この手を離さずに(5)
貧民街に戻るのは十日ぶりだった。一度店に立ち寄って、盗難に入られていないことを確かめた後、ロックはジャスティアたちの元へ足を向けた。
公衆浴場の下にあるパン屋に近づくにつれ、美味しそうな焼きたてパンの匂いが漂ってくる。
その匂いを懐かしんでいれば、店先にいた人影がはっと動きを止めた。
「ロック!」
ジャスティアが声を上げるなり飛び出してくる。
同時に店の奥からカルガスが顔を覗かせ、たちまち目を瞠った。
「ああ、二人とも――」
ロックがきまりの悪い思いで挨拶を終えるより早く、駆け寄ったジャスティアが抱き着いてくる。
「もう! あんたって子は今までどこ行ってたの!」
「わ、ごめん! ごめんってば!」
「ごめんで済むかいこの馬鹿たれ! あんたまでいなくなったと思って心配したんだからね!」
ジャスティアは泣きながら、ロックの背中をぽかぽか叩いた。
それでロックが反応に困ると、彼女の肩越しにカルガスの安堵の苦笑を見つける。
どうやら本当に心配をかけてしまったようだ。
「ちょっとクリスターを探しに行ってたんだよ」
ロックが事情を話せば、ジャスティアは涙に濡れた顔をしかめる。
「またそんな危険な真似をしてたの?」
「そ、そこまでじゃないよ。フィービも一緒だったし」
事実を漏れなく話したら、きっとジャスティアは一層腹を立てるだろう。絶対に言えない。
もちろん、それもロックを案じてくれているからこそだとわかってもいる。
「そういえば、フィービは? 一緒に帰ってきたんだろ?」
「うん。身支度を整えてから来るって言ってた」
ロックと同様、フィービにとっても十日ぶりの帰宅だ。やりたいことは山ほどあると言っていた。
それらが済んだらパン屋で落ち合い、一緒にジャガイモパンを食べる約束だった。
フィービがやってくるまでの間、ロックはカルガスとジャスティア夫妻への弁明に追われた。
食堂の椅子に座らされ、あれこれと質問攻めを受けた。クリスターはどこにいて、現在はどうなっているのか。そしてその捜索に、ロックとフィービがどのように関わったのか――事実をありのままに打ち明けるわけにもいかず、大枠はぼかして話さねばならなかった。
「クリスターは怪しい団体に攫われててさ、結構酷い目に遭ってたんだ。僕とフィービは偶然その隠れ家に辿り着けてさ……」
「どうやってよ?」
「そ、それはほら、他にも嗅ぎ回ってる人がいて――」
突っ込まれてはしどろもどろになったが、どうにか逃げ切った。
「クリスターが怪我をしてるんだ。命に別状はないけど、戻ってくるまでにはまだかかるし、杖が必要になるみたい」
彼について言及すれば、ジャスティアたちの関心もそちらへ移る。
「そう……ずいぶん酷い目に遭ったのね」
「でも命があるだけ儲けもんだって本人は言ってた。ニーシャも喜んでたしね」
もうしばらくもすれば、クリスターもまた貧民街に戻ってくるだろう。
その時には、杖をついて歩く彼と、隣で腕を支えるニーシャの姿を見かけることもあるかもしれない。
「ま、ニーシャもこれで張り紙分の金を回収できたってもんさ」
口調とは裏腹に、ジャスティアがようやく晴れ晴れと笑う。
すると、ちょうど食堂に着替えてきたフィービが現れた。
栗色の髪を丁寧に梳かし、美しい顔には久方ぶりの化粧を施し、ロックお手製の青いドレスを身にまとっている。
ロックが手を振るとすぐに見つけてくれて、嫣然と微笑んだ。
こうして見るとやはり、骨太の『美女』に映る。
「フィービ、聞いたよ。ロックと大冒険をしてきたんだって?」
ジャスティアに呆れ半分で声を掛けられ、フィービは楽しげに片目をつむった。
「まあね、たまには憂さ晴らしもしないと」
「あんたはいいだろうけど、あんまりロックを連れ回さないであげなよ。棒っきれみたいにひ弱なんだから」
釘を刺したジャスティアが、カルガスと共に厨房に引っ込む。
フィービはロックと向かい合わせに座り、肩を竦める。
「確かに『大冒険』だったわねえ、今回は」
そして豊かな髪を満足そうにかき上げる。
「でもまあ、お互い無事に帰ってこられたしね。閣下のところにはあたし用のドレスもないから、久々に袖を通せてうれしいわ」
「よく似合ってるよ」
ロックは心からその姿を褒めた。
女装のフィービも、そうではないフレデリクス・ベリックも、ロックは両方大好きだ。
「あのお屋敷にずっといたら、こっちの姿を忘れちゃうとこだったわよ」
フィービが冗談めかしてそんなことを言う。
彼がどんなふうに過ごしていたかは、既にヨハンナから情報取得済みだ。ロックがくすっと笑うと、途端にフィービが怪訝そうにした。
「何よ、今の笑いは」
「フィービと閣下が一緒に暮らしてるとこ、僕も見たかったなって」
「……あの小娘、口が軽いったら」
ちっと舌打ちしたフィービが、その後で苦笑いを浮かべる。
「誘拐された当の本人が、ずいぶん暢気なこと言ってくれるじゃない」
「そうだね……」
確かにロックは乱暴なやり方で攫われ、気の休まらぬ日々を過ごした。
だがあの日々も、ややもすれば別の思い出に変わってしまいそうな気がするのだ。
いつかの未来で今を振り返った時、ロックは伯父と伯母に、もっと違う思いを抱いているかもしれない。
今はまだ飲み込みきれない思いもあるが――いつかは。
「とりあえず、久々のジャガイモパンを食べようよ」
今は、パン屋の懐かしい匂いが恋しい。ロックは言って、ジャスティアを呼ぼうと手を上げる。
厨房にいたジャスティアはロックの方を振り返り、ふと思い出したような顔をした。
「そうだ、ロック! 帰ってきてからトリリアン嬢には会ったかい?」
「え? まだ会ってないけど……」
「あんたがずいぶん帰ってこないってんで、家賃踏み倒されるんじゃないかって苛々してたようだよ。家賃値上げしてやろうかって喚いてたから、会ったらちゃんと言っときな」
そういえば、あの誘拐騒ぎの前はフィービの部屋に身を寄せていたのだ。
帰っていないというなら、それこそ長いこと部屋を空けていたことになる。大家の心配も致し方ないことではあるが――。
「そろそろ、引き払おうかと思ってたんだけどな……」
この分だと穏便な退去ができるかどうかも怪しいものだ。
頭を抱えるロックは、ちらりとフィービに視線を送る。
「……一緒に説明しに来てくれる?」
するとフィービは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「しょうがないわねえ、罵られに行きましょうか」
かくしてロックとフィービは腹ごしらえを済ませた後、二人揃って戦場へと向かった。
先んじて武装していたトリリアン嬢との和平交渉は困難を極めたが、ロックが弁解に徹しつつ、フィービが時々火に油を注ぎつつ、それでもどうにか話し合いのテーブルに着かせることには成功した。
最終的に二人は二ヶ月分の家賃と引き換えに、穏便な退去の権利を勝ち取ったのだった。
そして穏やかな父子二人暮らしが始まったのと同じ頃。
ロックは、エベルから注文を受けていた正装の仕立てを終えた。
早速手紙を送ると、彼も日を置かずに店を訪ねてくれた。
「お客様として来ていただくのも久しぶりですね」
現れたエベルに声を掛けると、彼も安堵した様子でカウンターまで近づいてきた。
「あなたの日々に平穏が訪れたことを幸いに思う」
「エベルのお蔭ですよ」
ロックがすかさず応じれば、掃除をしていたフィービが大きな咳払いをする。
だから笑って言い直した。
「もちろん父も……それからリーナス卿とミカエラも。ヨハンナたちも、みんなのお蔭です」
ロックの今の平穏は、多くの人たちの助力によって成り立っている。
一度は失くしたかに見えたそれを、自分たちは無事に取り戻すことができた。
リーナス兄妹は今でも仲睦まじく日々を過ごしているのだろう。
ヨハンナはあの明朗さで、エベルたちを和ませたり、時に苦笑させたりしているのだろう。
クリスターはもうじき貧民街に戻ってくる。
そして――。
「あなたの日々も同じように、平穏であることを願います」
ロックがそう告げると、エベルはそっと目を細めた。
それからカウンター越しに手を伸ばし、ロックの手を取る。
「私の平穏はあなたがいることだ、ロクシー」
大きな温かい手にすっぽりと包まれ、ロックは思わず恥じらった。
「エベル、あの……」
「できればもっと傍に――常に近くにいて欲しいと望んでいる」
エベルは見守るフィービの視線も気にせず、真っすぐにロックを見つめてくる。
「前にも話した通り、未来を、私と共に歩んで欲しい」
もちろん、ロックの答えは決まっていた。
だがロックとしては、すぐ傍にいる父の視線も気にならないわけではないし――それに。
ずっと考えていたことがある。
父がかつて、母と目指した夢のこと。
そしてエベルの手の中にある、自分の細く小さな手のこと。
だから言った。
「もちろんです、エベル」
頷いてから、ロックは金色の瞳に打ち明ける。
「それに僕も未来について、考えていることがあるんです」
「……それは、どんな?」
エベルに聞き返され、一瞬だけためらった。
だが間を置いたところで考えが変わるはずもない。ロック自身が夢見ていたことだからだ。
少しはにかみながら答える。
「僕はロックじゃなくて、ロクシーとして店を持ちたい」
その決意を受け止めるように、エベルが静かに目で頷いた。
ロックも頷き返して、更に続ける。
「父と共に、この貧民街を出て、帝都で仕立て屋をしたい。そう考えています」
ちらりと視線を転じれば、フィービも黙って笑っていた。
それは父と母のかつての夢だった。
これからはロックにとっての夢になる。
「とても、いい目標だ」
エベルは我が事のように声を弾ませた。
「あなたの夢のために、私が手を貸せることもきっとあるだろう。その時には是非言ってくれ」
「ありがとうございます、エベル」
もしかすれば、本当に彼の力を借りなければならないかもしれない。
ロックも二十歳だ、既に現実を知っている。貧民街を出ていくための市民権を買うには多額の金がいること、しかし金だけではどうにもならないことも察し始めている。
だがそれは壁にぶち当たってから考えればいい。
この小さな、縫いだこだらけの貧弱な手で、権利を掴みたかった。
エベルの隣に立てるような自分になりたいと思った。
「あなたには、これからも僕の店をご贔屓にしていただきたいです」
ロックはエベルにそう告げた。
「僕もあなたの信頼に報いて、心を込めてお仕立てします」
そして彼の手を握り返すと、エベルももう片方の手を添えて、ぎゅっと力を込めてくる。
「あなたの心意気、しかと聞き届けた。では私は、あなたの一番の得意客になろう」
手を握り合う二人を見て、フィービが冷やかすように言う。
「そうだ、絶対その手を離すなよ」
果たしてどちらに対して告げられたものか――どちらだとしても、二人の決意が変わるはずもない。
夢が全て叶うまで、この手を離さずに。
もちろんその先の未来でも、ロクシーの小さな手は、エベルの手を決して離さないだろう。