深い眠りから覚めた後(4)
ご挨拶を終えると、ノエミ嬢はプラチドに抱えられたまま応接間から出ていった。これからしばらくは散歩の時間を楽しむとのことだ。
応接間にはラウレッタが残ってはいたが、家族水入らずのひとときを邪魔しては悪いと、客人一同はぼちぼちお暇することにした。
「あんまりおもてなしもできず、ごめんなさい」
ラウレッタは残念そうにしていたが、彼女とて娘を構いたいに違いない。少しそわそわしているそぶりにも見えたので、ロックは笑って応じる。
「また伺います。今度は父も一緒に」
「ええ、ぜひお願いね」
期待を込めてラウレッタがうなづく。
一方、ミカエラは先程のノエミ嬢がたいへん気になる様子だ。青緑色の瞳をきらきらさせている。
「いつ見てもかわいらしいお嬢様です!」
そして隣に立つ兄の顔を見上げて言った。
「お兄様、うちに来てくれる子はどんな子かしらね?」
「そうだな……かわいらしさはなくてもいいが、賢く気高い子であってほしいな」
グイドの答えはなんとも彼らしいものだった。
が、今の会話はどういう意味なのか。とっさに測りかねたロックの顔を見て、ミカエラが説明する。
「我が家でも養子をもらうことにしたのよ。アレクタス卿ご夫妻には、それで時々相談に乗っていただいていたの」
「養子を?」
「ええ、お兄様がお嫁様をもらうのは嫌だと言い張るものだから」
ミカエラの視線を受けたグイドが、困ったように肩をすくめる。
「嫌だと言っているのではない。私の事情を知らない者を我が家に迎え入れることはできないし、かといって一から説明するのは危険が大きすぎる。他人に知識を身に着けさせるには大人よりも子供を相手にした方が楽だと思ったまでのことだ」
「回りくどいな、グイド」
エベルがそこで吹き出した。
しかしグイドは気にするそぶりもなく、今度は妹に視線を返す。
「それを言うならミカエラ、お前だって婿を取るのは嫌だと言い張っただろうに」
「わたくしはお兄様を放り出して結婚するつもりなんかございません」
つんとしたミカエラが言い切る。
「お兄様は口も悪くていらっしゃるし、人付き合いも決してお上手じゃありませんもの。誰かが傍にいて、時々まあまあとなだめてあげなくてはだめでしょう? その役目はわたくしにこそぴったりです」
「……散々な評価をされたな」
ぼやくわりに、グイドの表情は柔らかい。
それはロックもエベルもよくわかっていることで、思わず顔を見合わせて笑った。
「ともあれ我々はお互いに結婚をするつもりもないが、家を継ぐ役目を放棄するわけにもいかない。そういうことで養子を取ることにしたのだ」
「ええ。わたくしたちふたりで育てていくつもりです」
グイドとミカエラは仲良く宣言してみせた。
正直なところ、ロックもそうなることをどこかで予感していたように思う。だから最初の驚きはともかく、話を聞けばすんなりと納得ができた。
「そういうわけだから、皇女殿下のご婚礼の後追いはエベルとロクシーに任せます」
ミカエラがそう言った時には、やっぱり驚いてしまったのだが。
「ぼ、僕らはまだ、そんな具体的な段階では――」
「その点は任せてくれ、ミカエラ」
あわてるロックを制するようにエベルがうなづく。
するとラウレッタも身を乗り出して、
「いつ頃になるのかしら? 楽しみだわ、式にはわたくしも呼んでくださる?」
などと言うものだから、ロックは困り果ててしまった。
帰りの馬車で、エベルは上機嫌だった。
「あなたの伯母上からも歓迎されたということは、もはや我々の結婚になんの差しさわりもない」
「一番肝心な差しさわりをお忘れですよ、エベル」
ロックは苦笑しながら釘を差す。
「僕が市民権を買って帝都の中に入ること。そうしないとあなたの隣には立てませんから」
「私はそんなこと、ちっとも気にしないのだが」
鳶色の髪を揺らしてエベルが応じる。
実際、彼は気にしないのだろうとロックも思う。当初は『あなたが男でも構わない』とすら言い切っていた人だからだ。
そしてロック自身、生まれに負い目があるというほどでもない。身分の差をくよくよ気にするような恋をしてきたつもりもないはずで、言ってみれば差しさわりというのもただの矜持で成り立っているようなものだった。
もしも自分の仕立てた花嫁衣裳が皇女の目に留まらなかったら――そう考えたこともある。
だがもし名誉と金を手にし損ねても、ロックはあきらめず別の形で金を稼ぐだろう。そして必ずやエベルの隣に立ってみせると決めている。
ただ、あの花嫁衣裳は他でもない彼女のために図案を起こした。
だからできることなら彼女に着てもらいたい。そしてその姿をこの目で見たい、ロックはそう思っていた。
決意を新たにするロックの隣で、エベルは深く息をつく。
「それにしても、グイドとミカエラはついに決断したんだな」
「養子の話、ですよね?」
「ああ。あのふたりにとって最良の選択だと思うよ」
そう言うと、思い出にひたるように彼は目を伏せた。
端正な横顔が、今はしみじみと幸福を噛み締めているように見える。
「私はずっと前から……私たちが子供だった頃からこうなると思っていた。ミカエラは誰よりもグイドを選ぶだろうし、グイドもまたミカエラを選ぶだろうとな」
当然だがエベルやグイド、ミカエラの子供時代をロックは知らない。マティウス家の応接間にあった肖像画で、まだ人狼ではなかったエベルの姿を見た程度だ。
それでも彼が過去を語る時、そこには少年の日の思い出にはにかむエベルがいる。その表情を見るとロックも共に昔に戻ったような気がして、うれしいお裾分けをもらった気持ちになる。
「おふたりがどんなご両親になるのか、僕も楽しみです」
ロックの脳裏にも、幼子を抱えて相好を崩すグイドとミカエラの姿が浮かぶようだった。理屈っぽいが行動力のあるグイドと優しく忍耐強いミカエラは、役割分担のできるいい親になることだろう。
「それにしても、伯父と伯母のところにも養子が来ていたとは驚きました」
その話をロックは今日、アレクタス邸に到着してから聞かされた。
エベルは事前に知っていたようだったが、ロックは大層驚かされた。
「ああ、すまなかったな。言い忘れていた」
すかさずエベルは眉尻を下げて続ける。
「あなたには先に話しておこうと思っていたはずだった。だが……」
「お忘れになったんですか?」
「どういうわけかな。隠しておきたかったわけではない」
ロックが笑いながら指摘したせいか、エベルは少しだけ気まずげにした。指先でこめかみを揉みほぐしている。
「どうして忘れてしまったんだろうな……いつもあなたに会う前は、あれを話そうこれを伝えておこうと様々な予定を立てておくのだが。きっとあなたの顔を見るうれしさで、記憶がふっと抜け落ちてしまうのかもしれない」
エベルにもそういう一面があるとは意外だった。
もともと住む場所が違い、離れている時間も長いふたりだ。会えない間もロックがエベルのことを想っているように、彼もまたロックのことを想ってくれているのだろう。そのことがうれしくて、伝え忘れについてはもはやどうでもよくなったロックだった。
それに、そういった物忘れはロックにも覚えがある。
「僕もありますよ、あなたに話しておこうと思っていたのに忘れてしまったことが」
打ち明けると、エベルは興味深そうに膝を進めてきた。
「それは大切な話かな?」
「ええ、たぶん。どうしてもあなたのお耳に入れておきたい話だったような――」
しかも、つい最近のことだ。
大切な、というよりも、重大な話だったように思う。
だがその時もロックは思い出せなかったし、そして今も何も浮かんでこない。ただ奇妙な焦燥が込み上げてきて、どうにもできずに顔をしかめた。
「……なんだったかなあ」
結局お手上げのロックに、エベルは優しく微笑んだ。
「あなたも私の顔を見たうれしさで吹き飛んでしまった、ということかな」
「そうかもしれませんね」
否定もできなかったので、ロックは照れながら顎を引く。
だが内心、それだけではないような気もしていた。理由はわからないが、なんとなく。
マティウス家の馬車に帝都の門まで送ってもらった後、ロックは人目を避けつつ家路に着いた。
今日は女物の訪問着を着ていたため、店には寄らずにまっすぐ家を目指した。宵闇に紛れながら帰り着いた家では、先に帰宅していたフィービが鼻歌まじりで夕食を作っていた。
「おかえり、ロクシー」
父の無事な姿を見て、ロックは胸を撫で下ろす。
「ただいま、父さん」
それから親子は共に食卓を囲み、それぞれ今日あった出来事を話し合った。ロックはアレクタス家でのやり取り、特にノエミ嬢についての話をフィービに聞かせた。
「僕のいとこだって、かわいかったよ」
「へえ、女の子か。まあ娘はかわいいもんだよな」
一方、フィービはジャスティアの店と市場通りを警邏して回っていたそうだ。しかしこの日は例の連中も現れず、カルガスと話し合った上でいったん帰ってきたとのことだった。
「夜は店に人も増えるし、いざとなったら俺を呼びに来る時間くらいは稼げるだろうってことでな」
そう語るフィービには、少しではあるが疲労の色がうかがえた。何も起きなかったとはいえ、日中ずっと気を張っていたのではさすがにくたびれたのだろう。
「ただその分、朝はあの店も手薄になるだろ? パン屋は朝も早くて仕込みもある。だから明日も昼までは警邏しようと思ってるんだ」
父の言葉にロックもうなづいた。
「わかった。僕の店なら朝のうちは暇だし、大丈夫」
「そっちに何かあったら急いで逃げてこいよ」
「もちろん。僕ひとりで喧嘩を買ったりしないよ」
胡散臭い連中は赤い髪の女を探しているということだが、もしそれがユリアなら、フロリア衣料品店が押し込まれる可能性も十分にある。
ユリアはいつもフードで髪を隠しているし、何より自らの身を守る不思議な力を持っているそうだ。しかしそれがどんなものかはロックも知らないままで、少しばかり彼女のことが気にかかるのだった。
そういえばここのところ、彼女の姿を見ていない。
翌朝、早くに出かけるフィービを見送った後でロックは自分の店に出向いた。
一日休みにしていた店だ。まず窓を開けて換気をして、床をきれいに掃き清めて、それからしまっておいた服を並べて――仕事の段取りを思い描きながら朝の市場通りを駆け抜けて、店に辿り着く。
施錠していたドアの鍵を開けたところで、
「……ロック」
ふいに弱々しい声が、ロックの名を呼んだ。
振り返ると背後には誰もおらず、あわてて周囲を見回せば、店と隣の建物の隙間から誰かが現れた。
フードを目深にかぶった、少し寝ぼけ眼のユリアだった。
「ユリア? 今そこから出てこなかった?」
ロックは今しがた彼女が這い出てきた空間を指差す。路地とも呼べぬ狭さの隙間は、人ひとりがぎりぎり入れるかどうかという幅だ。
だがユリアは造作もなくうなづく。
「ええ。少し眠たかったので、そこで休んでいました」
「ここで!? えっ、いつからいたの?」
「昨日の夕刻からです。あなたに会いに来たのですがお店が開いていなくて、でもお約束もなしにお家を訪ねるのもどうかと思い、ここで待っていたのです」
昨日の夕刻と言えば、ロックが貧民街まで戻ってきた頃だろうか。服装を気にして店には立ち寄らなかったのだが、ユリアはその時、店にいたのだ。
「家まで来てくれてもよかったのに」
申し訳なくなって、ロックはそう告げた。
「というか、こんなところで寝たりしたら危ないよ。最近変な奴が多いって聞いたし」
「それについては平気です」
ユリアはロックの懸念をきっぱりと否定する。もちろんその理由については語らぬままだ。
よくわからないが彼女がそう言い切るならと、ロックも追及はしないことにする。
それよりも、こんなところで一夜を明かしてまで会いに来てくれた。その事実の方が大切だろう。
「僕に何か用だった?」
ロックの問いに、ユリアは一瞬うつむいた。
しかしすぐに面を上げ、フードの奥にほの暗い表情を覗かせながら言った。
「その……会ったのです。わたくしの、結婚相手に」
「え……?」
名前だけは知っている。北方の領主ユスト伯。
グイドが『蛮族』とさえ呼ぶその人が、ユリアの婚約者だった。
果たしてどんな人物かはロックも知らない。噂でしか聞いたことがない。だがユリアは、その人に会ったと言う。
「それで……話を聞いてほしくて……」
震える声でそこまで語るが早いか、ユリアはロックに抱きついてきた。