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狼は群れを成す(5)

 しばらくの間、ロックは拳を突き出したままの格好で動かなかった。
 素人なりに、次の一打が必要になった時の為に構えていたつもりだ。だが客観的に見れば、ただ硬直しているようにしか見えなかっただろう。

 一方で、ロックの貧弱な一撃を食らった司祭も動かなかった。
 ぱったりと床に倒れたまま起き上がる気配がない。
 そのうちにロックも確かめる気になってきて、身構えたままそろそろと近づく。
 覗き込んだ顔は、あの声と同様に酷く幼かった。
「え……こんな子が?」
 目をつむっていてもわかるくらい、あどけない少年だった。歳の頃は十を超えたかどうかというところで、明るい褐色の髪と丸顔、そばかすの浮いた頬が特徴的だ。悪人には見えないし、教団を率いていくような存在にも見えなかった。
 彼は頬こそ腫らしていたが、息はあるようだ。ロックの一撃が気を失うほどの勢いを有していたとは思えないが、しげしげと間近で顔を見ていてもぴくりとも動かない。
「ロクシー、無事か?」
 プラチドを取り押さえていたエベルが尋ねてきた。
「ええ」
 ロックが頷きかけた時、へたり込んでいたラウレッタが思い出したように悲鳴を上げる。
「わたくし、わたくしなんてことを――きゃああああああ!」
 どうやら我に返ったようだ。自らの肩を掻き抱き、恐怖のあまり震え始めた。
「もう少しでわたくしも人狼に、あの呪いに身を委ねるところだった!」
「伯母様、落ち着いてください!」
 慌ててロックは伯母に駆け寄り、震えを抑えるように抱き締める。
「伯母様は操られていただけ、そうなんでしょう? 何も悪くないんでしょう?」
 するとラウレッタもロックに縋りついてきた。
「違うの、違うのよ! そんなつもりなかった、呪われたくなんてなかった!」
「わかってます、伯母様! わかってますから!」
「でもわたくしが免れたってあの人は――!」
 ラウレッタがそこで声を詰まらせる。

 彼女の視線は、床に組み伏せられた人狼の夫へと向けられていた。
 プラチドも、ようやく悪夢から覚めたところなのだろう。ゆっくりと面を上げたかと思うと、金色の瞳を揺らして妻を見返す。
 彼は妻の為に呪いを受けたと言っていた。そしてラウレッタの心を癒したいという願いの赴くまま、人狼の力を振るった。
 だが互いに我に返った今、その胸にはどんな思いが去来しているのだろう。

「ラウレッタ……」
 人狼の口が微かに動いた。
 エベルとグイドがそっと離れると、プラチドは起き上がって妻に歩み寄る。
 ラウレッタはロックの手を借りながらどうにか立つと、ふらふらと夫の元へ向かった。
 めちゃくちゃに破壊された大広間の中央で、夫婦は引き寄せられるように抱き合う。だがすぐに、ラウレッタの方がくずおれ、静かに泣き始めた。
「ごめんなさい、あなた……! あなたが呪われる必要なんてなかったのに、わたくしの為にこんな身体に……!」
 プラチドはそんな妻を支えると、力のない声で応じる。
「君のせいではない。そんなに気に病まないでくれ」
「でも!」
「それより我々には、もっと詫びるべき相手がいる。そうだろう?」
 言い聞かせる口調の後で、プラチドはロックの方を向いた。
 尖った耳を寝かせて語を継ぐ。
「君には本当に済まないことをした、ロクシー。怖い思いをさせて、本当に申し訳なかったと思っている」
 さすがにロックも答えに窮した。
 彼の所業に怒りを覚えていたのは事実だ。だがそれが彼ら夫婦の本心ではなかったと目の前で見せつけられて、それでも二人を糾弾する強さはロックにはない。
「……正気に戻っていただけて、よかったです」
 ようやくそれだけ答えると、プラチドは深く頷いた。
「償えるものなら、我々は何でもしよう」
「償いなんて……」
 本当に、何と言っていいのかわからない。
 怒りの矛先を向けるべき相手を見失い、ロックは複雑な気分だった。
 もっとも、まだ一人だけいる。
 アレクタス夫妻を操り、この遺跡で教団を率いてきた人物。彼こそが全ての元凶に違いない。

 ――のだが、司祭の少年は未だに気がつく様子もなかった。
 エベルとグイドがそれぞれ近づき、人狼の巨体を折り曲げて彼の顔を覗き込んでいる。二人とも、どうにも釈然としないそぶりだった。
「この子供は何だ? なぜここにいる?」
「わからんが、彫像を持ってきたのは事実だな」
「では教団関係者か? こんな小さな少年が?」
「私に聞くな、エベル。聞きたいのはこちらだ」
 それでロックは口を挟んだ。
「その子供が、ここでは司祭と呼ばれていました」
「こいつがか!?」
 グイドは驚きのあまり、尻尾をぶわりと毛立たせた。
「おい仕立て屋、冗談だろう! こんな年端もいかぬ子供がここを仕切っていただと?」
「僕だって信じがたいくらいですよ。でも彼は皆から敬われていたようですし、すらすらとよく喋りました」

 もっとも司祭の口調はどこか幼く、誰かから吹き込まれたことを意味もわからぬまま話しているようでもあった。
 仮面を割られて倒れた彼が、次に目を覚ました時にこれまでのことをちゃんと覚えているだろうか――ロックはふと、そんな不安に駆られる。

「腑に落ちないなら、当人を問いただせばいいだけの話だ」
 エベルはあっさりと現実を受け入れ、グイドに向かって告げる。
「予定通りに生け捕りだ。グイド、運搬を頼む」
「わかった。目が覚めたらとことん吐かせてやる」
 グイドは頷き、青いローブをまとった少年をそれでも優しく抱き上げた。
 少年はまだ目覚めない。そのまま寝入っているように安らかな顔をしている。
「いい気なもんだな、こいつ……」
 ぼやくロックに、エベルはそっと手を差し伸べた。
「ロクシー、我々もそろそろ行こう。もうじきあなたのお父上も戻ってくるはずだ」
「ええ。クリスターを見つけているといいのですが」
 ロックは頷き、黒い毛で覆われた彼の手を取る。
 するとエベルはロックを引き寄せ、すぐに軽々と抱き上げた。
「じ、自分で歩けますよ!」
 慌てるロックに、エベルは尻尾を振って応じる。
「ようやくの再会だ。もはや片時も離れていたくはない」
「そ……ういうことなら……」
 真剣な声で言われると、何だかんだで受け入れてしまうロックだった。
 そしてエベルの腕の中からアレクタス夫妻に声を掛ける。
「伯父様、伯母様、落ち着いたらもっと聞かせていただきたいことがございます」
「ああ、わかっている」
 プラチドが覚悟を滲ませるのを、ラウレッタが不安そうに見上げていた。
 ロックも胸の痛みを覚えつつ、わざと明るく促した。
「ではひとまず、ここから出ましょう」

 ちょうどその時、まるで見計らったかのようにフィービが大広間までやってきた。
「奥まで行って確認してきたぞ。居残ってたのはこいつだけだ」
 彼は足を引きずるクリスターを支えている。どうやら無事に見つけられたようだ。
「父さん!」
 ロックが呼べば、フィービは会心の笑みを浮かべる。
「おう。随分と平和そうだが、どうにかなったのか?」
「そうみたい。教団の司祭を生け捕りにしたんだけど……」
 ロックとエベルが視線で示すと、グイドが肩に担いだ少年を指し示した。
 その小さな体躯に、フィービもやはり目を丸くする。
「司祭? 俺の目にはただのガキに見えるが」
「僕の目にもそうとしか見えないよ」
「私もだ。だが、事情を聞く必要がある」
 父子とエベルの意見が一致したところで――フィービが支えていたクリスターが、急に金切り声をあげた。
「人狼っ!? しかも三匹もいる! 喋ってる!」
「今頃気づいたのかよ……」
 フィービが苦笑すれば、クリスターは訳もわからぬ様子で続けた。
「だって混乱するだろ! フィービがオカマじゃなくて男の格好してて、しかもロックの父親で、ロックは女の格好してて人狼を三匹も従えてて、教団の連中は皆いなくなってて――何なんだこれは!?」
 かなり激しく狼狽しているようなので、ロックは宥めるつもりで告げる。
「まあまあ、落ち着きなよクリスター」
「落ち着けるか! お前、そこにいて本当に大丈夫なのか!?」
 クリスターは、エベルに抱えられたロックに、恐ろしいものでも見るような目を向けた。
 だがもちろん、ここにいる人狼は誰もがもはや恐ろしい存在ではない。
「人狼にもいい人はいるんだよ」
 だからロックはそう言った。
「少なくともここにいる人たちは、もうあんたを傷つけたりはしない。帰れるんだよ、クリスター」
「帰れる……?」
 まだ状況を呑み込めていないのか、クリスターはおうむ返しに聞き返す。
 フィービが急かすように彼の肩を支え直した。
「とりあえずここから出るぞ。こんな埃っぽいとこ、長居はごめんだ」

 それでロックとエベル、フィービ、クリスターに司祭を担いだグイド、そしてアレクタス夫妻の大所帯は連れ立って遺跡を脱出した。
 入り口から既に破壊の限りを尽くされた遺跡は、もう誰の気配もないようだった。
 もっともひとたび外へ出れば、三台の馬車が一行を出迎えた。
 一台はロックたちが乗ってきたアレクタス家のもの、残りの二台はマティウス家とリーナス家のものだ。

「ロック様!」
「ロクシー!」
 聞き覚えのある婦人たちの声がして、ロックは目を瞠る。
 日が傾き始めた小高い丘の上、馬車の陰からヨハンナとミカエラがそれぞれ飛び出してきたからだ。
 二人が駆け寄ってくるのに合わせ、エベルはロックを地面に下ろす。お蔭でロックは抱き着いてくる二人の少女を同時に受け止めなければならなかった。
「ご無事で! ご無事で何よりでございますっ!」
「ああ、ロクシー! 約束を守れてよかった!」
 ヨハンナもミカエラも感極まった涙声で、ロックも思わず目頭が熱くなる。
「ありがとう、二人とも」
「……兄よりもこの仕立て屋を歓迎するだと? 気に入らんな」
 グイドが不満げにぼやいていたが、ミカエラは泣き笑いの顔を上げた。
「お兄様はあとでちゃんと労って差し上げます!」

 一方、アレクタス夫妻にはダニロが駆け寄っていた。
 あれからもずっと外で待ち続けていたのか、そしてその間にミカエラたちと何がしかのやり取りがあったのか、ダニロは夫妻の顔を見た瞬間にわっと泣き出した。
「旦那様も奥様も……ご無事で、よかった……!」
 執事が大声を上げて泣くのを、アレクタス夫妻は呆然と見つめている。
「ダニロ……心配をかけてすまなかった」
「本当にごめんなさい……」
 うずくまる彼の背中をさする夫婦を、ロックは離れたところで見守った。
 ほんの数日ではあるが、そして不本意な経緯ではあったが、一つ屋根の下で生活を共にした人々だ。何かが変わっていくのがわかって感慨深くも思う。

 エベルも少しの間、アレクタス夫妻をじっと眺めていた。
 だが日が沈みかけてきたからか、かぶりを振って皆に呼びかけた。
「無事を確かめ合うのも大事だが、ここに長居もしていられない。ひとまず馬車に乗り合い私の屋敷へ向かおう」
 何せここには人狼が三人もいる。
 帝都の外とは言え、旅の隊商や狩人が通りがかり、目撃されないとも限らない。
 三台の馬車に、三人の人狼がそれぞれ乗った。
 残りの面々はその隙間に、ほぼ押し込まれるように乗り込んだ。
 マティウス家の馬車にはエベルとロック、フィービにクリスター、それにヨハンナが乗っている。エベルはロックと離れたがらなかったし、それはフィービも然りで、しかし未だ混乱するクリスターは顔見知りから離れることをよしとせず、ヨハンナはまさかよその家の馬車に乗るなどありえないという顔をした。
 当然ながら車内はぎゅうぎゅうであり、ロックはエベルの毛皮に埋もれるようにして座っていた。
 御者席で手綱を握るのは執事のルドヴィクスだ。馬車は他の二台に比べて、ややゆっくりと走り出す。
「随分と大所帯で来てくださったんですね」
 ロックが顔の見えないエベルに、ふかふかの毛皮越しに告げた。
「狼は群れを成すものだからな」
 エベルはロックをしかと抱き、そう答えた。
「なら俺も、狼のうちってことか」
 フィービが笑って首を竦めると、ヨハンナが嬉しそうに追随する。
「ではわたくしも! 狼の一員でございます!」
「……何なんだ、この集団」
 クリスターが目を瞬かせていたが、説明すると長くなる。
 ひとまずは無事を喜んでおこうと、ロックは馬車の揺れとエベルの毛並みに身を委ねた。
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