花嫁たちは美しく(1)
帝都の朝は早い。街中のいたるところに立つ街灯が道々を照らしているおかげで、酒場や宿屋がある界隈は夜明け前まで賑わいを見せる。それらがようやく静まるのは空が白み始めた頃で、その時分になると今度は商人たちが近隣の農村へと馬車を出す。朝採りの野菜や果実を市場に、誰よりも早く並べるためだ。
帝都の外壁のさらに外側にある貧民街も、夜明けの頃から騒々しい。酒場は店じまいのために潰れた客を街路に転がし、それを狙ってスリやかっぱらいが辺りをうろつく。誰かと誰かの追いかけっこの声が住人たちを叩き起こすのもよくあることなら、借金取りや仇討ちが部屋に押しかけるのも夜明けが多いという。貧民街の馬屋は高飛びする者とそれを追う者とでそこそこ潤っているようだが、一歩出遅れれば商人たちの荷馬車に街道を塞がれてしまうのも朝が早い理由の一つだ。
仕立て屋ロックの朝も、物騒な住民たちほどではないがそれなりに早い。
何せ男装にはひと手間かかる。最近では父と同居を始めたので、彼と朝支度がかぶらないように配慮する必要がある。もっともコルセットを身に着けるだけのロックより、入念な化粧を施すフィービの方が支度に三倍近い時間がかかるのだが。
そして今朝は父の方が先に起きたようだ。まどろむロックの耳に、聞き慣れないいくつかの音が届いてきた。
革紐を強く引き結ぶ音、ブーツの拍車が床を打つ音、剣を鞘に収めた時の冷たい金属の音――。
「……もう出かけるの?」
毛布の中で目をこすりながら、ロックは父に問いかけた。
父子の寝室は布の間仕切りで分かたれている。フィービの暮らす共同住宅には二部屋しかなく、寝室を分け合うより他なかった。それでもロックが以前借りていた古道具屋の二階よりはずっと広く、親子水入らずの暮らしは快適そのものだった。
「悪いな、起こしたか」
間仕切りの向こうでフィービがうめく。
ロックが身を起こすと、ひょいと顔をのぞかせて言った。
「ああ、寝ててもいいぞ。鍵はかけておく」
その顔に、今朝は化粧をしていない。
長い栗色の髪も無造作に束ねているだけで、いつものように梳いてはいない。そして身に着けているのはドレスではなく、無骨な革鎧の一式だ。
「お見送りくらいするよ」
寝台を下りようとしたロックを、フィービは慌てて押しとどめる。
「いいって。まだ朝早いんだからゆっくり寝とけ」
「そうはいかないよ。お見送りを怠って、父さんに何かあったら……」
「何があるっていうんだ、あの遺跡に」
フィービが一笑に付したとおり、あの遺跡にはもう誰もいないはずだった。
今日はそこに調査へ向かうのだと聞いている。どういうわけか、グイド・リーナスと一緒にだ。
グイドとその妹ミカエラが『フロリア衣料店』を訪ねてきたのは先週の話だった。
ロックの誘拐事件、および人狼教団との一件からひと月以上が過ぎており、リーナス兄妹とは久方ぶりの顔合わせだ。出迎えたロックとフィービは、グイドが切り出した用件に驚かされた。
「あの遺跡を徹底的に洗い直したい。どんなわずかな手がかりでもいいから手に入れたい」
そう言って、グイドはフィービを見た。
「金は払う。近々、都合をつけてくれ」
「もう、お兄様! それがものを頼む態度ですか!」
ミカエラは即座に兄をたしなめ、会話を継いだ。
「あの遺跡がすでに空っぽであることは周知の事実。ですが、わたくしたちが得た他の手がかりはほぼ行き詰まってしまったのです」
彼女の話によれば、エベルとグイドが遺跡で暴れたその時、逃げ出してくる教団の信者たちを一度捕まえ、身元を押さえることには成功していたそうだ。
だが後日彼らを訪ねて問い詰めたところ、口をそろえてこう言ったという。
『なぜあそこにいたのかわからない。人狼になんてなるつもりはなかった』
その言葉に、ロックは聞き覚えがあった。
「アレクタス夫妻と同じか……」
「まさしく、その通りです。そして我が兄とも。聞けば聞くほど、誰も望んであの場にいたわけではないと、むしろ恐ろしげに言われるばかりでした」
そう話すミカエラは徒労感をにじませていた。
彼らにとっての幸いは、呪いにかけられる前だったということだろう。二十人にものぼる『元』信者たちに、金色の目をした者はいなかったそうだ――プラチド・アレクタスを除いては。
「みんな、操られていたってことなんですね」
ロックの言葉に、ミカエラは睫毛を伏せる。
「ええ。本心からの信仰でないのなら、それも幸いなことですが……」
「我々の手元にある鍵は、エベルのところにいるあの子供と、あの遺跡だけというわけだ」
グイドも顔をしかめていた。
そしてカートもまた他の信者たちとほぼ同じだ。なぜあそこにいたのか、人狼の呪いをよきものとして人々に与えようとしていたのか、記憶はあいまいなままらしい。司祭として権高にふるまっていた姿は、奇怪な仮面をなくして以降見る影もなかった。
「だからあの遺跡を洗い直したい、ってわけか」
呟くように言ったフィービは、あっさりと覚悟を決めてしまったらしい。すぐさまグイドに告げた。
「報酬は弾むと仰ったか?」
「相場以上は出そう。誰もいない場所とはいえ、何が残っているかわからないからな」
気前よく答えたグイドが、その後で肩をすくめる。
「いや、何か残っていてくれなければ行く意味もないな。そういうことだ」
かくしてフィービはグイドに帯同し、再びあの遺跡へ赴くことになった。
早朝に入り日暮れまでに出る。遺跡の外には見張りを立てるが中に入るのはフィービとグイドだけ、何か見つかればそれを持ち帰り、何もなければ入り口を封鎖する。そういう計画だった。
「別に危ない仕事じゃない。ちょっと潜ってくるだけだ」
と、フィービはロックに言うのだが。
「あんな不気味なところに行くのに、危なくないはずないよ」
娘としては父が心配でしょうがない。
それでなくともあの遺跡では、『集団催眠』と呼ぶべき奇妙な現象を目の当たりにした後だ。まして相手が未だ得体の知れぬ呪いだというなら、留守番のロックがやきもきするのも無理はない。
だが父は、至って明るく言い切った。
「心配すんな、俺に呪いは効かない。そんな力必要ないからな」
そう語るフィービが、腰から下げた短剣の柄に触れる。
ロックも、父の傭兵としての実力を信じていないわけではない。だから真顔でうなづいた。
「わかってる。でも、くれぐれも気をつけてよ」
「もちろんだ。日が変わる前に帰る」
それからフィービは見送りに出たロックに顔を近づけると、こつんと額をぶつけてきた。
「お前も店番、気をつけろよ。変なのが来たら鍵閉めて追い返せ」
「うん」
もう一度うなづけば、フィービは笑って扉をくぐる。
再び閉じた扉を見つめつつ、それでもロックは、かつての母の気持ちがわかるような気がしていた。
――母さんも、こんな思いで父さんを見送っていたのかもしれない。
その後、ロックはいつもより早く身支度を整え、やはりいつもより早めに店へ向かった。
早く開けても客が殺到するということはありえないので、開店はあくまでいつも通りだ。ただ現在のロックには、急がねばならない大切な仕事があった。せっかくなのでその作業を進めてしまうことにした。
ニーシャからの注文で、花嫁衣裳を縫うことになっていたのだ。
クリスターが療養を終え、貧民街へ戻ってきたのは先週のことだった。
当然ながらニーシャは泣いて喜んだし、ロックもあれこれは水に流して素直に帰還を祝福した。カルガスとジャスティア夫妻は苦笑しつつもジャガイモパンを奢ってやり、クリスターも殊勝に礼を言った後で、おずおずとニーシャとの結婚を宣言したのだ。
『相手がいるんなら早く落ち着いた方がいい。身軽なままだとそのうちまたやらかすぞ』
とは、この件に対するフィービの言葉だ。
妙に実感のこもったその助言が本人に伝わったかどうか、戻ってきてからのクリスターは阿漕な商売もしなくなり、堅実に繕い物の仕事から請け負うようになった。ニーシャはそんな彼を支えていくつもりのようで、市場通りを杖をついて歩くクリスターの隣には、常に彼女の姿があった。
結婚式は再来週を予定しており、会場はパン屋の食堂。ロックとフィービ、それにエベルも出席して二人の門出を祝うことになっている。
だから、それまでに衣裳を間に合わせる必要があった。
花嫁衣裳は、ニーシャが生まれ育った南方の海の色で仕立てた。
目が覚めるように鮮やかで、明るい青色の海をロックはまだ見たことがない。だがいくつかの布地を見せた時、ニーシャはこの色だと言って譲らなかった。この海に黄色や赤や青色の魚たちが泳いでいると聞いて、帝都と比べて南方はどれほど風変わりなのだろうと困惑したほどだ。
ドレスのスカートには、海を泳ぐ小さな魚たちを思わせるような安物の宝石を散りばめて縫いつける。ビスチェ部分には、ニーシャが好きだという南方にしか咲かない花の刺繍を施す。額飾りも同じ花を模した造花を、木の枝で編み込んで作る手はずとなっている。
これらはロックの仕事の中でも大掛かりで、決して安価ではない注文だったが、クリスターはやはり殊勝に前金で全額支払ってくれた。ニーシャのためだから、などと照れながら。
となればロックも、価格以上の仕事をしてやろうと決意した。
この日、『フロリア衣料店』には三人ほどの客が来た。
クリスターが戻ってきてからというもの、厄介な注文を押しつける客はすっかりいなくなっている。フィービの留守も不安にはならず、ロックは七枚接ぎのスカートを縫い合わせて一息ついた。
ちょうどその時、四人目の客が店のドアを開け、
「エベル!」
ロックはドアベルが鳴るのとほぼ同時に声を上げた。
歓迎を受け、彼もまたうれしそうに金色の瞳を細める。
「今日は訪ねていこうと思っていた。グイドから遺跡調査の日だと聞いていたからな」
どうやら留守番のロックを案じて、ここまで来てくれたようだ。
ロックは心弾ませながらカウンターを飛び出し、彼を出迎えようとして――ふと、エベルの陰にもう一人、小さな姿があるのに気づく。
そばかすが浮いた丸顔の、褐色の髪の少年には見覚えがあった。以前会った時よりもいくぶんか小ぎれいな服装をしていたが、表情は気まずげで目も泳いでいる。
「カート」
人狼教団の司祭だった少年。ロックがその名を呼ぶと、エベルの陰に隠れるようにしていた彼が、恐る恐る前に進み出た。
「お……お久し振りです」
緊張に張り詰めた彼の様子を、エベルは穏やかな面持ちで見守っている。
「うちで働きたいというので、わずかだが雑用などを任せることにした。今日はここまで同道してもらったんだ」
「……働く、ですって?」
思わぬ言葉に、ロックは呆気に取られていた。