ふたりで衣替え
真夏のような九月が終わり、十月になった。さすがに熱さも和らぎ過ごしやすくなってきた。と思ったのも束の間、今度は朝晩が冷え込むようになってきた。出がけに寒いと思って長袖にすれば、日中には暑くて腕まくりをする始末だ。それでいて帰りが遅くなると、急に冷たい秋風に身震いすることさえある。
それで僕は決意した。
「衣替えをしよう」
「異議なし!」
みゆも手を挙げて賛同してくれた。
日中暑いのもあと少しのことだろうし、ぼちぼち夏物は片づけてもいいはずだ。代わりに羽織物や厚手の秋物を洗って、いつでも着られるように準備しておきたい。ついでに冬物の状態もチェックしておこう、いざ寒くなってから慌てずに済むように。
「ちょうど今日はお天気もいいしね」
彼女が言うとおり、十月最初の週末はさわやかな秋晴れだった。ベランダから見上げた空は真っ青で、ふわふわのひつじ雲がずっと遠くまで埋め尽くすように浮かんでいる。
そうと決まれば即行動だ。僕らは朝から洗濯機をフル稼働して衣替えを始めた。洗えるものは家で洗い、手に負えないものはクリーニングに出す。その合間に夏物は収納ケースにしまい、クローゼットに空きを作るのも大事。
全部の作業をひとりでやるなら大変だけど、幸いなことに僕らは二人暮らしだ。仲良く分担することにした。
僕がクリーニング店から帰ってくると、アパートの僕らの部屋のベランダにはすでに洗濯物がかけられていた。
見上げればみゆの姿もベランダにあった。洗濯機を回し終えた後のようで、せっせと洗濯物を広げては干している。
晴れた秋空を背景に、風にはためく洗濯物と、どこか楽しそうに干している彼女と――なんだか洗剤のCMにありそうな、実に絵になる光景だった。
「あっ、お帰り篤史くん!」
ベランダのみゆが僕に気づいて手を振ってくる。
二階から見下ろす彼女はとびきりの笑顔で、いつもなら見慣れたその顔も太陽の下で見ると少し眩しい。僕は目をすがめながら手を振り返した。
「ただいま」
「早かったね。クリーニング屋さん混んでなかった?」
「まあまあ並んでたよ」
今日あたり衣替えをしようと考えたのは僕らに限った話じゃなかったようだ。行きつけのクリーニング店には珍しく行列ができていて、少しではあるけど待たされた。店にとっては今が書き入れ時なのかもしれない。
「洗濯終わってるね、手伝うよ」
僕はそう告げて、彼女の待つ部屋へと急ぐ。
「わあ助かる、ありがとう!」
そんなお礼も僕が部屋に入ってから言えばいいのに、ベランダから呼びかける声を、アパートの外階段で聞くのがおかしかった。
玄関に入り靴を脱ぐと、今度は部屋の中からみゆの声がした。
「洗濯物はあとちょっとで終わるんだ。だから篤史くんは、夏物をしまっちゃってくれないかな?」
「了解」
うちのベランダはそんなに広くもないし、ふたりで並んで干すには若干手狭だ。ここも分担作業ということで、僕はクローゼットがある彼女の部屋に入った。
夏の間に着ていた服をきれいに畳んで、収納ケースにしまう。実家から持ってきたケースには、さっきまで秋冬物の服が入っていた。これらも実家から持ってきて、二人暮らしが始まってからずっとしまいっぱなしだったものだ。ようやく新しい家に出してもらえたと思ったらいきなり洗濯されて、服たちもさぞかしびっくりしたことだろう。
思えば、衣替えをするのも引っ越して以来初めてのことだ。
僕らが同棲を始めたのは四月だったから、今までその機会もなかった。季節の変わり目を一緒に迎えてるんだな、などと当たり前のことをしみじみ実感してみたりする。
僕の服をしまい終えた後は、みゆの服を片づける。彼女の夏服はだいたいどれも見覚えがあって、畳みながらふと最近の記憶がよみがえってきた。
この半袖ブラウスはみゆの誕生日に、イタリアンレストランに行った時のもの。
このカーディガンは僕がインターンシップに参加した後、一緒に帰った時のもの。
このワンピースは彼女のお父さんのお墓参りに行った時に着ていたもの――服の一枚一枚にも思い出があって、その時どんなふうに過ごしたか、彼女が何を話してどんな顔をしていたかがたやすく浮かんでくるから不思議だ。
我ながらよく覚えているものだと思う。
僕はみゆについてだけは、妙に記憶力がいいみたいだ。
「あ、しまってくれてたの?」
ベランダの戸が閉まる音の後、みゆが部屋を覗き込んできた。
「うん、出してあったからね」
「ありがとう! ふたりでやったらすぐだね」
彼女は部屋に入ってきて、僕の傍らに膝をつく。
そうしてふたりで夏物を畳んでは、収納ケースにしまう。彼女の言うとおり、ふたりで片づけるとすぐ終わりそうだった。
「なんかいろいろ、思い出してたよ」
その間、僕はさっき思ったことをみゆにも打ち明けた。
「みゆの服見ながら、あの時これ着てたなとか、この服着てどこ行ったなとかさ」
「あるある! 私もお洗濯の時、よく思うの」
彼女はぱっと顔を輝かせて、話を継いだ。
「篤史くんの服を干す時、『この服、遊びに行った時の服だ』って思ったりするよね」
「やっぱりあるよな」
僕らは意外と、相手の着ている服をよく見ているみたいだ。
考えてみれば昔からそうだった気もする。
高校時代、休日に初めて会った時のみゆは中学生みたいな子供っぽい格好をしていて、それがいろんな意味で印象に残った。彼女を追いかけて空港まで行った日も、初めてふたりで出かけた日も、あの公園で一緒にブランコに乗った日も――僕はみゆがどんな服を着ているか、よく見ていたし、覚えている。
今のみゆは子供っぽい服をあまり着なくなって、すっかりお姉さんらしくなっていた。僕はその方がいいと思うし、今の彼女に似合うとも思っている。
今の僕は昔と違って、彼女を大いに褒めることを覚えた。それによってみゆはより自分に似合う服を見つけられるようになったし、僕は日に日にきれいになっていく彼女を眺めることができる。まさにいいことずくめだ。
「でも今日干した篤史くんの秋服は、見覚えないもの多かったな」
ふと、彼女がつぶやいた。
少し真面目な顔になって、考え考え続けた。
「去年の秋は一緒に住んでなかったからかな? 着てるとこ知らない服がいくつもあって、見たことないな、大学に着てってるのかなって思いながら干してたよ」
「ああ、それはあるかもな」
去年までの僕らは同棲していなかった。
それどころか、進路も別で毎日顔を合わせることすらできなかった。
学校へ行けばおのずと会える高校時代とは違い、僕がいくら大学に行っても、みゆが職場に出向いても、僕らが会うことはまずなかった。せいぜい飲み会がかぶって、居酒屋で鉢合わせた偶然があった程度だ。
下手すれば数週間という単位で会わないこともあった時期だ、そりゃ見たことない服だってあるだろう。
今となっては、数週間みゆと会えないなんて耐えがたいけど。
どうやって切り抜けたのか、もはや覚えていないくらいだ。
「大丈夫。一緒に住んでたら飽きるほど見ることになるよ」
僕が冗談っぽく返したら、みゆは小さく笑った。
「飽きることなんてないよ」
そして僕に向かって優しく言い添える。
「むしろこれからは季節が変わる度に思い出せるね。この服着てどこに行ったとか、何をしたとか覚えてられるし、知らない服もなくなるんだよね」
知らない服がなくなる。
それが、一緒に住むということなのかもしれない。
僕らはすでに長い付き合いだけど、それでもまだ知らないことがあった。それが今日、みゆにとっての『知らないこと』がひとつ埋まったようだ。
「……うん、そうだね」
僕が同意すると、みゆはぽつりと言った。
「私は衣替えの度に振り返れるの、うれしいな」
本当にうれしそうに、実感を込めて言ってくれた。
「うん……僕もだよ」
ちょうどさっき、みゆの服をたたみながら思っていたことだ。
これからも一緒に暮らしていけば、きっと衣替えの度に思うんだろう。知らない服もいつしかなくなって、僕らの服の一枚一枚にふたりの記憶が宿るんだろう。
それが二人暮らしということなんだろうな、と僕は思った。
それと、もうひとつ思ったことがある。
去年の、同棲してなくてなかなか会えなかった頃――耐えがたいと感じていたのは僕だけではなかったみたいだ。
一緒に暮らせるようになって、本当に良かった。