神無月(7)
座卓の上には水筒と、重箱が置かれている。水筒の中身は秋の気温を考えて温かいお茶にしたそうだ。マグカップに注いでもらうとまだ熱いくらいで、ゆらゆら湯気が立ちのぼった。
重箱の方は、立派な二段重ねだった。まさか重箱で出てくるとは思わなくて私が呆然としていたら、鳴海先輩が言い訳するように口を開く。
「適当な弁当箱がなかっただけだ。そこまで張り切ったつもりはない」
先輩はそう主張していたけど、目の当たりにした私は恐縮せずにいられなかった。
「もしかして、すごく早起きして作ってくれたのでは……」
「そうでもない。気に病むな」
追及を避けるように言い切ると、先輩は重箱の蓋を開ける。私も中身が気になっていたので、一旦黙って先輩の動作を見守った。
重箱の上の段にはお弁当らしいおかずが詰められている。アスパラのベーコン巻きに厚焼き卵、小さくて丸いコロッケに春巻きと、どれもこんがりいい焼き色、揚げ色がついていた。しかも各メニューには食べやすいようにプラスチックのピックが刺さっていて、先輩がピクニックに配慮してくれたことが十分窺えた。下の段には海苔を巻いたおにぎりといなり寿司が整然と並んでいて、もれなくとても美味しそうだった。
「全部、先輩が作ったんですよね」
「当然だ」
「すごい……先輩は揚げ物もできるんですね。素敵です」
尊敬の念と同時に焦燥感が湧き起こる。私もいつかは先輩にサンドイッチとお菓子以外の手料理を、などと考えてはいたけど、これだけ何でも作れてしまう人に対して一体何を作ったらいいのだろうか。ありきたりな献立では先輩に『自分で作った方が早い』と思われてしまうかもしれない。
もっとも、先輩はどうってことなさそうに答えていた。
「感心されるような話か? このくらい、どこの家でも作るものじゃないのか」
「うちの母なら作りますけど……私はもう、知っての通りからっきしですから」
「澄江さんは揚げ物を食べない。だから食べたければ、自分で作るしかなかった」
言われてみれば、八月の旅行の際に先輩が作った澄江さんの好物という献立は、どれもがあっさりした味わいの和食メニューだった。お年を召した方なら揚げ物はあまり好まないだろうし、先輩が作るようになったのも自然な流れなのかもしれない。
ところで、鳴海先輩と澄江さんが一緒に暮らしていた期間は一体どのくらいなのだろう。東高校に在籍していた頃は実家に住んでいたそうだけど、揚げ物ができるようになる年齢までというなら、中学生くらいまでは向こうにいたのかもしれない。先輩が家を出たがったのにはそういう事情もあったのだろうかと内心思う。澄江さんの話をする時の先輩はやはり穏やかな面持ちをしていて、眺めている私まで心が安らいだ。
「……食べないのか? 早くしないと夕飯が入らなくなるぞ」
鳴海先輩が私の内心を察知したように急かしてくる。私としてもお腹は大変に空いていたので、すぐさま手を合わせた。
「いただきます」
それから作ってくれた人の気持ちに報いるべく、存分に味わうことにした。
以前ご飯をいただいた時と同じように、今日のお弁当もとても美味しく仕上がっていた。おにぎりはちょうどいい塩加減だし、いなり寿司の油揚げもよく味が染みていた。アスパラのベーコン巻きは香ばしくて食べごたえがあったし、厚焼き卵はほんのり甘くて、ほっとする味つけだった。
「美味しいです」
いくつか食べて、私が感想を述べるまで、鳴海先輩はじっと私を見守っていた。そして感想を聞くと、満足げな顔をした。
「口に合ったならよかった。お前の為に作ったものだからな」
「ありがとうございます、先輩」
「どういたしまして。俺も一人で食べるよりは、お前と一緒の方が楽しい」
心なしか、今日の先輩は口が軽いようだった。いつもならあの薄い唇はコンクリートの塊よりも重そうなのに、今はするすると言葉が滑り出てくる。浮かれているのだろうか。浮かれている鳴海先輩というのもこれまでは見たことがなかったし、想像するのも大変難しかったけど、なるほどこんなふうになるのかと得心する思いだった。
せっかくのいい雰囲気だ。私も乗っかって、話題を振ってみることにする。
「先輩も卵焼きにはお砂糖入れて、甘くするんですか」
「ああ。口に合わないか?」
「いえ、私は甘いのが好きです。先輩もそうなんですか?」
甘いのが苦手な人だから、塩味にするのかと思っていた。私が意外そうにしたからか、先輩はまるで照れているように眉根を寄せる。
「澄江さんがこういうふうに作るから、俺も同じようにしている」
「へえ。じゃあこの卵焼きは、澄江さんの味なんですね」
「そういうことだ。甘いのは苦手だが、こればかりは甘くないと落ち着かない」
先輩の新しい一面をまた知ってしまった。今日はとてもいい日だ。
甘いと言えば、お弁当に入っていた丸いコロッケの中身はかぼちゃだった。これも程よい甘さでほくほくしていて、私の好みにぴったりだった。
「お前が好きそうだから、かぼちゃのコロッケにした」
鳴海先輩は私の好みをとてもよくご存知だ。それはそれで幸せなものだった。
「とっても美味しいです。それに秋らしくていいですね」
「よかった。秋らしいというなら、そっちの春巻きもそうだ」
「あ、いただきます」
勧められたので春巻きを取って口に運ぶ。ぱりっとした皮の中には歯ごたえのいいきのこが入っていて、確かに秋らしい春巻きだと納得した。おまけにこれもすごく美味しい。私は無言で二つ食べきってしまってから、先輩が見守っているのに気づき慌てて感想を述べた。
「お、美味しいです。……すみません、黙って食べてしまって」
「いや、何よりの感想だ」
どこか安堵したように先輩は言った。
その後も私は、先輩がせっかく作ってくれたのだからと大いに食べ、秋の味覚満載のお弁当を堪能した。先輩はどんどん隙間ができていく重箱と、隙間の作成者である私の健啖ぶりに目を瞠っていたけど、先輩自身もお腹が空いていたようで負けず劣らずたくさん食べていた。
「何だか、肩の荷が下りたような気分だ」
食事をしながら、先輩がふと呟く。
薄い唇に、今は軽く微笑が浮かんでいた。幸せそうな笑い方をしていた。
「思えば、自惚れていたんだろう。どんな苦悩も自分ひとりでどうにかできると考えて、それで行き詰まっていたというんだから、滑稽なことこの上ないな。初めからきちんとお前に話しておけばよかった」
独白とも、私に対しての言葉ともつかないその呟きの後、鳴海先輩は私を見てまた微笑んだ。
「お前はいつでも、俺の話を聞いてくれていたのにな」
私はその言葉に心から頷いた。私は先輩から話を、その本心を聞きたいといつも思ってきた。だから先輩がくれるどんな言葉も一つ残らず拾い集めてきたつもりだけど、裏に隠された真意までも全てを理解できていたかどうかは怪しいものだ。
もちろん今までそうしてきたように、先輩の言葉の断片をパズルのように継ぎ合わせて内心を推し測るのもいいだろう。私は先輩の回りくどい言葉も決して嫌いではないし、それが途方もなく美しく感じたこともある。でも時にはわかりやすいくらいの言葉が欲しい。先輩の本心を誤魔化さず余さず伝えてくれる言葉があれば、私はあれこれ考えて回り道をせずにすむだろうし、きっと先輩だって同じことだろう。
今日の出来事が好例だ。私たちはたまに、わかりやすいくらいでもいいと思う。
幸せを噛み締める私が微笑を返すと、鳴海先輩はぱっと赤面した。にわかに慌しく視線を逸らす。
「……だが、しばらくは別の悩みに苦しめられそうだ」
もごもごと低い声でぼやき出した。
「その、今日のことを後でふと、思い出してしまいそうで……」
それはまあ、やむを得ないと言うか。誰しもそんなものだと思うし、私だってあの旅行の後はずっとそんな感じだったのだから明日以降の思い出しようも推して知るべきだろう。私たちは今頃になってようやく、普通の恋人同士らしい気恥ずかしくてありふれていて、少しくだらないかもしれない悩みを抱えるようになったみたいだ。
さすがに今、こうして向き合って食卓を囲んでいる時に思い出させなくてもいいのに、とは思うけど――私が居た堪れない思いで先輩を注視したせいか、先輩はいっそうあたふたし始めた。
「い、今はまだ、おかしなことは考えていない。思い出したりもしていない」
「そんなに慌てなくてもいいです先輩。私は別に軽蔑しませんから」
「そもそも思い出すと言っても変な意味じゃない。誤解をするな」
「じゃあどういう意味なんですか」
慌てふためく先輩が可愛くて、私は小悪魔の気分で問い質す。いつもならここで怒ってみせるはずの先輩は、怒り方を忘れたみたいにまくし立てた。
「だからそれはつまり、もしお前のことばかり考えて暮らす日々が来てしまったらどうしようかということであって、至って健全な考えでしかない――いや、お前のことを考えている時点でさして健全でもないか……とにかく、そういうことだ!」
いっそ、そんな日々が本当に来てしまえばいいのに。私は真っ先にそう思ったけど、これから少しの間は先輩に寂しい思いをさせてしまうかもしれない。
「毎日じゃなくて、程々くらいだったらいいんじゃないでしょうか」
軽い気持ちで口を挟んだら、先輩には恨めしげな顔をされてしまった。
「簡単に言うな。俺はお前のことに関しては考え出すと底なしなんだ」
「そ、底なし、なんですか……!」
「いい時間を過ごした後ほどそうなる。おかげで明日以降の反動が恐ろしい」
実に恐ろしげに先輩は言ったけど、聞きようによってはとんでもない殺し文句だ。
どうやら先輩も、今日がとてもいい、幸せな日だと思ってくれているようだった。
遅い昼食を済ませた後、私はせめてもの恩返しにと皿洗いを申し出た。
鳴海先輩は『余計な気を遣うな』と言ってくれたけど、お弁当を作ってもらってただ美味しくいただくだけというのもかえって肩身が狭いものだ。そう主張したら先輩も私の気持ちを汲んでくれたのか、割とすんなり台所へ通してくれた。
私が流しで重箱や水筒を洗う間、先輩はコンロでお湯を沸かしていた。残っていたチョコレートの為に、また紅茶を入れてくれるそうだ。
外はまだ雨が降り続いている。ともすればお湯が沸く音に掻き消されそうな弱い雨音だったけど、耳を澄ませば確かに聞こえた。
「雨、結局止みませんでしたね」
食器をスポンジで擦りながら私は言った。でもピクニックに行けなくて残念だった、という気持ちは、今はない。むしろ雨が降ってくれてよかったと、天気に感謝したいくらいだった。
「またどこかでピクニックに行けばいい」
先輩は一度はそう言ったけど、その後で少し不安げな声になる。
「だが、近頃気温が下がってきた。暖かくなってからの方がいいだろうな」
「それだと随分先の話になりそうですよ」
「風邪を引くよりはいい。面倒事が片づいてから花見をするというのはどうだ」
来年の話をしたら鬼に笑われてしまうだろうか。でも先輩と一緒に、満開の桜の下でお花見というのも何だか素敵だ。その時までにはもう少し料理ができるようになっていたいけど。
いや、その前に。その時にはちゃんと大学生になっていないと。
「桜が咲いてるといいんですけど……二重の意味で」
私は軽く笑った。
でも先輩は、笑わなかった。
「お前なら大丈夫だ。待っているから、早く来い」
私の志望校は、先輩の進学先でもある大学だった。もちろん志望学科や学費、学内の環境、及び実家からの通学というあらゆる観点で好条件が揃った大学なので、先輩を追い駆けて受験するわけではない。決してない。
……ないのだけど、クラスの友人たちには私が先輩を追い駆けて受験するのだと思い込まれているようだし、恐らく先輩自身もそう思っているのだろう。我ながら行動原理が見え透いているようだ。上手いこと合格したらその時こそ開き直ろうと企てている。
鳴海先輩が待っていてくれるのだから、頑張らないわけにはいかない。その為にもピクニックはしばらくお預けだ。この部屋に次に来るのも、当分は先の話になるだろう。
「私、頑張ります」
泡だらけになった重箱や取り皿をお湯で洗い流しつつ、私は威勢よく宣言した。
「受験が済んだら、またデートしてくださいね、先輩」
そう告げた時、ちょうどお湯が沸いたらしく先輩がコンロの火を止めた。流し台とちょうど向き合う位置に置かれた食器棚へと足を向けたようで、視界の隅で姿がちらっと見切れた。
と思いきや、いきなり顔を覗き込まれた。あ、と思っている間に前髪を軽く持ち上げられ、額にキスされた。先輩の唇はぬるま湯のような温かさで、でも私がびっくりした時にはもう唇は離れ、先輩はこちらに背を向け食器棚の戸を開けていた。
「な……ど、どうしたんですか、先輩」
重箱の隅に溜まった小さな泡を追い払う、私の指先が震えていた。あえてそちらを向かずに尋ねたせいか、返ってきたのは割かし平坦な声だった。
「何か理由が要るのか、こういうことをするのに」
「要らないですけど……結構、びっくりするって言うか……」
「なら、今日くらいいいだろう。馬鹿みたいに振る舞ったって罰は当たらん」
馬鹿みたいだなんて私はちっとも思わないし、今日と言わずいつもでもいいくらいだ。ただいざされてみると案外心臓に悪くて、思ったような反応は取れなかったりする。今も、目を閉じる暇さえなかった。
「どうせ今日はもうすぐ終わる。お前を帰さなきゃいけなくなる」
窓の外では早くも日が暮れ始めていた。腕時計を気にする先輩が寂しがってくれているのはよくわかった。
私だって寂しい。帰りたくない気分だったけど、そうもいかないのは重々承知している。
「文化祭には来てくれるんですよね? もちろんその前に、またOB訪問してもらえたらもっと嬉しいです」
だから自分自身に言い聞かせるみたいに言うと、先輩は短く鼻で笑った。
「気休めのつもりか」
「私に会えるのに嬉しくないんですか?」
尋ねられれば先輩は少し黙り、考え込んでいたようだ。やがて溜息が聞こえた。
「……次に会う時は、どんな顔をして会えばいいんだろうな」
それは私にとっても重大な悩み事だ。今でこそ思ったより普通にしているけど、日を置いたらどうなっているか自分でもわからない。お互いに顔も合わせられないくらいうろたえてしまうかもしれない。
そうこうしているうちに全ての食器をすすぎ終えた。先輩から借り受けたかや織りふきんで食器を拭きながら、私はあえて話題を少しずらしてみる。
「言いましたっけ。私のクラス、文化祭では劇をやるんですよ」
「初耳だ。演目は?」
「シンデレラです。私の役は意地悪なお姉さんです」
「また随分不似合いな役になったものだ。ちゃんと務まるんだろうな」
鳴海先輩は部の後輩たちと同じ反応をした。これは私の演技力に不安を持たれているのではなく、私の人柄が評価されているのだと前向きに捉えたい部分だ。
「それで、舞台ではドレスを着ようと思ってるんです。と言っても手持ちの服を工夫して作ったり、アクセサリーでそれらしく着飾ったりする、手作り感いっぱいのドレスなんですけどね。上手くできたら先輩にも見てもらいたいです」
その時、先輩は何て言うだろう。ストレートな誉め言葉がかけられるほどの出来にはならないだろうけど、ちょっとくらいは誉めてもらえたらいいと思う。もっともそれも芝居の出来次第だろうから、台詞はとちらないようにしなくてはならない。
先輩は紅茶を入れながら、ちらりと横目で私を見た。それから言った。
「ちょうどいい。誕生日のプレゼントを何にしようか、聞こうと思っていた」
「え……あの、お弁当をいただきましたから」
十分ですと言いかけた時、今度は頭を掴んで引き寄せられ、唇にキスされた。
ほんの一瞬、暑くも冷たくもない唇が触れたかと思うと、すぐに離れた。そのまま私の目を覗くように至近距離から、先輩が改めて尋ねてくる。
「アクセサリーが必要なんだろう。俺もお前に身につけてもらえるものを贈りたい」
先輩の眼差しはいつものように鋭いのに、冷たい感じがしない。それどころか高い熱に浮かされているようで、でも揺らぐことなく私を真っ直ぐに見つめていて、たった今のキスの衝撃とも相まってどぎまぎしてしまう。
「ほ、本当に、どうしたんですか先輩……!」
「何がだ。去年のプレゼントだって似たような品だったじゃないか」
「いえ、そっちじゃなくて……あの、別にいいんですけど……」
私が口ごもったのを先輩は、プレゼントに対する肯定の返事と受け取ったようだ。
「どんなものがいいか考えておけ。文化祭に間に合うようにな」
そう言い残すと二人分のティーカップを手に、台所を出て行った。私もそわそわしつつ食器を全て拭いてしまうと、慌てて先輩の後を追う。
先輩はすっかり片づいた座卓の上に二つのカップを並べて置くと、床の上に腰を下ろした。
私も座卓を挟んで反対側に座った。だけどその途端、真向かいからは少し尖った声が飛んできた。
「離れて座るな。カップはこっちに置いた」
食事の時は差し向かいで座ったのに、紅茶の入ったカップは隣り合うみたいに並んでいた。先輩は自分が座る床のすぐ隣を指差し、私は素直にそちらへ座り直した。肩がぶつかるほど近くで隣り合い、私たちは一緒に紅茶を飲む。
鳴海先輩は満ち足りた様子で私の顔を見下ろしている。
「しかし、劇でもドレスを着て、なおかつ文芸部でも仮装をするとはな。お前には変身願望でもあったのか」
尋ねてきた先輩は楽しそうでもあり、浮かれているようでもあり、幸せそうでもあった。馬鹿みたいな振る舞いと自分では言っていたけど、こんなにずっと幸せそうにしている先輩は見たことがないから、おかしいとか、間違っているわけではないのだと思う。
「最後の文化祭ですから。やりたいことは全部やっておこうと思ったんです」
最高の材料ばかりが揃った。鳴海先輩に寄稿をお願いできて、後輩たちもとても張り切っていた。仮装の準備も着々と進んでおり、後輩二人はいかにして鳴海先輩をスムーズに仮装させるかというアイディア出しにも大いに協力してくれた。クラスの劇も楽しいものになりそうだし、ドレスの支度も整い始めている。
東高校で迎える、最後の文化祭だ。最後の青春、になるのかもしれない。私はその時を鳴海先輩と迎えられるのが、とても嬉しかった。
「先輩も必ず来てくださいね」
私の念押しに対し、しかし先輩は少しだけ不審そうにした。
「仮装の件は、まだ承諾したわけではないんだがな」
「やりましょうよ、先輩も。絶対楽しいですよ」
「保留にさせてくれ。今日はお前に対して、甘い顔をしそうになる」
そこですんなり落ちないのが鳴海先輩という人だ。私はどうやって口説き落とそうかと先輩の顔を見上げたけど、表情だけならもう陥落しているようにも映るから厄介だった。
この人は、こんなに幸せそうな顔をしてくれるんだ。知らなかった。
「……先輩の、寄稿原稿の件ですけど」
先輩の体温を感じながら、温かい紅茶を味わいながら、私はずっと引っ掛かっていた事柄を切り出した。
「前に読ませてもらった時、上手く感想が言えなかったんですけど」
「そうだったな」
「その、今でも上手く言えそうにないんですけど……先輩にとっての青春って、ああいう感じなのかなって思って、それが何て言うか、寂しかったんです」
「寂しい?」
先輩は眉を顰めて聞き返してくる。
私は差し出口かと思いつつ、頷いて続きを話す。
「そうです。先輩は青春を寂しくて、陰鬱なものと捉えているのかと……いえ、そういうお話だというのは百も承知なんですけど、もし先輩自身がそう考えているのなら、そんなことはないんじゃないかな、って思ったって言うか……」
別に明るい話を書いてくれとお願いしたわけではないし、それは私の勝手な思いだろう。だけどやっぱり、今の先輩にああいう暗い青春は似合わない気がした。あの頃とは違い、先輩はもっと幸せで、暖かくも明るい光の中にいると思いたかった。
すると先輩は顰めた眉のまま、紅茶を一口飲んだ。それからカップを卓上に置き、大きな手のひらで私の頬にそっと触れる。
「雛子、俺はな」
「は、……はい」
「誰かに聞いてもらいたくて書いている、と前に話したな。だからお前の話を書こうとは思わない」
断言されて呆気に取られる私をよそに、先輩は淡々と語を継いだ。
「お前の話は他人にしたい話じゃない。俺が独り占めしたい話だからだ」
「えっ、あの、せ、先輩?」
とんでもないことを言われたような気がして私は狼狽した。でも先輩は平然と、当たり前のようにしている。
「それに仮にお前の話を書いたとしても、賭けてもいい。ただの惚気にしかならん」
そう言うと先輩は私から手を離し、更にもう一口紅茶を飲む。
そうしてまた微笑んだ。
「だから俺の書くものはあれでいい。たとえつくりものの人間相手であってもお前を渡したくはないし、お前が出てくる物語を誰にも読ませたくはない。そういうことだ」
もしかすると、いや考えるまでもなく――鳴海先輩の人生のページにも、いたるところに私の名前がたくさん、たくさん書いてあるのかもしれない。
今頃になって、十八歳になってようやくそのことに気づいた私は、まだまだ読者としても未熟だと思い知らされる羽目にもなった。
でもいつかは先輩にとって、最良で最高の読者になりたい。先輩が紡ぎ出すつくりものの物語も、本物の物語も、どちらも読ませてもらえるような読者でありたい。
そして私もまた、私らしい物語を紡いで、先輩に余すところなく読んでもらいたいと思う。
私はその後も一時間ほど、鳴海先輩の部屋にいた。
先輩は私を抱き締めてくれたり、髪を撫でてくれたり、何度かキスしてくれたりして普通の恋人同士らしく過ごした。
今日を境に私たちは変わるだろうか。それとも次に会った時には、またわかりにくい先輩に戻ってしまっているだろうか。今の私にはまだ想像もつかない。
でも私は十八歳になった。そしてその誕生日を、とても幸せに過ごすことができた。
今のところはそれだけで十分だし、もしも元通りの私たちになってしまっても、今日みたいな日が再び、必ずやって来る。そう信じている。
だって鳴海先輩も、私が先輩を想うのと同じように、私のことが好きなんだから。