深い眠りから覚めた後(5)
突然のことに、ロックは当然うろたえた。相手が皇女でもなければ抱き留めるところだが、さすがに不敬ではないかという思いが頭をもたげる。しがみついてくるユリアの肩は震えていて、ひとまず恐る恐る尋ねた。
「ど、どうしたの? 相手の人に、何か言われたりとかした?」
ユリアはロックの肩にうずめた顔を、静かに横に振る。
「いいえ、ご挨拶をしただけです」
泣いているのかと思ったが、さすがに彼女は落ち着いていた。とは言え打ちひしがれているのも事実のようで、わずかな間を置いてからか細い声で続ける。
「わたくしはまだ、あの方とあまりお話をしたことがなくて……ちゃんとお話をしたのは昨日が初めてだったかもしれません」
それからユリアは面を上げ、フードの中の青ざめた顔を覗かせた。
「お話しした印象では、悪い人ではないようでした」
「そうなんだ」
ロックは少しほっとした。
てっきり彼女がユスト伯からひどい言葉でもかけられて、それで自分を訪ねてきたのではないかと思っていた。グイドの発言をそのまま受け取るつもりもないが、帝都に住む人間でないなら文化や風習が違うのも当然だ。蛮族とまで呼ばれる北方の人間が、帝都から出たことがなかった正真正銘の箱入り皇女を丁重に扱うことなどできるかどうか、正直に言えば疑ってもいた。
「あの方は、わたくしにも優しく接してくれました」
ユリアは続ける。
「いい人だと、おぼろげながら思いました。少なくとも父上の前でわたくしを粗末に扱うような真似はしませんでした。話す言葉には知性も気品もあり、皆が言うほど野蛮で粗野な印象はなかったのです」
聞いた話だけで判断できるものではないが、聞く限りでは好人物のようだ。ロックも自らの内なる偏見に気づき、こっそりと恥じた。
「いい人そうならよかったよ」
ロックが心から感想を述べると、ユリアはぎこちなく顎を引く。
「ええ……わたくしも、そう捉えるべきだとわかっているのです」
だが飲み込み切れてはいないようだ。改めてロックにしがみつくと、長い溜息をついた。
「でも、いい人であってもわたくしにとってはまだ、知らない人です。昨日初めてまともに口を利いたような相手です。その人がもうじきわたくしの夫になり、わたくしはその人だけを頼りに帝都を離れなくてはならない、そう思うと――」
次の溜息は途中で震え、かすかな悲鳴のような音を立てる。
「そう思うと、急に怖くてたまらなくなったのです……」
怯えたように身をすくめるユリアを、ロックは放っておけなくなって抱き締めた。
背中をそっとさすってやると、彼女は泣きだす直前のようなねじれた声を漏らした。
ユリアはユスト伯と対面したことで初めて、自らの結婚という現実にも直面したのだろう。
ユスト伯の噂はロックの耳にも入ったほどだ。帝都の中心で彼がどのような評価を受けているかは想像に難くなく、ユリアもそういう噂に晒されてきたに違いない。そのせいで彼女も、自身の結婚をどこか夢物語のように遠く受け止めていたのかもしれなかった。
だがユスト伯と話し、彼が好人物であること、そして現実に存在する人間だと気づかされたことで、ユリアは否が応でも嫁がねばならない事実を思い知らされたのかもしれない。
大切に育てられてきた皇帝のひとり娘と、北方の戦乱を制した栄誉ある伯爵。その婚姻がどれほど重要なものであるかはロックですらわかる。ユリアにとっては避けられない運命であることも。
「ユリア……その……」
静かに泣き始めた彼女に、ロックはひどく狼狽した。
「えっと、なんと言ったらいいか……」
かける言葉があるはずもない。歳の近い彼女の苦悩は手に取るように理解できたし、もし同じ立場ならどうしていたか、考えたところで思いつかない。ユスト伯のなした平定は近年のことであり、皇女として育てられたとはいえ、ユリアも遠方へ嫁ぐことまでは考えていなかったのかもしれなかった。
ユリアは小さく嗚咽を漏らし続けている。彼女の身体はロックと同じように小さく華奢だ。香木を焚き染めた後のような、かすかな品のいい香りがした。
「と、とりあえず中に入ろう。ここだと人目につくよ」
思いついた言葉はそれだけだった。
早朝の貧民街は人影もなく静かだが、もうじき市場も動き出す頃だ。そうなると誰に見とがめられるか、あるいは聞きとがめられるかわからず、厄介なことになる。
ユリアが涙に濡れた顔を上げ、灰色の瞳でロックを見つめた。
だが彼女がうなづくより早く、無粋な声が割って入った。
「――そこのお前」
声の主はユリアの背後に立っていた。複数の男だ。皆が皆、薄汚れた旅装に身を包んでいた。髭も伸びきった胡散臭い容貌の連中揃いで、腰には各々剣や刀を提げている。
貧民街の者ではない。
察したロックはあわててユリアを背後にかばう。だが、遅かった。
「小僧じゃない、後ろの女を見せろ」
「やぶからぼうになんだよ、断る!」
ロックは声を張り上げた。
そうすることで誰か、特に父に危機を知らせたい思いからだったが、答えた直後には男の一人に張り倒されていた。
地面に顔から突っ伏して、擦りむいた頬とぶつけた肩が痛んだ。それでもどうにか起き上がると、男たちはユリアを捕まえ、そのフードを無理やり引きはがす。
そして現れた少女の顔を、初めて見るもののようにつぶさに観察した。
「赤い髪、灰色の目、歳の頃も同じだ……よし、こいつだな」
「手を離しなさい!」
ユリアの命令にも怯むことなく、男のひとりが顎をしゃくる。
「連れていけ」
「きゃっ!」
彼女の悲鳴を聞いた瞬間、ロックは無謀にも男たちに飛びかかった。
「させるかあっ!」
もちろん非力で知られる仕立て屋が悪漢に敵うはずもなく、本来ならロックは再び地面へ叩きつけられるところだった。
だがその時、奇妙なことが起きた。
ロックの目の前で男たちが、ばたばたと急に倒れだしたのだ。
声もなく、聞こえたのは倒れた音だけだった。きれいにユリアだけを残して薙ぎ倒された男たちは、そのまま死んだように動かなくなる。
拍子抜けしたロックがあわてて踏みとどまると、辺りには悪漢どもの身体がごろごろ転がっていた。一応小刻みに痙攣していたので、死んだわけではないようだ。
それでも、今のは――。
「ロック!」
ユリアが駆け寄ってきたので、ロックは戸惑いながらもその手を握った。血の気の引いた手は冷たくなっていて、彼女の恐怖がそれだけで伝わってくる。
「ユリア、怪我はない?」
「ええ……ロック、あなたは?」
「僕も大丈夫」
頬は擦りむいていたし肩も打った。服を脱いだら青痣くらいは作っていそうだが、大したことではない。
「今のは、何?」
わかるわけがないと思いつつ、ロックはユリアに尋ねた。
するとユリアは顔をこわばらせ、
「あれは……たぶん、兄上です」
と言った。
「あ……『兄上』?」
「――いかにも」
復唱したロックの耳に、またしても聞き覚えのない声がした。
振り返ると、今度はたったひとりが立っていた。ユリアと同じように目深にフードをかぶり、しかし体格から男だとわかる。屈強そうな風体ではなく、どちらかというと線が細い。ただ歩き方は妙に堂々としており、寸分の隙もない。
男はロックとユリアの前で立ち止まると、かぶっていたフードを外した。
現れた顔は、ロックの記憶にはなかった。ユリアよりも赤みの強い熟した木苺色の髪と、静かな光をたたえる灰色の瞳、そして神経質そうな唇と整えられた顎髭の青年だ。エベルよりも年上だろうか。
「顔を合わせるのはこれが三度目だな、仕立て屋の小僧」
男はそう言ったが、ロックは初対面だと思った。どこにも覚えがない。
「どこかでお会いしましたか? いや、それよりあなたは――」
「私の名はヴァレッド。第四皇子ヴァレッドと聞いて、心当たりがないならそれでよい」
どこか棘のある名乗りを聞けば、さすがにロックもおののいた。
「皇子……!?」
名前までは知らなかったが、皇帝に四人の皇子があることくらいは知っている。そしてユリアが否定しないことが、彼の言葉が真実であると証明していた。
「そなたは近頃、私の妹をたぶらかしているそうだな。嫁入りを控えているというのにとんでもないことをしてくれる」
続いたヴァレッドの言葉に、ロックよりもユリアがあわてた。
「兄上、それは違います!」
「――リウィア」
弁解を遮り、ヴァレッドは妹を見下ろす。
その眼差しは一切の感情が抜け落ちたように静かで、冷たかった。
「城を抜け出すなと再三言ってあるはずだ。自らの力を過信し、頼り切った結果がこれだと身に染みてわかったことだろう」
ヴァレッドの視線が地面に伏した男たちへ向けられる。
ユリアはごくりと喉を鳴らし、それからおずおずと口を開いた。
「助けてくださってありがとうございます、兄上」
「それが私の務めだ」
短い答えにも熱はなく、ユリアはうつむいてしまう。
するとヴァレッドは再びロックに目を向け、切り出した。
「仕立て屋、そなたの腕はすでに知っているが、こうなった以上妹の花嫁衣裳からは手を引いてもらいたい」
「え……?」
「そなたの存在はリウィアの心をかき乱す。何度止めても城を抜け出し、挙句の果てに自らを危険に晒した。無論、そなたの罪ではないことも知っている。ゆえに命は取らないでおいてやる」
ずいぶんと物騒な申し出だが、冗談ではないことは口調で察した。
もちろん素直に承諾するロックではない。花嫁衣裳の図案をまとめ、すでに生地は注文してある。昨日は母手製のドレスを見せてもらい、早速その手法を真似てみようとあれこれ考えだしたところだ。ここで手を引けなどと、あんまりではないか。
だが一方で、ユリアの身に危険が迫ったこと、そしてそれをロック自身の力では阻めなかったこともまた事実だ。
それでも納得はいかず、ロックはヴァレッドを見据える。
「皇子ともあろう方が脅しですか、意外ですね」
「あいにく、汚れ仕事が私の務めでな」
ヴァレッドは恥じた様子もなく答えた。
そしてうつむいたままの妹へ、促すように声をかける。
「リウィア、責任を取れ。この務めはそなたに譲ってやろう」
はっとしたユリアが、恐怖に凍りついた顔を兄に向けた。
「兄上、それは――」
「できぬのなら私がこの男を消すまで。わかるな?」
物騒な会話の一方で、ロックは今更のような違和感に気づいた。
辺りが、やけに静かだった。
市場が開く前なら『フロリア衣料品店』の周囲にひと気がないのもいつものことだ。だがそれにしても静かすぎた。朝鳥の声も風の音も、朝に街を訪れる隊商の馬のいななきさえ聞こえない。
まるでこの辺りだけ全てが止まってしまったようだ。
嫌な予感がした。
周囲を見回すロックの前へ、やがてユリアが進み出た。
乾いた涙の痕もそのままに、真っ直ぐロックを見つめてくる。
「ロック、あなたには前に話しましたね。わたくしもまた祝福を受けた人間であると」
そんな話をした覚えがある。
あれは確か彼女と初めて出会った時のことだ。帝都内の兵詰め所、その食堂でエベルを待つ間に話をした。彼女はエベルが人狼だと知っており、そして自らも近い存在だと語っていた。
ロックがうなづくと、ユリアは不器用に微笑む。
「わたくしが与えられた祝福はふたつ。ひとつは、人の意識から自らを遠ざけ、存在しているのにそこにいないように見せられる力です」
「え、どういうこと?」
聞き返せば彼女は『フロリア衣料品店』と隣の建物の隙間を指差す。
「わたくしがそこに一晩潜んでいられたのもその力のおかげです。誰にも見とがめられず、気にされることなくいられる――と言っても、にわかには信じがたいでしょうね」
全くそのとおりだったが、一方でロックには心当たりもあった。
彼女が帝都やその外の貧民街を単身歩き回れるのは、その力によるものなのかもしれない。
「そしてもうひとつの祝福は、人の記憶を消す力です」
ユリアはそこで痛みをこらえるように眉をひそめた。
「兄上がそうだったように、わたくしもまたあなたとはずっと前から会っていました。あなたが記憶するようになるよりも前から」
「なんだって?」
こちらのほうがはるかに信じがたく、ロックは愕然とした。
そういえばユリアは初対面の際、『前に会ったことが』と言っていたが――。
「わたくしはずっと、その力を皇女として使ってきました」
ユリアは語る。
ひどくつらそうに、そして悲しそうに。
「わたくしの望む望まないにかかわらず、出会った人は選別しなければならないさだめでした。わたくしの顔を覚えていられるのは父上が許したほんのひと握りの人々だけ。わたくしが好きになった人も、覚えておいて欲しい人も、みんな忘れてもらわなければならなかった」
そしてロックは事態を悟る。
ユリアが祝福について、今になって自分に明かした理由が、ようやくわかった。遅かった。
「待ってユリア! そんなことしないで!」
悲鳴を上げたロックに、ユリアは灰色の瞳を潤ませて告げる。
「ロック、あなたには――私のことを覚えていてもらいたかった……」
次の瞬間、ロックの意識はあっけなく深い闇に飲まれた。
眠りに落ちるような感覚の中、ロックは知らない男の声を聞いた。
「――他に、そなたの顔を見た者は?」
だがそれが何を意味するのかはわからないまま、すぐに何も考えられなくなった。