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手で触れてわかること(5)

 手紙の送り主はフォーティス服飾店。
 この帝都でも五本の指に入る、実に名の知れた仕立て屋だった。
 手紙には丁寧な筆致でこう記されていた。

 フォーティス服飾店ではただいまご新規のお客様を歓迎しております。
 流行の最先端を行く仕立てと最高級の生地をそろえた確かな品質は、あなた様の新しい魅力を引き出すこと間違いございません。
 また当店の筆頭職人マウロ・フォーティスは、ただいま皇女リウィア殿下の花嫁ご衣裳を仕立てている最中です。あなた様のご衣裳が皇女殿下のお召し物を仕立てた職人の手によるものだったなら、たいへんな名誉になると思いませんか?
 ぜひともお引き立てのほど、そしてご来店を心よりお待ちしております。

「これは……」
 一読して、ロックは思わずうなった。
「この手紙をもらったのはあなただけですか、エベル」
 顔を上げて尋ねると、エベルは感心したように目をみはった。
「鋭いな。たしかに、この手紙が届いたのは私のところだけではない」
「手紙の中にあなたについて触れている部分がありません。お客様にあてたものなら、少しは相手のことにも触れるはずなのに」
 ロックも顧客に手紙を書くことはある。
 それは仮縫いを終えた知らせであったり、仕立てを終えて商品を引き渡すための連絡であったり、はたまた未払いの代金の請求であったりするが、何にせよ用件のみの不愛想な手紙にはしない。顧客ひとりひとりに合わせた挨拶や仕立ての報告、時には生地の手入れの方法なども記しておく。手紙の無礼で顧客を手放してはたまらない、配達人を雇う金だってばかにはならないのだから。
 だがこの手紙には受取人のエベルについての情報が見当たらない。なんなら宛名だけ書き換えて、他の人間に送っても支障なさそうだ。
「この手紙は帝都の貴族や商家、その他有力者の家々に送られたようだ。十人、二十人という数ではない。たいした手間をかけるものだな」
 エベルは小さく肩をすくめる。
「社交界でも話題になっている。『フォーティス服飾店が同業者たちに宣戦布告をした』とな」
「宣戦布告……」
 穏やかではないその言葉を、ロックは噛みしめるようにつぶやいた。

 そもそもフォーティス服飾店は、フロリア衣料店とは比べ物にならないほどの人気店だ。
 特に中流階級以上の若い婦人から支持されており、ドレスの流行はこの店から生まれるとまで言われている。当世流行の肌を見せたり身体の線をあらわにした仕立てのドレスも、ここが始めたのがきっかけという話だった。
 一方で、生み出される流行の型はいささか大衆的だという声もあるらしく、古きを重んじ風紀を憂う面々が真っ先に槍玉に挙げるのもこの店だ。
 皇女殿下のご衣裳を仕立てることが叶えば、そういったうるさ型を黙らせることもできるだろう。彼らにとってもこの栄誉は喉から手が出るほど欲しいものに違いない。

「地盤固めをする先見性もあれば、ほうぼうに手紙を送る人手と資金もある、というわけですね」
 ロックにとってもフォーティス服飾店は大きな障害となりそうだ。自分が時々惜しみたくなる配達人の雇金さえ、あの店は惜しまずにこうして宣伝に力を入れている。好敵手と呼ぶにはあまりにも強大で、にわかに焦りが募った。
 そんな内心を見透かしたか、エベルはもう一度手を伸ばしてロックの頬に触れた。
 今度は両手で、励ますようにそっと撫でさする。
「私はあなたを贔屓にしている。いくらでも力になろう」
 その大きな手のひらと、そこから伝わる心地よい体温がロックの心を瞬く間に落ち着かせた。先程はむしろ落ち着かなくなったのに、不思議なものだ。
「エベル……ありがとうございます」
 ロックは微笑み、感謝を告げる。
「あなたがいてくれること、何よりも心強いです」
「そう言ってくれると私もうれしく思う」
 エベルも顔をほころばせたが、すぐに少し悔しげにしてみせた。
「いや、もっと力になれると思っていたのだが……情報が乏しく、すまなかったな」
「皇女殿下のことですか?」
「ああ。人の記憶とはこんなにも心もとないものだろうか」
 彼は納得のいかない様子で何度も首をひねっている。
 だがロックは、相手が皇女だからこそのことだと理解していた。
「皇女殿下は雲の上のお方ですから、自分で思う以上に緊張するのかもしれませんよ。ミカエラ嬢も、リーナス卿だってあまり覚えていないとおっしゃってたじゃないですか」
「そう、それだ」
 ロックの慰めに対し、エベルは逆に眉をひそめる。
「私だけではなく、グイドもミカエラもそろってよく覚えていないという。たしかにありえないことではないだろうが、どこか妙だ」
「僕からすると、むしろ親しみが持てますけど」
 ありえないことではないとロックは思うし、皇女の前でらしくもなく緊張している三人を想像すると、自然と笑みがこぼれてしまう。失礼ながら、見てみたいとさえ思った。
「親しみ? そういうものか?」
 笑われたエベルは不服そうだったが、すぐにつられたように笑ってみせた。
「まあいい。目で見て、話をして、声を聴いても残らない記憶というものもあるのだろう。そういうものは直に手で触れて初めて、とどめることができるのかもしれない」
 そして大きな手が、ロックの葡萄酒色の髪をいとおしむように梳く。
「私があなたのことなら、何もかもしっかりと覚えているようにな」
 彼の手の動きが少しくすぐったい。ロックは目を伏せながら応じた。
「僕も同じです、エベル」
 目の前にあるエベルの胸にそっと手を触れてみる。着衣越しの淡い体温はそれでもたしかに感じられて、心が幸福で満たされた。
 ふたりきりの執務室は、その後しばらく、ロックが帰宅の途に就くまで静まり返っていた。

 翌日から、ロックは皇女の花嫁衣裳に本格的に取り組み始めた。
 彼女の髪や瞳や肌の色はわかった。となればドレスの色はいくつかに絞り込めそうだ。仕立ての型についてはまだ決めかねているが、フォーティス服飾店が名乗りを上げたとなると流行に乗るわけにもいかない。ここは熟慮すべきだろう。
 それでロックは得意の布屋に上等な織物を仕入れさせ、そのうちからドレスに使う生地を選ぶことにした。

 いつもより少しだけ早い店じまいの後、ロックはフィービを先に帰して市場通りに向かった。
 夕暮れ色に染まる市場通りは相変わらず混み合っており、ほうぼうに出された屋台からは焼いた魚や肉のいい匂いが漂っている。夕食がまだのロックはすきっ腹を抱えつつ、布屋を目指して人波を潜り抜けた。
 すると、
「あの……もし」
 女性の声が、すぐそばから聞こえてきた。
 ロックは足を止め、声の主を探した。すぐには見当たらず、背後かと思って振り返ればそこにもおらず、正面に視線を戻せばようやく、まばゆい夕陽の向こうに浮かび上がるように人影が見えた。
 思わず目をすがめると、その人影はロックの目に留まろうと一歩踏み出してくる。
 それでいて一瞬ためらってから、おずおずと切り出した。
「急いでいたのならごめんなさい。実は道に迷ってしまって……」
 声は若い、少女のものに聞こえた。
 ただその姿は夕景のまぶしさに塗りつぶされたようによく見えない。目深にフードをかぶっているのと、貧民街では珍しい、仕立てのいい外套を着ていることだけはわかる。そもそも彼女自身、人混みからまるで湧き出るように現れたのは――見間違いだろうか?
 釈然としない思いはすぐに消散し、ロックは彼女に聞き返す。
「どこまで行くつもり?」
 それで少女はびくりとしたようだったが、震えながらも答えた。
「帝都の入り口まで。この辺りは来たことがなくて、すぐ帰るつもりだったのだけど……」
 どうやら、貧民街の住人ではないらしい。
 だとすれば不用心にもほどがある。小悪党から大悪党までたちの悪いのがそろっている貧民街に、若い娘が一人でふらふらして、よくも無事で済んだものだ。
 ロックはいっそ感心しながら告げた。
「この辺は危ないから僕が案内するよ。ひとり歩きよりはましだろ?」
 だがその申し出に、フードの少女は見えない顔をそむけた。
「……結構です。場所だけ教えてもらえたら、ひとりで行けますから」
 男装のロックが、彼女には危険人物に見えたらしい。いかに痩せっぽちとはいえ男であることには変わりないということだろうか。
 それなら無理強いもできないと、ロックは腰につけた道具袋から炭筆と帳面を取り出した。そこに簡単な地図を記した後、少女に手渡す。
「じゃあ、これ。この通りに行けば商業地区の門まで行けるよ」
 少女はやはりおずおずと、手書きの地図を受け取った。大きな外套の袖から覗いた手は、紙のように白く、ほっそりしていた。
 そして面を上げると、ぎこちなく微笑む。
「あ……ありがとう」
 微笑んだのが、ロックにも見えた。
 フードの暗がりの中に少女の顔があった。髪は熟した木苺のように赤く、なめらかで、瞳の色は深い灰色だ。当たり前だが、見覚えのない顔だった。
 ほどけた口元はその後すぐに結ばれて、彼女はさっと踵を返す。
「気をつけてね」
 立ち去る背中にロックは声をかけたが、振り向かれることはなかった。
 歩き出したロックがそれでも気になって振り返ると、彼女の姿はもう、市場通りのどこにもなかった。

 布屋でいくつかの生地を見せてもらい、見本として端切れを数枚もらった後で、ロックは無事に帰宅した。
「お帰り、ロクシー」
 家で待っていたフィービが出迎えてくれる。夕食を作ってくれていたようで、焼いたチーズのいい匂いに空腹のロックは笑顔になった。
「ただいま」
「収穫はどうだった?」
「まあまあかな。いい生地もあったけど、これっていう決め手に欠けててさ」
 木苺色の髪と灰色の瞳、白皙の肌。まだ見ぬ皇女殿下の情報を頼りに、彼女に最も似合う生地を選び出す。それはたやすいことではないはずだった。
 と、そこでロックの脳裏にひらめくものがあった。
「そういえばさ、市場通りで変わった女の子を見かけたよ」
 ふいに思い出して父に告げる。
 市場通りで道を聞いてきた、外套を着込んだ女の子。
「明らかに貧民街の子じゃないみたいでさ、帝都の中に帰りたかったんじゃないかな。地図を描いて渡してあげたけどあの子、ちゃんと着いたかな」
「親切にしてやったんだな、えらいぞ」
 フィービは我が事のように得意顔になる。
 それから何気なくロックに尋ねた。
「それで、どんな子だったんだ?」
 問いに答えようとしてロックは、妙にうすぼんやりとした記憶に気づく。
「あ……あれ? どんな子だったっけ……」
「どうした?」
「いや、フードをかぶってたからかな。あんまり覚えてないや、その子のこと」
 髪の色、瞳の色、肌の色。それに声音さえ今となってはあいまいだ。
 覚えているのは仕立てのいい外套を着ていたことと、地図を描いてあげたら喜ばれたことくらいだ。あの時彼女は笑っていた気がする――いや、本当にそうだっただろうか。それすら今は自信がない。
 きっと夕暮れの市場通りがまぶしかったせいだろう。
「まあ、もう会うこともないだろうしね」
 ロックはおぼろげな記憶を吹き飛ばすように明るく笑った。

 手で触れなかった記憶を心にとどめておくことは、難しいのかもしれない。
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