなくなっちゃうよね」
狭い店内のどこかから、本棚を数架隔ててもなお明瞭に、大槻の声が聞こえてきた。
「今も、こっちの会話に聞き耳立ててたりしてね。俺たちが仲良くしてると気が気じゃないだろうし」
俺の神経を意図的に逆撫でしていく、実にあてつけがましい言葉だった。
もちろん、こちらも黙ってはいられない。集中力の著しい低下は否定できないところだが、俺はそれでも手を止めずに働いている。大槻みたいに女の前ではしゃいでいるだけの人間にあれこれ言われたくはない。
「いいから仕事しろ、大槻」
俺が反撃すると、大槻はぬけぬけと聞き返してきた。
「あ、やっぱ聞き耳立ててた?」
「立てるまでもなく筒抜けだ。少しは真面目にやれ」
そう告げてから俺は、店頭の本棚の作業がどこまで進んだか、奴に尋ねようとした。
だが、それより早く奴が言う。
「今、ちょうど可愛いお客さんの接客中だったんだよ。しょうがないだろ」
どうやら、雛子の存在に集中力を削がれているのは俺だけではないらしい。
そういうことなら話は早い。大槻の仕事に遅れが出ては困るから、俺は名乗り出てやった。
「……なら、俺が代わってやる」
告げるなり俺はレジ台の下に保管しておいた、取り置きの文庫本を数冊取り出す。本来なら俺の部屋に置いておこうと思っていた品だが、今日の雛子は客として来たということだし、気に入れば買ってもらうのもいいだろう。どれも一冊百円の文庫本だ、彼女の財布の負担にもなるまい。
その文庫本を携え、俺は大槻と雛子の声がしていた本棚を目指す。俺が現れたことにか、あるいは先の俺の発言になのか、二人とも驚いた顔をしていたが、俺は構わず雛子に声をかけた。
「お前の好きそうな本をあらかじめ選んでおいた」
「え……」
雛子が戸惑いがちに、俺と俺から差し出された本を見比べる。
その隣にいた大槻が、我に返ったようににやにや笑いを浮かべた。
「何それ。『俺の方が彼女の好みの本を知ってるんだぜ』アピール?」
いちいちうるさい奴だ。俺は怒りと同時に、的確な指摘を受けたことによる気恥ずかしさも覚えたが、ここまで来て後には引けない。大槻は無視して、雛子に尚も告げた。
「それを全部買えというわけじゃないからな。気に入ったのがあったら、暇潰し用に買っていけ」
雛子はまだ戸惑いながらも、俺から文庫本を全て受け取った。
「わかりました。じゃあ……」
と言って、夢でも見ているような顔つきで本の表紙に視線を落とす。
そのタイミングで俺は、次の指示を彼女に言い渡す。
「そして買ったら店を出て、この通りの五軒先にある喫茶店へ行け」
アルバイトの初日に、大槻と立ち寄った古めかしい喫茶店だ。あの店なら涼しいし、メニューには紅茶も種類豊富に用意されていた。待ち合わせをする少しの間、読書に耽るのにもいい環境だろう。
「あと一時間ほどでバイトも終わる。それまで待っていられるな、雛子」
俺の言葉を聞く雛子の頬に、その時、赤みが差したようだった。
全てを理解した様子で彼女は、ぎくしゃくと頷く。
「は……はい、今日は、まだ平気です」
それならよかった。俺も彼女に頷き返した。
「俺も終わったらすぐに行く。その為にもお前は、早めに買い物を済ませてくれ」
邪念などと称されるのは心外だが、雛子がここにいると仕事が捗らないのも事実だった。それが俺の個人的な感情によるものだったとしてもだ。
だが、せっかく来てくれたのにという気持ちもなくはない。むしろせっかく来たのに大槻とばかり話しているというのも癇に障る。俺だって少しは、話がしたい。会わない間はさして気にならないのに、いざ会ってみると、彼女の声を聞くと、不思議なくらい離れがたくなる。
それに彼女が待っていてくれると思えば、いい気分で仕事ができそうに思える。
結局、雛子は俺が薦めた本を三冊も購入してくれた。
彼女が店を出てから一時間もしないうち、店主の船津さんが店に戻ってきて、俺たちの今日の勤務時間は無事終了した。
待ち合わせをしているからと急いで帰り支度をする俺に、大槻がしつこく絡んできた。
「鳴海くん、俺もついてっていい?」
「ふざけたことを言うな。断る」
「じゃあ離れたテーブルから見守ってるだけにするからさ」
「それも断る。お前が同じ店にいるというだけで鬱陶しい」
奴があまりにもしつこくしつこくついてきたがろうとするので、俺はきっぱりと言ってやることにした。
「いいか大槻。お前は雛子と随分長々話し込んでいたようだが、俺はまだあまり話ができてない」
「え、長々ってほどじゃ……まあいいけど」
「だからこれからは俺があいつと話をする。誰にも邪魔はされたくない。わかるな?」
俺がそう言い放つと、大槻は目を瞬かせてから、へえ、という顔をする。
「君も言う時は、意外とはっきり言っちゃうんだね。そういうことなら邪魔はしないよ」
そして、言ってしまった後で面映くなる俺に対し、不思議そうに尋ねてきた。
「でもそこまで言うんなら、尚更まめに連絡すればいいんじゃないの?」
その点については誰にも正直に言えそうな気がしないので、俺は黙っていることしかできなかった。
例の喫茶店には、昭和時代から時が止まっているようなレトロな雰囲気が漂っている。
入り口のドアを開けると金色のベルが鳴り、仄暗い店内を照らすのはステンドグラスのランプだ。床は細かな色とりどりのタイル張りで、カウンターやテーブルは煮詰めたような重厚な色合いの木でできている。テーブル席の椅子は全て小豆色の一人掛けソファーとなっており、その一つに雛子が座っていた。
袖のない水色のワンピースを着た彼女は、姿勢よく文庫本を読み耽っていた。俺よりも背が低いのは言うまでもないことだが、この店に漂う古めかしい空気が、彼女をより一層小さく見せているようにも思えた。店内の他の客は二、三人で、皆が俺よりも遥かに年配だったが、その誰もが雛子の存在を気にするようにちらちらと視線を送っている。おそらくこういう店に一人で立ち入るような少女には見えなかったのだろう。
俺は真っ直ぐに彼女がいるテーブルへ近づき、差し向かいの席に腰を下ろした。雛子が顔を上げたのと同時に店員が近づいてきたので、アイスコーヒーを注文した。店員が静かに立ち去ってから、俺は雛子に尋ねた。
「待たせたか」
「いいえ、本を読んでいましたから気になりません」
嘘でもなく、彼女は微笑んだ。それから店内でこつこつと時を刻んでいる振り子時計に目をやって、現在の時刻を確かめたようだ。既に午後四時になろうとしているところだった。予定よりも遅れたのは無論、大槻のせいだ。
俺は大槻に絡まれたことを零した後、改めてテーブルの上を見た。先に来ていた彼女は案の定アイスティーを頼んでいて、水滴をまとったグラスの内側はオレンジがかった紅茶がまだ半分近く残っており、浮かべた氷は角が取れ、溶けかかっていた。卓上には彼女が先程購入した文庫本が三冊とも置かれていて、それぞれにリボンを結んだしおりが挟んである。
「読んだか」
「はい」
俺の問いに雛子は頷く。それから嬉しそうな顔をして続けた。
「ありがとうございます、先輩。先輩の見立ては完璧でした。私好みの本ばかりです」
「それはよかったな」
こちらとしても喜んでもらえたなら幸いだ。俺が買っておいてやってもよかったのだろうが、アルバイトに時間を割いてこんな安物を贈ったのではさすがに失礼かもしれない。
「先輩が私の嗜好を知っていてくれたこと、とっても嬉しいです」
雛子は感激した様子でそう言った。
だがその割に、しばらくしてから彼女の唇には喜びや幸せとは違う笑みが浮かんだ。込み上げてくるのを堪えられないというふうに笑うものだから、俺は奇妙に思う。
「なぜ笑う」
「す、すみません。違うんです、これは」
彼女が笑いながらもあたふたと弁解を始めたので、俺も彼女の笑いの意味を察した。
もしかすると雛子は、先程の古書店でのやり取りを思い出して笑っているのだろうか。せっかく俺が接客を代わってやろうとしたのに、大槻が余計な口を挟んできた、あの時のことを。
「別に、おかしなアピールのつもりはなかった。それに俺がお前の好みを知っているのは当然だろう。そんなのは、大体、他人に自慢できるようなものでもないし、あいつの言うようなつもりなど毛頭ない」
今度は俺が弁解をする番だった。
しかしいくら言葉を重ねたところで大槻の指摘は真実のようなものだし、雛子は一度表面化した笑いをどうにか引っ込めようと必死になっているようだし、もはや取り繕うのは不可能だった。俺にできることはせいぜい、ここにはいない人間を恨みがましく思うことくらいだ。
「大槻め、全く余計なことを……!」
今頃あいつがくしゃみでもしていればいいと思うのだが、したところであいつは俺たちに噂されていることなど気にも留めないだろう。
「雛子ももう笑うな、こっちがいたたまれない」
「すみません。どうにか、落ち着きました」
俺の頼みに雛子は笑いを収めようと努めてくれた。
そこでちょうど注文したコーヒーが運ばれてきたので、お互いに落ち着きを取り戻すことができた。
「しかし、お前の好みというのもなかなか理解しがたいな」
仕切り直すべく、俺は雛子が読んでいた文庫本の一冊を手に取る。
彼女好みの幸せな結末が用意されたその物語には、俺が好むような無常観、人生の儚さといったものはあまり詳しく描かれていなかった。だからこそ俺はこの本を雛子の為に取っておいたのだ。自分で改めて読む為ではなかった。
「こういう話を読んで、都合がよすぎると思うことはないのか? 世の中、そんなにいいことばかりあるわけではないと俺は思うが」
疑問を呈した俺に、雛子はためらわず答える。
「物語の中くらいは、都合がよすぎたっていいと思います。つくりものですから」
それは今日、大槻が言っていたことと実によく似ていた。『全てが丸く収まるくらいがいい』と言っていた。
だが人生において全てが丸く収まることなどありえない。間の悪い不幸も全てを台無しにする失敗も、思い描いたところで叶えられない望みも、どれもが現実に存在するものだ。
「つくりものであっても、物語の中に描かれるのは人生だ。それはただ一人、その人生を割り当てられた当人だけのものであるべきだ。だというのに、ご都合主義というやつはその人生に誰か他者の意思が介入したように思わせるから、俺は好きではない」
幸せな結末が悪いのではない。幸せな結末を誰かに強制されたような物語が好きではないだけだ。言わば神の実在を考えたくなるような物語には、俺は魅力を感じない。
だがそういった物語に惹かれる人間も少なからずいるのだ。神様が本当に存在する世界。ありとあらゆる不幸を寄せつけず、あるいは防ぐことができるかもしれない世界の物語。
「先輩も、物語の中に人生を描こうとしているんですね」
雛子がふと、俺に尋ねてきた。
「そうだな」
「その考え方はとても素敵ですね」
「どこが。当たり前のことを言ったまでだ」
俺が書きたいのは、俺がこれまでに見て、感じてきたこの世界の話だ。神様は恐らくいない世界。願い事は願うだけでは叶わず、自らで叶えるしかない世界。だがそうまでしても時として抗いがたい苦難や不幸が訪れ、全ての努力を無に帰してしまうような、当たり前の物語。
そういう世界に生きる、俺ではない人間の人生を描いてみたいと思っていた。
俺ではない人間がこの世界でどう生きるのか、考えを巡らせてみることがよくあった。
「この世が、自分だけのものではないと気づいた時のことを覚えているか」
ふと、俺は雛子に尋ねた。
目の前に座る雛子が、光る銀のフレームの中で瞬きをした。店の照明は温かな色味をしており、彼女の丸みを帯びた肩や柔らかそうな二の腕を、光沢を帯びた真珠のように照らし出していた。
「えっ、自分だけのもの……ですか。そもそもそんなふうに思ったことがないような……」
思い出すようなそぶりをしながらも、彼女の言葉はたどたどしい。
「多かれ少なかれ誰にでもあるはずだ。幼少期の、他者認識の過程でだ」
「ええと……」
恐らく雛子はそういうふうに考えたことがなかったのだろう。考える必要もなかったのかもしれない。
「この世界は自分の為のものではなく、自分の思う通りには動かない。自分以外の人間もただの書き割りではなく、各々が独立した思考を有している。当然、自分の思い通りにはならないし、逆も然りだ。誰もがそれを、成長する過程で知り、身をもって学ぶ」
今更語るまでもない、ごく当たり前のことだ。
だが俺には、いや、俺にもそれがわからない時期があった。そしてそれを俺に教えてくれるような人は、あいにく誰もいなかった。
「俺はそれを、本から学んだ」
本当なら、普通の子供なら、もっと別の形で教わるのだろう。
生まれた時から傍にいてくれる誰かが、ちゃんと教えてくれるのだろう。
「人それぞれに違う人生があることを、本を読み、その物語から学んだ」
だが俺は知る由もなかった。子供の頃は自分が酷い扱いを受ける度、どうしてなのか不思議で仕方がなかった。
本の世界に描かれた様々な人生のありようを見て、ようやく、それがわかった。
「それからだ。俺のものではない、誰かの人生を形にしてみたいと思うようになったのは」
自らの人生について考えることが、そのまま誰かの人生を夢想することにもなった。
この世界を、俺ではない人間はどう生き抜いていくのだろう。そんなことを、よく考えた。
「どうして、形にしてみたいと思ったんですか」
ふと、雛子が口を開いた。
気がつくと彼女はテーブルから身を乗り出すようにしていて、俺の話に興味を示してくれているようだった。
だが彼女のそんな態度は俺を我に返らせた。期せずして、余計な話までべらべらと打ち明けてしまったようだ。
雛子と話がしたいとは思っていた。だがこんなことまで話すつもりはなかったのだ。ようやく落ち着いて話せたことでガードが緩んでいたのだろうか。それとも、真夏の暑さのせいだろうか。
「大した理由はない。お前はどうなんだ、雛子」
逃げを打つように俺が聞き返すと、彼女はあどけない表情で小首を傾げる。
「私ですか? 私は……文芸部に入って初めて、書いてみようと思ったくらいです」
彼女が創作よりも読書を好んでいることは以前から知っていた。
文芸部に入ったのも、元々は好きなだけ読書ができそうだと思ったからだった、という話も聞いていた。
「でも、拙いながらも続けてくることができたのは、先輩がいたからだと思います。先輩に読んでもらえて、先輩の書いたものを読ませてもらえる機会があったから……理由は本当に、その程度です」
雛子は恥じ入るように睫毛を伏せた後、俺を見て控えめな微笑を浮かべた。
あの頃、文芸部にいた頃と変わらない表情だ。俺の話を聞く時、いつも彼女はそういう笑い方をする。作り笑いともまた違う、微笑みながら何か思いを巡らせているような顔つきだった。
俺は彼女のそういう顔を、印象深いと思っていた。嬉しそうな顔も心細そうな顔も、気の強さを覗かせる顔も全て悪くはないのだが、一番彼女らしいと思う表情はこの、控えめな笑い方だと思う。
そして俺は頷き、俺の話に耳を傾けてくれる彼女に告げる。
「俺も似たようなものだ。誰かに、話を聞いてもらいたいと思った。話せないのならせめて、誰かに読んでもらいたいと思った。本当に、それだけだ」
今は、俺の話を聞いてくれる相手がいる。すぐ傍に、目の前に。
だが彼女はずっと傍にいてくれるわけではなく、この時間もいつかは終わってしまう。電話をかけて話をしても、いつかは切らなければならない。そういう当たり前の別離を苦痛に思うほど、俺は彼女を――。
その時、俺の思考に割り込むかの如く、店の振り子時計が大きな音を立てた。
四度鳴り響いて、午後四時を知らせた。
当たり前の別離の時間が近づいてきたことを、いやでも意識しなくてはならない。俺は苦痛をやり過ごす為、こっそりと息をついた。
それから残りわずかな時間のうちで、話しておかねばならないことを考える。