狼は群れを成す(2)
ロックはプラチドに連れられ、遺跡の中を進んでいた。石灰石の壁を掘り広げたような通路は入り組んでいて、途中には数か所の分岐点があった。それでもプラチドは迷うことなくどんどん歩いていく。道を熟知するほど何度も通っているのか、あるいはこれも人狼の鋭敏さがなせる業か――何にせよついていかざるを得ないロックを警戒させるには十分だった。
やがて二人の行く先に、鉄製の二枚扉が現れた。
プラチドはそれを片手で押し開け、扉は重々しい音を立てる。
その向こうにはずいぶんと天井の高い、だだっ広い空間が広がっていた。そこだけ天然の洞窟のようにぽっかり開けており、天井にはいくつかの小さな穴が開いている。そこからは細く日の光が差し込んでいて、そのいくつもの光の筋は薄絹のように辺りに降り注いでいた。ここにも香が焚かれており、幾筋かの煙がその光を辿るように高い天井まで立ちのぼっている。
だがロックの目を奪ったのはその光景ではなかった。
空間の奥に鎮座する大きな、古い石像だった。
造られてから長い年月が経っているのだろう。
石灰石を削って造られた彫像は、その彫り跡が削れて丸くなり、輪郭も曖昧になっていた。
だがロックには見覚えがある。過去にトリリアン嬢の店で購入したものと同じ――そしてグイド・リーナスが手に入れ、その力を解き放ったものと同じだ。
あの人狼の彫像が、奥の壁一面に浮かび上がるように彫り出されていた。
「これは……」
愕然とするロックの横を、プラチドは黙って通り過ぎていく。
彼の姿を目で追えば、大きな彫像の前には待ち構えている二つの人影があった。
片方はラウレッタで、もう片方は見知らぬ人物だった。婦人のラウレッタよりも小柄で細く、あの青い朱子織のローブを身にまとっている。そしてその顔は白く塗られた木製の仮面で覆われ、二つの瞳と口元しか見えなかった。
「あら、あなた。ロクシーも来たのね」
異様な雰囲気の空間で、ラウレッタの声は場違いに弾んでいる。
「今ちょうど、司祭様にロクシーの話をしていたの」
彼女が視線で示したのは、仮面をつけた小柄な人物だ。
プラチドもロックを顧みる。
「ほら、ロクシー。司祭様にご挨拶を」
「え……ええ」
そうは言われても、見るからに怪しいこの人物と口を利きたい者などいるだろうか。
ロックは警戒したが、アレクタス夫妻の目もある。不承不承前へ進み出た。
「初めまして、司祭様。ロクシーと申します」
そう名乗ると、司祭はゆっくり首肯した。
「ロクシー・アレクタス。そなたの話は既に聞いております」
司祭の声は、ロックがぎょっとするほど若かった。
少年か少女か――性別の判断もつかないほど瑞々しく、また口調もあどけない。
「人狼の力に導かれ、新たな家族を得た娘よ。そなたの道行きが常に暖かく、成功に満ちたものであることを私は祈ります」
まるで書かれた文章を読み上げているように、たどたどしく司祭は言った。
その奇妙さに戸惑っているのはロックだけらしい。プラチドもラウレッタも、神妙な面持ちで聞いている。
それにしても、『ロクシー・アレクタス』とは言ってくれるものだ。
人狼の力に縋る気も、新しい家族を求めた覚えもない。ロックは胸中で反骨の意思を確かにした。
「では、ロクシー。あなたに祝福を授けます」
小さな司祭はそう言って、彫像の前を指差した。
「そこへ横になりなさい」
指し示された先には石造りの寝台のような祭壇がある。
祭壇だとロックが思ったのは、その側面にも人狼の貌の彫刻が施されていたからだが――ロックの膝くらいまでの高さで、ちょうど人ひとりが横たわっても問題ないくらいの広さだった。
だが当然、ロックに従う気はない。
「なぜです」
警戒心剥き出しで尋ねれば、司祭はやはりあどけない声で答えた。
「言ったでしょう、あなたに祝福を授ける為です」
「何です? 祝福って」
司祭は話にならないと、ロックはアレクタス夫妻に水を向ける。
ところが夫妻はよくわかっていなかったようだ。ラウレッタは怪訝そうに夫を見たし、プラチドも疑問の声を上げた。
「司祭様、その件は我々も初耳でございます」
すると司祭は鷹揚に頷く。
「そうでしょう。まさに昨夜、月の光がこの祭壇に神託を届けたばかりです。ここを訪れる新たなる者の血、そのひとしずくを彫像に捧げ、祝福を与えよと私に告げたのです」
彫像が血を得れば、人狼の呪いが解き放たれる。
そのことを知っているロックは青ざめた。
そしてアレクタス夫妻もまた、困惑したように顔を見合わせる。
「ロクシーが、人狼の力を得るということ……?」
「お言葉ですが司祭様、我が娘はこの通り、あえかなる存在にございます。人狼の力を授けていただいたところで、お役に立てますかどうか」
ラウレッタが眉尻を下げ、プラチドが異を唱えても、司祭は至って冷静に応じた。
「誤解をしてはなりません。これは教団の為ではなく、この娘の為です」
「ロクシーの……為と仰るのですか?」
「ええ。神託によればこの娘の道行きは決して明るいばかりではありません。戦わなければならぬことも、抗わなければならぬこともあるでしょう。人狼の力はそれらに打ち克つ為の祝福なのです」
ふざけたことを!
ロックは叫び出したいのを堪えたが、怒りの表情は隠し切れなかった。
歯噛みするその表情を、司祭は仮面越しの眼差しで捉えている。
「恐れることはありません、ロクシー・アレクタス。あなたはこれから素晴らしい力を得るのです。困難を、障害を、全ての敵を打ち砕き、あなたの内にある切なる願いを叶える為の力をです」
彼の口調は声音同様、酷く幼いものに聞こえた。
子供が覚えたての詩を諳んじているような拙さが、かえってロックに恐怖を抱かせた。
「さあ、祭壇にその身を委ねなさい」
「嫌だ!」
今度は堪らず怒鳴ったロックだが、その身体は逃げ出す前にふっと宙に浮き上がる。
プラチドが抱え上げて、祭壇の上に載せたからだ。
「伯父様!?」
愕然とするロックを、プラチドは穏やかな面持ちで見下ろす。
「司祭様もああ仰っている。この祝福を得られる者はそう多くないのだ、喜んで拝受しなさい」
「何言ってるんですか! 僕はそんなもの欲しくない!」
「――『僕』?」
令嬢らしからぬロックの口調を聞き咎めたか、司祭が小さく呟いた。
だがすぐにかぶりを振り、プラチドとラウレッタに命じる。
「儀式はすぐに済みます。二人とも、しっかりと娘を押さえていなさい」
「嫌だ! 離せ!」
ロックは両手を振り回しめちゃくちゃに暴れた。
だが命に従ったプラチドの両手に押さえつけられ、寝台から逃げ出すこともできない。
「これは奇跡の力。神々が見放すか弱き者に、唯一与えられる祝福です」
祈る司祭が懐から、細身の短剣を取り出す。
針のように尖った切っ先が日の光に瞬くと、ロックはますます恐怖した。
「大丈夫だ。ほんの少し、ちくりとするだけだから」
プラチドの宥める声の優しさが不気味だった。
ロックが恐れているのは、人狼の呪いを目の当たりにしたからだけではない。
今なら抗えない予感がしていた。
胸に秘めた切なる願い――あるいは欲望がある。
家に帰りたい、父さんを安心させたい、エベルの顔が見たい。
こんなところにいたくない。
呪いなんておぞましいものには触れたくない。エベルを、グイドを、そして彼らに関わる多くの人たちを苦しませてきたこの彫像を、できるものなら全て破壊し尽くしてやりたい。
もう二度と誰も苦しまないように。
もし自分に、力があったら――。
「――お願い! やめて、やめてってば!」
ロックの声が悲鳴に変わった。
予感がしたのだ。
もしも自分が今、人狼の呪いを受けたら、きっと我を忘れてしまうだろう。
ここにあるものも、ここにいる人たちも、全て壊して、叩き潰してしまわねば気が済まないだろう。
「力なんて要らない! そんなもの絶対欲しくない!」
そして振り絞った悲鳴に、プラチドの手から力が抜けた。
「ロクシー……?」
彼はまるで夢から覚めたように、呆然と瞬きを繰り返している。
そしてラウレッタも血相を変え、短剣を掲げる司祭に縋りついた。
「司祭様、娘は酷く取り乱しております。どうか今日のところは……」
「何を言うのです、二人とも。神託があったというのに」
司祭は訝しそうにラウレッタを振り払う。
すると彼女は、ロックを庇うように祭壇の前に立ちはだかった。
「お願いでございます! 娘がこんなにも怯えているのです!」
「どうしたのです? 敬虔な信者であるあなたたちが……」
心底から不思議がるように、司祭は首を捻っている。
だがプラチドとラウレッタも同じように思ったようだ。二人は戸惑う顔を見合わせ、しばし硬直していた。
逃げるなら今だ。
拘束が緩み、ロックは祭壇の上に身を起こす。
するとその時、二枚扉が突き破らん勢いで開かれた。
「司祭様!」
教団の者と思しき、青いローブの男が駆け込んでくる。
「どうしました?」
司祭が問えば、男は酷く動転した様子で訴えた。
「大変なのです! 人狼が、目の前に急に人狼になった者がいて、彼らが礼拝堂で暴れ始めたのです!」
「『彼ら』?」
その部分に司祭が反応する。
すると男はぎくしゃく頷いた。
「え、ええ。私が見たのは二人ほど、どちらも若い男でした。礼拝堂で祈っていた彼らが、何の前触れもなく、ばりばりと服が破れて人狼に――」
「そんなはずは……祝福を得た者しか人狼にはなれないはず」
司祭は幼い声で呟く。
「礼拝堂にいるのは、まだ祝福を得ていない者たちです。何かの誤りでは?」
「ですが確かに見たのです!」
男の顔からはすっかり血の気が引いていた。膝ががくがく震えているのは、よほど恐ろしいものを見たからだろう。
「彼らは正気を失くしております、どうかお力を!」
司祭にしがみつくようにして救いを求めていた。
だがロックにとって、その知らせは恐ろしいものではなかった。
二人の若い男の人狼、教団にとって予定外の存在――もしかしたら。
そう思うと、いても立ってもいられなかった。
ロックは祭壇から下りると、扉の前に立つ司祭や男を突き飛ばす。
「どいて!」
いかに貧弱なロックと言えど、恐怖に怯える男と子供のような司祭は障害にもなり得なかった。二人はあっさりと倒れ伏し、その隙にロックは広間を飛び出す。
「ロクシー!」
我に返ったプラチドが呼び止めようとした。
「駄目よロクシー、危ないわ! 行っちゃ駄目!」
ラウレッタの声も聞こえてきたが、ロックは振り返らなかった。邪魔なドレスの裾を引っ掴み、騒ぎのする方へと通路をひた走った。
道は全くわからない。
だが声を頼りにそちらを目指せば、きっと会えるはずだ。
来てくれると信じていた。
絶対に、助けに来てくれると思っていた。
泣いてしまったこともある。それでも、再会の時をちゃんと待っていられた。そしてその期待通り、彼は――彼らは来てくれた。
まだ顔も見ないうちから、ロックは確信していた。
――もうすぐ、ここでエベルに会える。