葉月(6)
私はしばらくの間、自然な呼吸を続けていた。身動ぎもせずに寝たふりを試みた。あれだけ眠れないと言っておいた後だ、先輩を不審がらせないよう慎重に、根気よく続けた。その努力が功を奏したのだろうか。思ったよりも早くに涼しい風が止まった。
「雛子?」
確かめるように、先輩が私を呼んだ。
私は答えない。黙って、呼吸だけを続ける。本当は起きていることを悟られないように、ゆっくりと。
先輩が息をついたのが聞こえた。恐らく安堵のものだろう。もしかすると、私がなかなか寝つかなかったらどうしようと思っていたのかもしれない。そう考えるとちょっと、おかしい。
立ち上がる気配がした。暗闇の中で先輩が動いた。畳を踏む静かな足音が遠ざかる。
きっと、先輩はこのまま部屋を出ていく。私が寝たとわかったら、あっさりと立ち去ってしまう。もしかしたら『これでようやく本が読める』とさえ思っているかもしれなくて、そういう現実的な態度は先輩らしい。
離れてしまうのは寂しいけど、今は仕方がない。でもいつか、ずっと、離れずにいられたらいい。そう思う私の耳元で。
不意に、畳を踏み締める音が聞こえた。
枕元か布団のすぐ傍。ごく近くで、先輩の足音と気配がする。目を閉じているからはっきりとはわからない。だけど先輩がすぐ傍にいるのがわかった。このまま立ち去ってしまうだろうと思った先輩が。
私の肩に、手を置いた。
先輩の手はすぐにわかった。触れられるだけでわかってしまう。器用そうな長い指が、本のページを繰るように、時々私にも触れてくれることを知っていた。だけど今は少し震えている。私の肩に、ぎこちなく触れてきた。さっきは冷たかったその手は、でも今は熱く感じた。
次いで、額にかさりと髪が触れた。私と先輩の前髪が触れて、音を立てるのが聞こえた。押し殺した吐息をも感じた時、私は声を上げそうになった。
だけど上げられなかった。
唇が重なる。
目を閉じていてもわかった。呼吸を整える暇もなかった。寝たふりをしている以上は取れる反応もなく、ただされるがままでいた。触れた唇の柔らかさ、ぬるま湯のような温かさに頭がくらくらしてきた。息が苦しい。心臓が速い。
こんなにどきどきしながら眠る人間なんているだろうか。不意打ちのキスに私はすっかり心をかき乱されて、目の前にいるはずの人にしがみ付きたくなっている。だけどそれをしてしまえば、先輩を本当に困らせることになる。
直に唇は離れた。肩に触れていた手も離れた。畳を踏み締める音が少し離れたところで聞こえ、ドアが開き、光が射し込み、すぐに消える。静かにドアの締まる音がして、先輩の足音が遠ざかる。何もなかったように静かになる。
だけど心臓の音だけは遠ざからなかった。いつまでも耳元で聞こえていた。呼吸も苦しく、どうしていいのかわからないくらいに混乱した頭で、私はタオルケットを抱き締めた。寝返りを打ち、頬を枕に押しつける。熱い。何もかもが熱を持ったようだ。
今までにも知っていたはずの事実を、私は今、最も強く認識していた。
先輩は、私のことが好きなのだと思った。
今更なのかもしれない、そんなことを考えるのは。旅行に連れてきてもらって、おばあさんに会わせてもらって、秘密を打ち明けてくれて。心のうちまで聞かせてもらっておきながら、私は今になってそれを強く感じている。
先輩は、私が好きだ。言わないけれど間違いなく、私が先輩を想うのと変わらぬくらいに好いてくれている。本当はこの距離を縮めてしまいたいと、私と同じように思っているのかもしれない。もう少し先のその瞬間を、私と同じように待つつもりでいるのかもしれない。
早くその時が来ればいいのに。二つ年上の先輩に、一刻も早く追い着きたいと思った。私は子供のままではいたくない。ぼんやりしている暇も、もうない。
その夜はちっとも眠れず、私は静かな朝を迎えた。
予想していたとおり、アラームの必要はなかった。
身支度を整え、布団を片づけてから階下へ向かう。既に澄江さんは起きていて、台所で忙しそうに立ち働いているところだった。そういえば昨日、お弁当を作ってくれると言っていたから、その準備をしているのだろう、台所からは卵焼きのほんのりいい匂いがしていた。
挨拶をしようと私が口を開きかけた時、洗面所のドアが開いて、先輩が姿を見せた。顔を洗ったばかりらしい先輩は、それでも酷く眠そうにしていた。赤らんだ目と視線が合って、気まずい、と思う。昨夜のことを思い出す。頬が熱い。
私が目を逸らす前に、先輩の方が視線を外した。
「おはよう」
「……おはようございます」
不自然に引っ繰り返った声を、私は先輩の横顔に向ける。昨夜のことは知らないふりをしていなくてはいけない。何でもないように振る舞わなければならない。とても難しいことだ。
「あら、おはよう」
台所から澄江さんが顔を覗かせた。上機嫌の笑顔は、だけど私たちの顔を見た時、気遣わしげな表情に変わる。
「二人とも、随分と眠たそうね」
「え? いえ、そんなことは……」
答えて、私は俯いた。
先輩は何も言わない。ちらと横目で窺えば、どことなく複雑そうな面持ちでいた。
「枕が合わなかったかしら。ごめんなさいね」
澄江さんが済まなそうに言うので、私も申し訳ない気分になる。枕のせいでも布団のせいでもなかった。強いて言うなら、先輩のせいだった。
「それとも、波の音がうるさかった? よくいるのよ、夜になると静かになって、波の音が耳につくから眠れないっていう人。昨日の晩は蒸し暑くて、窓を開けていたら尚更だったでしょう」
波の音は聞いていなかった。私は自分の心臓の音だけを聞いていた。心臓がどきどきと騒がしくて、落ち着かない気分でいた。昨日の夜はそのせいでなかなか、ちっとも寝つけなかった。
でも――波の音が聞こえていたら、どうだっただろう。延々と繰り返される寄せては返す波の音。そのさざめきに揺られて眠るのはさぞ心地いいだろうと思う。うるさくて寝付けない、なんてことはないと思う。騒がしい心臓の音に比べたら、ずっと安らぐ音に違いない。
「電車の中ででも、少しは休めるといいわね。あまり寝不足の顔だとご家族が心配するでしょう?」
と澄江さんは言い、私はその言葉で、この海沿いの町から離れる時が近づいていると改めて気づく。
帰らなくてはいけないのが無性に寂しい。
――わかっている。ずっと留まり続けることなんてできない。時は流れていくし、決して止まってしまうことはない。私もいつか大人になる。子供のままでも、子供っぽいままでもいられない。決して。
でも寂しかった。澄江さんは素敵な人だった。この人の前で素直になる先輩と、先輩に対して深い愛情を向ける澄江さんとを、ずっと傍で眺めていたい思いに囚われた。初めて来た場所なのに不思議なくらい居心地がよかった。
俯いていた私の肩を、先輩が軽く叩いた。
「顔を洗ってこい」
それで澄江さんも口元を綻ばせて、優しい声で言い添える。
「そうね。少し早いけど、朝ご飯にしましょう。それと、お弁当を詰めるのを手伝ってくれる?」
私は慌てて頷いた。寝起きの顔で感傷に浸るのも妙なことだ。それに――それに、やはりどうしても私は、私たちは、帰らないわけにはいかなかった。
顔を洗った後で、私たちは軽い朝食を取った。食事が済んでからは、澄江さんの作ってくれたおにぎりや、卵焼きやお新香をお弁当箱に詰めた。澄江さんのお料理は美味しかった。おにぎりの形が先輩の作ったものとそっくりだったことにも驚いた。
それから荷物をまとめ、お借りした部屋の掃除をした。そのうち無情にも時は過ぎ、澄江さんとお別れする時刻がやってきた。
「本当に、お世話になりました」
私はそう告げて、玄関先で深々と一礼した。
澄江さんは寂しそうに微笑んでいた。
「いいえ。何のお構いもできなくて……また是非、いらしてね」
「よろしいんですか?」
思わず尋ねると、深い頷きが返ってくる。
「ええもちろん。絶対にまた来てちょうだい。雛子さんとはまだまだ、じっくりお話したいことがあるのよ」
「……うれしいです。ありがとうございます」
もう一度頭を下げてからは、他の言葉が出なくなってしまった。もっと言わなくてはならないことや、しなくてはならないお礼もあったはずなのに。小柄な澄江さんを見つめるだけで胸がいっぱいになってしまった。
腰の曲がった、痩せた姿の澄江さん。微笑んだ顔がそっと先輩の方を向く。
「せっかくだから、駅までお見送りしたいところだけど……」
おずおずとそう言いかけてすぐ、先輩が制した。
「日差しが強いですし、止めておいた方がいいでしょう。無理はしない方が」
「そう……ね。腰を痛めて、あなたに心配をかけてしまうのは本末転倒ね」
澄江さんはまた、頷いた。そして軽く手を上げる。
「道中、お気を付けてね。向こうに着いたら必ず連絡をちょうだい」
「わかっています」
先輩が少し苦笑した。
「でも言っておかないと、寛治さんは連絡をし忘れるでしょう。電話だってたまにしかくれないし」
拗ねたように言ってから、澄江さんは柔らかく、満面の笑みを浮かべた。
「本当にあの人にそっくりなんだもの。釘を刺しておかなくてはね」
その言葉に、先輩は何も言わなかった。ただ笑みだけを返して、深く一礼した。それから玄関のドアを開ける。夏の陽が射し込んでくる。
陽射しの中で私は、最後に思いきり笑った。澄江さんも笑って、手を振ってくれた。
太陽はまだ中天に懸からない頃、だけど気温はじりじりと上昇を続けている。
ゆらめくアスファルトの上を、先輩の背中を追って歩く。先輩は来た時と同様に、私の鞄を提げている。光の消えた水銀灯が点々と立つ海沿いの道。人気のない通りを、ひたすらに歩く。
足が重い。後ろ髪を引かれる思いだった。もうすぐ旅行が終わってしまう。この町を去り、電車に揺られて、私は家に帰らなくてはならない。先輩とも離れなくてはならない。非日常的な時間は終わり、明日からはまた日常が始まる。
もちろん、この旅行で得られたものは大きい。だけどもう少しだけ、非日常の中に身を置いていたいと思う。あまりにも幸せで、優しい二日間だったから。
先輩はどう思っているんだろう。私と同じように思ってくれているのか。こちらを振り向きもせず、いつものように足早に、夏の道を歩いていく。潮風に吹かれても動じない力強い足取り。真っ直ぐに伸ばされた背中に、私は声をかけてみる。
「先輩」
それほど大きな声は上げなかった。
だけど、先輩は立ち止まってくれた。振り返る顔が、逆光でよく見えない。
「どうした」
尋ねられてから私は気づく。何を話す気でいたのかわからない。声をかけてみただけで、話すことは特にないはずだった。
先輩は三歩ほどこちらに戻ってきた。それでようやく表情が見えた。訝しげだ。
「具合でも悪いのか」
「いいえ、そんなことないです」
急いで否定した。具合が悪いわけじゃない。寝不足なのはあったけど、足が重いのはそのせいではない。
一瞬、先輩が眉を顰めた。
「昨日の晩、眠れなかったのか」
その問いで私は昨日の晩の出来事をたちまちのうちに思い出す。私が知っているはずのない、知らないふりをしなくてはならない、昨夜のことを。
日差しがかっと照りつけて、頭も、頬も熱かった。だけど私はなるべく落ち着いて答えた。
「いえ、ぐっすり寝ました。寝ついたのもすごく早かったみたいで……」
冷静に答えられた、と思う。
気のせいか、先輩が安堵したように息をついた。踵を返す。
「無理はするなよ。駅まではもう少しある」
「はい」
やはり先に立って歩き出す、姿勢のいい後ろ姿を私は追う。置いていかれないように歩き続ける。いつか追い着けるように。
「先輩」
「どうした」
今度は振り向かない先輩に、私は思い切って、こう言ってみた。
「また、この町に連れてきてくれますか」
先輩は立ち止まらない。歩きながら考え込むように首を傾げ、それから軽く振り返って、答えてくれた。
「お前が来たいと言うなら、いくらでも連れてきてやる」
「本当ですか!」
「ただし、受験生のうちは駄目だ。まずは勉強を頑張れ」
喜んだのも束の間、釘を刺されて私ははっとした。当然、先輩の言うことは正しいけど、――危うく忘れかけていた。受験勉強のこと。この夏はそういう意味でも貴重で、大切な夏だ。
「が、頑張ります」
大慌てで私は答えた。
そうだ、頑張らなくては。鳴海先輩に追い着かなくてはどうしようもない。先輩は私を待っているのだから。
「待っていてやるから」
ぼそりと、先輩が言った。私の心の内を知っているみたいに、タイミングよく。
それで私も少し笑って、歩く足に力を込めた。熱せられたアスファルトの上、ひたすらに先輩を追い駆けた。
帰りの電車の中でいただいた、澄江さんのお弁当は美味しかった。次にお邪魔する時の為、私はもうちょっと料理を学んでおこうと思う。
あと、この次こそは波の音を聴きながら、ちゃんと眠れる夜を過ごせるように――先輩が一緒なら、それもなかなか難しいことだけど。