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狼は群れを成す(1)

 クリスターがいる部屋は、微かに黴の臭いがしていた。
 壁はざらつく石灰石でできており、狭い室内にあるのは作業机が二つとクリスターが座る椅子だけだ。仕立て屋の作業場にしては狭すぎたし、明かり取りの窓もないのでは暗すぎる。
 だが作業机の上には針山や巻尺、鋏や目打ちなどが散らばっている。
 また奥の壁には数着の服が吊るされていて、彼がここで服を仕立てているのは間違いないようだった。

「仕立て屋さん、こちらはわたくしどもの娘よ」
 ラウレッタはクリスターに、ロックをそう紹介した。
「名をロクシーというの。裁縫に興味があって、あなたの刺繍をとても気に入ったようなのよ」
「ロクシー……?」
 クリスターはかすれた声でその名を繰り返す。

 もちろん、彼が知っているはずがない。彼を筆頭に貧民街の住人たちは『フロリア衣料店』の店主をロック・フロリアという青年だと思っている。
 そして今日のロックは伯母たちがまとうローブに合わせた、青い色の薄琥珀のドレスを着ている。
 葡萄酒色の髪には金属を編んだ額飾りをつけていて、その顔を知らなければ女にしか見えないはずだ。

 だからだろう、クリスターは酷く取り乱した様子だった。
 ラウレッタの方は見ず、ロックに対して胡乱げな目を向けてくる。
 ロックは黙って眉を顰め、うろたえるクリスターが何か喋り出すのだけは制した。
「あら仕立て屋さん、どうかなさったの?」
 それでラウレッタは怪訝そうにする。
「い、いえ。何も……」
 喘ぐように答えたクリスターは、それでもなおロックを凝視していた。
 その視線をラウレッタが追おうとしたので、ロックは急ぎ口を開く。
「仕立て屋さんはお仕事がお忙しいのでしょう。机の上が散らかっておいでですから」
「まあ、そうだったのね。気がつかなくて……」
 口元に手を当てたラウレッタは、申し訳なさそうに続けた。
「それなら今度にしましょうか、ロクシー」
「いえ、僕は――」
「仕事をしながらでいいのなら、お話くらいはできましょう」
 ロックが答えるより早く、クリスターが口を挟んだ。
 ちらりとロックを見た後で、ラウレッタに向かって告げる。
「刺繍に興味を持っていただけるのはありがたいことでございます。仕事の片手間で無礼なことと存じますが、お嬢様とは是非お話をさせていただきたく」
「そう? ご迷惑でないのならいいのだけど……」
 ラウレッタは少し迷うような顔をした。
 この聖堂に初めて来たロックを一人にするのは抵抗があるのかもしれない。だがロックとしても、ここはラウレッタに立ち去ってもらわなければならない。
「伯母様、お話を聞いたらすぐにそちらへ向かいます。どちらでお待ちになるかだけ、教えてください」
「わたくしは……そうね、夫と共に司祭様の元へ行くわ」
 そう言って、ラウレッタはクリスターに一礼した。
「お忙しいところをごめんなさいね、仕立て屋さん。少しばかり娘と話をしてやってちょうだい」
 そして特に怪しむそぶりもなく、この小部屋から立ち去った。

 音がこもる地下の部屋で、二人は足音が遠ざかるまで黙っていた。
 完全に聞こえなくなってから、クリスターはロックを見上げて恐る恐る口を開く。
「ロック・フロリア……なんだよな?」
「そうだよ、クリスター。久し振りだね」
 ロックが頷くと、彼は混乱した様子で身を乗り出した。
「どうして女の格好を? フィービの影響か?」
「真っ先に気にするのそこ?」
 呆れてロックは肩を竦めた。
「内偵するのに変装は必要だろ」
「しかも娘と呼ばれてなかったか? よりによってアレクタス夫人に!」
 クリスターはいやに恐ろしげにその名を口にする。
 気にはなったが、ひとまず答えた。
「そこは気にしなくていい。むしろあんたの事情が知りたい」
「俺の……?」
「なぜ人狼教団にいる? 正直に話しなよ」
 そう促すと、クリスターは顔に怯えの色を滲ませる。
 これ以上ないほどに声を落とし、ロックに囁いた。
「ここの連中に攫われたんだ。ひでえ奴らだよ、夜中にいきなり押し入ってきやがった」
 確かに、彼の部屋にはその痕跡が残っていたはずだ。
 誘拐だとすれば集団で手慣れた連中だとフィービは言っていた。読みはほぼ当たっていたようだ。
「なんであんたが攫われた? 人狼ってわけじゃないんだろ?」
 クリスターの目は尋ね人の張り紙と同じ灰色だった。それを確かめたロックに、彼はおぞましげに身震いした。
「とんでもない話だ……誰が人狼になんぞなるものか!」
「なれって言われたの?」
「なりたいなら歓迎する、とは言われた。だが俺を攫ったのはここで働かせる為だ」

 歓迎すると言ったのなら、教団側には人狼の呪いを与える術があるということだ。
 プラチドが人狼になった後でも――あの彫像は、恐らくまだここにある。

「初めは、ただの客だったんだ」
 クリスターは恐怖を思い出したように震える息をついた。
「妙に金払いがいいから胡散臭いとは思ってた。だがローブを三十着の大量注文、おまけに必要経費はいくらでも出すと来た。俺は即座に飛びついたし、向こうも初めのうちは人当たりがよかった」
 上手い話には裏がある。
 フィービならそう言っただろうが、クリスターはそうは考えなかったようだ。
「でも俺はちょっと調子に乗りすぎた。取れるだけ取ってやろうとして、わざと納期を遅らせようとしたんだ。生地の仕入れに思いのほか手間取って……なんて言ってな。それで連中も苛立ったのか、俺をここに閉じ込めて働かせるようになった」
「自業自得じゃないか」
 ロックは思わず顔を顰めた。
 それは本人も骨身に染みて理解しているようだ。苦しげな笑みが浮かぶ。
「けどそれにしたって連中は異常だ。攫われた日、俺は右脚を潰された。逃げられないようにってな」
「脚を?」
 ぎょっとして、ロックはクリスターの脚に目をやる。
 ずっと椅子に腰かけたままの彼は、すぐには立ち上がれないのかもしれない。ズボンをはいた右足は包帯でも巻いているのか、膝の辺りにかけてぼこぼこと奇妙にふくれていた。
「酷いな……。歩けるの?」
「走るのは無理だが、引きずってならどうにか」
 クリスターはそう答えた後、身震いを抑えるように自らの肩を抱く。
「だが異常なのはこれだけじゃない。連中、俺の脚を潰しておきながら、俺がここで働くと言った途端に哀れみだしたんだ。まるで自分たちがやったってことも忘れたみたいに手当てを始めて……!」
 しかし震えは収まらず、クリスターは強くかぶりを振る。
「教団の為にさえ働いていれば、連中は優しい。不気味なくらいにな。攫ってきたことさえ忘れて、俺が進んでここに来たみたいに思ってるようだ」

 ロックは密かに息を呑む。
 その状況はまるで自分と同じだった。
 自分を馬車ごと襲い、攫っておきながら、実の娘のように愛し慈しもうとするアレクタス夫妻と同じだ。

 恐らくはそれも呪いの影響なのだろう。
 呪いは人の欲望を抗いがたいほど強くする。
 だが欲望を叶えた後、彼らは元の心を取り戻し、奇妙なほど人道的に接しようとするのだ。

 人狼の呪いはつくづく恐ろしい。ロックは心中で唸る。
 そんなロックを、クリスターは縋るような目で見つめてきた。
「ロック、助けに来てくれたんだろ?」
「そうだと言いたいところだけど、こっちも今は手一杯だ」
 地下の聖堂に入ってから、ざっと見積もっても十人以上の信者とすれ違っている。
 そのうちの何人が人狼かはわからない。少なくとも一人は、いる。この目で見ている。
 一方のロックは貧弱な小娘、クリスターは怪我人と来ている。あの鳩が無事に辿りつけていれば、エベルたちの助けを得られるのだろうが――。
「頼むよ、助けてくれ! 連れてってくれ!」
 クリスターが悲痛な叫びをぶつけてくる。
 しかしそうは言われても、ロックにクリスターを抱えて逃げるほどの力はない。
「情けない声出すなよ、クリスター」
 ロックは慌てて彼を宥めた。
「上手くいけば助けが来る。そしたらあんたも忘れず連れ出すよ」
「上手くいけば? いかなかったら、どうなる?」
 クリスターは怯えたようだが、きっぱりと言ってやった。
「そういうふうには考えないようにしてる」

 自分は一人ではない。
 いつだってその思いがロックを支えてきた。

 もっとも、長らく孤立無援だったクリスターに同じように思えというのも酷な話だ。
「信じていいんだろうな、ロック・フロリア」
 彼が不安に顔を曇らせたので、ロックは励ますつもりで告げる。
「その怯えてる顔、ニーシャには見せられないだろ?」
 口にしてみた名前はてきめんに効果を発揮した。クリスターの表情に生気が戻り、目が輝く。
「ニーシャ……彼女に会ったのか?」
「うん。彼女、あんたの行方を探してた。貧民街じゅうに尋ね人の張り紙を貼り出してるんだ、大枚はたいてね」
 あれにニーシャはかなりの金を注ぎ込んでいるはずだ。
 クリスターが生きて戻らなければ、もったいないではないか。
「彼女の出費を無駄にするな。生きて帰るよ、クリスター」
 金に目がない者同士、その言葉は胸に響いたようだ。
「わかった。ありがとう、ロック」
 クリスターは深く頷き、目元を拭う。
「あいつ、俺のことなんてとっくに忘れてると思ったよ」
「そんな薄情な子じゃないだろ。僕だってあの子のことがなきゃ、あんたの心配なんてしないよ」
 ロックが鼻で笑うと、クリスターは少しだけ不安げに顔を顰めた。
「ニーシャは譲らないからな」
「当たり前だろ。ニーシャがあんたを離すわけない」
 調子が戻ってきたクリスターに、ロックもそっと胸を撫で下ろす。
 できれば今日のうちに彼をここから連れ出したいものだが、どうなるか――助けを乞うように背後を振り返った時、ロックの目に先程まではなかったはずの人影が映った。

 プラチド・アレクタスが、いつの間にか背後にいる。
 二人が話し込んでいた小部屋の戸口に、煙ほどの気配もないまま立っていた。

「お……伯父様……」
 びくりとするロックの傍らで、クリスターがひいっと悲鳴を漏らす。
 二人の動揺とは対照的に、プラチドは至ってにこやかだった。金色の目を細めて言った。
「ロクシー、仕立て屋は忙しいのだろう? あまり長居をしてはいけないよ」
 だがその笑顔がロックを一層震え上がらせる。
 今までの会話を聞かれていただろうか。そうではないと思いたいが、彼もまた人狼だ。
 もしかすれば――。
「で、では失礼します、仕立て屋さん」
 ロックは慌ててクリスターに別れを告げる。
 クリスターは恐怖に引きつる顔でプラチドを凝視したまま、挨拶すら返してこなかった。

 プラチドの後について小部屋を出る。
 そして狭い通路を少し進んだところで、伯父は振り向いて言った。
「あの仕立て屋と君は知己なのかな?」
 やはり、聞かれていたようだ。
 ロックは虚勢を張ってプラチドを睨んだ。
「身分貴い方でも盗み聞きなんてなさるんですね」
「可愛い姪の話ともなればな」
 プラチドは動じない。
 それどころか、咎めるようにロックの腕を掴んだ。
「いいかな、ロクシー。私は君を、ラウレッタと同じように大切に思っている」
 大きな手に込められた力は強く、ロックの手首などたやすく砕けてしまいそうだった。
「だがそんな君でも、ラウレッタを悲しませるような真似はして欲しくない」
「い……痛いです、伯父様」
 ロックは呻いたが、プラチドは手を離さない。
「ラウレッタの為にも、君を手放すわけにはいかないのだ。わかるな」
 金色の目はロックを見据え、狂気を孕んでぎらついていた。

 あの目を、ロックは過去にも見たことがある。
 グイド・リーナスが彫像に囚われていた頃、ロックを屋敷に呼び出して物置部屋に閉じ込めた時に見せたのと、同じ目だ。

 身の危険を感じて、ロックは渋々頷いた。
「……わかっています」
 心にもない言葉だったが、そう言わないわけにはいかない。
 ともかくプラチドはそれで納得したようだ。ロックの手を離すと、急に申し訳なさそうな顔をする。
「脅すようなことを言って済まないな。私にとっては君も、ラウレッタも命に代えがたい存在なのだ」
「そう、でしょうね」
 その想いに付け入られているのだと、告げたところで届きはしないだろう。
 彼の目を覚ます術があればと、ロックも願わずにはいられない。
「では行こうか、ロクシー」
 ロックの心中をよそに、プラチドは微笑んで促した。
「どちらにですか、伯父様」
 手首を擦りながら問い返せば、彼は至って穏やかに答える。
「司祭様のところだ。是非君に会いたいと仰っていてな」

 こうなることを望んで、自ら飛び込んだ敵陣だ。
 それでも、ロックは今更ながら戦慄していた。
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