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ふたりで幸せな日々

 春の訪れを最も実感するのは、朝、ベッドの中にいる時かもしれない。
 冬のうちは凍てつくようだった室温もすっかり和らいで、カーテンの隙間からこぼれる陽射しがほんのり温かい。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、二度寝を誘う環境が整っているのがこの時期だ。
 休日なのにいつもの時間に目が覚めて、でも休みだから寝てていいよなと思う。至福の瞬間だった。
 隣には、みゆも寝ているし。

 寝る時は結わえず下ろしている髪が、こちら向きに眠る彼女の顔を半分覆い隠している。
 僕はその髪をそっとかき上げ、現れた穏やかな寝顔に呼びかけた。
「みゆ」
 佐藤みゆき。だから『みゆ』。かわいい名前だ。
 もう一年半以上も口にしてきたから、僕の中でもこの呼び方がすっかり馴染んでしまった。以前はずっと『佐藤さん』と呼んでいたけど、今ではそんな他人行儀にはできない。みゆのほうが呼びやすいくらいだった。
 僕の声がささやくほどに小さかったからか、彼女は寝入ったまま微動だにしなかった。
 乾いた唇はわずかに開き、代わりに目は安心しきったように閉じていて、枕にくっつけた頬にはほんのり赤みが差している。出会ってからはもちろんのこと、一緒に住み始めても日毎に違う表情や一面を見せてくれる彼女だけど、寝顔のあどけなさだけは変わらないように見える。
 彼女が安心して眠りに就ける日が続けばいいと、今でも同じように思う。

 この一年間、ずっとそう思い続けてきた。
 僕がそのために何ができるかもずっと考えていた。同棲を始めたばかりの頃は我ながら少々気負っているところもあって、規則正しい生活を送ろう、きちんと三食取って栄養バランスも考えよう、などと真面目に考えていた。もちろんそれは悪いことじゃない、むしろ正しい考えだと思う。
 でも、僕はこの一年でもっと楽なやり方を覚えた。
 やり方というよりも、生き方といっていいかもしれない。
 みゆの隣で日々を重ねて、穏やかに、幸せに過ごしていくための生き方。それは全然難しいことじゃなかった。

「ん……」
 黙って寝顔を見つめている僕の前で、みゆがかすかな声を漏らした。
 白い眉間に柔らかくしわが寄り、黒い睫毛が震えるように動く。僕が手を伸ばして髪を撫でると、みゆは心地よさそうに微笑んでから目を開けずに言った。
「篤史くん……いま、なんじ……?」
 それで僕もようやく携帯電話に手を伸ばす。
 時刻は八時二十分、休日だからアラームは切ってある。
「まだ八時過ぎだよ」
「そっかあ……」
 彼女はむにゃむにゃと返事をして、布団の中で僕にしがみついてくる。僕のパジャマの胸元に頬をすり寄せる姿は本当にただの甘えん坊で、起きている時には見られないものだ。
 僕もすっかり慣れたもので、彼女を抱き締め返して背中をさすりながら囁く。
「予定もないし、もう少し寝ようよ」
「そうするー……」
 みゆは一切ためらうことなくそう言って、程なくしてまたすやすや寝息を立て始めた。二度寝というにはあまりにも短いお目覚めだったけど、きっとあと一時間は起きないだろう。
「……おやすみ、みゆ」
 僕は彼女の額にキスをする。もちろん返事はなかったけど、ほんの少し彼女の唇がゆるんだのはわかった。
 そして彼女が寝入るのを見届けた僕も、つられて眠くなってきた。腕に抱え込んだ体温は春の陽みたいにぽかぽかと暖かく、心地いい。ベッドの中で柔らかいみゆの身体を抱き締めていると、他には何もいらないという気さえしてくる。
 みゆが起きるまでは寝ていよう。今日は急ぐ用事もないし、せっかくの二度寝日和だ。
 それに目覚めた時、隣に僕がいたほうがみゆも喜ぶ。
 僕も全く同じ気持ちだけど。

 規則正しい生活だってそりゃあ大事だ。
 睡眠をきちんと取らなければたちまちガタが来るし、三食しっかり取る方が身体にいいのもわかっている。同棲してからみゆが体調を崩した、なんてことになったらお母さんたちに合わせる顔がなくなってしまうし、その辺りは僕も心を砕いてきたつもりだった。
 でも同時に、肩の力を抜く日も作るようにした。
 休みの日、みゆがまだ寝ていたいと言ったら付き合って二度寝する。朝寝坊をした時はブランチを楽しむ。そうして規則を破ったりしても気に病んだり、反省したりはしない。そういう日もあるんだって思えばいい。
 一番大事なことさえ守れていればそれでいいんだ。

 結局、僕らはこの日十時までだらだらと眠り、トーストにサラダに目玉焼きというブランチを楽しんだ後で、ふらりと買い物に出た。
 みゆがエネルギー源だと公言するオレンジジュースが切れてしまったから、それだけ買ってすぐ帰ってくるつもりだった。でも外を歩いていたら公園の桜が咲き始めていて、それを見たとたん、彼女がうれしそうに提案してきた。
「せっかくだからお買い物のついでにお花見しない?」
「いいね、そうしよう」
 僕に異論があるはずもない。僕だって桜は、特に彼女と見る桜は大好きなんだ。
 かくして僕らは買い物袋を提げたまま少しだけ足を延ばし、母校である東高校へと向かった。休日とあって校門前はひと気もなく閑散としていたけど、音楽室の窓からは吹奏楽部の音合わせのハーモニーが聴こえていた。校舎裏のグラウンドには野球部が練習中らしく、バットが球を跳ね返す小気味よい音も響いてくる。
 そして校庭の桜は三分咲きといったところだろうか。春らしいかすんだ青空の下、薄いピンク色の花とそれより赤みの強いつぼみが混在する、花束みたいな桜が立っている。並木の桜はどれも同じくらいの開花状況だったけど、この日当たりのよさならあと少しで見頃を迎えることだろう。
「今年も春が来たね」
 みゆが言って、大きく息を吸い込む。
「春の匂いもするよ」
 僕も倣って深呼吸をする。新鮮な緑と懐かしい土の匂いが混ざりあった、この時季らしい匂いがした。
「桜も、今年もちゃんと咲いたね」
「そうだね……」
 僕らは今年も母校の桜を見上げる。
 高校時代は教室の窓から見下ろしていた並木道も、今ではこうして見上げるだけだ。それでもあの頃と同じ桜を、あの頃と同じように彼女の隣で見ている。その事実は変わらない。
 そして今年の桜はあの頃よりも、去年よりもずっときれいだ。
「また今年も一緒に見れたね」
 みゆがそう言って笑うから、僕はあえて強く主張する。
「来年だって一緒に見るよ。再来年もその先も、ずっとだ」
「うん、わかってる」
 彼女はなおも笑って続けた。
「わかってるから……毎年確かめたくなるの。今年も一緒だったね篤史くん、って」
 その言葉には大きな安堵と実感が込められているようで、僕もなんだかほっとする。
 僕はちゃんと彼女を幸せにできてるんだなって、わかるのがうれしい。
 だから僕は彼女の手を握って、春の陽射しみたいな体温を離さないように力を込めて、きょとんとする彼女の顔を見つめながら告げる。
「来年も一緒に桜を見よう。きっと今年とは違って見えるよ」
 来年も僕らは一緒にいるだろうけど、今とは違う僕らになっているはずだ。僕は大学を卒業しているだろうし――必ずするつもりだし、就職先だって決まっておきたい。そうして今よりももっと具体的に将来のことを考えはじめているだろうし、もしかすればその考えにはっきり目標ができている頃かもしれない。
 ずっと隣にいるために。
 でも今年の僕らは将来に希望を抱きつつ、春の陽の暖かさに甘えるような休日を過ごしている。それもまた幸せだ。そして同棲生活において大切な、肩の力の抜き方だ。
「うん」
 みゆがうなづき、桜の花みたいに表情をほころばせる。
「約束だよ!」
 こういうふうに、彼女を笑顔にすること。
 同棲生活において最も大切なことはそれだ。みゆの笑顔さえ守れたら僕は幸せだし、あとのことはできることだけすればいい。振り返ってみればこの一年、僕はそうやってみゆの隣で幸せな日々を積み重ねてきたじゃないか。
 だからこれからも、そうやって生きていけばいい。
 そして少しずつ、ふたりで歩く未来のことを考えていけばいい。

 やがて僕らは手を繋いだまま、並木道を歩き出す。
 来年も見に来る約束の桜と、すぐ隣にいる彼女の笑顔を目に焼きつけながら。
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