霜月(1)
秋の終わりが近づいていた。登下校にはマフラーと手袋が欠かせなくなり、校内にいる時もカーディガンを羽織るようになった。通学に使う電車の中では咳き込む人をちらほら見かけ始めていて、母からは電車に乗っている間だけでもとマスクの着用を勧められた。用心には用心を重ね、インフルエンザの予防接種も済ませた。
冬の訪れは私にとって、と言うより受験を志す全国の高校三年生にとって重大な意味のあるものだ。気が引き締まる思いと共に、さすがにプレッシャーも感じる。
だからこそ十一月に迎える文化祭には格別の思い入れがあった。三年間の高校生活を締めくくる、最後の学校行事。クラスや部活動の皆と味わう最後のお祭り騒ぎ。高校生としてめぐり会うことのできる、最後の青春風景。私はこの日を心ゆくまで楽しもうと決めていた。
そしてできるなら、時間の許す限りは鳴海先輩と一緒に過ごせたらと思っていた。
その鳴海先輩とは、先月の誕生日以来、ずっと顔を合わせていなかった。
もちろん、通う学校が違うのだから顔を合わせる機会がないのは当たり前だろう。今回ばかりは私も、先輩が既に大学生になっていてくれてよかったと思っていた。なぜかと言えば、同じ高校の同じ部活に所属していようものなら特に約束がなくても登校の度、あるいは放課後の部活動の度に顔を合わせることになっただろうからだ。普段ならそういうのも楽しかっただろうな、などと浮かれた考えでいられたけど、今回ばかりは――。
あの忘れがたい誕生日の翌日、私は登校しながらしみじみ思った。もしも先輩が私のクラスメイトだったら、教室で鉢合わせた瞬間に目も当てられない事態となっていただろう。やはり鳴海先輩は私の先輩でいてくれるのが一番いいのかもしれない。
あの日以来一度として顔を見ていない先輩は、それでも誕生日以降、メールを毎日欠かさずに送ってくれていた。
メールの文面は以前と何ら変わりなく、手紙のように体裁を整えて丁寧な文章で送られてきた。風邪を引いていないか、栄養や睡眠を取っているかと私の体調を案じてくれたり、受験勉強の進捗状況や文化祭の準備について気にしてくれたりと優しさに溢れていた。当然のように誕生日の出来事に触れてくるようなことはなく、あの日に先輩が見せたような吹っ切れたとも、浮かれているとも言える態度を匂わせることさえなかった。メールの上では全く、いつもの生真面目な先輩のままだった。
私の方も、あの日の記憶についてメールの中で触れようとは決して思わなかった。そもそもそんなこと、ぼかしても書けそうにない。先輩のメールに目立った変化がないのをいいことに、私も胸に渦巻く様々な感情や嘘偽りない想いを書き連ねるような真似はせず、ただひたすら私を案じてくれる先輩への感謝を強調して返信していた。その変化のないやり取りに私はほっとしつつ、何だかかえって意識しているような感覚にも囚われた。あえて触れまいと思っている事柄を、実は何より気にして、考えすぎているように思えてならなかった。
普段通り、以前と同じようにと心がけていればいるほど、私はあの日の記憶を迂闊にも呼び覚ましては一人うろたえてしまう。脳の再生装置は随分と優秀で、望む望まないにかかわらずまるで本で読んだように鮮明に場面を思い浮かべることができた。受験勉強でもこのくらい丸暗記できたらいいのに、日常生活に支障があるような記憶ばかり思い出す。おかげで何度か、家族やクラスメイトに発熱を疑われてしまった。
果たして鳴海先輩はどうなのだろう。あれから私のことを何回かは思い出してくれているだろうか。メールの文面から察するに、次に会う時はまたわかりにくい先輩に戻っていそうな予感がするけど、その胸中はいかばかりか。知りたいような、知ってしまうと余計に恥ずかしくなりそうな、複雑な気分だった。
すると十一月に入ってすぐの晩、鳴海先輩は珍しくメールではなく電話をかけてきた。
携帯電話の画面に表示された先輩の名前に、私の心臓は勢いよく跳ねた。
メールではなくわざわざ電話でなんて、一体どんな用事だろう。震える手で電話を取り、大きく息を吸い込んでから言った。
「も、もしもし、先輩ですか?」
『……ああ。久し振りだ』
私の第一声は思いっきり裏返っていたけど、先輩の声も緊張しているように聞こえた。
『しばらく連絡せずにいて、済まなかったな』
そして真っ先に謝られたから、私は見えもしないのに大慌てでかぶりを振る。
「いいんですよそんな! あ、連絡しなくていいってことじゃないですけど、あの、ほら、メールはしょっちゅう貰ってて嬉しかったです。それは確かに久々に声を聞けたこともすごく嬉しいって思ってますけど、えっと……」
先輩の言葉を否定するつもりが、自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。思わず黙るとたった数秒の沈黙が耳に痛くなり、何か言わなくてはと気ばかり焦る。
「……す、すみません。何か私、変ですよね」
結局、こちらからも謝った。
心なしか、電話の向こうで先輩が笑ったように聞こえた。
『気にするな。俺もいささか緊張している』
「先輩もですか、よかったです……いえ、よかったっていうのも妙ですけど」
『そうだな』
今度は短く、だけど聞き取れるくらいの声で先輩は笑った。
それからためらいがちに言葉を継いでいく。
『連絡をしなければとずっと思っていた。確かにメールはしていたが、それだけではあまりに不誠実だろう。しかし何の用もないのに電話をするのも、受験生のお前には申し訳ない。それでしばらく迷っていた』
先輩はそう言うけど、先輩の誠実さは毎日のメールにもよく表れている。私としてもさすがに毎日電話をするだけの時間的余裕はないから、このくらいがちょうどよかった。
「私は先輩がどういう人か、ちゃんと知っていますから」
そう告げたら、先輩はわずかに間を置いた後で、言った。
『本当はずっと、お前と直に話がしたかった』
声自体はいつものように熱の感じられない、淡々とした先輩の声だった。だけど心地よいその声が今みたいな言葉を紡ぐと、夢でも見ているのではないかという気になって、どうしていいのかわからなくなってしまう。
『だが一度電話をしたら、歯止めが利かなくなりそうな気もしていた』
鳴海先輩は、いつか言葉で私を殺してしまえるだろう。
今の言葉は確実に心臓を止めに来た、実に殺傷力の高い一言だった。すんでのところで致命傷を免れたはずの私は、それでも返事すらできずに口をぱくぱくさせていた。
『……なぜ黙っている』
返事に窮する私を、先輩は尖った口調で責めてくる。
「いえ、別に、何でもないんですけど……」
『何でもないようには聞こえない。言いたいことがあるなら言え』
「すみません。何て言うか、先輩にそういうこと言われるの、慣れてなくて」
正直に打ち明ければ、向こうも言葉に詰まったようだ。息を呑む気配がした。
『そうか。俺も、我ながら随分と包み隠さず語っていると思う』
「はい……もちろんそれがよくないってことでは決してないんですけど」
私はいつでも先輩の本心が知りたかった。なのにいざ言われてみると心臓がどきどきして、息さえできなくなってしまう。わかりにくくて素直じゃないと思っていた人の心のうちが、こんなにも熱と甘さに溢れていたなんて、誰が想像できるだろうか。先輩の綴る文章からさえ窺えなかった、新しい一面だった。
『本音を語れる相手がいるのが、こんなにもいい気分だとは知らなかった』
続いた先輩の言葉はほんの少し切なくも感じられたけど、その分は私が埋め合わせてこれから幸せにすればいいだけの話だ。
私が密かに決意する傍で、先輩はふと思い出したように言った。
『……いや、そういう話は会ってからするべきだな。今日は別に用件があったんだ』
居住まいを正すような雰囲気に、私も思わず背筋を伸ばす。
「どんなご用ですか、先輩」
『寄稿の件だ。完成稿が仕上がったので届けに行きたい』
「お疲れ様です! それと、この度は本当にありがとうございます」
改めて私がお礼を言うと、先輩は『ああ』と短く答えた。
それから、
『ついでに……と言うよりこちらも重要な用件だが、プレゼントを渡したい』
と続ける。
プレゼントというのは先月話していた、私への誕生日プレゼントだった。去年と同じようにアクセサリーがいいんじゃないかと先輩が言うので、私も恐る恐る、ステージ映えしそうなイヤリングをお願いしてみた。舞踏会に行ってダンスをするのだから、耳元でちりちり揺れるイヤリングはきっと映えると思う。
『すっかり遅くなってしまったが、お前の希望通りの品を用意した』
「ありがとうございます、先輩。散財させてしまってすみません」
四月の先輩の誕生日のことを思い出しながら告げたら、先輩も察したようでむっつりと言い返された。
『大した額じゃない。余計な気を遣うな』
「来年は私からも何か贈らせてくださいね」
『要らない。お前がいればいい』
さらりと再び私の呼吸を止めた先輩は、その後で何事もなかったように尋ねてくる。
『それで、いつなら空いている? 暇がないようなら帰り際にでも迎えに行く』
「え、ええと……また部室に来ますか? 今、ちょっと手狭になってますけど」
文化祭の準備は滞りなく進んでいて、文芸部の部室は書き割りのセットやら看板やら仮装衣裳やらでいち早くお祭り騒ぎの様相を呈していた。そんなところに人を招くのは恥ずかしいけど、OBともなれば話は別だ。
『部室だと後輩たちがいるだろう。そこではさすがにな』
先輩はそこで言葉を濁した。
『お前には今更、どんな顔を見せても気にする必要はないだろうが……他の人間には見せられん。こうして久し振りに顔を合わせるとなれば尚更だ』
そういうふうに言われるとこちらまで緊張してくる。先輩は一体どんな顔をして現われるのだろう。私は当然、普通にしていられる自信がない。
もっとも、だからと言って会いたくないわけではなかった。
「じゃあ、明日ならどうですか?」
私は予定を頭の中で整理しながら切り出した。
「明日は後輩たちがクラスの方の手伝いに出てて、部活に出られないんだそうです。私も劇の練習があるから、それなら部活は休みにしようかって話していたんですけど」
どうも荒牧さんたちのクラスは足並みが揃わないようで、既に十一月に入った今頃になって準備が滞っていると発覚したらしい。ほとんど手伝わなくてよかったはずの後輩二人も急遽駆り出されることになってしまい、今日の放課後、二人から頭を下げられたばかりだった。文芸部の方は準備も順調だったから、一日二日休んだところで問題はない。ちょうど明日はC組の劇の練習もあって、これが結構体力を使うので、いい機会とばかりに部活を休むことにした。
こんなふうに、東高校の空気はどこもかしこも文化祭一色に染まっている。多少のいざこざやトラブル、慌しさはどこにだってあるものだけど、後夜祭を迎える頃にはそれなりにいい思い出へと変わっていることだろう。
「劇の練習は五時に終わるんです。その後でよければ部室開けておきますから」
『わかった。五時過ぎにそちらへ向かう』
先輩は私の提案を承諾した後、急に声を落とした。
『しかし、雛子。先に言っておくが、俺の顔を見ても笑うなよ』
「どうして、私が笑うって思うんですか?」
『大槻には散々笑われた。顔に出ていると言われた』
その言葉に私はとても驚いた。先輩は一体、私のいないところではどんな顔をして過ごしているんだろうか。
『あいつはこういうことに関しては、気持ち悪いくらい洞察力に優れている。問い質してくるのを突っ撥ねてやったが、向こうは向こうでわかった気になっているのが非常に腹立たしい』
先輩はとても悔しそうに愚痴を零す。
日常風景が垣間見えるようで微笑ましくも羨ましくもあるけど、次に大槻さんと顔を合わせる時は私まで恥ずかしいだろうな、という予感もしていた。
翌日、約束通り五時過ぎに鳴海先輩はやってきた。
ノックの音の直後にドアを開けると、明らかに気まずげな面持ちの先輩が立っていた。ただ私の顔を見た途端、心配そうな表情になる。
「どうした、疲れてるのか」
「ちょっとだけ……。練習、結構ハードなんです」
クラスで劇の練習をしてきた後で、私はそこそこくたびれていた。迫真の演技力が求められるようなお芝居ではないものの、声が出せないことにはどうしようもない。そしてお腹から声を出すというのはなかなかに体力を使うものだった。
それでも高校生活最後の文化祭だけあって、シンデレラの劇に取り組むC組は不思議なくらいの熱気に溢れていた。一部の配役はくじ引きで決まっただけあり、あまり乗り気ではない子も何人かいたけど、そういう子たちもいつの間にか練習に打ち込むようになっていた。
「肺活量を鍛えておけばよかったって、今頃思っているところです」
部室の椅子に座り込みながら私が言うと、こちらを見下ろす先輩が苦笑いを浮かべる。
「泥縄にも程がある」
「全くです」
笑うなと言われていた顔は、今のところ特別変わったところもない。どことなく柔らかいかもしれない、という程度だった。
「そういうことなら長居はしない。お前も早めに帰って、少しでも休んだ方がいい」
真面目な調子でそう言うと、先輩は鞄を開けた。
中からは原稿の束の他、包装紙に包まれ水色のリボンがかけられた小さな箱が取り出された。先輩は私の顔をもう一度見てから、小さな箱の方を先に手渡してきた。
「これを見てもらってからでなければ他のことが手につかん。開けてみてくれ」
「あ……ありがとうございます、先輩」
私はおずおずとそれを受け取り、手元に先輩の視線を感じつつプレゼントのリボンを解く。包装紙を破かないように剥がすと、触り心地のいいスエード調の小箱が現われる。どきどきしながら蓋を開けてみると、中には白くすべすべしたしずく型のイヤリングが一対、柔らかな台座に並んでいた。
「きれい……! これ、すごく素敵ですね」
上品な白さのイヤリングを、私は一目で気に入ってしまった。現金な話だけど疲れも一気に吹き飛んだ気分だ。
「触ってみてもいいですか?」
「聞くまでもない。それはもうお前のものだ」
先輩に笑われながら、私はイヤリングを片方だけ指先で摘み上げた。そして慎重に目の前で軽く揺らしてみる。光沢のある白いイヤリングは蛍光灯の光に照らすと、うっすら虹色に光っていた。
「もしかして、貝殻でできてるんですか?」
私の問いに先輩は頷く。
「ああ。白蝶貝だ」
「とってもきれいです。本当にありがとうございます、先輩!」
「どういたしまして。高いものじゃなくて申し訳ないくらいだが」
値段なんて関係ない。こんなにきれいなんだから。
それにこのイヤリングを鳴海先輩が、私の為に選んでくれた。それが何より大事なことだ。どんなことを考えながらこれに決めたのか、考えてみても興味深い。
「白い貝殻のイヤリングなんて、森のくまさんを思い出しますね」
そう口走ってから、私は熊の耳を生やした鳴海先輩の姿を想像してみた。細身の先輩に熊のイメージはないけど、ともかくも想像しているのがわかってしまったのか、先輩は呆れたように言った。
「それより、せっかく買ってきたんだ。つけてみないのか?」
「こういうのは先輩がつけてくれるのだとばかり思ってました」
「……仕方ないな。貸してみろ」
意外とあっさり請け負った先輩はこちらに歩み寄り、私の手からイヤリングを受け取ると、椅子に座る私の右横へ屈んだ。少し冷たい指先が私の耳たぶの厚さを確かめるように触れた後、すぐに硬い金具の感触が触れてきた。
私はその時の先輩の表情を盗み見ようとしてみた。だけどあいにく眼鏡のフレームの外に先輩の姿があり、視線をそちらに向けただけでは上手く見えなかった。首を動かそうとしたら咎められた。
「動くな」
「すみません」
私が詫びた時、右耳に軽い何かがぶら下がったような感覚があった。ゆっくり頭を動かしてみたら、ちり、と微かに揺れた。
先輩は今度は私の左側に回り、同じように耳に触れ、そしてイヤリングを留めようとする。息を詰めているのか、こんなに近くにいるのに呼吸の音が聞こえない。それでもそう長くは止めていられなかったらしく、ふとした拍子に苦しげな息を吐いた。首筋をくすぐられたようで、動くなと言われていたにもかかわらず私は首を竦めてしまった。たちまち左耳から金属の感触が離れ、先輩が今度は私にかからないよう静かに嘆息する。
「本当にすみません」
「別にいい。今のは俺も悪かった」
気にしていないそぶりで応じた先輩は、今度は私の左耳にも見事イヤリングを留めてくれた。両耳に等しく揺れる感覚があり、頭を振ればどちら側からも鈴の音のような音がした。
「ありがとうございます。……似合いますか?」
私は立ち上がる先輩にお礼を言い、そして尋ねた。イヤリングをつけてもらっておいて誉め言葉まで催促するのは図々しいと自分でも思うけど、それもプレゼントのうちだ。
先輩は高い位置から椅子に座る私を見下ろしている。にこりともしない、真剣な面持ちだった。鋭い眼差しは検分するように熱心にこちらを向いていた。
「よく似合う。あとはステージ上でどう見えるかだな」
「先輩に見立ててもらったなら大丈夫ですよ。舞踏会でも人目を引きそうです」
「お前が引いてどうする。王子がお前を選んだら、話が酷いことになるぞ」
「とんだ番狂わせですね」
シンデレラは有名な物語だし、そんなパロディもどこかにはありそうだけど。私は声を立てて笑った。
でも鳴海先輩は笑わずに、しばらく黙って私を見ていた。
それから少しして、
「人目を、引くだろうな。こんなにきれいで滑らかだ」
ふと呟くのが聞こえ、私は頷いた。
「そうですよね。こんなに素敵なものを選ぶなんて、さすがは先輩です」
「全くだ」
短く同意を示した先輩はふと、見下ろす位置から私の首の後ろに手を伸ばしたかと思うと、指先で軽く触れてきた。冷たいような気がする指の腹でそうっと、首筋をなぞるように撫でた。突然のことに、ぞわぞわと背中がひとりでに震えた。
「何するんですか」
私がさっきのように首を竦めると、先輩はなぜかはっとしたように指を離した。何となくきまり悪そうにしている。
「いや、特に何も……。気にするな、ちょっと触ってみたくなっただけだ」
こちらとしても先輩に触られるのが嫌だというわけではない。咎めたのもくすぐったかったからであって、本気で拒絶したつもりもなかった。でも、『触ってみたかった』と言われると妙に――すごく、妙な感じがする。
「ここ、学校ですよ」
口にしてしまってから、しまった、と私は思う。そういうふうに言うのは何だか、かえって意識しているみたいじゃないだろうか。
部室の中には文化祭用に準備をしたあれこれが雑多に詰め込まれていてごみごみしており、ある種の非日常感があった。午後五時を過ぎ、外は既に真っ暗で、ガラス窓には蛍光灯の白い光が映り込んでいる。図書館のすぐ隣にあるこの部屋はいつもひっそりと静かで、おまけに今はここに、先輩と私の二人だけしかいなかった。そういった、妙な感じの要素が集まっているせいか、あるいはもっと別の要因のせいか、私の気分もどこか掴みどころがなくふわふわしている。
「わかっている。別に、何をしようとしたわけでも……」
先輩は私の指摘にやはり慌てふためいていた。頬を赤らめていたから、もしかすると同じことを思い出しているのかと思うとこの場から逃げ出したくなってきた。私も同じくらい赤くなっているはずだった。
「……先輩、あの」
「何だ」
「今日のところは早く帰りましょうか」
「そうだな。その方がいい」
鳴海先輩は深々と、実に素早く頷いた。
原稿のチェックを手早く済ませた後、私と先輩は揃って学校を出た。
イヤリングは早々に外して鞄にしまい、出番のある日までは大切に保管しておくつもりだった。そのうちデートにもつけていこう。
「随分くたびれているようだが、大丈夫か」
先輩は足を引きずるように歩く私を気遣ってくれた。座っている間はそれほどでもなかったけど、駅までの道を歩いてみるとどっと疲れが押し寄せてきた。それでも先輩が、今日は先輩の方から手を繋いでくれたので、それを励みに頑張って歩いた。
「電車が家まで走ってくれたらいいのにって思ってます」
「横着なことを言うな」
叱る口調とは裏腹に、鳴海先輩はそっと目を細めた。
「しかし、それだけ疲れていると車内で寝てしまわないか心配になるな」
「やったことはありますよ。プール授業の後とか……」
「それで乗り過ごしたりはしないのか?」
「今のところはどうにか平気です。駅の名前聞くと、ぱっと目が覚めるんです」
私は明るく言ったつもりだけど、先輩にはかえって不安げにされてしまう。
「単に運がよかっただけじゃないのか」
「かもしれないですね」
「どうせなら俺が、家まで送ってやろうか」
先輩のその申し出はとてもありがたいし、嬉しかったけど、現実的に考えてそこまでしてもらうのは手間がかかりすぎるし申し訳ない。そもそも先輩の部屋は駅よりも東高校に近いところにあって、こうして駅まで歩くのだって本来なら遠回りをしているからだ。
「お気持ちだけで十分です。優しいんですね、先輩」
そう言って私は繋いだ手にちょっと力を込めてみる。こうして繋いでいると、手袋が要らないくらい温かくなる。
「帰ったらちゃんとメールしますから」
先輩を安心させたかったから、私は進んで約束をした。
だけど先輩がどこまで安心してくれたかわからない。駅構内に入り、私が改札をくぐるまでずっと、改札の外で見送ってくれていた。一度振り向いてみたら、まだ真面目な顔でこちらを見ていた。
そこで私が軽く手を振ると、先輩にはちょっとだけ、笑われた。