佐藤さんが離れた時間
修学旅行の二日目以降、バスでの移動が苦痛となった。理由は単純だ。隣の補助席に佐藤さんが座っている。
あの一日目の夜以来、僕と佐藤さんは全く口を利いていなかった。佐藤さんが僕をどう思っているのかはわからないけど、嫌われていてもおかしくないくらいだった。僕の発言は軽率で、確実に佐藤さんを傷つけた。
しばらくは佐藤さんの顔を見ることすらできなかった。強烈な罪悪感が先立って、謝るどころじゃなかった。ひたすら彼女の方を見ないようにしていた。彼女が他の女子と話す声が聞こえてくる度に、息苦しくてしょうがなかった。当然、修学旅行なんて楽しんでる余裕もなかった。
何であんなことを言ってしまったんだろう。
わかっていたくせに。佐藤さんがあの時、何を望んでいたのか。僕にどうして欲しかったのかを。
佐藤さんは、肯定して欲しかったはずだ。
『変に思うかもしれないけど、そう思ったとしても、聞いてくれたら嬉しい』
そう語ったその言葉が全てだ。
他には何も要らなかっただろうと思う。僕が一言、『素敵な恋愛をしてるんだね』とわかったようなことを口にすれば丸く収まったはずだった。揺れている佐藤さんを無難な、当たり障りのない台詞で励まして、優しく接してやればいいだけだった。
不安を抱いているところに、それを煽るような第三者の発言なんて、絶対に望んでいなかっただろう。何を知ってるわけでもない僕に否定されるなんてもってのほかだっただろう。なのにどうしてそれを、素直に言ってあげられなかったのか。
僕の背中を押したのは、猜疑心だった。
僕は佐藤さんの話を聞いた時――いや、保健室で彼女の言葉を聞いた時から、思っていたんだ。佐藤さんを待たせて、不安な思いにさせるなんて、酷い奴もいたもんだ、って。
だけど今となっては、僕ほどの極悪人はいないように思う。僕は彼女を傷つけ、彼女の想いを否定した。僕を信頼して打ち明けてくれたのに、それを理解できないと切り捨てた。酷すぎる、嫌な奴だった。
何も知らない部外者のくせに、よくもそんなことが言えたもんだ。別に顔も知らない相手を好きになったって構わないじゃないか。そうやって結ばれてる人だっているって聞く。佐藤さんは優しくて、人の外見なんか気にしない、見てくれで人を判断しない子だ。そんな彼女が惹かれた相手がとても優しい人だと言うなら、佐藤さんが幸せなら、それでいいはずじゃないか。
クラスメイトとして、隣の席で少し話すだけの間柄として、それだけでいいはずだった。
でもこの期に及んでも僕は、ひねくれたことを思っている。
佐藤さんがそいつのこと、好きじゃなくなればいいのに。不安を抱えながら誰かを想うくらいなら、止めちゃえばいいのにって。
似合わないんだ、佐藤さんには絶対に似合わない。そうやって不安そうにしながら恋愛をすることも。誰かを想うのに言い訳を重ねることも。誰にも迷惑はかけてない、と彼女は言った。確かにそうだろう。でも、その言い種は佐藤さんらしくなかった。
僕がずっと見てきた佐藤さんは地味でとろくて気が利かなくて、おまけに美人でもないけど、素直で、飾らず、人のことを思い遣れる子だった。彼女の不器用さのせいでいろんな失敗があって、いろんな辛い目にも遭っていたようだったけど、佐藤さんはいつだって前向きだった。笑ってばかりでもなく、落ち込むこともあったけど、自分のすることに言い訳をしてみせるような子じゃなかった。
自分で肯定し切れないような、そんな恋愛ならしなきゃいいのに。
佐藤さんにはもっと、明るいのが向いてる。叶うか叶わないかは関係なく、ただひたすらに誰かを想って、その人の為に気の利かない子なりに、いろいろ親切にしてるくらいがちょうどいい。空回りして面倒を引き起こしても、彼女なら自分で笑い飛ばせるだろうと思う。
身勝手な願いなのはわかっていた。僕にそんなことを思う資格がないことも、わかっていた。
だけど僕は三泊四日の修学旅行の間中、佐藤さんのことをそんなふうに考えていた。
修学旅行最終日、僕らは空港で最後の自由時間を得た。
自由時間と言っても本当にわずかで、お土産を選んで買うだけがせいぜいだ。もっとも僕は家族へのお土産を買い忘れていたので、その時間を有効活用させてもらうことにした。
修学旅行前、佐藤さんは言っていた。お土産物屋さんでいいところを知ってるから教えてあげる、って。でも、それは叶わなかった。自業自得の罪で、僕は今更、慌ててお土産を選ぶ羽目になっている。
同じ班の連中が買っていたものを教えてもらって、その銘柄を探した。だけど空港のお土産物屋さんは他の生徒や観光客で混んでいて、棚を見て歩くのも大変だった。
「……山口くん」
ざわめきの中で声がした。
僕ははっとして口を結ぶ。
振り返る勇気はなかった。何せこの修学旅行の間中、ずっと避け続けてきた彼女の声だ。どんな顔をしているか、どんな言葉をかけられるかなんて、想像もつかない。
お土産のお菓子が並ぶ棚の前、僕の隣に佐藤さんが立つ。彼女は僕の方を見なかった。
僕が横目で窺ったのを知ってか、ほんの少し笑いながら、棚をじっと見つめたまま言った。
「よかったら、お土産選ぶの手伝ってあげようか」
ぎこちない声だ。
あの夜の出来事を思い出し、僕は緊張した。
「ありがたいけど……せっかくの自由時間なのに」
たどたどしく答えた僕に、彼女はまだ笑っている。無理のある笑い方だった。そんなふうにさせているのは、全て僕のせいだった。
「ううん、いいの。私は暇だから。それに……」
佐藤さんの手がすっと伸びて、棚からお菓子の箱を一つ取った。有名な北海道銘菓のラングドシャだ。
「それに、山口くんの力になりたかったから」
彼女の声が、そう言った。
「もし迷惑じゃなければ、だけど。よかったら選ぶの、手伝わせて」
眼差しが真っ直ぐに僕を見た。鋭くもなければ厳しくもない、でも強い視線だった。
逃げ出したくなる気持ちを堪えて、僕はその視線を受け止める。
「迷惑じゃないよ」
ないまぜになったいろんな気持ちの整理がついていない。でも頷いた。今度こそは佐藤さんを精一杯、肯定しようと思った。
「迷惑なんかじゃない。だから、手伝ってくれないかな」
佐藤さんは、今度は柔らかく、自然に笑った。
その笑顔が僕に、再び後悔の念を抱かせた。