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古書に埋もれた夏の話(3)

 勤労の日々が二週目に入ったあたりで、俺は雛子に電話をかけた。
 アルバイトを続けていけるかどうか見極めてからにしようと思っていた。それと、旅行の日程もある程度目星をつけておかなければならなかった。もっとも、雛子の意思を確かめた後で旅行が取り止めになる可能性も――ごくわずかだが、まだ、なくはないだろう。そういった事情もあり、落ち着いてから連絡を取ろうと考えていた。
 大槻はうるさいことを言っていたが、連絡に間が空いたからといって雛子が文句を言うことはやはりなかった。

「この夏休みに、旅行をしようと思う」
 挨拶もそこそこに、俺は彼女にそう告げた。
 向こうの出方を確かめておきたいのもあり、できる限り慎重に伝えたつもりだった。
 だが雛子の反応はこちらが驚くほど素早かった。
『私を連れて行ってくれるんですね』
 どうやら彼女の意思に変わりはないらしい。食いつく勢いに俺は一瞬気圧された。
「……そうだ。取りやめるなら今のうちだぞ、雛子」
『いいえ、大歓迎です』
 雛子の声には勢いのみならず、浮かれたような楽しげな空気すらある。
「むしろ考え直す気はないか」
『あるはずないです』
「なぜ日帰りじゃ駄目なんだ。お前の考えはつくづく理解できん」
『できるだけ長い時間一緒にいたいと思っているからです』
 聞けば聞くほど雛子は頑なになるようだった。今や鋼の強度を誇る彼女の意思は、生半可な懸念を示すだけではびくともしないように思えた。
 やむを得ず俺は正論を呈する。この場合の正論とは、いささか口にしにくいことでもあった。
「だがな、雛子。いろいろと……後から考えてみたんだが、不安材料もあることだし、無理に計画を推し進めることもないだろう」
『不安材料とは何でしょうか、先輩』
 こちらが言葉を選ぶのとは対照的に、雛子は間髪入れず反論を叩き込んでくる。彼女の持つ意外なくらいの頑固さにはこれまでにもたびたび手を焼かされてきたが、今回もまた俺を追い詰めにかかっているようだ。
 俺は口にしにくいことを、情けない思いで続ける。
「いや、その、つまり、いささか非道徳的ではないかと思う。お前はまだ未成年だし、傍目に見れば俺がお前を連れ回す格好になる。ただの旅行であっても、そうやってお前を連れて行くこと自体が不品行だと言われる可能性もあるだろう」
 この考え方自体は間違っていないはずだ。未婚の男女が、それも片方は高校生だというのに旅行に出かけて外泊をするのは、まさに不品行なふるまいとしか言いようがない。この一連の計画が明るみになった場合、責任を問われるのはまず俺だが、彼女の方も叱責を免れないだろう。そもそも今、今年である必要性だって彼女にとってはほぼないはずだ。来年、大学に無事入学を決めるまで待つという選択肢があってもよさそうなものだが、彼女は今年がいいと言い張る。
 無論、俺も断固拒否の姿勢をとっているわけではない。それどころか、自覚すると何とも気恥ずかしいが要は、旅行に行きたいが為にアルバイトを始めたほどだからだ。つまり彼女の頑なな意思を悪く言えない程度には、俺も彼女と長い時間を過ごすことを望んでいた。
 それに、あの町にも連れて行きたかった。澄江さんが暮らす、あの寂れた港町へ。
 俺の方の意思がはっきりしているからこそ、彼女の考えを入念に、後から引っくり返される可能性もないくらいに確かめておきたいのだ。
「大体、ご家族には何と説明する気だ。まさか正直に、よその男と泊まりがけで旅行へ行くとは言えんだろうに」
 最も気になっていることを俺が尋ねると、
『平気です。友達の家に泊まると言っておきますから』
 雛子は誇らしげな声で応じた。
『既にアリバイ工作も頼んであります。その点についてはご心配なく』
 彼女のクラスの友人たちは話を聞く限り随分とませているらしく、おまけに余計なことをあれこれと吹き込みたがるようだから厄介だった。頑固ではあるが概ね真面目で落ち着いた気質の雛子に、早熟で軽薄そうな友人がいるのは奇妙にも思えたが、友人関係とは得てしてそんなもので、必ずしも似た者同士がつるみたがるわけではないのだろう。
 ともかくも、この計画は既に俺たち二人だけのものではなくなっているようだ。俺は懸念を示した。
「大丈夫なのか、そんなことをして」
 万が一のことがあった場合、その友人とやらにまで責任が波及することにはならないか。俺の不安を、しかし雛子は一蹴する。
『そんなに嫌なら、止めてしまってもいいんですけど』
 どこまで強気になるのか、彼女は。
 何やら敵わない気分になり、尻に敷かれるとはこういうことかと噛み締める思いだった。
「嫌とは言ってない。懸念を示しただけだ」
『でも、あまり乗り気でもない様子ですから』
 挑発的な物言いを続ける雛子は、結局その意思が揺らぐ気配すら見せなかった。
 そろそろこちらも腹の据え時なのかもしれない。
「そういうわけでもない。ただ、旅行に出かけて、後悔するのはお前の方じゃないか」
『どうしてそう思うんですか? 後悔なんてしません』
 言い切ってくれるのが嬉しくないわけではない。
 だが、どうしてと聞きたいのはこちらの方だ。なぜ彼女は、そこまでして俺と一緒にいたがるのか。
 大して面白い話ができるわけでもなく、彼女を笑わせられるほど明るい人間でもない俺が、雛子をあんな寂れた港町に連れて行って、果たして楽しいと思ってもらえるだろうか。
「そもそも、楽しいのか。そんなに長い間、俺と一緒にいて」
 一番確かめたいのは、それだったのかもしれない。
 観光旅行ではなく、行楽でもなく、何か楽しいものが待っているわけでもない。そんなところへ連れ出して、喜んでもらえるのだろうか。
『楽しいです。先輩は、私と一緒にいるのは楽しくありませんか?』
 即答した雛子が、返す刀で俺に尋ねる。
「俺の話はどうでもいい。今尋ねているのはお前の意見だ」
『とても楽しいです。そうでなければ、一年半もお付き合いなんてしていません』
 彼女がそう言ってくれればくれるほど、情けない気分はいや増さる。
 俺も同じ気持ちだといっそ言えたら楽なのだろう。だがそうではなく、俺は彼女と過ごす時間に楽しさ以外の感情も抱くようになっていた。守りたいという気持ちと、それとはまるで相反する乱暴な気持ち。そして秘密をいくつも抱えていることへ罪悪感と、そのうちの一つを打ち明けなければならないという使命感めいた強い感情。
 雛子には、話しておかなければならないことがある。これまで俺が不自然にその話題だけを避けてきた事柄について、全てではないにせよ打ち明けておかなくてはならない。決して誇れる話ではないが、隠しておく必要ももはやないだろう。俺は先月以来、彼女に対して後ろ暗いところのない人間でありたいと思うようになっていた。
 きっと、彼女は俺の話を聞いてくれるだろう。理解できてもできなくても、それが彼女にとって何ら楽しい話ではなかったとしても、昔からずっとそうであったように、黙って耳を傾けてくれるだろう。
 柄沢雛子はそういう人間だった。
「つくづく物好きだな」
 俺は彼女を一言で表すと、迷いを振り切り覚悟を決めた。
「わかった。そこまで言うなら、もう確認はしない」
 その時、どういうわけか雛子は返事をしなかった。先程まであんなに気の強いことを言っていたのだから、俺が腹を据えればたちまち喜び出すだろうと思っていたのだが、電話越しに聞こえたのは微かな呼吸と、ノイズと判別つかないような身動ぎの音だけだった。
「では、行き先は俺が決めるが、いいか。要望があれば先に言え。宿泊先の手配と切符の予約もやっておく」
 構わず話を進めると、ここでようやく雛子が答えた。
『あの、私はどこでも構いませんけど……』
 と言いかけて、慌てたように付け足してくる。
『でも先輩、大変じゃありませんか。計画を決めてくださって、その上――』
「そうでもない」
 彼女が余計なことまで心配し始めたので、俺はその言葉を遮る。
 どうせ行き先は決めてあった。俺の方の心情としてはどうしても、彼女をただ遊びに連れて行くという気持ちにはなれなかった。大義名分と言ってしまえばそれまでだが、この旅行がお互いにとって意味のあるものに、そして受験勉強の息抜きにもなればいいと思っている。
「静かで落ち着ける、いい場所を知っている。お前に特に要望がなければ、こちらで勝手に決めておく」
 実際のところは『静かで落ち着ける』以外に誉めようのない場所でもあったが、海辺の町ということであれば彼女のかつての願いも叶えることができるだろう。
『それでしたら、よろしくお願いします』
 雛子は迷いもせず俺の提案を受け入れた。少しも要望を口にしないことには拍子抜けした。
 要は旅行に行けるのであればどこでもいいということなのだろうか。彼女にとってはどこへ行くかよりも、誰と行くかということの方が重要なのかもしれない。
 全く、とことん物好きな奴だ。もう少し気にするべき事柄があるようにも思うのだが、それも、彼女はどうでもいいと思っているのだろうか。恐らくどうでもいいというより、考えが及んでいないだけなのだろうが。
「わかった。詳細は追って連絡する」
 急にそわそわと落ち着かなくなった俺は、話を打ち切ろうとそう言った。
 すると雛子が今更のように質問をした。
『ところで先輩、どの辺りに行く予定なんですか』
「決まってから教える。確認しておかなくてはならないことがあるから、まだ行けると決まったわけでもない」
『……わかりました』
 俺の回答を聞くと、彼女は少し寂しそうにしながらも了承してくれた。
 その声に、俺もなるべく早めの報告をしようと思う。澄江さんと日程の擦り合わせを、できるだけ早急にしておくことにしよう。

 大槻は俺のことを連絡不精だという。
 奴の意見に対する反論材料は持ち合わせていないが、実のところ俺と雛子が頻繁に連絡を取り合う必要はほとんどない。むしろ電話をすれば声だけでは足りず、彼女の顔が見たくなる。そういう意味でも俺は、電話があまり好きではなかった。
 だから旅行の計画が一段落したあたりで、俺は電話を切ろうとしたのだが、
『先輩、近いうちに一度お会いできませんか?』
 雛子がふとそんなことを言い出したので、受話器を持ち直して尋ね返した。
「どうした。何かあったのか」
 既に夏休みに入っている雛子は、存分に受験勉強に励める自由時間を得ているはずだった。まして来月あたりに旅行を控えているのだから今は遊んでいる暇などないだろう。その上で俺に声をかけるということは、受験勉強への助言でも求めているのだろうと推測がついた。
 だが彼女の答えは予想を外れ、
『旅行の計画とか、できれば会って話し合いたいんです。お互い夏休みに入りましたし、七月中でしたら私はずっと暇ですから』
 思いのほか暢気なことを言うな、と俺は心中で呆れた。あんまりうるさく言うのもよくないと聞いたが、しかしこれはうるさく言っておく必要があるのではないか。
 もっとも、こちらはこちらで忙しい。彼女の誘いを、俺は即座に拒んだ。
「無理だな。七月はずっと予定がある」
『あ、そうなんですか……』
 雛子は随分と気落ちしたようだ。呟く言葉は途中から溜息だけに変わり、そうなると俺の方も、悪いことをしたかという気分になるのが腑に落ちない。
「来月なら何日か空いている」
 一応、そうも言ってやった。
 だが彼女の言う旅行の計画は、先程俺に全権を任せてくれたものではないのだろうか。それをわざわざ、夏休みという受験生にとって貴重な時間を割いてまで二人でする必要があるのか、首を傾げたくなる。
「しかし、電話で連絡を取り合うだけでは駄目なのか? 旅行の計画は俺が引き受けたのだし、話し合うことも特にないと思うが」
『……そうですね』
 俺の言葉には雛子も納得したらしい。結局その件に関してはあっさりと引き下がった。
『では、時間ができたらまた図書館に付き合ってもらえますか? 先輩が忙しくない時でいいですから』
 代わりにそんな要求をしてきたので、それももう少し先の話になるだろうと思いながら、俺は応じた。
「わかった。八月の第一週まではアルバイトが入っているから、それ以降になると思うが、いいな?」
 そのあたりまでに目途をつけてあの仕事を終わらせたい、というのが俺と大槻が話し合った末に出た結論だった。さすがに夏休み全てをあの店に捧げる気にはなれない。まして旅行の計画が決定的となった以上、一刻も早く仕事を片づけ、旅行の支度をしなくては。
『はい。――え?』
 一旦は了承しかけた雛子が、すぐに怪訝そうな声を上げた。
『え? あの、先輩』
 そしてその時には俺も、自らの失言に気づいていた。
 近頃はやけに余計なことを口走ってしまうようだ。七月の蒸し暑さのせいだろうか。
「どうした」
 わざとらしいくらいに訝しそうな態度を取っておく。
 雛子はまだ驚きを消化しきれていないらしく、大げさなことに声が震えていた。
『どうしたって……あの、アルバイトするんですか』
「ああ。言ってなかったか?」
 教えていなかったのも知っていたが、あえてそう言った。本当のことを言えば、なぜ黙っていたのかと追及されるに決まっていたからだ。
 旅行の話を決定する前から旅行に備えてバイトを始めたなどと、気恥ずかしくて言えるはずがない。
『は、初耳です』
 雛子は尚も驚いている。
「短期のアルバイトをしている。教授に紹介して貰ったものだ」
『そうだったんですか……』
 俺の話もどこまで聞こえているのか、呆然と声を発していた。何をそんなに驚くことがあるのかと思う。
『ちなみに、どのようなアルバイトなんですか?』
 それでいて突っ込んで聞きたがるそぶりも見せ始めた。これは程々で話を終わらせる必要がありそうだ。
「古書店だ」
 簡潔に答えると、読書家らしく彼女もいくらか興味深そうにして、
『古書店……じゃあ、本の整理とか、選別とかですね』
「それもあるが、ごく稀に接客もする。滅多に客の来ない店だがな」
 俺がそう言った途端、
『――先輩が、接客を!?』
 電話の向こうで声を裏返らせていたので、どういう意味の動揺だと問い詰めたい気分にもなった。
 確かに、我ながら接客に向いている性格だとは思っていないが、それにしても雛子の驚きようはどうか。他人に言われても気にならないことでも、雛子にそういう対応を取られると心が傷ついた気分になるから妙だ。
「何を驚くことがある」
 そう尋ねると、雛子は思いきり慌てながら言った。
『ええと……いえ、その、とにかく初耳でしたから』
「そうか。いちいちお前に報告するようなことでもないからな」
 柄にもないことをして物珍しがられるのも複雑だ。言わなければよかったなと思いながら俺が会話の幕引きを狙っていると、先に彼女が仕掛けてきた。
『先輩、よろしければ、どちらのお店で働いているのか教えてください』
 直感的に、来た、と思った。
 雛子はやはり俺のバイト先を訪ねるつもりだ。こうなることは予測できたのにとんだ失言をしたものだ。
「聞いてどうする気だ」
 慎重に俺が確認すると、雛子は屈託のない口調で言った。
『是非、お仕事しているところを拝見したいです』
「断る」
 迷いなく、簡潔に俺は切り捨てた。
 だが雛子の頑固さはもはや説明不要だろう。こうだと思い込んだ時の食い下がりようは目を瞠るほどで、俺はこれまで何度も何度も何度もこの頑なさに手を焼き、時に不承不承折れてもきた。
 今回ばかりは断じて折れるつもりはない。なぜなら俺一人の問題ではなく、俺の仕事に差し障りがあれば店にも迷惑がかかることだからだ。そして柄沢雛子は俺の集中力を奪うことにかけても目を瞠るほど長けている。全く意味のない長所であるが。
『いけませんか? 先輩のお仕事姿にとても興味があるんです』
 かくして俺たちにとって恒例とも言える押し問答の火蓋が切って落とされた。
「そんなことに興味なんぞ持たなくてもいい。大体、お前に遊びに来られても邪魔なだけだ」
『お邪魔にならないように、遠目に見ているだけにしますから』
「視界に入るだけで気が散る。どうせ黙って見ているつもりもないだろうしな。来なくていい」
『でも、見てみたいんです』
「駄目だ。来るなと言ったら来るな」
 ああ言えばこう言うとばかりに食い下がってくる雛子を振り切れそうになく、俺は最後の手段に出ることにした。
「そろそろ電話を切るぞ。電話代がもったいないからな」
 大体、受験生が夏の暑い最中にわざわざ他人のバイト風景を見物しに出かけようなど、どうかしている。そんなことに時間を浪費するのは無駄だ。そして熱射病にでもなったら目も当てられん。
 だが雛子は諦めない。
『それなら私は市内の古書店を、先輩にお会いできるまで虱潰しに探し回ることにします』
 彼女の方の最後の手段はそれらしい。俺は呆れたが、実際にそれをやられたらそれこそ熱射病になる危険性がある。何としてもその事態だけは避けねばなるまい。
「つくづく強情だな、お前は」
 困り果てる俺を好機と見てか、雛子が畳みかけてくる。
『どうしても見てみたいんです。遠くからでも構いませんから、先輩の勤労青年ぶりを是非見たいんです』
 そんなものを見てどうする気だ。内心で俺が毒づくと、
『きっと私、先輩に惚れ直すと思います』
 雛子は遂にそんなことまで言い出し、息を呑んだ俺は危うく受話器を取り落とすところだった。
「なっ……」
 何を口走るのか。よくもこちらの気も知らず、軽々しく言ってくれるものだ。
 じっとりと汗ばんだ手のひらをシャツで拭き、受話器を握り直してから窘める。
「急に何を! 馬鹿なことを言うな!」
 もっとも叱ってみせたところで彼女の言葉に動じたという事実は誤魔化しようもない。取り繕う気もやがて失せ、俺は腹の底からぼやいた。
「全く……何て奴だ。お前は時々、突拍子もないことを言い出す」
 雛子は何も言わなかったが、少し笑ったようだ。少女らしい柔らかな笑い声が耳にくすぐったい。
 してやられたようで悔しいものの、話を元に戻すことにする。
「悪いが、見て面白いものではないはずだ。俺の邪魔をしたいのでなければ止めてくれ」
『ではお尋ねしますけど、逆の場合は、先輩はどうしますか』
「逆の場合だと?」
 俺が聞き返すと彼女は素早く応じた。
『そうです。もし私がアルバイトを始めたら――』
「受験生が何を言うんだ。大体、東高はアルバイトが禁じられていただろう」
『例え話です。来年、しないとも限らないでしょう』
 彼女はさも正論だというように声を張る。
『私がアルバイトを始めたとして、先輩は、全くの無関心でいられますか?』
 確かに、雛子がバイトを始めたとなれば多少気になりはするだろう。どんな職種か、人目につく仕事なのか、客層に問題はないかなど一応の確認は済ませておきたいところだ。
 だが、先程の雛子のように興味本位で仕事ぶりを覗きに行くようなことはしない。
「少なくとも、お前の邪魔になるような真似をするつもりはない」
 俺の答えを聞いた雛子は尚も続ける。
『それが接客業であった場合、お客様として店を訪れてみたいと思いませんか?』
「どうだろうな」
 ないとは言い切れない。やはり接客ともなると店先に立つ仕事だろうし、そうなるとどうしてもたちの悪い客が寄りつきはしないかと心配にもなるだろう。そうなるとまず店周辺の環境からチェックしなければならないだろうし、店に足を伸ばさなければならないのも事実だ。
 しかしだからと言って、わざわざ彼女の客になりに行くつもりは――。
『先輩なら絶対に、私の仕事ぶりが気になって、こっそり覗いてみたいと思うはずです』
 雛子が預言者のように言い当てようとするので、俺は忌々しさに低く呻いた。
「……しつこい奴だ」
 仕方がない。認めよう。仮に今回の話が逆の立場だったとしたなら、俺は雛子のアルバイト先が気になるだろうし、彼女の勤労少女ぶりを見てみたいとも間違いなく思うだろう。だからと言ってここまでしつこく問い詰めはしないだろうと思うのだが、ここで何を言っても負け惜しみになるか。
「わかった。店の場所は教える」
『本当ですか? ありがとうございます!』
 先程までとはうって変わって、雛子は無邪気にはしゃぎ始める。俺が手を焼いていると感じていることなんて、気づいてもいないようだ。憎たらしいと言っていいのか、別の形容をすべきなのか。
 ひとまず釘は刺しておく。
「ただし、邪魔はするなよ。こっちは仕事をしているんだ」
『わかっています。遠目に見ているだけにしますから』
「できれば俺の視界に入らないよう、わからないようにしてくれ」
『善処します』
 雛子はいい返事をした。
 俺としても彼女の存在に気づかずに済めば、無駄に集中力を削がれることもないだろう。雛子があくまでこっそりと訪れ、そして音もなく帰ってくれれば、大槻にだって感づかれることもあるまい。

「それにしても」
 事前に考えていたよりも長引いてしまった電話の終わりで、俺は彼女に文句をつけた。
「昔はもう少し遠慮がちだったのに、お前はだんだんとわがままになっていくな、雛子」
『わがままを言う私は、気に障りますか?』
 唐突にしおらしくなった彼女がそう尋ねてきた。
 わかっていて聞いたのか、それとも本気でわかっていなくて聞いているのか、俺にはよくわからない。
 だが、気に障るようならとっくに通話を打ち切っている。そうせずにだらだらと長電話をした理由は、結局のところ俺が彼女に電話をかけたくない理由の一つでもあった。
「……そうでもないから、余計に厄介だ」
 電話を切ってしまうのが惜しくてしょうがない。
 無意味な押し問答をした長電話の後は、いつもこういう気分になるから、俺は電話が好きではなかった。
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