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深い眠りから覚めた後(3)

 夫妻が立つ前庭には広々とした花壇があり、今はカレンデュラが黄色い花を咲かせていた。
 思えばロックがこの庭をちゃんと眺めるのも初めてだった。以前の滞在時には中庭に入ることは許されても、玄関から外へ出ていくことは叶わなかったからだ。
 真昼の陽射しを浴びた花々は気ままに風に吹かれており、思い思いに揺れるその姿が新鮮に映る。この家で過ごした張りつめた日々も今は遠く、ロックは深く息を吸い込んだ。土と緑の気持ちいい匂いがした。
 それからロックはプラチドとラウレッタに挨拶をする。
「おふたりとも、お久し振りです」
「ああ、久し振り」
 プラチドが微笑んだ。
「この度はお招きいただきうれしく思います」
 次いでエベルが一礼すると、アレクタス夫妻もそれぞれにお辞儀をした。
 そしてプラチドが語を継ぐ。
「こちらこそ、こうしてまたお会いする機会をいただけたことをうれしく思います。その節は大変なご迷惑をおかけしましたから」
「今となっては過ぎた話です」
 エベルはにっこりと笑んだ。
「それに我々も仕方なくとは言え、あなたがたを欺くような真似を働きました。どうかお互い水に流すということにしていただければ幸い」
 欺いたとは『交流が絶えた』と嘘をつき、アレクタス家にリーナス兄妹を潜り込ませたことを言っているのだろう。
 もちろんプラチドがそれを気にしたそぶりはなく、むしろ安堵の表情を見せた。
「そう言っていただけるとありがたい限りです、閣下」
 一方、ラウレッタはずっとロックを見つめていた。
 その眼差しは慈しむように優しく、また懊悩から解き放たれたように穏やかでもあった。母の面影が重なるようで、ロックはくすぐったく思う。
「伯母様、お元気そうで何よりです」
「ええ、おかげさまで。あなたもね、ロクシー」
 うなづいた後、ラウレッタは馬車から降りたのがロックとエベルだけだと気づいたようだ。怪訝そうに尋ねてきた。
「今日はフレデリクス――あなたのお父様は?」
 それについては正直に答えなければならない。
 ロックがかいつまんで事情を話し、言伝の詫びを告げると、ラウレッタもプラチドも落胆より心配になったようだった。
「まあ……壁の外ではそんな危ないことが?」
「近頃は帝都の中も騒がしいからな、外とて同じことだろう。皇女殿下のご婚礼前だというのに困ったことだ」
 帝都の空気が熱に浮かされていることを、各々が如実に感じ取っている。もちろんそれがただの浮かれ気分で済めばいいのだろうが、ジャスティアの話を聞いた後では楽観視もしていられなかった。
「父は腕の立つ人ですから心配はしていませんが、今日伺えなかったことは申し訳なく思います」
 そう続けたロックに、ラウレッタは小さくかぶりを振ってみせた。
「謝らないで。次の機会を作ればいいだけの話ですもの、ぜひこの次はお父様も一緒に来てちょうだいね」
 伯母の優しい言葉にロックが思わず微笑めば、プラチドも穏やかに笑った。
「次の約束はいいが、まずは今日のおもてなしが先だろう? さ、お茶をお出ししなくては」
「ええ、そうですね」
 ラウレッタも柔らかい表情を浮かべて、ロックとエベルに向かってこう告げる。
「おふたりとも、お入りになって。もうじきリーナス卿と妹君もいらっしゃる頃です」
「……え?」
 グイドとミカエラが来るという話は初耳だ。ロックがきょとんとすると、エベルがすかさず説明を添える。
「リーナス家とアレクタス家は引き続き交流を持っているそうだ。よく訪ねていくとグイドが言っていたよ」
「へえ……」
 エベルが詫びるまでもなく、かつてのいざこざはすっかり水に流されてしまったようだ。
 おかげでロックも緊張することなく、いい気分でアレクタス邸に足を踏み入れることができた。

 やがてグイドとミカエラも到着し、この日は六人でのお茶会となった。
 グイドもまた、フィービが来られなかったことを残念がっていたひとりだ。
「近頃の治安の悪さは嘆かわしいな。もっと粛々とご婚礼の日を迎えられないものか」
 憤慨する兄に対し、ミカエラも不安げにうなづいた。
「市警隊の動きも毎日慌ただしくて心配になります。あんまり物騒なのは嫌ですね」
「フィービ殿ほどの強さであれば何の心配もいらないだろうが、帝都内まで落ち着かないのはな」
 エベルも溜息をつく。
 本来なら言祝がれるべき婚礼だというのに、皆の口の端に上るのは治安への心配ばかりだ。警護が徹底されているであろう貴族たちですらこうなのだから、他の地区ではどうなのか尋ねるまでもなさそうだった。
「そういえばロクシー、皇女殿下の花嫁衣裳はどうしたの?」
 話題が暗くなる前に、ミカエラが水を向けてきた。
「ええ、ようやく図案が仕上がったところです」
「本当に? どんなドレスなのかしら、教えて!」
 ロックの答えを聞き、目を輝かせたのはミカエラだけではなかった。
「花嫁衣裳ですって?」
 ラウレッタも食いついてきたかと思うと、
「もしかしてあなたも名乗りを上げたの? わたくしもぜひ知りたいわ、どんな意匠にしたの? 仕立てもあなたがするのでしょう? 何かわたくしに援助できることはないかしら?」
 矢継ぎ早に質問を重ねてくる様子は若い少女のようだった。
「え、えっと――」
 突然のことにロックが言葉に詰まれば、プラチドがやんわりと妻をたしなめる。
「こらこら、そんなに聞いてはロクシーが答えにくいだろう」
「あ……あら、ごめんなさい。とても興味があったものだから」
 ラウレッタは恥ずかしそうに頬を染めた後、弁解するようにこう言った。
「でもね、昔ベイリット――あなたのお母さんも娘時代に言っていたの。いつか皇妃陛下に着ていただけるようなドレスを仕立ててみたいって」
 母の名前が伯母の口から出ると、今でも少しどきりとする。
 ロックの知らない母の姿を彼女は知っている。この家で暮らしていた頃のベイリット・アレクタスのことを。
「それは途方もない夢だったけど、あの子なら本当に叶えてみせるのではないかって、その頃は思っていたわ……」
 続けた思い出はどうしようもなく寂しげで、ラウレッタと共にプラチドも目を伏せた。

 ロックも母の晩年を思えばしんみりとしてしまう。
 皇妃のドレスどころか、田舎の村で仕立て屋をして糊口をしのぐのが精いっぱいだった母。その夢を最期まで持ち続けていたのだろうか、確かめる手立てはもうない。
 だが母が叶えられなかった夢を、ロックは叶えることができるかもしれない。

「僕も皇女殿下に着ていただけたらと考えているんです。あの方のために、唯一無二の花嫁衣裳を仕立てるつもりです」
 そう語るロックを、エベルとミカエラが温かい目で見守ってくれている。グイドは相変わらず皮肉っぽい笑みを浮かべていたが、皮肉自体は口にしなかった。
「まあ……!」
 そしてラウレッタも、泣きそうな顔で微笑んだ。
「ロクシー、あなたはベイリットの夢を継ごうとしているのね!」
「恥ずかしながら母の志は知りませんでしたが、そうなれたらいいと思います」
 ロックは胸を張ってうなづく。
「皇女殿下に、僕の仕立てたドレスを着ていただきたいんです。あの方のために、あの方に最もふさわしいと思う意匠を考えました。あとはそれを上手く仕立てられるか、というところなんですが……」
「その意匠とは?」
 少しそわそわした様子でエベルが口を挟んできた。
「そういえば私もまだ教えてもらっていなかった」
「ええ。北方へ嫁がれる皇女殿下には、この帝都での思い出を御身にまとっていただきたくて」
 それは、ユリアのことを思って描いた図案だった。
 ひとり遠くへ嫁ぐ彼女が寂しくないように、わずかにでも彼女の心を慰め、励ませるものであるように、帝都をドレスに描くと決めた。
 ただその思いはまず彼女に伝えたかったから――というより、上手く伝わるかまだ自信は半々というところだったから、ロックは照れ笑いを浮かべた。
「でも詳細は、仕上がってからにさせてください」
 拍子抜けしたのか、エベルとグイドがそろって肩を落とす。
「焦らすのが上手いな、ロクシー」
「なんだ、もったいつける奴だ」
「完成してからのお楽しみということでしょう? せっかくの意匠が他の人に知られてしまったら、取られてしまうかもしれないもの」
 ミカエラが庇ってくれたので、ロックは苦笑で応じる。
「ありがとうございます、ミカエラ。ちゃんと完成したところを無事にお見せできたらいいのですが」
「完成させられるでしょう? ロクシーですもの」
「でも皇女殿下のご衣裳となると初めてのことですから、やっぱり緊張しますよ。僕の技術でご満足いただけるかどうかわかりませんし、今さらながらもっと勉強したい思いでいっぱいです」
 仕立てに自信がないわけではない。これが本当にただの一友人に送る花嫁衣裳なら、ロックは普段の仕事のように堂々と仕立ててみせただろう。
 だが相手は皇女、そして帝国の行く末を左右するかもしれない政略結婚だ。彼女ひとりが決められるものでもないだろうし、何某かのお眼鏡に適う必要もあるだろう。ロックには腕はあれど品格があるとは言いがたい。
 だからこそ今日はアレクタス家を訪ねた。
 母が仕立てた古いドレスが、ここにあると聞いて。
「それなら、あの子のドレスが役立てるかしら」
 ラウレッタがうれしそうに切り出した。
「ベイリットが遺したドレスがあると言ったでしょう? あなたに見てもらいたいと思っていたの、きっといい勉強になるわ」
 彼女が卓上ベルを鳴らすとダニロが現れた。
 アレクタス家の執事は以前顔を合わせた時よりも表情が明るく、機嫌のいい様子で数着のドレスを置いていった。
「どうぞ、手に取って見てちょうだい」
 伯母に促され、ロックはそのドレスの一着を手に取る。
 エベル、ミカエラ、グイドもそれぞれ興味深げに覗き込んできた。

 ドレスはかなり古いもののようで多少匂いはしたが、状態はまずまずで、傷みもほとんどなかった。
 綿でできた青いドレスはかなり古風な仕立てで、恐らく聖堂に行く時などに着るものだろうと推測できる。襟元は黒く細かな鉤編みで飾られていて、その緻密さにまず溜息が出た。
 そしてスカート部分には同じく黒い糸で刺繍がされている。ただその刺繍は独特で、ロックがいつもする針運びとは違っていた。ちくちくと細かく紋様を縫うのではなく、意匠を糸で塗りつぶすがごとく、長く平行に糸を並べていく縫い方だ。そうしてできた刺繍は新たな織物のように、つるつるとした光沢と立体感を持って生地の上に現れる。
 母が施した刺繍は花の紋様だったが、つややかな黒い花は古風なドレスを美しく引き立ててみせた。
「こんな縫い方があるのか……」
 感心したロックは、また別のドレスを手に取る。
 こちらはくすんだ白色のドレスだったが、裾は透かし模様の連続になっている。縁を刺繍糸で丁寧にかがっており、透かし模様で描いた野の草花は実に精巧でこちらも美しかった。
「鉤編みみたいに穴が開いているのね」
 ミカエラが不思議そうに言ったので、ロックは答えた。
「これは生地から糸を抜き取って穴を開けているみたいです。縦糸と横糸をそれぞれ抜いて、縁をからげているのがわかります」
「そうなの……すごく、きれいな仕事ね」
 感嘆の声を漏らすミカエラに、ロックもうなづくしかなかった。
「ええ」
 仕立ても刺繍も全て母から教わったロックだが、全ての技法を教えてもらえたわけではなかった。残念ながら時間が足りなかった残りの技法は、しかしここに残っていた。巡り会えたのは素晴らしい縁というより他にない。
「あなたのお母上も、素晴らしい仕立て屋だったのだろうな」
 古いドレスを眺めていたエベルが、つぶやくようにそう言った。
「ええ、とても……」
 ロックは胸に満ちてくるうれしさと、ほんの少しの切なさを噛み締めた。
 それからこの機会をくれたラウレッタに告げた。
「母のドレスを取っておいてくださりありがとうございます、伯母様」
 ラウレッタは何も言わず、ただ微笑んで顎を引いてみせた。
 その顔にもうれしさと切なさ、そしてとても懐かしいものを見るような温かな感情が浮かんでいるようだった。

 ロックたちがベイリットの残したドレスを鑑賞していると、ふいに応接間のドアが叩かれた。
「旦那様、奥様、よろしいでしょうか」
 若い娘の声――ロックにとって聞き覚えのある声の主は、小間使いのアリーチェだろう。
「どうぞ」
 ラウレッタが応じると、予想どおりアリーチェが姿を見せる。
 もっとも彼女はひとりではなく、幼い子供を抱いていた。華奢な少女でも抱えてこられるほどの、まだ指しゃぶりをしている本当に小さな子だった。柔らかそうな金髪と、ふっくらした血色のいい頬が愛らしい。
「ノエミ様がぐずっておいででしたのでお連れしました」
 笑顔のアリーチェが言うより早く、ノエミと呼ばれた子供はぷくぷくの小さな両手を伸ばす。それを立ち上がったプラチドが迎え入れ、アリーチェから預かるように抱き上げた。
「おお、もうお目覚めかな。今、きみのいとこが来てくれているところだよ」
 あまりにも自然な流れで迎えられた子供に、ロックはしばしあっけに取られていた。
 だがこの子は以前はいなかったはず。そして――。
「いとこ?」
 思わずつぶやけば、誰より先にミカエラが言った。
「養子を引き取られたんですって。ロクシーは会うの初めて?」
「え、ええ……」
「私もだよ。話はグイドから聞いていたが、実際にお会いするとたいへん愛らしいお子さんだ」
 ロックはうろたえたが、エベルは平然としたものだ。とはいえロックの方は何も聞かされていなかったのだから仕方あるまい。
「実の子供にこだわることもないって気づいたのよ。遠縁の子を引き取ったのだけど、本当にかわいくて……」
 目を細めるラウレッタの隣で、ノエミを抱えながら身体を揺するプラチドが語を継ぐ。
「ああ。私は父親にふさわしい人間ではないかもしれないが、この子のためにできるだけのことをしたい。そう思っているよ」
 ふさわしくないとは言うが、ぐずる子供をあやす夫妻の相好を崩す様子といったら。文句のつけようがないほど幸せそうな親子に見える。
「いとこか……僕も、ご挨拶していいでしょうか?」
 ロックもうれしくなって申し出ると、席を立ってプラチドの傍へ行く。
 彼の腕に抱えられたノエミ嬢は柔らかそうな綿の服を着ていて、その細い袖口から同じくらい細い、それでいてぷっくりと肉づきのいい腕を覗かせていた。ロックが手を差し出すと、何やらだあだあ言いながら人差し指をぎゅっと握ってきた。
 これが彼女なりの挨拶ということだろう。
「かわいいなあ」
 つぶやくロックの隣に、いつの間にかエベルが立っていた。
「まったく、そのとおりだ」
 彼が金色の目を細めると、ノエミ嬢も機嫌がよくなりきゃっきゃと笑った。
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