ふたりでバレンタイン
「バレンタインのチョコ作るから、しばらくお台所使うね!」みゆがそう宣言したので、僕は今年もチョコレートをもらえるという事実が確定した。
もらえないとも思ってなかったけど。彼女は高校を卒業してからも毎年チョコをくれていた。ただ今年は一緒に住み始めて迎えるバレンタインだったから、どんなふうになるんだろうと思っていたら――すぐ傍で作ってもらえることになった。
「何を作るのか聞いてもいい?」
「ミルクレープにするつもりなの」
僕の質問にも、彼女はあっさり答えてくれる。
「クリームとチョコを塗って冷やして、ぱりぱり食感にしたいなって思ってるんだ」
全く隠すことなく盛大なネタバレをされ、逆に楽しみが募った。それはすごくおいしそうだ。
「何か手伝いが必要だったら言ってよ」
そう告げたらさすがに笑われた。
「うーん、もしかしたら味見をお願いするかも」
野暮な申し出だったか。
それなら僕もおとなしく完成を待つことにしよう。
程なくして彼女がクレープ生地を焼き始めたらしく、バニラのいい匂いがリビングに漂い出した。
たちまち僕もお腹が空いてきて、それを紛らわすようにタブレットで読書を始める。だけどつい開いてしまうのは料理雑誌のお菓子づくりレシピで、余計に空腹を掻き立ててくるから困った。
ちょうど雑誌もバレンタイン特集をやっていて、掲載されているのもポピュラーなチョコレート菓子たちだ。
その中にフォンダンショコラのレシピを見つけ、懐かしいなとふと思う。
「高校の時にもらったフォンダンショコラもおいしかったよ」
僕がキッチンに向かって告げると、みゆが笑いまじりの声で応じた。
「あの時はごめんね、凍らせてて」
「いや、おいしかったから問題ないよ」
びっくりはしたけど。
彼女が宅配便で送ってきたフォンダンショコラは、もらったはいいけどどうやって食べるのかもわからないくらい、かっちかちに凍っていた。それで僕は電話をかけて、どういうことなのか尋ねたんだ。
それ以前に、なんで送って寄越すんだろうって疑問もあったからだけど。
「あのチョコ、C組のみんなと作ったからね。おいしくて当然だと思うな」
みゆは朗らかな口調で続ける。
「卒業前に集まって何かしたいねって話になって、それで女子のみんなでチョコ作ることになったの。先生に届けに行ったりもしたし、いい思い出になったな」
僕もその話はちらっと聞いていた。卒業直前にしてC組女子がいやに結束するようになったなと思ったら、そういう経緯があったらしい。
女の子はそういうところがうらやましい。僕を含め、当時のC組男子は卒業を間近に控えたからといって特に結束することもなかったし、みんなで担任の工藤先生にお礼を言いに行こうという考えすら浮かばなかった。もちろん卒業の折に個人的な挨拶はしたけど。
「僕らも何かすればよかったな、ホワイトデーとか」
実現できたかはさておいてそうぼやけば、みゆがまた笑った。
「C組のみんな、お菓子づくりとかしたかな?」
「しないだろうな……」
外崎、新嶋といったガサツな面々の顔がまず浮かんで、僕は肩をすくめる。
「そうだよね。篤史くんがリーダーシップ取ることになってたかも」
「僕だってお菓子はあんまり得意じゃないからなあ」
ホワイトデーを抜きにしても、あの面々と『卒業前にみんなで結束して何かしよう』などという熱血っぽいことができるとは思えない。やっぱり実現は不可能だっただろう。
高校時代のクラスメイトとは何人かと未だに連絡を取り合っているし、バイト先のコンビニでよく顔を合わせるのもいる。去年は小規模ながら同窓会もした。今度はもっと人数を集めて、という話も持ち上がっていて、それは近いうちに実現されるだろう。
だけどそういう思い出が僕の中ではっきり息づいているのも、それを共有できる相手が傍にいるからなのかもしれない。そうでなければもっとおぼろげな記憶になっていたように思う。少なくともバレンタインの出来事は、みゆのおかげで強く印象づいていた。
あの時もらったフォンダンショコラの味も、未だに覚えている。
どきどきさせられた分、最高に甘くておいしかった。
ミルクレープが完成したのはそれから三時間ほど後のことだった。
生地を焼いて、クリームやチョコを挟んで重ねるまではすぐだったそうだが、冷やし固める時間が必要だったそうだ。その間、部屋に残るバニラの香りに食欲を刺激され続けた僕は、お預け食らった犬みたいな心境だった。それでも一応おとなしく、みゆのお許しが出るのを今か今かと待ち構えていた。
「はい、どうぞ。バレンタインのチョコです!」
ホールのミルクレープを冷蔵庫から運んできた彼女が、目の前で切り分けてくれた。
包丁がぱりぱりと音を立てながら沈み込み、断面が十何層にも重ねられたきれいなミルクレープが一切れ、丁寧に皿の上へ置かれた。真っ白い生クリームとチョコレートが、きつね色の生地の合間に交互に重ねられている。
「ありがとう。すごくおいしそうだね」
僕の言葉に、みゆが二、三度まばたきをする。
「お口に合うといいんだけど……私も一緒に食べていい?」
「もちろん、ふたりで食べよう」
独り占めするつもりはなかったし、一緒に食べたほうがよりおいしい。僕らはふたりでテーブルを囲んだ。
そしてフォークで一口切り分け、早速口に運ぶ。
僕が食べるのを、みゆはフォークも持たずにじっと見つめてくる。熱い視線を浴びる中で食べた一口め、クレープ生地はしっとりとやわらかく、薄く塗られたチョコはぱりぱりしていて、軽めの生クリームは口の中でしゅわっと溶けていく。とてもおいしい。
「すごくおいしいよ、何切れでも食べられそうだ」
僕が褒めると彼女はようやくほっとしたようで、自らも一口食べてから微笑んだ。
「よかった、思ったとおりの食感になってて……」
思ったとおりどころか、想像以上にいい出来だ。僕はうれしくなって一切れあっという間に食べてしまうと、お替わりを彼女にねだった。
「なんて贅沢なバレンタインなんだろう……」
そして二切れめを食べながら、ミルクレープと共に幸せをかみしめる。
「目の前でケーキを作ってもらえて、しかもおいしくて。これは一緒に住んでるからこそ味わえるバレンタインだね」
チョコを宅配便で送ってもらう必要もない。もらえるのかどうかを気にして、当日はらはらする必要だってない。そして食べてすぐに感想を告げられる。同棲中のバレンタインはいいことずくめだ。
――と思った僕をよそに、みゆはちょっと小首をかしげた。
「本当? 篤史くんはそう思ってくれるの?」
「もちろんだよ。どうして?」
「だって、目の前でお菓子を作ったらちょっとネタバレっていうか、サプライズ感ないかなって思ったから……」
そんなこと気にしてたのか。
自分から思いっきりネタバレしてたから、てっきりオープンで行きたいのかと思っていた。
「サプライズ感がなくても楽しいよ」
僕は力を込めて告げる。
「むしろ、これからはこうやってバレンタインを過ごすことになるのかなって思ったな。みゆがお菓子を作ってる間もいろいろおしゃべりしたり、ふたりで一緒に食べたり……去年までとは違う、これはこれで幸せなバレンタインだよ」
他の行事と同じように、バレンタインデーだって毎年やってくる。
来年も再来年もこんなふうに、みゆと過ごせたらきっと楽しい。サプライズはしにくくなるかもしれないけど、その分バレンタインの最初から最後までを一緒に楽しめるようになる。
「そっか……篤史くん、ありがとう」
みゆはうれしそうに目を細め、安堵の溜息と共に続けた。
「篤史くんがそう思ってくれてすごくうれしいな。実はサプライズしようかどうか、直前まで迷ってて」
「いや、したいなら別にしてもいいんだよ」
「でも一緒に住んでたら隠しきれないじゃない? お菓子焼いたら匂いでわかるし」
それはまあ確かに。
「前もって作るにしても、篤史くんに家空けてもらったらばれるし、かといってそのために実家帰るのもちょっと恥ずかしいし……」
けっこう、いろんなことで悩んでたんだな。バレンタインともなると、やっぱりサプライズをしたくなるものなんだろうか。
難しい顔つきのみゆに、僕は笑いをこらえながら告げる。
「僕はもらえるだけでうれしいって言っておくよ。みゆの気持ち、ちゃんと伝わったから」
「本当? 何か特別なこととかしなくてもいい?」
「大丈夫。十分してもらったよ」
僕は一旦うなづいたけど、直前のみゆの言葉が気になった。
それでこっそり聞いてみる。
「特別なことって、たとえば何をしてもらえたの?」
こちらの期待をよそに、みゆは特に何も考えていなかったらしい。動きを止めてはたと考え込み、それからしばらく悩んだ後、お皿の上のミルクレープを見た。
数秒の間があって、ミルクレープを一口ぶんフォークに載せた彼女が、それをそっと差し出してきた。
「はい、あーん……とか……」
「ええ!?」
衝撃の行動だった。
こんなベタな新婚さんみたいな真似、もちろんしたこともされたこともない。みゆがするとも思っていなかった。
とは言えこれは彼女にとっても思い切った行動だったようだ。すでにその顔は発熱したみたいに真っ赤だったし、フォークはミルクレープごとぷるぷる震えている。固まる僕からだんだん視線を逸らし、しまいにはうつむいてしまう。
「ご、ごめんなさい……」
「あ、いや、謝らなくても! 食べる! 食べるよ!」
僕は彼女のフォークにぱくっと食らいつく。
その瞬間までうつむいていればいいものを、タイミングよく顔を上げた彼女と目が合って――見つめあうのも慣れてるはずなのに、この時ばかりはさすがにお互い、目を逸らした。
「ごめん……篤史くん、ありがとう……」
「こ、こちらこそ……」
何がこちらこそなのか。
自分でも訳がわからないと思うけど実際わかってないんだから仕方ない。慣れないことはするものじゃない。とは言え彼女がしたがってるのに相手をしないのもどうかと思うし――ああもう何がなんだか。
ただ、今年のミルクレープの味も忘れないってことは確かだ。
どきどきさせられた分、最高に甘くておいしかった。