長月(1)
九月の連休を前に、兄から電話があった。仕事が忙しく、今月もこちらには帰れないという知らせだった。
『お盆も結局帰れなかったし、今月は休みが取れると思ったのにな……』
兄は溜息混じりに嘆いていた。
「そう、残念だね」
『本当だよ。だからって平日にまとまった休みが貰えるわけでもないし』
五月に帰省した際、兄は平日にしか休むことができず、学生時代の友人と旧交を温めることも両親とゆっくり過ごすこともできなかった。手持ち無沙汰の兄はせっかくの里帰りを、私の本棚にある愛読書を猛然と読み耽ったり、妹を連れて買い物に出かけたりして過ごすしかなかった。
だから次に帰るなら、できれば皆が休みの時にと言っていたのに――それどころか連休を取ることさえ難しいという状況のようだ。
「社会人って大変なんだね。そんなに休み取れないものなの?」
私が尋ねると、兄は乾いた笑い声を漏らす。
『まあ……元々暦通りじゃない職種だしな。俺もそろそろ諦めがついてきた』
「諦めちゃうんだ……」
『ヒナも勤めに出ればわかるよ。できればお前には、もっと楽な仕事に就いて欲しいけど』
私も大学受験を控え、進路や更にその先の未来について思いを馳せることが多くなってきた。とは言え、就職して社会人として暮らす自分自身の姿はまだ上手く想像できない。兄はそう言うけど、果たして休みが自由に貰える楽な仕事なんてあるものだろうか。
鳴海先輩は、大学を卒業したらどうするのだろう。働きながら作家を目指すつもりだと聞いていたけど、そうなると先輩も会社勤めをするのだろうか。すらりとした長身の先輩ならスーツ姿も、あるいはそれ以外の各種制服姿も、どれでももれなく似合うに違いない。見てみたい。
馳せた思いがあらぬ方へ向かい始めたので、私は現実に立ち返ることにした。
「年末には帰ってこれるといいね」
私は兄にそう告げる。
うちの両親も、五月の帰省ではあまり兄と話ができなかったことを残念がっていた。私自身、兄に会いたい気持ちがないわけではない。近頃は共通の趣味もできたことだし。
『そうだな、頑張るよ。さすがに大晦日は早く店閉めるし、元日は休業だから帰れると思うけど』
兄も言い、そこで声を弾ませた。
『例の作者の新作、買ったはいいけどまだ読めてないんだ。早く読まないとそっちに帰った時、ヒナに貸してやれないからな』
五月の帰省中に私が貸した本を、兄はすっかり気に入ってしまったようだった。シリーズを全て買い揃え、更には同じ作者の新作にも手を出しているらしい。件の新作はハードカバーの単行本で、私にとってはそう気軽に購入できるものではない。こういう点に関しては社会人の兄が羨ましい。もちろんそれは労働への正当な対価があってこその贅沢だから、むやみに羨むつもりはないけど。
何にせよ、兄と趣味が同じというのは幸せなことだ。本も貸してもらえるし、内容について感想だって語り合える。欲を言えばもう少し早いうち、兄がこの家に住んでいた頃にはまってくれたらもっとよかったのに。
「楽しみにしてるね」
私が言うと、兄はなぜか笑った。
『もしお兄ちゃんが帰れなくても、本だけは送るようにするから心配するなよ』
うちの兄も時々素直ではない。男の人というものは総じてこんなものなんだろうか。
「そんな、本だけでいいなんて思ってないよ。お兄ちゃんも帰っておいでよ」
『ならいいけど。……父さんと母さんのこと、よろしくな』
「うん。任せて」
一通りの会話と挨拶を終え、電話を切ろうとしたところで、ふと兄が思い出したように言った。
『そういえば、ヒナ』
「何?」
『先月、旅行に行ったんだって? どこに行ったんだ?』
「――何で、知ってるの?」
実際どきっとしたのもあって、私の声にはさぞ動揺が表れていたことだろう。兄はもう一度笑って答える。
『前に電話した時、母さんから聞いた』
「そ、そうなんだ。えっと……」
『誰と行ったのかって点は追及しないでおいてやるからな』
「……ありがとう、お兄ちゃん」
お礼を言うべきなのかどうかはわからなかったけど、私は一応そう言った。
でもこの分だと、兄はほぼ確実に気づいていることだろう。
『こうなったら次に帰った時は、意地でもヒナの彼氏に会ってやらないとな。家族としてきっちり挨拶が必要だろ?』
最後にそう言い残して兄は電話を切った。
別に怒っていたわけではないようだけど、意味ありげな物言いをされたせいで肝が冷えた。
先月の旅行も、やましいところがあるわけではない。
いや、なくはない。両親には『友達と行く』と嘘をついていたので、その点に関しては非常にやましい。だけど私の友人たちが知りたがっているように、特別何かが起きたというわけではなかった。
むしろ先輩とも、先輩のおばあさんとも、とても真面目な話をした。私は先輩の過去を知り、心のうちを知り、そして先輩が大切にしている人の存在を知った。先輩に深く愛情を注いでいる人がいることも知った。あの寂れた港町で、私たちは優しく幸せな時間を過ごした。
でもやはり、隠し事である以上はやましいことに変わりないのだし、兄に正直に打ち明けたとして、何もかも包み隠さず話せるかと言ったらそうではなかった。
私はまだ、寝たふりをしている時にされたキスを覚えている。
先輩は私が寝ていたと思っているだろうから、秘密にしておかなくてはならないけど。
思い出す度にどきどきして、いても立ってもいられなくなって、だけど何もできずにしゃがみ込んだり、自分の部屋を意味もなくぐるぐる歩き回ったり、枕に顔を埋めて目をぎゅっと閉じてみたりする。
幸せだった。こんなに幸せな恋ができるなんて、去年辺りは想像すらつかなかった。私たちはもうどこからどう見てもごく普通の、どこにでもいるようなありふれた恋人同士だろう。私はすっかり満ち足りていて、先月の記憶だけでどきどきしたり、慌てふためいたり、どうしようもなくなって一人じたばたできるほどだった。
だからというわけではないけど、旅行から帰った後、鳴海先輩とまだ一度も顔を合わせていない。
私は残りの夏休みを受験生らしく過ごさなくてはならなかったし、先輩よりも早く夏休みが明けてしまったから、結局ずっと会いに行く暇がなかった。先輩の夏休みももうじき終わってしまうらしいけど、あれから先輩がどんなふうに日々を過ごしているのか、まだ聞いていなかった。
次に顔を合わせる時までに、この心は落ち着いているだろうか。
何か口実を作ってでも先輩に会いたいという気持ちはいつでもあったけど、こんな落ち着きのない状態で先輩と会えば、秘密を守り通せるかどうかわかったものではない。それなら鳴海先輩からの連絡を待ってみようと思っているうち、あの旅行から一ヶ月が過ぎていた。
会いに行く暇がないのには別の理由もあった。
再来月に催される東高校の文化祭へ向けて、我が文芸部もいよいよ準備を始めていたからだ。
現在の文芸部員は未だたったの三名だ。部長の私の他は、どちらも二年生の有島くんと荒牧さんの二人だけ。私が卒業してしまえばそれこそ二人きりになってしまうのが申し訳ないと思っているけど、もう九月を迎えてしまった以上、私にできることはあまりない。せいぜい文化祭の展示を頑張るくらいしかない。
今年度の展示を見てくれた生徒が、自分も是非こんな物語を書いてみたいと思ってくれて、文芸部の扉を叩いてくれるようなことがあればいいんだけど――三年間在籍していてもそんな機会はまずなかったから、あまり夢を見すぎるのもよくないだろう。
せめて誰に見せても恥ずかしくないものを作り上げたいところだ。
「部長、これ、ありがとうございました」
放課後、部室に入った私に、先に来ていた荒牧さんが文集の束を手渡してくる。
そう呼ばれるのは三年になった今でも一向に慣れなくて、面映く感じてしまう。照れ笑いを噛み殺しながらその文集を受け取った。
「どういたしまして。参考になった?」
「はい。これだけあると読み応えもありましたし、途中からついつい読み耽っちゃいました」
短い髪を揺らして彼女は微笑む。
風が吹けば飛んでいきそうなくらい華奢なせいか、荒牧さんの声は静かであまり響かない。だけど愛嬌があるから暗い印象はなく、私にとっては親しみやすい後輩だった。
彼女がまだ入部したての頃、同じ『あ』で始まる名字の有島くんと間違えて呼んでしまったことが何度かあったのだけど、間違いに気づいて私が謝ると、荒牧さんは気にしてないですと笑顔でかぶりを振ってくれた。その時からずっと、とてもいい子だなと思っている。
「楽しんでもらえてよかった。先輩がたが聞いたら、きっと喜ぶよ」
私も彼女に楽しんでもらえたことが嬉しく、いい気分で文集の束に視線を落とす。
これは私が所有している、昨年度と一昨年度の文芸部の文集だった。我が部では毎年度、文化祭に合わせて部員の作品を集めて載せた文集を作るしきたりがある。ほぼ一年に一度の作品発表とあって、どの部員も腕を振るい、力作をしたためているものだった。もちろん一昨年度の文集には鳴海先輩の硬質で美しい作品も載せられているし、私の作品は二冊ともに、一応載っている。私の書いたものは今読み返すと酷く荒削りで、自分で開いたページを閉じてしまいたくなる衝動に駆られる。仮にも文芸部員だというのに、私は今でも自分で書くことには慣れていなかった。
でも、今年度は高校生活最後の文化祭だ。
当たり前だけど文芸部員として迎える最後の文化祭でもあるし、部長としては最初で最後の、ということになる。終わりよければ全てよしという言葉もあるのだから、今年度は後から読み返しても平気でいられるような、満足のいくものを書き上げたい。そして残していく後輩たちの為にも、恥ずかしくないような文集を作り上げたい。そう思っている。
「だけど、やっぱり厚みが違いますね」
荒牧さんも私の手元に目をやって、改めて感心したような声を上げた。一昨年度の文集は、昨年度の倍くらいの厚みがある。
「これだけたくさん部員がいた頃もあったんですね……」
一昨年は文芸部にも二桁の部員がいて、そのおかげで文集のページ数もそれなりに膨らんでいた。編集作業はそれはもう大変だったけど、こうして仕上がったものを見ると、やはりページ数が多い方が見栄えがするのもしれない。
「今年は三人だけだからね。どうしても薄くなっちゃうかな」
嘆いたつもりはなかったけど、そこで荒牧さんには気遣わしげな顔をされた。
「あっ、でも。今年度は中身で勝負するってことでいいと思います」
「そうだね。中身の濃さが肝要だよ」
彼女の言う通り、たとえページが薄くても作品の出来がよければ、今年度も読み応えのある文集になるだろう。部員が少ないなら少ないなりに、充実させる為の工夫していくしかない。
「それで、文集のことで、こないだ部長が言ってた話ですけど」
荒牧さんは背筋を伸ばし、彼女なりに精一杯の声で続けた。
「私も、部長の案がいいと思うんです。テーマを決めて、皆で競作をするっていうの」
文芸部と一口に言っても、在籍する部員の創作に対する姿勢は様々だった。鳴海先輩のように作家志望の部員も少なくはなかったし、とにかく創作するのが楽しいというだけで部活動を続ける人もいる。私のように、入部するまではまともに作品を作り上げたことがなかった人もちらほらいた。
各々の活動姿勢の違いは昨年度までの文集にも反映されていて、載せられた作品は息の詰まるような薄暗い純文学あり、描写が過激すぎて編集段階で揉めに揉めたホラーあり、はたまたふんわりと優しい童話風のファンタジーありと多種多様だった。読み応えはもちろんあるけど、一気読みをするとまるで文学のごった煮、あるいはバーリトゥードという趣で読了までにいたく体力を使う。それが、それだからこそ面白かったというのも、事実ではあるものの。
しかし今年度はあえて、文集のテーマを統一させようと思いついた。文化祭で気まぐれにでも文芸部の展示に足を踏み入れてくださった方々に、より身近で手に取ってもらいやすいようなテーマを設け、作品はもちろん文集のレイアウトにおいても前面に出して訴えていく方法を取るつもりでいた。
「有島くんともさっき、少し話してたんです」
荒牧さんが言いながら、部室の隅に目を向ける。
テーブルに着いて文庫本を読んでいた有島くんは、だけど名を呼ばれた途端、待ち構えていたように面を上げた。
「俺も、異論なしです。部長案でいいと思います」
男子にしては高い、中性的な声の持ち主だった。もっとも見た目はごく普通の、少年らしい見た目をした男子生徒で、口数が多い人ではないけど話す時ははきはきと話した。荒牧さんとは同じクラスということもあってか、二人で話すこともよくあると聞いている。
「荒牧が文集読んでる時、後ろから覗いてたんですけど」
彼の声はよく通るボーイソプラノだ。それでいて口調はうちのクラスの男子と何ら変わらず、くだけた話し方をする。
「昔の文集って作品一本辺りの分量、結構短めですよね。それなら俺らは一人ずつ少し長めのを書けば、ページ数でも出来栄えでも対抗できるんじゃないですか?」
「対抗かあ」
まるで張り合うように聞こえる物言いに私はちょっと笑ってしまった。でもページ数がある方が見栄えがいいというのもはっきりしているし、悪い案ではないかもしれない。
ネックとなるのは、
「分量増やして書くの、大変じゃない? 私はそれでも構わないけど」
文章量が増えればそれだけ仕上げるのに時間も手間もかかる。私自身、構わないと簡単に言えるほど実力があるわけでもないけど、部長としてもう少し頑張って、きちんと形になった物語を書き上げたいと思っている。
ただ、見栄えを重んじるあまり同じような努力を後輩たちにもさせるのは、複雑なところだ。
私の示した懸念に、有島くんと荒牧さんはお互い顔を見合わせた。それから有島くんの方が言った。
「それも、荒牧と話してました。どうせなら去年一昨年の文集にも負けないものを作ろうぜって」
彼の主張にに荒牧さんも黙って頷いている。
「人数少ないから見劣りするとか思われんの、嫌じゃないですか。だったら俺も荒牧も頑張りますよ。OBが見たらびっくりするくらい出来のいいやつ、作りたいです」
どうやら二人はとてもやる気があるらしい。そしてとってもしっかりした子たちだ。私も見習わないといけない。
そうなれば部長としても、張り切らずにはいられないだろう。
「じゃあ、そうしようか」
私は答え、二人に対して更に告げた。
「ありがとう。二人が張り切ってくれてるおかげで、すごくいい文集ができそうだよ」
「いえ、私は全然、何もしてないですし……」
はにかむ荒牧さんとは反対に、有島くんはさらりと言った。
「お礼は文集が仕上がってからでいいですよ、部長」
性格的にはそれこそ対照的に見える二人だけど、意外と仲がいいようだ。おかげで三人だけの部活動は常に穏やかで、空気もよかった。
あとは部長として、先輩として、何か残していけるものがあればいいんだけど――そんな考えがちらりと頭を掠めた時だ。
「あ、そうだ。部長、もう一個いいですか」
文庫本を再び開こうとしていた有島くんが、ふと思い出した様子で言った。
「ページ増やす件で更に考えてたんですけど、文集にゲストとか呼べないですかね」
「ゲスト? 寄稿してもらうってこと?」
「そうです。うちの部のOBで都合つく人に声かけて、とか」
彼はそこまで言ってから、どこか恥じ入るように笑んだ。
「いや、部長が負担じゃなければでいいんですけど。何か、文集盛り上げたいんですって言ったら一人くらい寄稿してくれる先輩が出てくるんじゃないかって思って」
「うーん……」
OBと言って、心当たりのある相手は一人しかいない。
悲しいことだけど、他のOB、OGとは卒業を境にあっさり疎遠になってしまった。元々、私が鳴海先輩と付き合っているという状況を皆によく思われていなかったのもあるし、以来遠巻きにされている自覚もあったので、そんなものだろうと諦めもついている。
というわけで、頼むのなら鳴海先輩しかいないだろう。あの先輩がこちらの依頼にどう答えるかは私にも読めないところだけど、大学生は忙しいというし、競作となるとさしもの先輩も、テーマ次第では難色を示すかもしれない。
「一応、誰かに聞いてみるね。どうせなら人数多いほうがいいし」
そう返事をしながら、私は先輩にどう切り出そうか、今から考え始めていた。