手で触れてわかること(3)
やがて、応接間にグイドとミカエラが通されてきた。二人にとってマティウス邸は気心の知れた場所のようで、現れた兄妹の表情は実に和やかだ。
特にグイドは機嫌がいいらしく、エベルに軽い挨拶をした後、フィービに対しても声をかけてきた。
「これはフィービ殿、先日はたいへん世話になった」
「お力になれたなら幸い」
フィービは少し戸惑ったようだったが、グイドは構わず愛想よく続けた。
「今後、勤め先を求めるようなことがあれば、どこにも行かずに我が家へ来てくれ。剣術師範として最上級の待遇を用意しよう」
「剣術師範!?」
ロックは礼儀も忘れ、思わず声を上げてしまった。
グイドもそれを咎めることなく、当然のように応じる。
「お前はエベルのところへ嫁ぐのだろうが、その後のフィービ殿を遊ばせておくなどはなはだしい損失だ。ぜひとも我がリーナス家で雇い入れたいと思っている」
「と、嫁ぐなんてまだ――」
「ちょっと待ってくれ」
慌てるロックの反論を遮り、エベルが異を唱えた。こちらも焦った様子でグイドに詰め寄る。
「フィービは私の義父になる人だ。私とて彼から学びたいことは山ほどあるというのに、お前が横からかっさらうというのはいかがなものか」
「義父になったからといって、楽隠居という歳でもないだろう。彼を飼い殺しにするなどもったいないぞ、エベル」
グイドはそう言ってエベルを諭した。
エベルは珍しく言葉に詰まり、それをいいことにグイドは再びフィービに水を向ける。
「この件、じっくり考えてもらえるだろうか。よい返事を期待している」
「さすがにお気が早いのでは?」
返答に困ったか、フィービはそう聞き返すにとどめた。
ロックとしても、いつかは考えなければいけないことだろう。自分が市民権を得て、帝都市民として認められるようになり、そしてエベルと共に暮らせるようになったら、その時父はどうするのだろう。嫁ぎ先に一緒に来てくれ、というのはあまりにも非現実的だし――エベルはそのつもりのようだが――、かといって愛する父を放り出すことなどできるわけがない。むしろ父にしたいことがあるなら、自分が縛ってはいけないだろう、とも思う。
そんな父の胸中をうかがえぬものかと、ロックは隣を盗み見た。
フィービはひたすら居心地悪そうにしている。どうしたいのか、表情からは読み取れなかった。
「もう、殿方は先々のお話ばかりお好きなんだから」
ずっと黙っていたミカエラが、呆れたように口を挟む。
それでエベルとグイドは金色の瞳をしばたたかせて同時に黙った。話題を奪取したミカエラはそのままロックに笑いかける。
「聞きましたよ、ロクシー・フロリア。皇女殿下のドレスを仕立てるつもりなんでしょう?」
「ええ、挑戦してみようと考えてます」
ロックはうなづき、さらに続けた。
「それで本日は皇女殿下について、少しでも情報を集められたらと思い、お二人にもお越しいただいた次第です」
「もちろん力になるわ。ね、お兄様?」
快諾するミカエラに、グイドも今日のお茶会の意味を思い出したようだ。肩をすくめてみせた。
「そうだった。女に弱いエベルの、たっての頼みということで招かれたんだったな」
「人聞きの悪いことを言うな」
エベルは旧友をにらむ。
「私が弱いのはロクシーだけだ。彼女のためなら労はいとわない」
きっぱりと言い切られ、ロックも父の居心地悪さがようやくわかった気がした。それでも不思議と悪い気はせず、エベルに向かってそっとはにかんでおいた。
すぐにヨハンナが戻ってきて、彼女の給仕でお茶会のひとときが始まった。
相変わらずお茶菓子は一人分足りないままだったが、エベルは気にした様子もなかった。もっともヨハンナのほうは未だに物申したい表情を保っていたので、恐らくカートへのお説教は済んでいないようだと推測できた。
砂糖漬けを載せた焼き菓子は生地の甘みと果物の甘酸っぱさが絶妙で、ロックは一枚ぺろりとたいらげてからエベルのことを気にかけようとしたが――彼は『遠慮をするな』と言わんばかりに、うれしそうに口元をほころばせていた。主の厚意は素直に受けるほうが喜ばれるようだ。
「それで、皇女殿下はどのようなお方ですか?」
お茶の合間に、ロックはたずねてみた。
「実は何も存じなくて……その、髪の色や瞳の色、肌の色などをうかがったらご無礼でしょうか」
「公の場で聞けば不敬な問いには違いないな」
グイドは真っ先にそう答え、しかし妹ににらまれて苦笑を浮かべる。
「しかしここは私的な茶会の場、何を聞いたところで無礼には当たらんだろう」
「皇女殿下は濃い赤色の髪をしていたな」
続いてエベルが答えると、ミカエラがすかさず訂正した。
「違うわ。あのお色は木苺色というのよ、エベル」
それからロックの葡萄酒色の髪を見やり、記憶と見比べるように目をすがめる。
「ちょうどあなたの髪を夕日に当てて、もう少しだけ赤く、明るくしたような髪色をしていらっしゃるの」
「参考になります」
ロックは聞いたばかりの情報を帳面に書き留めた。ドレスの生地を選ぶにあたり、髪色は実に重要な手がかりの一つだ。
「瞳の色は……灰色? それとも、鋼色かしら?」
ミカエラはそこで小首をかしげ、グイドやエベルに助けを求めた。
二人も同じように考え込み、それから口を開く。
「角度によっては緑にも見えたな。くすんだ、それでいてどこか不思議な色の瞳だ」
「神秘的な瞳だった。あれは、皇帝陛下と同じものだ」
どうやらその瞳の色は、父親たる皇帝から受け継がれたものらしい。ちょうどロックがフィービと同じ、青い目をしているように。
「そう、神秘的なお方なの」
ミカエラは両手を合わせ、うっとりと目をつむる。
「わたくしも何度かお目通りが叶ったことがあるのだけど、何度お会いしても緊張してしまって、あとから殿下のお顔やお声を思い出せなくなるの。ただ気高くて、神聖で、そしてとても清らかなお方だって印象ばかり残っていて……」
「ミカエラは社交慣れしていないからな、かわいいものだ」
グイドがからかうと、目を開いたミカエラがすぐさま言い返す。
「ならお兄様は、皇女殿下のお姿をしっかりと覚えているのかしら?」
「私が妙齢のご婦人をしげしげと眺めるわけにもいかないだろう。それに、愛らしさというならお前の方がよほど――」
「ふ、不敬ですよ、お兄様!」
ミカエラは大慌てで兄の妹自慢を制した。
確かに、あのグイドにミカエラ以外の婦人の顔を覚えろというほうが無理難題なのかもしれない。ひそかに納得したロックは、エベルに視線を投げる。
「エベルはいかがですか。皇女殿下のことで覚えていることがあるなら……」
するとエベルは待ち構えていたように、
「私からすればロクシー、あなたより愛らしいご婦人は他にいない」
「そうじゃなくて! 皇女殿下のお話ですよ!」
言われるだろうとは思っていたが、実際に言われると顔が赤くなるのを抑えられない。ロックが声を上げたのを愉快そうに見た後、エベルは少し笑った。給仕のヨハンナも、後ろに控えつつ密かに目を輝かせていた。
「だが……言われてみれば、私も殿下のお姿をさほどはっきり覚えているわけではなかったな」
そこでエベルは腕組みをしたが、釈然としない様子にも見えた。
「どんなお方かと聞かれると、うまく答えられそうにない。思い出せないんだ」
「エベルにも、お会いするだけで緊張する相手がいらっしゃるんですね」
「緊張したわけではないのだが、不思議なものだな」
彼はどこかきまりが悪そうだ。
伯爵閣下といえど、帝国を統べる皇帝陛下の愛娘に相対する時には平然としていられないものらしい。
ロックからすればまさしく雲の上の存在という皇女殿下だが、エベルやミカエラにとってもそう遠くない認識なのかもしれない。拝謁する機会があったとしても、その姿を記憶に刻み込むほどの余裕はないのだろう。
薄絹に包まれたような、謎めいた皇女の婚姻。
彼女にふさわしいドレスとはどのようなものか、ロックはまだつかみ取れていない。
「……そういえば、一つだけ確かに言えることがある」
思い出したのか、ふいにグイドが口を開いた。
「皇女殿下はたいへん色白なお方だ。ご幼少期を城の中でお過ごしになられていたからな」
「ああ、確かにそうだ」
つられたようにエベルが語を継ぐ。
「あれこそまさに白皙の肌と評すべきだろう。透き通るように白かった」
「皇女殿下は皇子殿下がたと違い、公の場においでになることがなかったもの」
さらにミカエラもそう証言した。
「つい二年ほど前からよ、皇女殿下が社交の場にお出になられたのは。それまではずっと、皇帝陛下がお許しにならなかったんですって」
「皇帝陛下は皇女殿下を、それはそれは大切にされておいでだからな」
グイドが言うと重みが違う。
どうやら皇女リウィアは、まさしく箱入り育ちの姫君ということになるようだ。
とそこで、話題に入らず茶飲みに徹していたフィービが急に面を上げた。
「前に話しただろ、皇女殿下がお生まれになった時は帝都がお祭り騒ぎだったって」
一同の視線がフィービに注がれる。
それには一瞬面映ゆそうにしたものの、彼はお茶を一口飲んでから続けた。
「上の四人の皇子殿下の時はそんなもんなかったんだよ。……いや、さすがに最初の御子の時はあったが、帝都を挙げて祝わせたのは皇女殿下ご生誕の時だけだ。皇帝陛下は初めての娘御にすっかり参ってしまわれたんだろうな」
「そんなに娘が欲しかったのかな」
ロックは思わず吹き出した。皇帝の意外な人間らしさがおかしく思えたのだ。
もちろんフィービがかつて言ったとおり、皇帝も、皇女リウィアも、ロックたちと同じ人間には違いないのだが。
「娘ってのはとにかくかわいいもんだからな」
フィービが、こちらも万感込めて呟いた。
「皇帝陛下が浮かれるお気持ちも、大切に育てようってお気持ちもよくわかる。俺なら本当は嫁にもやりたくない」
その呟きは当てつけという響きでもないようだったが、すかさずグイドがにやりとする。
「……言われているぞ。どうする、エベル」
「ご納得いただけるよう誠意を尽くすまでだ」
エベルの答えは澱みがなかった。
ロックとしてはまだそういう話題に耐性がなく、くすぐったい気分で首をすくめるしかなかった。
全員のカップが空になる頃合いだった。
ヨハンナが注ごうとするお替わりを断り、グイドは嘆くように天井を仰いだ。
「しかし、あれほど大切にされてきた皇女殿下を蛮族の嫁にするとはな……」
「お兄様、その仰りようはあんまりです」
「何が違う? あの北方の第一伯爵の姿をお前も見ただろう」
妹にたしなめられても撤回することなく、いくらか物憂い様子すら見せる。
「毛皮の外套を身にまとい、髪は獣の脂で撫でつけて、剥き出しの腹には刺青があると来た。北方の人間の野蛮さに爵位は似合わん」
山村育ちのロックは蛮族というものを見たことがない。貧民街でもまれに刺青をした者を見かけるが、痛くないのかと余計な気を揉んでしまうほどだ。
「だがユスト伯こそが北方の覇者だ。彼がいたから内乱が鎮まったのだろう」
エベルは淡々と応じた。
「そして皇帝陛下がお認めになった人だ。皇女殿下をお預けになってもいいと思われたからこそのご決断だろう」
そのやりとりにロックはふと、皇女殿下の胸中を想像したくなった。
父が認めた人物のとの結婚――それはきっと娘の幸せを願った上での決断なのだろうが、だとすれば皇女自身の気持ちはどうなのだろうか。この人なら間違いない、幸せになれると言われて、すんなりとその相手を愛せるものだろうか。
それが政略結婚だと言ってしまえばそれまでだが、ロックはまだ見ぬ皇女に何とも言いがたい感情を覚えた。
十八で生まれ育った帝都を離れ、はるか北方に嫁ぐ彼女は、どんな気持ちでいるのだろう。
彼女のことは何も知らない。髪の色と瞳の色と肌の色、そして想像から紡いだわずかな印象だけがあるばかりだ。なのにどうしてか思いをはせたくなるのは、『神秘的』と言われる存在だから、かもしれない。