狼は群れを成す(4)
アレクタス夫妻の姿を見た時、ロックも微かな胸の痛みを覚えた。できればこのまま鉢合わせることなく立ち去りたかった。顔を合わせれば一悶着あることは想像がついたからだ。
だが彼らからすれば、暴れ回る人狼に可愛い姪を攫われかけているところとしか見えないだろう。
まして大広間は今や見る影もなく、壊れた調度が散乱して瓦礫の山だらけという有様だ。ここで祈りを捧げていた人々は逃げた後で、辺りはすっかり静まり返っている。誰がこの人狼たちと話し合えると思うだろう。
「あなた、ロクシーが……ロクシーが!」
血相を変えたラウレッタが夫に縋りついた。
「わかっている。危ないから下がりなさい」
プラチドは妻を背後へ押しやり、二人の人狼に向き直る。
そして険しい面持ちで口を開いた。
「急に暴れ出したというからどんな相手かと思いきや、落ち着いたものだな」
人狼たちと相対しても、プラチドに臆した様子はない。
それどころか金色の目を眇め、二人の正体を見極めようとしている。
「誰かは知らないが、娘を離してもらおうか。話は通じているのだろう?」
低い声で命じるように告げてきた。
二人の人狼も金色の目で視線を交わし合う。
そこでどんな意思の疎通がなされたかロックにはわからなかったが、エベルの方が静かに応じた。
「……彼女は、あなたがたの娘ではないでしょう」
途端に夫妻が揃って目を剥く。
「その声、マティウス伯爵閣下!?」
「ではやはり、あの目の色は……」
「ええ、アレクタス卿。あなたと同じです」
エベルは大事そうにロックを抱え込みつつ、視線は真っ直ぐにプラチドを捉えていた。
「あなたと違うのは、私は望まぬうちから呪われ、この力を得たということだけです。それでも、彼女を救う力があることだけは幸いだと思います」
ロックも黙ってエベルの胸にしがみつく。
ふかふかの黒い毛皮が暖かかった。
「救うですと? これでは誘拐ではないか!」
プラチドが声を荒げる。
「娘を連れ去ろうと仰るなら、伯爵閣下とて許すことはできませんぞ!」
「それはあなたが数日前になさったことでしょう。私は彼女の求めに応じて、彼女を親許に返してあげるまでのことです」
エベルの反論にも夫妻は聞く耳持つ気ないようだ。揃って怒鳴った。
「我々は娘を取り戻したまでだ!」
「親許はここです! わたくしたちが親です!」
プラチドはともかく、ラウレッタの方はあくまでも正当な理由でロックを連れ去ったと思っているようだ。
ロックは酷く切ない気持ちになった。
彼女の思いは極端で狂気的だが、同時に純粋なものだ。妹への思慕を悪辣な者に利用されているだけだ。そしてそんなラウレッタを愛するがゆえに、プラチドもまたつけ込まれる羽目になっている――。
思わず二人に叫び返した。
「あなたたちはどうかしてます!」
エベルの腕に守られながらも、言い知れない不安や焦燥が込み上げてくる。
あの二人をこれ以上、人狼教団に近づけてはいけない。留まらせてはいけない。そう思えてならなかった。
「どんな理由があったって、断りもなく人を攫って許されるはずがありません!」
非難をぶつけられ、ラウレッタが雷に打たれたようにびくりとする。
「ロクシー……?」
妻を一度振り返り、凍りついたその表情を確かめると、プラチドは眉を逆立てた。
「よせ、ロクシー。それ以上言うと君でも容赦はしない!」
彼は妻を守るという意思だけで凝り固まっているようだ。
どんな言葉もその耳には届かないのだろう。もしかすれば、ここに潜む呪いのせいで。
ロックが諦めて口を噤んだ時、グイドが前に進み出た。
「エベル、どうやら一戦交える必要がありそうだぞ」
彼が声を発した途端、プラチドは冷たい視線をそちらへ向ける。
「リーナス卿、やはりあなたもか」
「お会いした時、同類としてご挨拶もせず申し訳ない」
グイドはたっぷりの皮肉で返すと、エベルに囁いた。
「お前は荷物があるだろう、先に行け」
荷物――言うまでもなく、抱えられているロックのことだろう。どうとも思わなかった当人をよそに、エベルが尖った耳をぴくりと揺らす。
「そんな言い方をするな。彼女は荷物ではなく、私の宝物だ」
「誰が惚気ていけと言った。いいから急げ」
グイドは毛むくじゃらの手を振った。指先には鋭い爪が光っている。
「……わかった」
一瞬の間を置いてエベルが頷いた、その時だった。
「逃がすか!」
プラチドが吠えた。
「娘は渡さない、必ず取り返す!」
そしてラウレッタを庇うように押し退け、ぼろぼろになった床を蹴った。
次の瞬間、宙を舞う彼の身体は急激に質量を増した。
みるみるうちに膨れ上がっていく体躯は青いローブごと着衣を破裂させた。そしてあっという間に真っ黒な毛に覆われたかと思うと、耳は尖って頭の上に、口は大きく割けて光る牙が覗く。瞳の色は金色のままだが、その形はもはや人のものとは異なっていた。
そして隆々とした両脚が床に降り立った時、プラチドの身体は他の二人と同様、すっかり人狼と化していた。
「あなた!」
ラウレッタが悲鳴を上げる。
それは人狼を恐れてのものではなく、これから起きうる血なまぐさい事態への警告だろう。
聞こえているのかいないのか、プラチドは真っ直ぐにロックとエベルの方へ突っ込んでくる。
「何をしている、早く行け!」
叫んだグイドが応戦しようと、駆けてくるプラチドに掴みかかった。
二人の人狼は真正面から激突し、互いに振り上げた腕がぶつかると骨が軋む音を立てる。グイドがプラチドの顔に容赦なく拳を叩きつけると、プラチドは一旦ふらつきながらもすぐに体勢を立て直し、グイドの耳を抉るように爪で引き裂いた。
わずかではあるが血しぶきが飛び散り、ラウレッタがまた悲鳴を上げる。
「やめて! もうやめて!」
「エベル!」
ロックもエベルの顔を見上げた。
このままではどちらが勝っても負傷は免れない。人狼同士の戦いはあまりにも残酷で力づくで、恐ろしい。
「……ああ、すまない」
見慣れた人狼の貌が決意に引き締まる。
歯噛みする音が聞こえた後、エベルは頷いた。
「あなたはここで。すぐに片づける!」
そしてロックを壊れた長いすの影に優しく下ろし、すぐに駆け出す。
「ええ、気をつけて!」
ロックはその場にしゃがみ込みながら、戦場へ向かうエベルの背を見送った。
ラウレッタが悲鳴を上げたくなる気持ちもわかる。本当は彼が心配でたまらなかった。だが、ミカエラが悲しむ顔を見たくはないから――そしてもちろん、ラウレッタのも。
人狼の取っ組み合いにエベルが加わると、戦況は一気に好転した。
さしものプラチドも二人の人狼を相手に無双ができるわけではないらしい。後ろから掴みかかったエベルに羽交い絞めにされ、それをようやく振りほどいたら真正面にグイドが迫っていた。
気がつけばグイドによって床に組み敷かれ、腕を押さえ込まれてじたばたともがいていた。
「離せ、離せぇっ!」
数発拳を食らったか、喚く口元からは赤い血の泡が噴き出ている。呼吸も荒く、ぜいぜいと乱れて聞こえた。
もちろん取り押さえるグイドとエベルも肩で息をしていたし、グイドの毛皮には早くも固まり始めた血がこびりついている。
「この期に及んで恥を晒す気か、アレクタス卿!」
グイドが一喝すれば、プラチドは震える息を吐いた。
「恥なものか! 私は愛する者の為に戦っている!」
そして尚も拘束から逃れようともがくが、二人がかりで押さえつけられれば身動きも取れない。
「悪いが、少し黙っててもらう!」
エベルは律儀に断ってから、プラチドの頭を強く床に押しつけた。
ぐえっと呻く声が聞こえ、狼そのものの顎が床にぶつかるのが見えた。
貧民街の喧嘩とは訳が違う、目を背けたくなるような争いの光景だった。
それでもロックは目を逸らさず、瓦礫の影からエベルの無事を見届けようとしていた。
そしてそのお蔭で――いち早く、大広間に現れた別の人物に気づけた。
青いローブと白い仮面を身に着けた、司祭が悠々と歩いてきた。
そして戸口で立ち止まるなり、両手を掲げて命じた。
「ラウレッタ・アレクタス! 愛する夫を守りなさい!」
あどけないその声に、しかしラウレッタは蒼白な顔を上げる。
まるで天啓でも受けたかのように、呆然とした眼差しを司祭に向けた。
「司祭様……それは……?」
「今こそ彫像から新たな力を受けるのです!」
司祭はそう言うなり、どこからか彫像を――あの、石灰石でできた世にも禍々しい人狼の彫像を取り出した。
「駄目っ!」
ロックは思わず飛び出していた。
エベルとグイドは動けない。自分が行くしかない。ラウレッタにあれを使わせてはいけない。瓦礫だらけの大広間を二人めがけて必死で駆けた。
恐らくラウレッタは、もう呪いに魅入られているのだろう。一縷の希望に縋るが如く、覚束ない足取りで、よろよろと司祭に近づいていく。
司祭は腹立たしいほど堂々としていて、確信的にラウレッタが来るのを待っている。
「させるかっ!」
ちょうど目の前に、誰が壊したか真っ二つに折られた長いすの破片があった。
半分になったところでロックの細腕には重たいはずだった。なのに今はどうにか持ち上げることができた。歯を食いしばってそれを振り上げ、這っていくラウレッタの目の前に放り投げる。
「きゃあ!」
どすん、と視界を遮られ、ラウレッタはその場にへたり込む。
そしてロックは尚も走った。次の目標はもちろんあの司祭だ。あいつさえ止めてしまえばきっと――。
「えっ、何?」
司祭が仮面越しに、接近してくるロックに気づいたようだ。
幼い戸惑いの声が聞こえたが、ロックに踏みとどまる気はなかった。
「お前なんかぁぁぁ!」
拳を思いきり振り上げ、勢いに任せてその仮面に叩きつける。
日頃、男装の仕立て屋として貧弱さをあざ笑われているロックだが、相手は自分よりもずっと幼い子供だ。力負けしない自信があったし、手加減をするつもりもなかった。
何より、こいつさえ止めてしまえば伯父と伯母の目も覚めるかもしれない。
そう思い、ためらわず思いきりぶん殴った。
「うぐっ」
拳が寸分たがわず仮面に命中した瞬間、司祭が呻くのが聞こえたような気がした。
ロックの手にも鈍い痛みが走った直後、ぱきりと軽い音がして、司祭の仮面にきれいなひびが入る。
司祭は後ろ向きに倒れ、その手から人狼の彫像が、そして顔から剥がれた仮面が床に落ちた。