この手を離さずに(4)
その日の朝、マティウス邸から一台の馬車が使いに出た。目的はもちろんニーシャを迎えに行くためで、馬車は昼前には役目を果たして屋敷へ戻ってきた。
ロックは帰還した馬車を庭まで出迎えた。
降りてくるニーシャはずいぶんと不安そうにしていて、こわごわと地面に降り立った。だがロックの姿を見つけた途端、その顔が安堵にほころんだ。
「ロック……。クリスターが見つかったって本当?」
「ああ、中にいるよ」
ロックは頷いたが、その後すぐに言いよどむ。
「ただ……その、怪我をしてるんだ」
「怪我!?」
「そう。攫われた時に、脚をね」
それでニーシャの顔は強張り、ロックはそんな彼女に手を差し出した。
「部屋まで案内するよ、行こう」
「……うん」
ニーシャの褐色の手が震えている。
その手をしっかり掴むと、ロックはクリスターが待つ客室へと小走りで向かった。
クリスターは客室の寝台にいた。
怪我の他に衰弱もしていたため、まだしばらくは安静にして、体力をつけることから始めた方がいいと昨夜の医者は言っていた。
だから今日の面会もあまり長い時間は許可できない。彼が興奮して、疲弊してしまっては困るから――廊下を走りながら説明したロックに、ニーシャは従順に頷いていた。
だが部屋に入ってクリスターの姿を見たら、そういう話も吹っ飛んでしまったようだ。
「クリスター!」
叫ぶなり駆け出したニーシャは、クリスターごと寝台に縋りつく。
クリスターも受け止めようとはしたようだが、その両手はわずかに宙に浮いただけだ。それでも泣き出したニーシャの頭を撫でてやることはできていた。
「長い間放ったらかしでごめんな、ニーシャ」
「そんなの……も、もう、会えないかと思ってたから……!」
ニーシャは幼い子供みたいにしゃくり上げている。
「あたしのこと、捨ててくはずないって信じてた。だから絶対、何かあったんだろうって……!」
「ありがとな。張り紙作ってくれたんだって、ロックから聞いたよ」
クリスターがあんなにも優しく笑うのを、ロックは初めて見たように思う。
どんな人間にだって一人くらいは、掛け値のない思いやりと労わりを寄せる相手がいるものなのだろう。
感動の再会を見守るロックに、同じく立ち会っていたエベルが囁く。
「我々は少し外した方がいいかもしれないな」
「……そうですね」
ロックも異存はなく、二人は黙って廊下へ出た。
扉一枚隔てた客室からは、その後もしばらくニーシャの泣き声が聞こえ続けていた。
ロックとエベルは廊下の壁に並んでもたれかかり、しばらくの間互いに黙っていた。恋人たちの再会を見届けた後ではあるが、さすがに手放しで喜べる状況でもない。
「クリスターは今後どうなりますか?」
やがて沈黙を破り、ロックは尋ねた。
エベルが目を伏せ、ため息をつく。
「しばらくはここで預かる。杖の使い方に慣れるまではな」
「ご迷惑ではないですか?」
率直に尋ねたからか、エベルは小さく吹き出した。
「心配はいらない。部屋なら貸すほどあるし、特区にいた方がいい医者をあてがえるからな」
金銭的負担を口にしない辺りはさすが貴族というべきだろうか。
感心するロックに、彼は眉を顰めて続ける。
「それに、もう少し情報が欲しい。クリスターも今はまだ混乱しているだろうが、気持ちが落ち着けば何か思い出すことがあるかもしれない。私はそれに期待している」
「そうですね。僕もそれを願ってます」
クリスターと、カート。ふたりの生き証人がここにはいる。
ロックも怪我こそなかったが、あれほどの目に遭ったのだ。もう少し収穫があってしかるべきだろう。
そしていつか、呪いの根源を突きとめてみせる。
だがその前に――。
「僕と父は、そろそろ家に戻ろうと思います」
ロックはエベルにそっと打ち明けた。
「店もずっと閉めたままですし、泥棒が入ったら困りますから」
あの貧民街の小さな店を離れてから、ずいぶん長い時間が過ぎたように思う。
自らの意思で『帰る』選択ができるのは、とても幸せなことだった。
「……そうか、寂しくなるな」
エベルは、言葉以上の寂しさを表情に滲ませる。
「今生の別れみたいな顔をしないでください」
それでロックが笑うと、拗ねたように肩を竦めた。
「気分としてはさして変わらないな。長きにわたる忍耐を越え、あなたとようやく再会できたというのに、また手放さなくてはならないとは……」
「いつでもお会いできますよ。僕は店にいますから」
ロックはエベルを宥めた。
自由となった今なら、あの店で彼を待つこともできる。彼が店を訪ねてくるのを焦れる思いで待ちわびて、そうしてドアベルを鳴らしながら入ってきた時には笑顔で迎え入れることだってできるのだ。
だから、別れを惜しむ必要などない。
「そういえば、ご注文いただいた正装の仕上げもまだです」
「ああ、そうだったな」
「次のご来店までに仕立てておきます。ですから絶対に……会いに来てください」
念を押すように告げると、エベルは即座に頷いた。
「必ず行こう。あなたの顔が見たいからな」
それから、ロックの顔を記憶に焼きつけるかのように、頬を手の甲で撫でてくる。
輪郭をなぞる手つきがくすぐったく、ロックは思わずはにかんだ。
「実を言えば、僕も少しは離れがたいと思っています」
「少し? 私は大変にそう思っているのだが」
「いえ……大変に、です。僕だってそうですよ……」
「できれば毎日あなたの傍にありたい。今朝方のようにな」
エベルが朝の出来事に言及したので、照れ隠しに軽く睨んだ。
「あれは大変に驚きました。僕に断りもなくあんなことを――」
「では、断れば構わないと?」
鋭く切り返したエベルは、口元だけしか笑っていない。
金色の瞳が思いのほか真剣で、射竦められたロックは慌てた。
「そ、そういうことではなく!」
「わかった。ならば次からは夜のうちに申し込むことにしよう」
「エベル! 僕の話を聞いてますか!」
澄ました様子のエベルにロックはうろたえ、思わず彼の手を握る。
ちょうどその時、傍のドアが開いた。
「何の騒ぎ?」
客室から出てきたニーシャが、不思議そうに首をかしげる。
ロックはとっさにエベルから手を離し、目を泳がせながら応じた。
「な、何でも。……クリスターはもういいの?」
「うん。あんまり長居して、疲れさせたら嫌だから」
そう話すニーシャの目は真っ赤だ。
だが表情は晴れやかで、胸のつかえが下りたことがはっきりと見て取れる。
「治ったらもっとゆっくり話すつもり」
ニーシャは微笑むと、ロックとエベルに頭を下げた。
「本当にたくさんありがとう、ロック。それと伯爵さんも」
「伯爵『閣下』だよ、ニーシャ」
「構わない」
ロックの訂正に、エベルは笑った。
ニーシャは端から意に介す気もなかったようで、何事もなかったかのようにロックに身を寄せてきた。
「特にロックには、すごくお世話になっちゃったね」
褐色の柔らかい手が、縫いだこのあるロックの手を握る。
それを見下ろすロックに対し、囁く声で言ってきた。
「ね。クリスターには内緒で、一晩付き合ってあげよっか」
握られた手が胸に当たる。柔らかい。
「お礼って言ったらこのくらいしかできないから……どう?」
「……え?」
何を言われたかわからないロックの代わりに、エベルが二人の手をほどく。
「そういった気遣いは無用だ。用が済んだなら馬車を出そう」
相変わらず目は笑っていない。
そのことにロックが気付いた時、ニーシャはけたけた笑い声を上げた。
「冗談だよ! ロックは女の子だもんね」
「え!?」
今度は何を言われたか、すぐにわかった。
ロックは身を強張らせ、恐る恐る聞き返す。
「……いつから気付いてた?」
「最初に、手に触らせてもらった時にね」
それはニーシャと初めて会った日――ジャスティアのパン屋での出来事だ。
クリスターが音信不通になってまだ間もない頃、ニーシャもそれほど慌ててはいなかった。
それでも情報が欲しいのだとロックに迫り、その時、確かに手に触れられていた。
「仕事柄、男の手はよく触ってるから」
ニーシャが細い指先でロックの手をなぞる。
指は縫いだここそあるが関節が目立たず、指先は爪が小さくほっそりとしている。手の甲も柔らかく反っていて、よくある男の手のように筋張っていることはない。
「ほら、全然違うでしょ。初めて触った時にわかったの、ロック・フロリアは女の子だって」
「う……」
言い当てられて、ロックは落ち着きをなくしていた。
この場で暴かれてもさしたる問題はない。エベルはとうに知っているし、ニーシャは口止めしておけばいいからだ。
だが、彼女と同じように真贋を見抜く者がいたとすれば――。
「わかってたのに黙っててくれたのは、どうして?」
ロックの問いに、ニーシャは明るく答えた。
「理由なんて特にないよ。男のふりをしてる子の秘密、わざわざ広めたって得はないもの」
「上手く化けてるつもりだったんだけどな……」
「安心して。これからも秘密は守るから」
ニーシャは握る手に力を込めると、そのままロックの手をエベルの方に押しつけた。
「それとさっきの話は本当に冗談だから! 女のお客さんもいなくはないけど、伯爵さんがやきもち焼いちゃうもんね」
「……配慮をありがとう」
エベルがむっつりと言い、代わりにロックの手を握る。
それでロックはすっかり動転し、その場では結局、何も言えなくなった。
あとで一人になってから、改めて自分の手を眺めてみた。
これまで誰にも言われたことはなかったし、自分で気付くこともなかった。だがニーシャの指摘はもっともで、ロックの手はエベルのものとも、フィービのものともまるで違う。よくも今日まで自分で気付けなかったものだ。
「二十歳の男を名乗るには厳しいかな……」
ロックは独り言を呟くと、恥ずかしさから苦笑する。
軟弱な『道化の仕立て屋』もそろそろ幕引きの頃かもしれない。
おぼろげながらもそんな予感を抱き始めていた。