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狼は群れを成す(3)

 狭い通路を走っていると、次第に騒ぎの詳細が聞き取れるようになってきた。
 物を壊すような大きな音に入り混じって、複数人の悲鳴とどたばた走り回る足音が響いている。どうやら派手に暴れ回っている何者かがいるらしい。
 ロックはその音を頼りに、入り組んだ遺跡の通路を駆ける。

 どうにか居住区と思しき空間まで戻ってくると、クリスターのことが脳裏をかすめた。
 扉で区切られているここのどこかに彼はいたはずだ。
 逃げるのなら彼も連れ出していくべきだが――相手は脚を負傷している。男一人を抱えて逃げられる体力はロックにもない。
 だが上手くエベルたちと合流できれば難しいことではない。今のうちに居場所くらいは確認しておいても損はないだろう。
 そう思い、ロックは見覚えのある居住区域を探し始めた。

 記憶をよすがに、木の扉や布の間仕切りをいくつか開いてみた。
 するとどこももぬけの殻で、空っぽの寝台や簡素な調度だけが残されている。ここでは共同生活が営まれていたようだが、住人達は先程の騒ぎで逃げ出したのかもしれない。いくつかの部屋で椅子が倒され、卓上には食べかけのパンや開かれたままの本が残されていた。
 しかし同じような部屋がいくつも続くばかりで、クリスターの作業場は見当たらない。
 上手く逃げおおせていればいいのだが、そんな思いでロックがいくつかめの部屋を出た時だった。

 無人と思われていた通路に、突如としてあの青いローブの人影が現れた。
 長身の男だ。フードを目深に被っているので顔は見えないが、足早にこちらへ近づいてくる。
 扉を背にしたロックは一瞬うろたえた。
 逃げるべきかと思ったが、どうやらローブの男の目的はロックではないらしい。まるで関心もないように通り過ぎようとしたので、ロックも逃げるそぶりでその横を駆け抜けようとした。
「――っ!」
 だが男の腕が、ロックを抱き留めるように遮った。
 身を竦めたロックがこわごわ面を上げれば、男がもう片方の手でフードを外す。
「逃げるなよ、せっかく感動の再会だってのに」
 現れた会心の笑みに、思わずロックは声を震わせた。
「……父さん!」
 涙が出そうなほど懐かしい、父の顔がそこにあった。
 栗色の髪を束ね、美しい素顔を晒し、青い瞳はいとおしそうに娘を見下ろしている。
 ロックが喜びのあまり飛びつけば、フィービも嬉しそうに娘を抱き締めた。
「待たせたな、ロクシー」
「ううん、来てくれて嬉しいよ」
「あの時は悪かった。俺がいながらみすみす攫われるとは……」
「父さんが無事ならいいよ。それに来てくれてありがとう」
 素直に答えた後で、ロックは父がまとうローブを引っ張る。
「でもこれ、どうしたの? 何で父さんが着てるの?」

 フィービは自慢の革鎧の上に、青い朱子織のローブを羽織っている。
 ローブの合わせ目からは剣の柄も覗いており、それなりの武装でやってきたことがわかった。

「それは、あれだ。お休みの間に無断で拝借したまでだ」
 悪びれずに答えたフィービは、その後で娘の顔にそっと両手を添えた。
 そしてふと、真面目な表情になる。
「正面からお邪魔しますってわけにはいかなかったからな。お前が放った鳩のお蔭でアレクタス家の馬車を尾行することはできたが、そこからが一手間かかった。遺跡の内外にいた何人かにちょっとお休みいただいて、この趣味最悪のローブを剥ぎ取らせていただいたってわけだ」
 それから、今なおやまない騒動の方に視線を投げた。
「ここに潜入したのは俺と閣下、それにリーナス卿だ。ミカエラ嬢とヨハンナは馬車と共に外で待ってる」
 どうやら大所帯での突入となったようだ。
 各々の顔が思い浮かび、ロックはほろりとした。
「俺が今来た道を戻れば、礼拝堂の広間に辿り着く。椅子がいっぱいあるとこだ」
 フィービが背後を親指で指し示す。
 恐らく、来る途中に通りかかった長椅子の並んだ広間のことだろう。そこでローブ姿の信者たちが頭を垂れている姿も見かけていた。
「そこで閣下とリーナス卿が暴れてる。信者どもを怯えさせて逃がす作戦だったが上手くいったようでな、今は安全だ。お前はそこへ行け」
「わかったよ、父さん」
 ロックは頷き、次に自分が知り得た情報を打ち明けた。
「父さん、ここでクリスターに会ったんだ」
 するとフィービは眉を顰める。
「クリスター? あいつ、無事だったか?」
「生きてはいたよ。攫われた時に脚をやられたと言ってた」
「てっきり好きこのんで入信したのかと思ったぜ」
 口ではそう言いつつも、フィービはにやりとした。
「さっき、この辺で会った。まだここにいるかもしれない」
「そうか。だったら偵察ついでに奴を回収しとくか」
 父がやる気を見せたので、ロックは急いで言い添える。
「それと、奥にアレクタス夫妻がいる。司祭って呼ばれてる人も。まだ子供みたいだったけど」
「子供だって?」
 それでフィービは奇妙そうな顔をしたが、考えても仕方がないと思ったのだろう。
「とりあえずクリスターを探してくる。お前は閣下のところへ行け」
「うん。でも父さん、無茶しないでね」
 父の腕を信じてはいるものの、それでも心配には違いない。
 案じるロックに、フィービは自信たっぷりに応じる。
「当たり前だ。早いとこ帰って、ぼちぼち店開けねえとな」
「そうだね。夜逃げしたって思われたくないし」
 何日も店を閉めたままで、全く酷い損害だ。
 無事に帰ったら早いうちに店を開け、営業できなかった分の儲けを取り戻さなくてはならない。
「じゃあ後でな、ロクシー」
 フィービはそう言い、一度はロックから手を離した。
 だが名残惜しそうにその顔を見下ろした後、そっと近づいて、額に軽く口づける。
 くすぐったさにロックは思わず笑った。
「恥ずかしいよ、父さん」
「先にやったのはお前だろ、お返しだ」
 そう言い合った父と娘は、笑顔で一旦別れた。

 ロックは再び駆け出して、礼拝堂へと向かう。
 騒音は相変わらずやまず、獣を真似た咆哮まで聴こえてきた。あの二人がどんなふうに暴れているのか、想像すると少しおかしい。
 同時に、心の底から嬉しかった。
 彼に会いたくて、お礼を言いたくてたまらなかった。

 フィービの道案内は的確で、礼拝堂には迷わず飛び込めた。
 ほんの数刻前に通りかかった場所はもはや惨憺たる有様で、たくさん並んでいた長椅子はどれも叩き壊され、まともに立っているものは一つとしてない。石灰石の壁を覆い隠していた布の壁掛けも、床に敷かれていた絨毯も、それに祭壇までもが人狼の手でめちゃくちゃにされていた。
 そこにある人影も今やたった二つ――そのどちらもが尖った耳と金色の瞳と牙の生え揃った大きな口を持つ、黒い毛むくじゃらの姿をしていた。
 人狼が二人、揃ってロックの方を向く。
 そのうちの片方が、金色の瞳を見開き吠えた。
「ロクシー!」
 ロックにはわかる。人狼が何人いようと、彼の声は聞き違えようがない。
 もう一度ぱっと駆け出し、床の上に積まれた瓦礫を飛び越え、彼の元へ向かう。
 床が散らかっているせいで危うくつまずきかけたが、その時にはもう、毛深い丸太のような腕がロックを抱き留めていた。
「エベル! 来てくれると思ってました!」
 抱き締められたロックが叫ぶと、エベルは濡れた鼻とふかふかの頬を擦りつけてくる。
「無事でよかった、ロクシー!」
「お蔭様で、この通り元気です」
 ロックは答え、すぐ目の前にある金色の瞳を見つめ返した。
 人狼特有のその瞳の色も、彼のものと思えば美しく、貴いものに思えてくる。これまで何度も見てきた人狼の貌も、エベルのものだけは特別だ。いとおしくてたまらず、ロックも頬擦りを返した。
「来てくださって、本当に……ありがとうございます」
「あなたは私の光だ。取り戻さねば、生きてはいけない」
 エベルもまた、万感の思いを吐露するように声を震わせる。

 抱き合う二人の背後で、まるで冷やかすような溜息が響いた。
 ロックが振り返れば、もう一人の人狼が嫌味ったらしい仕種で肩を竦めている。
「間違ってくれれば面白かったのに。声だけでどちらかわかっただと?」
 そう呻く声は、確かにグイド・リーナスのものだった。
「ロクシーが私とお前を間違うはずはない」
 エベルが自信ありげに答え、同意を求めるようにロックを見やる。
「ふん。私でも人狼の貌は区別がつかないというのにか?」
 グイドはやっかむように鼻を鳴らした。
 それでロックも少しだけ笑う。
「僕も貌はわかりませんが、身体なら違いがわかりますよ」
「そうだ。あなたにはこの身体の採寸をしてもらったことがあったな」
 エベルも思い当たったのか、頷いて言い添えた。
 だがグイドは何か言わなくては気が済まないようだ。もう一度鼻を鳴らした。
「本当に『採寸』か? 神に誓って清らかだと言えるのか、エベル」
 その言葉にロックとエベルは思わず顔を見合わせ――頬を赤らめたロックに対し、エベルは笑って告げてきた。
「すまないな。グイドはあなたに対しては何かときまりが悪いらしい」
 恐らくそれは、以前の彫像に関する一悶着にあるのだろう。
 ロックの方は気にしていないどころか、今となってはリーナス兄妹も恩人だ。
「リーナス卿、それに妹君にも本当に感謝しております」
 エベルの腕の中から感謝を述べれば、グイドは鷹揚に頷く。
「当然だ。ミカエラにも同じことを言えよ」
 妹について釘を刺してくるところは、人狼になっても何ら変わらぬようだ。

 無事の再会を喜び合った後、ロックは二人にフィービと会ったこと、そして父に話したことを告げた。
「父はクリスターを探しに行きました」
「……例の、拉致されたという仕立て屋か」
 グイドも話を聞いていたようで、そうエベルに尋ねた。
「ああ」
 エベルが頷き、それから毛むくじゃらの手を顎に添える。
「しかし、司祭か……教団というからにはいてもおかしくはないが」
「そいつにはいろいろと聞きたいことがある」
 グイドの声に怒りが滲み、耳の間の毛が震えるように逆立った。
 その気持ちはロックも同じだったし、恐らくはエベルもそうだろう。人狼の呪いが掻き乱した数々の運命を思えば、決して許すことはできない。
 もしも司祭を締め上げることで、真実に辿りつけるなら。
「生け捕りにしましょう」
 ロックが声を上げると、エベルがすかさず笑った。
「勇ましくていいことだが、あなたはここを出た方がいい」
「足手まといだからな」
 とは、グイドの言葉だ。
 もっともロックもそれは否定できないので、渋々首肯した。
「あなたが無事でなければ皆が困る。そして誰より、私がな」
 エベルはそう言い切ると、両腕でロックをひょいと抱き上げる。
 そして金色の瞳で見つめた後、大きな口を閉ざし、その先でロックの額に触れるだけの口づけをした。
 当然のように、ロックは笑った。
「さっき、父にも同じことをされました」
 するとエベルは目を丸くしてから、同じように吹き出した。
「それは参ったな。では帰ったら改めて、別の場所にすることにしよう」
「別の場所?」
 ロックの疑問には答えず、エベルはグイドを振り返る。
「では、私は彼女を届けてくる」
「ああ――」
 返事をしかけたグイドは、しかし次の瞬間、耳をぴくりと動かした。
「――誰か来る」

 その言葉の直後には、広間に誰かが飛び込んできたところだった。
「うちの娘をどこへやるつもりだ」
 怒りを抑えた声を発したのは、青いローブをまとったプラチド・アレクタスだ。
 彼の後ろからはよろよろと、血の気の引いた顔のラウレッタが現れた。
「ああっ、ロクシー!」
 エベルに抱えられたロックを見て、甲高い悲鳴を上げた。
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