手で触れてわかること(4)
お茶会はつつがなく終わり、グイドとミカエラは仲睦まじく帰宅していった。外は日が暮れかけていて、ロックもそろそろおいとまをと思ったところで、エベルがこう切り出した。
「ロクシー、もう少し時間をもらえるか? 実はあなたの『敵』の情報を手に入れた」
「敵、ですか?」
物騒な響きにロックは身構えたが、その誤解を解こうとエベルは急いで言い添える。
「皇女殿下のドレスの件だ。当然だがあなた以外にもその栄誉と名声を求める者がいて、そのひとりが私に手紙を寄越した。『皇女殿下のお幸せのために、ぜひ当店への後押しを』と――要は宣伝というわけだが」
「そんな動きもあるんですか」
「ああ。あちこちに手紙を送っては客を呼び、事前に評判を高めておこうという考えのようだ。ひいきにする客が増えれば、その話が皇女殿下のお耳にも届くかもしれない。皇女殿下がお聞き入れになるかはわからないが、作戦として間違ってはいないだろう」
どうやらロックがのんびりと情報を集めている一方で、地盤固めを始めた仕立て屋もいるようだ。じわじわとではあるが、事が動き始めているのを感じた。
「あなたにも見ておいてもらいたい。執務室まで一緒に来てくれ」
「わかりました」
エベルに誘われ、ロックは席を立った。
そこで父の方を振り返ると、フィービは腰を下ろしたまま肩をすくめる。
「俺はここで待ってる。お邪魔だろ?」
「そんなことないよ」
冷やかしとも気づかいともつかない父の言葉に、ロックは思わず苦笑した。だが父は立ち上がらず、エベルも彼を誘おうとはしない。
代わりに、給仕のヨハンナが嬉々として言った。
「ではフィービ様、閣下とロック様がご不在の間はわたくしがお相手を務めます! 一緒にお喋りの時間を過ごしましょうか!」
「……ひとりで茶を飲むって選択肢はねえのか」
フィービが天井を仰ぐ。
「ヨハンナ、お客様のご希望を酌んで差し上げよう。君はカートのことを頼む」
エベルが口を挟むと、ヨハンナはいたくがっかりした様子だった。
「かしこまりましたぁ……」
残念そうに応接間を出ていく彼女とは対照的に、フィービは胸を撫で下ろしている。
話くらいしてあげればいいのに。ロックは少し、ヨハンナがかわいそうに思えた。
ロックはエベルに伴われて執務室へと向かった。
マティウス邸は相変わらず掃除が大変そうな広さだ。階段を上がった先、二階の廊下でいくつもの扉の前を通り過ぎた後、ようやく突き当たりの執務室に辿り着く。両開きの扉には見覚えがあり、採寸に来たあの日のことをロックは懐かしく感じていた。
「どうぞ、入ってくれ」
エベルが扉を開けてくれたので、ロックは会釈をしながら中に入ろうとした。
しかしその時、
「こら! ここに隠れてたんですね!」
どこからかヨハンナの声が響き、思わず後ろを振り返る。
背後に伸びる廊下には彼女の姿はない。だが怒りを帯びた声は続いた。
「またつまみ食いなんかして! いけませんよって何度も何度も何度も言ってたじゃないですか!」
「ご、ごめんなさい……」
詫びているのはカートだ。姿はまったく見えなくても、しゅんとしおれているのが弱々しい口調でわかる。
ロックがそっとエベルをうかがうと、彼は苦笑いを見せた。
「どうやら捕まったようだ――」
だが主の声さえかき消すように、ヨハンナは感情の限りに叫ぶ。
「お客様にお出しするお菓子だったんですよ! せっかくたいへんおいしくできたのに! お客様に喜んでいただきたくて早起きして作ったのに! それをあなたって子は!」
当のお客様であるロックとしては、申し訳なくもありがたい気持ちでいっぱいだった。ヨハンナが怒るのも当然のことだろう。
しかし、他人のお説教を聞いているのもどこか心苦しいものだ。
ロックが眉尻を下げたのを見て、エベルが静かにささやいた。
「見に行こうか?」
「えっ?」
意外な提案にロックは当惑した。
「それはさすがに、よろしくないのでは……」
「大丈夫。あれを見れば、あなたの心証も変わるだろうから」
エベルは謎めいた言葉を口にした後、手招きをしながら歩きだす。
それでロックもまごつきつつ、彼の後についていった。
ヨハンナとカートは、階段を下りた先の玄関ホールにいた。
ここでお説教をしては応接間のフィービに筒抜けではないかという気もしたが、カートはともかくヨハンナの側に頓着する余裕はないようだ。腰に手を当て胸を反らし、愛らしい顔には精いっぱいの怒りを浮かべてカートを見下ろしている。
「いいですか! あなたに注意をするのはこれが初めてではありません! いけないと一度言われたことをまたやってしまうなんて子供でもしません! 猫だってしません!」
彼女の言い回しがおかしかったのか、カートの口元が一瞬ゆるんだ。慌てて引き締めてはいたが、それを見逃すヨハンナではない。さらに燃え上がる怒りを表現するかのように両手をぶんぶん振ってみせた。
「今なんで笑ったんですか! 笑い事じゃないんですからね!」
「す、すみません」
「だいたいあなたという子は、わたくしの話もろくに聞かないで!」
平謝りのカートの褐色の髪を、ヨハンナは腕を伸ばしてひらりとめくった。そこに隠れていた小さな耳があらわになると、指で存在を確かめるようにつつく。
「ここにちゃんとかわいい耳がついているというのに! どうして言うことを聞けないんですか!」
その耳がたちまちほんのり赤くなるのを、ロックは階段の上から覗いていた。どことなくうろたえた様子のカートが、ヨハンナを上目づかいに見たのも。
「あ、あの、聞いていないわけじゃないんです。つい忘れてしまうというか……」
もごもごとした言い訳をヨハンナが聞き入れるかどうか。それはさておき、覗き見るロックにエベルが耳打ちをする。
「カートはヨハンナにはよく懐いている」
「そのようですね」
「恐らく、あれも甘えの一つなのだろう」
彼の言葉どおり、カートの謝罪は反省しているそぶりが乏しい。それどころか少々うれしそうにさえ映る。もしかすればつまみ食いですら、ヨハンナに構われたくてしたことなのかもしれない。
だがこんな調子が続けば、叱るヨハンナのほうが先にくたびれてしまうだろう。彼に愛想を尽かしてしまう可能性だって十分ある。
「あの子には勉強が必要です」
ロックはそう、エベルに告げた。
「きっと学ぶべきことを教わらずに大きくなったんでしょう。今からでも遅くないですから、ちゃんと教えてあげるべきです」
「まったく同感だ」
エベルはうなづき、目を細めた。
「彼を我が家に置くことが正式に決まったら、まずは作法から学ばせよう。それから上手な甘え方も――これからの人生で、必ず必要になるだろうからな」
エベルの口調は優しく、温かく、それがロックの耳に不思議と心地よかった。
この人はいい父親になるかもしれない。自分の父と同じように、優しくて温かい父親になるのかもしれない。そんなことを考えかけて、しかしその発想に、ロックはなぜか気恥ずかしくなった。
ひとまずカートの処遇はヨハンナに任せ、ロックとエベルは執務室に入った。
ずっと無人だった執務室は空気がひんやりしていて、廊下の声も聞こえてこないほど静かだ。美しい毛織物の絨毯や浮き彫り細工の壁は記憶のままで、ここが貴族特区にある伯爵閣下の屋敷だと実感せざるを得ない。何度か通ううち、マティウス邸には慣れかけていたロックだったが、ここではほんの少し緊張を覚えた。
「カートも、普通の子供なんですね」
ロックは緊張をごまかすようにつぶやき、すぐに笑って言い直す。
「普通というか、子供らしさがあったんですね。僕はああいう出会い方をしたので、あの子の子供らしさを知りませんでした」
「私も同じだよ、ロクシー」
エベルは立派な机の引き出しを開けながら応じた。
「この屋敷で共に過ごすようになってからだ、彼がまだ子供だと気づいたのは。この機会がなければ私は彼を疑ったままだった。忌まわしい教団の首謀者としてな」
マティウス邸での生活はカートにとって心穏やかな日々のようだ。両親を早くに失くした彼が故郷と養父をどう思っているのかはわからないが――帰りたがらないというのも答えではあるのだろう。かねてから故郷を離れたいという思いもあったのだろうか。
あるいはそんな心の隙間を人狼の呪いに突かれた、とも推測できる。かつてグイドやプラチドがそうだったように、カートもあの仮面に付け入られる要素があったのかもしれない。
「彼もまた、呪いによって人生を変えられた者の一人だ」
まるでロックの心中を読んだかのように、エベルはつぶやいた。
そして手にしていた紙切れを差し出してくる。
「話を戻そう。こちらが先ほど言っていた、あなたの敵から届いた手紙だ」