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葉月(5)

 私は、先輩が好きだ。
 そのスケールを表すのは難しいけど、とても好きだった。先輩のいない時間が、未来が、想像できないくらい大好きだった。
 散歩からの帰り道、月明かりと水銀灯の光の下で、私たちはほとんど口を利かなかった。だけど手は繋いでいた。そうして歩調を合わせて寄り添う間も、私はずっと先輩のことを考えていた。片時もぶれることなく、一心に、隣にいる人のことだけを。
 私が先輩を好きなのは今に始まった話じゃない。いつからかはっきりとはわからないけど、でも自分で驚くほど好きになっていた。それからは何があろうと、先輩に何を言われようと、私は指摘されたとおりのわがままさで脈々と想いを育んできた。
 今までのいつになく、今が、一番強く先輩を想っている時間だ。他のことは考えられない。胸のうちが先輩のことばかりで溢れている。
 きっと、私は先輩の全てを好きでいられるだろう。全てを受け止められるだろう。頑迷さも、利己的な側面も、生真面目過ぎるところも、愛すべき不器用さも、それから――私に対して抱いている不安も、何もかも。だから先輩が思い煩うことなんて何もない。先輩はただ、行くべきと思う道を真っ直ぐに進んでくれたらいい。その時、今みたいに私の手を引いてくれたら、他に願うこともない。

 澄江さんの家まで戻ってくると、先輩は鍵を開け、静かに私を招き入れた。
 居間に入ると、自然と時計に目がいく――午後八時半過ぎだった。
 ちょうど、先輩も時計を見ていた。それで何か思い出したのか、ふとこっちを見て忠告してきた。
「雛子、お前はなるべく早く寝ろ。明日の朝も早いぞ」
「ええと……そうなんですか?」
 予想はしていたけど、どのくらいの早さだろう。内心身構える私に、先輩は低い声で語を継ぐ。
「五時に起床することとなっている」
「五時、ですか? 何かご予定があるのでしょうか」
「いや。澄江さんがいつも起きる時間だ。年寄りだからな、無闇に早い」
 早寝早起きが徹底されているということだろう。私はそろそろ驚かなくなっていたから、素直に頷いた。寝坊は絶対にできない。
「わかりました」
 私の答えが望むものだったからか、先輩は満足げに顎を引いた。
「わかればいい。それでは、風呂に入ってから休め」
「え? も、もうですか?」
 今度は声に出して驚いてしまった。だって高校生でも寝るには早い時刻だ。思わず飛び出した声を、先輩は咎めるように眉を顰め、私は口元に手を当てる。居間からふすまを一枚隔てた向こうの部屋は、ずっと静まり返っていた。
 トーンを落として問い直す。
「もう就寝時刻になりますか、先輩」
「そうだな。明日のことを考えたなら、夜更かしは勧めない」
 先輩はきっぱりと言った。だけど……。
「まだ九時前ですよ。さすがに早過ぎます」
 居間の時計はこつこつと生真面目に時を刻む。どこの家でも示す時間は同じのはずだ。私はここ数年、用もないのにこんなに早く寝つくことなんてなかった。
 それは先輩だって同じはずだ。たまに夜遅く電話をかけてきてくれることがあるけど、大抵が午後十時過ぎだった。先輩も、私も、眠るにはまだ早過ぎる。せっかくの旅行なのにもったいない。
「早くはない。そんなことを言って、お前は明日、ちゃんと起きられるのか」
 先輩は重大な懸案事項だと言わんばかりに指摘してくる。
「大丈夫です。目覚ましをかけますし、そもそも今くらいの時間なら夜更かしとは言いません」
 すかさず反論した私は逆に尋ねた。
「それとも、先輩はもうお休みになられるおつもりですか?」
「いや」
 先輩は堂々と首を横に振る。
「俺はこれから読書をする」
「読書ですか……先輩は夜更かしをなさるご予定ですか?」
「多少はな」
 不遜に言われればやり返さずにはいられない。
「私の夜更かしは駄目で、先輩は夜更かしをしてもいいなんて、おかしいと思います」
 だけど先輩も石頭なので、その程度の反応なんて押し切る気のようだ。
「俺は二十歳だからいい。お前は子供だ、夜更かしはさせられん」
 さっきまでの穏やかな空気はどこへ消えてしまったのだろう。二十歳の先輩が口にしたのはまるで子供じみた理由で、私も何だか子供っぽい気分になる。何が何でも逆らいたくなる。
「そんなの、ずるいです」
「ずるくはない。大体、お前は夜更かしをして何をするつもりだ」
 問われて、一瞬言葉に詰まった。何を――なんて、考えてもいなかった。だけど考える前から決まっているようなものだった。今の私が考えられることなんて一つしかない。
「あの、それは……その、先輩のお傍にいたいなって」
「は?」
 先輩は怪訝そうな声を立てる。彼女に対して、いささか冷たい態度ではないかと思う。いつものことだけど。
「お話がしたいんです。まだ話し足りない気分なんです」
 私はそう訴えた。嘘偽りのない、心からの想いだった。
「先輩の傍にいて、もう少しだけお話がしたいんです。他愛もないお喋りだけでいいと思っています。せめて、もう少しだけ」
 話したいことが明確にある、というわけではない。ただ、この時間を終わりにはしたくなかった。先輩の傍にいられる時間を、もうしばらく続けて、繋ぎ続けていたかった。先輩のことしか考えられない、今だからこそだ。
「俺は読書をするつもりだ」
 珍しくやんわりと、だけど困惑の色は隠さずに先輩が言った。
 それだけではこちらも引くに引けない。
「では、邪魔にならないようにしますから、お傍に置いてください」
 先輩が話をする気にならないなら、それでもいい。私といるより本を読みたい気分だと言うなら、邪魔をするつもりはなかった。ただ、私を傍に置いていてくれたら。隣にいることは許して欲しかった。
「どうして、そこまでこだわる」
 しかめっ面の先輩に上手く伝えられそうにはない。
 だけど、だけど私は。
「どうしても、先輩と一緒にいたいんです。今夜はそういう気分なんです」
 目を逸らされそうになって、私は背伸びをして先輩のその顔を追いかけた。斜めの角度で見つめ合う姿勢になる。
 時計の針の音が響く居間で、至近距離から視線をぶつける。見上げた仏頂面はキスできそうなほど近い。きっと、そう簡単にはしてくれないだろうけど。
「お願いです。もう少しだけ、夜更かしを許してください」
「明日、起きられなくなったらどうする」
「そうならないようにしますから。先輩、お願いです」
 先輩は、どうして頑ななのだろう。どうして、私に夜更かしをさせまいとするのだろう。私が子供であるように扱いたがるけど、実際の私は先輩が思うほど幼くはないはずだ。
 今は他のことも目に入らない。先輩のことだけなのに。
「わがままな奴だ」
 先輩が忌々しげに呟く。間髪入れず、私は応じた。
「でも、そういう私のことが嫌いではないって、言ってくださいましたよね?」
「……それとこれとは話が違う。早く寝た方がいいから、お前の為に言っている」
 本当だろうか。少し切ない気分になって、私はぼそりと零した。
「先輩の意地悪」
 途端、先輩は気まずそうに顔を背ける。
「意地悪で言っているんじゃない」
「では、どうしてですか」
「それは俺の方が聞きたいくらいだ」
 切り返されて、むっとする。先輩はわからず屋だ。私の方には、どうして、なんて尋ねられる理由はない。一緒にいたい。もう少し傍にいたい。それだけのことなのに。
 私は苛立ちを抑える為に、深呼吸を一つした。それから背けられた横顔に、囁きかけた。
「今は眠れる気がしないんです」
 他のことは何も考えられないから。先輩のことしか、考えられないから。
「絶対に寝つけないと思います。眠ってしまうのがもったいないくらいなんです。だからもう少しだけ、先輩のお傍にいたいんです」
 わがままだと言われたからには、とことんわがままに振る舞ってやろうと思った。先輩がわかってくれるまで。首を縦に振ってくれるまで、私は一歩も引くつもりはない。
 先輩はこちらを見なかった。視線を逸らしたままで、じっと考え込むように唇を結んでいた。それはどこか逡巡しているようにも見えた。
 奇妙な沈黙が室内を支配していた。外を歩いてきた時の穏やかさも、さっきの子供じみたやり取りも過ぎ去って、後に残るのは重苦しい空気。じっとりと蒸し暑い。何か、駆り立てられるように気が急いて、答えを待つ間はずっと胸が苦しかった。
 やがて、先輩は諦念を含んだ声で言った。
「わかった。お前がそこまで言うなら仕方あるまい」
 私ははっとした。聞き入れて貰えた? 今夜、残り少ない旅先での時間を共有しようとを、先輩も思ってくれたのだろうか。幸せな予感に微笑みかけた時、だけど先輩は無情に続けた。
「お前が寝つくまで、傍にいてやる」
 私にとっては予想外の言葉を。
「え……? ええと、あの」
「今日は蒸し暑いからな。扇いでやってもいい」
 視線は合わせず、ぎこちない口調で紡いだ。
 私はその意味を測り切れず、混乱の只中にあった。これは、譲歩して貰えたのだろうか。私にとって好条件と言えるのだろうか。
 先輩は是が非でも私の夜更かしを許さないつもりらしい。私が寝つくまで傍らにいるというのも確かに傍にはいられることだろうし、望むとおり話だってできるのかもしれない――だけど。
「やっぱり、夜更かしは禁止ですか」
 私は複雑な気持ちで尋ねる。
「そうだな。子供は早く寝るべきだ」
 ぶっきらぼうに先輩が応じたから、反射的に異を唱えた。
「私、先輩が思っていらっしゃるほど子供ではありません」
「わがままばかり言う奴が威張るな」
 ずるい言い方で反論を封じてから、先輩はなぜか肩を落とす。
「もっとも、わがままを言うだけならいい。ただ、あまり困らせないでくれ。お前が子供でいてくれないと、俺も……扱いに困る」
 絞り出すような言葉が聞こえてきた。
 困ると言われても、私は、先輩が好きだ。この気持ちはどうしようもないくらいに強い。子供でいることを望まれている私が、それをあえて拒み、先輩との間にまだわずか残った距離を縮めてしまいたいと思うのは、いけないことなのだろうか。
 言葉を貰えたのはうれしかった。でも、他のものも欲しいと思った。もう一つ、私たちの関係を肯定する確たる証が欲しいと思った。恋心は貪欲だ。私は、先輩の何もかもを受け止められる自信があった。
 それなのに。
 あとわずかの距離を縮められない私から、先輩は思いきり目を逸らした。

 結局は説き伏せられた格好の私は、おとなしくお風呂場を借りてシャワーを浴びた。そしてパジャマに着替え、髪を乾かしてから居間へ戻る。
 と、先輩の姿はそこにはなかった。代わりに階段と階上の明かりが点いている。私も足音を忍ばせ、二階へと上がる。
 先輩の姿は二階の、畳の部屋の方にあった。わざわざ私の為に、布団を敷いてくれていた。蛍光灯の点る室内で気難しげな顔をしていた。私の足音を聞き付けているはずなのに、こちらには見向きもしなかった。
「先輩、済みました」
 私は声をかけてから部屋に入る。畳を踏み締めると、軋むような音がした。
「布団を敷いてくださったんですね。ありがとうございます」
 先輩の隣に膝をつき、感謝の言葉を述べたのに、先輩は私に背を向けていた。不自然な姿勢であらぬ方を見遣り、ぼそぼそと低い声を立てる。
「別に大したことじゃない。それより、早く寝ろ」
「……そうしますけど」
 私は先輩の思いのほか広い背中を見つめる。抗議の眼差しもこれでは届くまい。
「先輩、おやすみなさいを言わせてください」
「言えばいい」
「顔を見て言いたいんです」
 横から覗き込もうとすると一層背けられる。前に回り込もうとすれば俯かれる。どちらが子供かわからない抵抗ぶりだった。
「今は見られたくない」
 突き放すように先輩は言った。冷たい、拒絶めいた言い方だった。
 扱いに困るのだって私の方かもしれない。先輩は梃子でも動く気配がないから、やむなく私は溜息をつく。
「嫌ならしょうがないですね。……おやすみなさい、先輩」
 落胆した私が布団へ向かおうとしたその時、先輩が不意を打つようにこちらを振り返った。
「あ、先輩――」
 挨拶してくれるんですね、と喜びかけた私の身体は、磁石に引きつけられたように勢いよく動いた。
 先輩が、私を抱き寄せた。片手で、唐突に強く抱き寄せられて、息を呑んだ次の瞬間には、私は先輩の胸元に頬を押しつけられる格好になった。唐突で乱暴なやり方は、挨拶の代わりとは到底思えない。
「ど、どうか、したんですか」
 どぎまぎと問う私に、先輩の返答は素っ気ない。
「別に、どうもしない」
「そうですか……じゃあ、どうして」
「顔を見られたくないからこうしたまでだ」
 答えもまた乱暴だった。そんなのおかしい、と私は思ったけど、動揺しているから声にならなかった。おかしいけど、およそ論理が破綻しているけど、先輩がしたいからこうしたのだったらそれでいい。
 私もされるがまま、抱き締められたままでいた。薄いパジャマの布地越しには先輩の手の冷たさを感じる。耳元には先輩の心臓の音が聞こえる。速いのか遅いのかよくわからない、でも呼吸は少し落ち着きがない。
 遠いようで傍にあり、近いようで時々遠ざかるこの距離。本当に、いっそ縮めてしまいたかった。抱き締めてもらって傍にいるのに、どうしてこれ以上は近づけないのだろう。
 でも、思う。多分先輩も、この距離を縮めたいと思ってくれているはず。それをしないのは先輩が、私のことを子供だと捉えているからなのだろう。私が幼いままだから、躊躇いもするし、気遣いもしてくれるのだろう。そうでなければ、きっと容易いはずだった。私たちの距離を限りなくゼロに近いものにしてしまうことは。だって私には躊躇いも、迷いも何もない。先輩がいてくれたら不安なことはないと思っている。
 こうして抱き寄せられて、少しわかった。私たちの間にあるものは年齢の差だ。たった二つの歳の差が、私を子供に見せてしまう。本当は先輩が思うほど幼くも、純粋でもないのに。
 先輩は私が大人になるまで待っているつもりなのかもしれない。単に踏み切れないだけなのかもしれない。でもどちらにしても、今更先輩の想いを疑うつもりはなかった。十七の私を好ましいと思ってくれているのだから、先輩が望むように、私は全てを受け止める。――時々、先輩が呆れるようなわがままを言いながらも、でも、絶対に離れない。
「……先輩が好きです」
 衝動的に呟いたその一瞬、先輩の身体がびくりと硬直した。
 だけど、何も答えなかった。答える代わりに先輩は私を両手で抱え直して、以前よりかはいくらかスムーズに持ち上げた。あ、と思う間もなく敷いてあった布団の上に寝かされた。抱えて運ばれるとは思わなくて、横たえられる時の顔の近さも、先輩の肘が私の顔の横に一瞬置かれたことにも、いちいちどきっとした。
 それから先輩は、タオルケットをかけてくれた。その時表情を見てやろうと思ったのに、私が視線を上げるより先に、先輩は部屋の明かりを消してしまった。予告もなく、暗くなる。何も見えない。
 私は黙って、携帯電話のアラームをセットした。画面のライトが眩しかった。アラームは明日の朝、五時に合わせる。それから眼鏡を外して、枕元に置く。
 暗がりの中で、微かに気配が動いた。畳を踏み締める音がした。先輩が傍に座ったようだ。すぐにそちらから風が吹いてきた。
「本当に扇いでくださるんですね」
 驚きながら私が言うと、むっとしたような声が聞こえた。
「嘘だと思ったのか」
「いえ。でも、冗談だったのかなって思ってました」
 本当は、口実なのかなとも思った。二つの意味で。私を早く寝かしつけてしまう為に、それから、私の傍にもう少しだけいられるように――半分は希望的観測だけど。
「そんなくだらん冗談は言わない」
 先輩は私の予想を一蹴した。吹いてくる風は柔らかく、涼しい。蒸し暑い夜にはうれしい心遣いだった。
「もしかして、私が寝入るまで扇ぎ続けるつもりですか」
 布団の中から私は尋ねる。
 数秒のタイムラグがあり、先輩は暗闇の中で答えた。
「いいからとっとと寝ろ」
 でも私は眠れる気がしていなかった。本当に、もったいないと強く思った。こんなに近くで先輩の優しさに触れていられる時間を、眠って手放すのは嫌だと思っていた。
 まだ目が慣れない。ぼんやりと白い団扇が動いているのが見えた。それを手にする手と、先輩の着ているシャツの色合いも見えたような気がした。だけど表情は見えない。目を凝らしても見えはしない。
 先輩は今、どんな顔をしているのだろう。どんな思いで、私の傍にいてくれているのだろう。
「先輩」
 私はそっと口にしてから、目を閉じた。目を閉じてもあまり変わらず、ほとんど何も見えない。
「私、本当に先輩が好きです」
 何度目になるかわからない言葉だけど、何度でも繰り返し伝えたかった。今日は不思議と言うのがたやすい。
 また少しの間があった。
「知っている」
 先輩らしい返答に私は少し笑った。更に、続けた。
「本当に大好きです」
 答えに窮したのだろうか、
「わかった。わかったから、いい加減寝ろ」
 先輩は溜息混じりに私を諭す。
 私は柔らかい風を浴びながら微笑み、それから呼吸を整えた。眠る為に――いや、眠ったふりをする為だ。
 どうせ眠れそうになかった。だけど先輩を長く引き止めておけない。先輩だって、私を扇ぎ続けるのは疲れるだろうし、今夜は読書をするつもりだと言っていたから、あまり付き合って貰うのも申し訳ない。
 だから、寝たふりをする。
「おやすみなさい、先輩」
 上手く、眠たそうな声を立てられただろうか。暗闇の中で目を閉じているから、先輩の反応は声でしか窺えない。
「ああ、おやすみ」
 短く、素っ気ない口調で、だけど私の欲しい言葉を先輩はくれた。そう言ってくれた時の表情を見たい、と密かに思った。それでも私は目を閉じ、眠ったふりをすることに集中した。
 先輩が見守ってくれている。だから暗くても、目を閉じていても、何も怖いことなどない。先輩が傍にいてくれたら、きっと不安なことだってないはずだ。先輩もいつかそう思ってくれたらいい。
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