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古書に埋もれた夏の話(2)

 その古書店の店構えは、近くで見るといよいよ貧相だった。
 年季の入ったモルタルの看板は全体的に薄汚れていて、あまり手入れをされていない様子が窺えた。表側は戸も含めて全てガラス張りだったが、そのガラスも夏の砂埃にすっかり煤けてしまっている。おかげで中の様子は開放された戸を覗かなければ窺えないようだった。
 路上に放置されたスチール棚には、これが商品の扱いかと思うほど無造作に本が詰め込まれている。背表紙がきちんとこちらを向いているものはごくわずかで、あとはてんでばらばらに差し込まれていたり横倒しのまま重ねてあったりと、眉を顰めたくなるような管理体制だった。
「図書館の匂いがする」
 大槻がぼやいた通り、近づくにつれ古い紙とインクの匂いが感じられるようになった。
 本の乱雑な扱いは気に入らないが、俺はこの店に漂う匂いは好きだ。真新しい本からは生まれない、重厚な時を経て熟成された本の匂いは、その本がくぐり抜けてきた時間の匂いでもあると思う。ただその匂いは真夏の気温によって何倍にも凝縮されており、特に読書家でもない大槻がぼやくのも無理はないという気もした。

 開け放たれたガラス戸の前に並んで立ち、まずは中を覗き込もうとした時だ。
 夏の日光に灼かれた目では捉えきれない暗がりの向こうで、白っぽい服を着た二人分の影が動いた。
 あ、と思う間もなくその影はこちらへ飛び出してきて、俺たちはすかさず戸口を離れた。そうしなければぶつかりそうな勢いだった。
「それ、全部取っといて。小遣い入ったらまた来るから!」
 変声期前の少年と思しき甲高い声が響いた直後、声の主らしい少年が店の外に現れた。
 白いTシャツに膝丈のズボンをはいた、一見これといって特徴のない少年だった。高校生くらいに見えたが、あどけなさの残る顔立ちから、雛子より年下のようにも見えた。
 彼は俺たちに気づくと一瞬驚いた顔をし、それからひょいと頭を下げた。軽い足取りで俺たちの前をすり抜け、停めてあった自転車の鍵を外し始める。
「待って、有島くん!」
 続いてもう一人、店から出てきたのは髪の短い少女だった。コスモスの茎のように華奢な娘で、裾のひらひらした白いワンピースをまとっていた。爪先が丸く底の分厚い、見るからに走りにくそうな靴のせいで転びそうになりながらも少年を追う。
 既に自転車の鍵を開錠し終えた少年が、彼女を出迎えて苦笑を浮かべた。
「そんなに急がなくていいよ、置いてかないから」
「嘘、今のは置いてきそうな勢いだったよ」
「気のせいだって。さ、冷たいもんでも食べて帰るぞ」
「もう……。じゃあ私、パフェがいいな」
 二人は仲睦まじい会話を交わしながら、自転車を押しながら店の前を離れていく。俺の隣では大槻があからさまに羨ましげな視線を送っている。俺も何となく、唐突に、雛子は今頃どうしているかと考えた。
 こちらの内心が聞こえたわけではないだろうが、ふと、自転車を押す少年の方がこちらを振り返った。
 真夏の逆光の中でかろうじて見えたのは、その少年が俺たちを見て浮かべた、どういうわけか訝しそうな顔つきだった。
 彼はほんの数秒間だけ俺たちの方を見ていたが、特に何か反応するでもなく、その後は少女と二人、静かなアーケード街の向こうへ遠ざかっていった。
「知り合い?」
 二人の姿が見えなくなってから、大槻が俺に尋ねた。
 俺はむしろ大槻の知り合いだと思っていたから、すぐにかぶりを振った。
「いいや。お前の後輩じゃないのか」
「チャリの後ろに東のステッカー貼ってたよ。君の後輩だろ」
 大槻は俺より目敏いようだ。全く気がつかなかった。
 だがどちらにしても、俺にあの二人についての心当たりはなかった。二人とも雛子よりも年下に見えたから、恐らく接点のない後輩だろう。向こうが俺を知っている、もしくは見覚えがある可能性もなくはないのだろうが、だからどうしたとも思う。東高校在学中に流れた数々の悪評を思えば、顔も知らない後輩に悪印象を持たれていてもやむを得ないだろう。
「ってか、高坊のくせに彼女連れかよ。そんな暇あったら宿題しろよ、宿題」
 忌々しげに大槻が呟いたが、それは誰がどう聞いてもただの僻みとしか思わない内容だった。
 もっとも、俺がその点を指摘したところで薮蛇になるのはわかりきっている。あえてそれには触れず、話題を変えることにした。
「そろそろ約束の時間だ。中へ入ろう」
 俺が促すと、大槻は不満そうにしながらも頷き、戸口から店内に声をかけた。
「ごめんくださーい」
 よく通る大槻の声が店内に響くと、空気の澱んだ店内で、誰かが軋む椅子から立ち上がった音がした。
 次いで、どさどさと何か――恐らく、何らかの理由で積んであった本が崩れたような物音がして、ひい、と微かな悲鳴も漏れた。しばらくの間、本が崩れる音とそれをどかそうとする必死の物音が続いていたが、やがて気の抜けた声が聞こえてきた。
「はあい。ちょっと待って!」
 男の声だった。
 ただし、思いのほか若い。
「うわ、外れたか……」
 大槻が小声で言って額を押さえる。
 その間に店内からずるずるとサンダルを引きずる音が聞こえてきたかと思うと、暗がりから湧き出るように若い男が現れた。
 見るからに冴えない顔つきの男だった。瞳にも面立ちにも鋭さがまるでなく、髪はぼさぼさで根元から十センチまでは黒、そこから毛先までの数センチは眩いまでの金色という二層構造の髪色をしていた。笑みを浮かべた口の周りにはだらしのない無精ひげが生えている。声から予想できた通り顔つきは非常に若く、下手をすれば俺たちとそう変わりないようにさえ映った。タンクトップの上からエプロンを身に着け、ビーチサンダルを履いたその男は、俺たちを見ると気だるそうに尋ねた。
「あ、もしかして仙人の言ってた連中って、お前ら?」
「……そうです」
 予想が外れたことにも、思ったより若い男が現れたことにも、その男が教授を『仙人』と呼んだことにも驚きつつ、俺は答えた。そして大槻と共に名前を名乗ると、男はほっとしたように笑んだ。
「ああよかった。本が溜まりに溜まっちゃって、もう自由に身動きも取れない有様だったんだよ。よろしく頼むな、学生さん」
 それは、見ればわかった。ようやく薄闇に慣れてきた目が捉えた店内は、確かに身動きのとりにくい状態にあった。
 棚という棚に本が詰め込まれているのは当然のことだが、本を溜め込みすぎてとうとう棚が足りなくなったと見え、高い棚の上にも床の上にも、はたまた店内の一番奥にある古めかしいレジスターの脇にも本の山脈が連なっていた。それは二階であれば床が抜けても何ら不思議ではない量であり、戸口に面した棚から一つ奥を覗けば、足の踏み場もないほどありとあらゆる本が詰み上げられて、もはや壁際の棚には近寄るのも難しいという有様だった。中には持ち込まれた時のままなのか、まるで罪人のように紐できつく縛り上げた状態で放置された本たちもあり、これから俺と大槻が立ち向かわなくてはならないものの手強さをひしひしと感じさせた。
「鳴海くん、俺、今気づいたんだけどさあ」
 上機嫌の店主が俺たちを店内に案内しようと引っ込んだ隙に、大槻が俺に囁いた。
「ここのバイトってもしかして、純粋な肉体労働だったりする?」
「そのようだな」
 時給千円の仕事がそう簡単なわけがない。
 俺たちはそのことを、もう少し覚悟しておくべきだったかもしれない。

 店内に俺たちを招き入れると、若い店主は自己紹介を始めた。
「仙人から聞いてるだろうけど、俺が店長の船津。あのじいさんの元教え子だから、お前らの先輩ってことになるのかな」
 若くして駅前の一等地に店を持っている理由は、単に父親から店を譲り受けただけということらしい。その父親も祖父から店を受け継いだのだそうで、船津さんは三代目ということになる。もっともご本人は当初店を継ぐ気などなかったらしく、大学卒業後は一年間だけ会社勤めをし、それからは数年間フリーターとしての日々を謳歌していたと語った。
「俺は結構自由気ままに暮らしてたんだけどな。どうも親父が将来を悲観したみたいで、店をやるよう急に言われたんだよ」
 船津さんは波間に浮かぶくらげのような雰囲気の人物だった。愛想はいいが頼りなげで掴みどころがなく、態度も口調もふらふらして見える。
「あまりに急だったんで、最近まで本のこともよくわからなかったんだけどな。まあこの頃ちょっとわかってきたって言うか」
 と言って、レジ前に積んでいた数冊の本を手に取る。
「例えばこれ。さっき来てったうちの常連が取り置きしてる本なんだけど」
 一見して単行本に文庫本、それにやや古びたムック本という統一感のない組み合わせだった。しかし本の内容はある方向性で一貫しているようだ。表紙や帯からはこんなキーワードが読み取れた――『ディーンドライブ』『ロズウェル事件』『地底文明アルザル』『未確認動物UMA』などなど。
「……何これ。オカルトマニアのお客さん?」
 大槻がいち早く反応して声を上げると、船津さんは笑いながら頷いた。
「そう。その子、こういうの好きなんだと。うちで仕入れるたびに喜んでくれんだよ」
 その子、と呼ばれるからには若い客なのだろうか。先程も高校生らしき二人組が来ていたようだし、店主の年齢と比例して客層も若い店なのかもしれない。
「最初はこっちも楽して儲けられる客ができた、くらいに思ってたけどな。そいつに喜んでもらえんのがだんだん嬉しくなってきて、最近じゃ仕入れる時『これなら喜んでもらえるかな』とか、『これはまだ持ってないんじゃないかな』なんて考えるようになってきてな。いわゆる、勤労の喜びってやつだ」
 かくして船津さんは古書店経営の面白さに目覚め、同時に上客をちらほら確保できるようにもなったそうだが、仕入れに関してはまだまだ経験不足なせいか勘が外れることも多々あるらしい。
 そうして勘を外し、常連客に見向きもされなかった本が溜まりに溜まり、現在では店の敷地を占領してついに居住区域にまで侵食し始めた為、船津さんは思い切って学生バイトを雇うことにしたそうだ。恩師に当たる教授に頼んだのは、船津さん自身が求人情報誌やハローワークといった就職活動にまつわる事柄に何らかの苦い思い出があるかららしい。饒舌な船津さんもその件に関しては語りたがらず、俺も大槻も聞きたいとは思わなかったのでそれ以上は深入りしなかった。
 俺たちに与えられた仕事は『商品管理』と一言で総括するにはあまりにも過酷な重労働だった。まず店内を我が物顔で占領する古本たちを店の奥へと運ぶ。店の奥はそのまま住居となっていて、本の整理にあたっては居間や台所、階段まで自由に使っていいと船津さんは言ってくれた。当初俺はその言葉を下手な冗談だろうと思っていたが、直に冗談などではなく、本気で階段や二階のスペースまで借りなければ足りないという事実を思い知る羽目になった。
 結局、アルバイト初日の労働は店の床を埋め尽くした本を居住区域に運び出し、その十分の一にも満たない量をどうにかリストにまとめる程度で終わってしまった。片づくどころか住居の方はかえって散らかったように思えたが、平謝りの俺たちをよそに船津さんは嬉しそうだった。
「店の床が全部空いたのなんて何ヶ月ぶりだろうな。ありがとな、これでいつ親父が店に来ても叱られないで済むよ」
 初日の帰り道、大槻は『賭けに負けたから』と俺にコーヒーを奢ってくれた。古書店と同じ商店街にある古めかしい喫茶店で冷たいコーヒーを飲みながら、俺たちは一日の出来事にとりとめもなく思いを馳せた。
「ぼんぼんにだけ許される生き方ってやつだよなあ、あれって」
 大槻は船津さんについてそう評した。その口調が羨ましげだったので、俺は返答に迷って目を逸らす。
「恵まれている環境には違いないだろうな」
「だよね。けど、ああなりたいかっつったらそうでもないって言うか……」
 溜息をついて大槻は呟く。
「俺、就活頑張ろうって気になったよ。俺じゃあドロップアウトしても店任せてくれる相手、いないもん」
 ある意味、船津さんは大学二年の俺たちにとって、非常に身につまされる存在だったとも言える。
 俺もまた大槻の言葉に頷き、間もなく訪れる就職活動の荒波を乗り越えてみせようと決意を新たにした。

 しかし当面は、目の前にそびえ立つ古書の山並みが最重要課題であり――。
 翌日から俺たちはその山脈に挑み、二日目から早くも顕現した筋肉痛、七月の蒸し暑さ、そして気が遠くなるような分量の本と戦いながらアルバイトに励んだ。
 ここの店主は本を仕入れる際に、あらかじめ分類したり、本の種類について記録をつけておいたりということを怠ってきたらしい。おかげで一つの山に多種多様なジャンル、形式、出版社の本が混在しており、一つ一つを確認してリストにするのも非常に骨が折れる作業だった。ひとまずはNDCに則ってリスト化した後、店の棚に並べる本と在庫として置いておく本、他店などに売却することも検討しなくてはならない本などをカテゴリ分けすることにした。だがそのリスト化がどうにも進まない。
 初めの一週間はほとんど店の奥の住居で過ごした。幸いにも客は一日に四、五組来ればいい方で、そのうち立ち読みだけで帰る者は八割以上という具合だったから、俺たちはただ本にまみれていればよかった。
「最近の俺、身体からも髪からも図書館の匂いするんだけど」
 仕事の合間に大槻がぼやく。奴は愚痴を零す際に手を止めるので、すかさず俺は注意する。
「手を休めるな。下手すると夏休みがなくなるぞ」
 船津さんによれば俺たちの雇用期間は『本の整理が終わるまで』とのことで、もし早目に終わればその分ボーナスを弾むとも言っていた。だが今のところ早目に終わる算段はなく、俺には旅行の計画が、大槻には楽団の練習や合宿の予定がある為、毎日危機感を持って仕事に挑まねばならなかった。店主の船津さんは毎日のように仕入れに行くといっては姿をくらまし、日暮れ頃に煙草の臭いをぷんぷんさせながら帰ってくる。アルバイト二人に店を任せておくことに何の危機感もないのが逆に恐ろしい。
 現在も店主不在、家主も不在の店舗兼住宅にて、俺と大槻の古書を相手取った壮絶な戦いが繰り広げられている。雑多に詰まれた本を一冊一冊分類し、リストに書き記し、ひとまずケースに収めていく作業は、戦火を逃れて荒野をさ迷い歩いてきた難民たちを保護する弁務官のようだと思う。
「……鳴海くんはすっごい楽しんでるみたいだからいいだろうけどさあ」
 大槻の指摘が真実を言い当てていたので、俺は奴に見えないように苦笑した。
 実際のところ、古い本に囲まれて時を過ごすのは実に楽しく、充実した時間だった。この店にある本の全てが俺の興味を引くものではないが、眠れる希少本や絶版本、そこまでではなくても余裕のある時に購入しようと考えていた本が安価な古書として存在しており、俺はこの仕事に宝探しの要素も見出していた。
 だが大槻は俺ほどに本が好きなわけではない。そのせいか仕事に対する意欲がなかなか高まらないようだ。
「もっと漫画とか、グラビアの写真集とかいっぱいあればいいのに……」
 この店では古い漫画や写真集なども一応の取り扱いがある。だが大槻がそういうものを手に取るとしげしげと読み耽ってしまうので、他の本が片づいてからにしろと言い渡しておいたのだった。
 他人の本の好みをとやかく言うのもどうかと思う。だが俺に言わせれば、それらよりもっと面白いものがこの古書の山脈に眠っているのに、興味も持たないなんて非常にもったいない。
「試しに何か文芸書でも、買って読んでみたらどうだ」
 俺は大槻に勧めた。
 この店の本のうち、俺は気に入ったもの、部屋に置いておこうと思えるもの数冊を店主の許可を得て取り置きしていた。晴れて雇用期間が終了しバイト代をいただいたあかつきには、それらの本を購入しようと決めていたのだ。
 大槻もせっかく埋もれるほどたくさんの本に囲まれているのだから、これをきっかけに読書の楽しみに目覚めればいい。
「簡単に言うね鳴海くん。俺は活字を読むならまだスコアで音符追ってる方がよっぽど楽しい人間だからね」
 奴も一度はそう反論したが、やがて気でも変わったのか、溜息の後に言ってきた。
「じゃあ、何か俺の好みに合いそうな本を見立ててくんない?」
「わかった。で、お前の思う好みとはどんなものだ」
 俺が聞き返すと大槻は少し真剣に考えた後、
「例えばこう、そうは見えないのに実は官能的なシーンがあったりするやつ?」
 などと言い出したので、俺は頭を抱えた。
「真面目に紹介してやろうとしているんだから、お前も真面目に答えろ」
「俺は大真面目だよ! やっぱ取っ掛かりになるもんがないと本開こうって気分にもなんないだろ」
「お前の言う取っ掛かりはそういう方面にしか発揮されないのか?」
「いや、俺だって音楽聴く時はエロスとかどうでもいいよ? 苦手なもんに挑戦しようって言うんだから、それなりに餌が欲しいわけ」
 それならそれでわかりやすい官能小説でも読めばいいのにと思うのだが、大槻はそういうものは若者向けではないと興味を示さない。
「でも俺、ドラマにあるようなラブコメはあんま得意じゃないんだよなあ」
 更に大槻の注文は続く。
「ずっといちゃいちゃしてるカップルばかり見てんのもだるいし、本読むなら適度にはらはらしたい気持ちもあるんだよな。だから他のテーマもありつつ、恋愛もありつつ、えっちいシーンもそれなりにありつつ、でも表向きは真面目で読んでると文学青年に見えちゃう系、みたいなのがいいなあ」
 そういう注文を、よりにもよって俺に対してするのか。
 言いたいことはいくつかあったが、見立てを請け負った手前、探しもせずに投げ出すのは性に合わない。その注文の全てを網羅しているわけではないが、ある程度は該当する本に心当たりもあったので、思い切って勧めてみることにした。
 分類は日本文学の小説、物語。数日前に分類し終えたばかりの古い文庫本を、リストを頼りに探し出して、大槻に手渡す。
 大槻は怪訝そうに、表紙が少し擦り切れ、小口が日に焼け変色しているその文庫本を受け取った。
「……これ?」
「ああ。『忍ぶ川』、三浦哲郎」
 俺がタイトルと作者名を告げると、大槻は首を捻りながらもその本を受け取った。表紙と裏表紙をためつすがめつした後で、恐る恐るといった様子で尋ねてくる。
「これ、本当にそういう本? 表紙地味だし、そうは見えないんだけど……」
「大体はお前の注文に合う本だ。恋愛だけではなく家族のありようや血筋について、そして人それぞれの境遇について書かれた物語だ。明るい話ではないが描写が美しく、それでいて読みやすい」
 長々と語ったところで大槻の興味はほぼ一点に集中しているだろうし無駄だろう。むしろ余計なことを言って興味を失くされては紹介した甲斐がない。
 なので、気に食わない心持ちもあったが、あえて言い添えた。
「官能的なシーンもある。お前の好みに合うかはわからんが」
「マジで! へえ、文学ってすごいな、奥深いなあ」
 そんな台詞をこんな状況で口にする大槻の神経を疑いつつも、奴がその本を楽しそうにぱらぱらめくり出したので、とりあえずは満足しておく。読み終えた際には是非、奴の感想を聞いてみたいものだ。
 大槻もどこか満足げにその本をレジ横に置いた。安価さも手伝って、とりあえず買ってみようという気になったらしい。
 与太話を終えて俺が仕事に戻ろうとすると、大槻もまた作業を再開しながらにやにや笑いを向けてきた。
「にしても、意外っつうか、考えてみりゃ当たり前かって感じでもあるけど」
「何がだ」
「鳴海くんも雛子ちゃんに隠れて、そういう本読んだりするんだなあって思って」
 かけられた言葉に一瞬絶句した後、忌々しい気分になった。
「お前と一緒にするな。俺はそういう目的で本は読まない」
 苛立ち混じりに反論をぶつけてやると、本棚の陰で大槻の陽気な笑い声が聞こえてきた。
「はいはい。……惜しいなあ、鳴海くんもいよいよ猥談解禁かって思ったのにな」
 元々俺はそういう話が好きではないが、それを気温も湿度も高い七月の真昼時にされるとより苛立ちが募るし、そういう話題に雛子の名前を出されると罪悪感も湧き出てきて、気分が一層不安定になる。彼女のことを考え始めれば作業の妨げにもなるだろう。こと最近は彼女について、解決しなければならない問題をいくつも抱えていたからだ。
「あ、そう言えば、雛子ちゃんって言ったらさあ」
 だが大槻は俺の胸中など知る由もなく、作業の合間の雑談として彼女の話題を遠慮なく持ち出してきた。
「鳴海くん、雛子ちゃんにバイトしてること言った?」
「話してない」
「だと思った。聞いてたらあの子、絶対様子見に来るもんね」
 大槻は笑ったが、俺はあながち冗談でもないと思う。雛子なら嬉々として見に来たがるだろう。
「何で言わないの?」
 奴が尚も問う。
 俺はうんざりしながら答える。
「気を遣わせるからな」
 答えてから、今のは失言だったと思う。
 大槻には俺がバイトを始めた理由を話していない。今の答え方ではまさに、雛子の為にバイトを始めたと言っているようなものだ。どうやって誤魔化そうか考え始めた時、大槻が言った。
「気を遣うって。そりゃ彼女なんだから、君の心配くらいするだろ」
 どうやら大槻は、俺の意図とは違う解釈をしたらしい。ほっとした。
「むしろ心配してもらって、それで差し入れとかしてもらえばいいのに」
「何度も言ってるが、雛子は受験生だ。俺の事情まで汲んでいる暇もないだろう」
「そうだけどさ……。ってか君が内緒でこんなに毎日出歩いてたら、雛子ちゃん不安がらない?」
「さあな。いちいち報告するわけでもなし、そもそも近頃連絡を取っていないからな」
 少なくともアルバイトの話を教授から貰ってから、彼女とは話をしていなかった。互いへの連絡に二週間、三週間と間が空くのはよくあることだった。それで問題が起きたことは今までなく、十分だろうと思っている。
「また始まった。君はどうしてこう、連絡不精なのかね」
「そんなに毎日電話をしたら電話代もかかるし、勉強の邪魔にもなる」
「だからさ、ケータイ持てばいいのに。電話するのめんどいなって時でもメールでやり取りできるし」
 大槻はそう主張するが、俺が携帯電話を持ったが最後、かかってきて欲しくない電話が日中にもかかってくるようになるかもしれない。
「持つ気はないな。雛子からも不満を示されたことはないし、必要ないだろう」
 俺が答えると、大槻はしばらく黙った後でなぜか嘆息した。
「鳴海くんって、女心の地雷をことごとく踏み抜いてそうな人だよね」
「どういう意味だ」
「いや、興味深いよ。何で鳴海くんみたいな人にあんな一途で健気な彼女がいるのかなってさ」
 それもまた、七月の高い気温と湿度の中で考えるべきことではない。
 雛子の気持ちは俺にもわからないくらいなのだから、全くの他人には到底わかるはずがないだろう。
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