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ふたりで鍋

 幸いにして、みゆの熱は二日目の夜には下がった。
 もっともそこまでの病状も決して楽ではなく、初日は熱にうなされながらも一時間おきに目覚めていたようだし、僕も冷却シートや氷枕を替えるので忙しかった。食欲もなかなか戻らず、水分を取るのがやっとの様子だった。
 二日目以降、バニラアイス、おかゆ、煮込みうどんと少しずつ食べ物を固形に戻していって、三日目の昼には白米を普通に食べられるまでに回復していた。

「よかった、ご飯がおいしい……」
 白米に梅干し、豆腐の味噌汁だけの質素な食事にも、みゆはしみじみと感動している。
 その様子にはほっとしつつ、ここ数日ですっかりやつれてしまった姿には胸が痛んだ。心なしか頬がこけているようにさえ見える。
「まだ病み上がりだから、無理はしないほうがいい」
 僕はそう前置きして、さらに続けた。
「焦らず、少しずつ体力取り戻していくようにしよう。まだ出勤できないんだし」
「うん。その辺歩くことから始めるつもり」
 みゆも神妙な面持ちだった。
 何せ昨日まで臥せっていた身だ。いきなり通勤までの距離を歩いたら息切れしてしまうに違いなかった。出勤停止期間が明けるまでにできる限り復調しておくこと、それが当面の課題だろう。
「篤史くんにはすっかり迷惑かけちゃって、ごめんね」
 神妙さを引きずりつつ、彼女がぺこりと頭を下げる。
 もちろん心配はしたけど、迷惑だなんて思っちゃいない。一緒に住むと決めた時点でこの程度の覚悟はできていたからだ。
 とは言え何度『気にしないよ』と言ったところで気にするのは目に見えている。
 だから冗談半分で返した。
「僕が寝込んだ時は頼むよ、みゆ」
「任せて。つきっきりで看病するから」
 みゆは引き続き真面目な調子で宣言した後、胸を撫で下ろした。
「でも、篤史くんにうつらなかったのはよかった。熱も出なかったんだよね?」
「ああ、全く症状出なかったよ」
 一緒に暮らしているし、看病もしていたしで感染する可能性もあることは危惧していた。そうなったらどちらかの実家に応援を頼もうと、とりあえずみゆのお母さんには連絡済みだ。だけど毎日熱を測っても上がっていることはなく、体調も特に問題なし。どうやらうつらずに済んだようだった。
「落ち着いたらお母さんにも連絡したほうがいいな、心配してたから」
「そうだね、こんなに寝込んだのなんて高校時代以来だもん」
 素直にうなづいたみゆが、その後で壁掛けカレンダーに目をやる。
 十一月のカレンダーの柄はシクラメン、そして今年もあと一ヶ月半だ。僕の誕生日の日付にはみゆがネズミのシールをいっぱい貼ってくれていたけど、それを見て彼女がはっとする。
「篤史くんのお誕生日、明日だね」
 そしてがっかりしたように溜息をついた。
「はあ……こんな時に寝込んじゃうなんて……」
「元気になってくれただけでいいよ、十分だ」
 僕は彼女を慰めようとそう告げる。
 行こうと決めていたお店には、すでに予約のキャンセルを入れてあった。仮に一日で熱が下がったとしても間に合わなかっただろうし、体調が万全じゃなければ何を食べたっておいしくはない。
「でも明日だよ。何かお祝いしようよ」
 みゆは必死になって訴えてくる。
「明日は篤史くんの好きなもの食べよう。私は篤史くんが食べるとこ見てるから」
 そんなの絶対楽しくないだろ。
 僕だってお預け状態のつらそうな彼女を目の前にしたら、どんなごちそうだって美味しく食べられる気がしない。
「治ってから付き合ってくれたらいいよ」
「だって、お誕生日は年に一度しかないんだよ? 今年は明日だけなのに」
 彼女は切々と食い下がってくるけど、僕はそこまで自分の誕生日に重きをおいてはいなかった。せいぜい、みゆが祝ってくれるからうれしいなと思っている程度だ。去年はまだ十代の終わりだったから重みもあったものの、二十が二十一になったところで感慨も何もない。
 でも、それを正直に告げてみゆが納得するとも思えない。
「食べたいものか……」
 一応考えてみたら、最近頭の中を占めていた献立が真っ先に思い浮かんだ。
「じゃあ、家で鍋でもしようか?」

 病み上がりでも食べられそうな具材ということで、白菜と豚バラのシンプルな鍋にした。
 魚介類はまだ怖かったし、キノコの類も消化によくない。くたくたに煮込んだ白菜なら彼女もおいしく食べられるはずだ。
 誕生日当日、僕は大学の帰りに買い物を済ませ、帰宅後に鍋を作りはじめた。鶏がらスープで具材を煮込み、締めには細麺のうどんを用意した。
 リビングにはちょっと早めのコタツを出して、ふたりで鍋を囲む。

「篤史くん、お誕生日おめでとう!」
「ありがとう」
 麦酒ならぬ麦茶で乾杯をした後、早速みゆと鍋をつついた。
 もうもうと白い湯気を上げる鍋の中身は渦を巻くようにみっちり詰め込まれた白菜と豚バラ肉で、いい具合に煮込まれて柔らかくなっている。
 僕は大根おろしと刻みネギたっぷりのポン酢でいただく。みゆは病み上がりにつき薬味なしだ。
「おいしい!」
 透き通るくらいじっくり煮込まれた白菜を一口食べるなり、彼女は頬を押さえた。
「よかった……お鍋をおいしく食べられるようになってよかった……」
 今のみゆなら何を食べてもしみじみ感動するんだろうな。こんな簡単な鍋でも本当にうれしそうだ。
 とは言え白菜と豚バラの鍋はシンプルながらうまい。白菜は口の中でとろけそうなほど柔らかく、豚バラはいくら煮込んでも硬くならずジューシーだ。薬味はだいたいなんでも合うし、ゴマ油を足してもいい。冬場はあれこれ手の込んだ料理を作るより、このふたつを煮たり蒸したりするほうがよほどおいしい、というのが僕の持論だった。
「私、今夜のお鍋の味は一生忘れない」
 きりっとした顔でそんなことまで口走るみゆを、さすがに僕も笑ってしまった。
「オーバーだなあ……でも、口に合ったならうれしいよ」
「うんっ」
 彼女は思いのほか食欲が戻っているようだ。箸の動きの活発さに僕も一安心していた。
 そして食べながら、ここ数日の沈黙を取り返すかのようにたくさん話しかけてきた。
「篤史くんの、本当のお誕生日祝いはいつにしようか?」
「え、今日ので十分だよ。一緒に鍋食べるの楽しいしさ」
「だーめ、ちゃんとお祝いしないと! 近いうちにする?」
「体調が落ち着いてからにしよう。しばらくは外食無理だろ?」
「じゃあクリスマスとかどうかな」
「クリスマスに鍋? ……まあ、悪くはないか」
 正直想像もしていなかったけど、そもそも七面鳥を食べる文化があるわけでなし。クリスマスあたりは今よりもっと冷え込むだろうし、鍋を食べて温まって帰ってくるのもいいかもしれない。
「それに、プレゼントも用意できなかったし」
 みゆが未だに悔やんだ顔で続ける。
「だったらお誕生日とクリスマスの予算を合わせた、すごいプレゼントを贈ろうと思って」
「そんなに気をつかわなくていいよ」
 僕はまた笑った。
 それから内心で、みゆへのクリスマスプレゼントは何にしようかと考える。誕生日はイヤリングだったしな。またアクセサリーじゃ芸もないし、冬場だから温かいものとかいいかもな。
 そしてふと、少し前に彼女と話したことを思い出す。
「あれ? でも、僕の誕生日は鍋だけでいいって言ったような……プレゼントはいいよって話じゃなかったっけ」
 少なくとも僕はそう言ったし、それで彼女も納得していたはずだ。
 はずだったが、指摘を受けてみゆはぎくりとしたようだった。
「あっ……あのね、実はこっそり用意しようと思ってて……」
「いいよって言ったのに?」
「う、うん……だって何もないと寂しいし、篤史くん驚かせたくて」
「でも今言っちゃったね」
「うう……」
 みゆは慚愧に堪えないといった様子でうつむいた。
 だけどすぐに面を上げ、僕をじっと見つめてくる。
「だめだったかな……?」
「だめなわけないよ、うれしいよ」
 僕はかぶりを振り、彼女のひたむきな眼差しに笑顔で応じた。
「でも無理はしないで。今日のところは、最高のプレゼントをもらったよ」
「え? 誰から?」
「みゆが元気になってくれたこと。それが何よりのプレゼントだよ」
 言ってしまってから、あまりに気障な言い回しに思えて恥ずかしくなる。
 これこそが本音であり事実でもあるはずなんだけど、言葉にするとあまりに陳腐で格好つけに思えてくるのはなぜだ。
 でもそんな僕の焦りをよそに、みゆはようやくふっくらしてきた頬をゆるませて笑った。
「ありがとう、篤史くん」
 その笑顔が明るくて、僕も心底ほっとする。
 気障な言い回しかもしれないけど――本当に、最高の誕生日になったな。
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