再会の時を待て(6)
来た時と同様に、ロックはグイドとミカエラを玄関まで見送った。アレクタス夫妻の目があったから、別れ際に余計な言葉は交わさなかった。
「楽しゅうございました。またお会いしましょうね、ロクシー」
微笑むミカエラに対しては、目を見て頷いた。
「ええ、必ず」
ロックの答えを聞いたミカエラも黙って顎を引き、それから彼女は兄に寄り添ってアレクタス邸を出た。
外へ出ていく二人の背中に、とっさに追い駆けたい衝動にも駆られた。
だがロックが行動に出るより早く、ダニロが扉を閉ざしてしまい――ロックは再び外界から切り離された。
ミカエラが言った通り、近くにはエベルや父が来ていたのだろう。
せめて無事な姿を見せられたらよかったのだが、それすら叶わなかった。
「さ、お部屋に戻りましょう。ミカエラ嬢からいただいた贈り物を見せてちょうだい」
ラウレッタがにこやかに声をかけてくる。
「ええ、伯母様」
応じたロックは、ふと自分の袖から飛び出す糸に気づいた。
「あれ……」
袖口がみっともなくほつれている。
今朝ラウレッタから手渡された時は、新品に近い状態のドレスに見えたのだが。
「どうかしたの、ロクシー」
ラウレッタに問われ、ロックは正直に答えた。
「このドレス、袖口がほつれてたんです」
「本当ね。買ってきたばかりなのだけど」
「でもこの程度ならすぐ直せます」
小銭稼ぎの機会を逃さぬよう、ロックはいつでも裁縫道具を持ち歩いている。エベルと共に墓参に行った日さえそうだった。
「部屋に道具がありますから、直しておきますね」
そう告げると、ラウレッタはその瞳を大きく瞠る。
「あなたもできるの?」
「ええ、母に教わりました」
「そう……」
小さく唸るような声の後、彼女はしばらく思索に耽っていたようだ。
立ち止まったラウレッタの傍らを、やはり黙考に沈むプラチドが通りすぎていく。その後しばらくしてから、ラウレッタはロックに言った。
「ねえ、あなたが繕うところを見せてもらってもいいかしら?」
妙な申し出だとは思ったが、特に拒む理由もない。
ロックはラウレッタと共に珊瑚色の部屋へ戻り、鳥かごの鳩が見守る中でドレスの袖口を繕った。
とは言ってもほつれた糸をほどいて縫い直すだけだ。擦り切れを直すよりもずっと簡単だった。
それでも、ラウレッタは芸術でも鑑賞するように見入ってくる。
「上手……なんて手際のよさなの」
ロックからすればこれこそが生業であり、誉められると照れてしまう。
だが、悪い気もしなかった。
「昔のことを思い出すわ……」
そのうち、ラウレッタはぽつぽつと語り出した。
「わたくしが袖を引っかけて破ってしまった時、ベイリットが直してくれたの。『お姉様、このくらい簡単です』って」
生前の母の言葉と思うと、ロックはどきりとしてしまう。
自分の知らない母の姿を、伯母は確かに知っているのだろう。
「その言葉通り、あの子の手にかかればどんな鈎裂きも魔法のように直ったわ。あの子は針と糸を持っている時が一番幸せそうだった……」
記憶を手繰るラウレッタは、誰もがそうするように少し寂しげな顔をする。
もう戻らない遠き日を懐かしみ、大切に思っているからに違いなかった。
「あの子はあなたを、とても立派に育て上げたのね」
ラウレッタがロックをひたむきに見つめてきた。その瞳が潤んでいる。
「……ありがとうございます、伯母様」
針を動かすロックは居心地の悪さを覚えていた。従順なふりをして彼女を欺いていることに、今更ながら罪悪感を抱いたからだ。
人狼教団の手がかりを掴む為とはいえ、このままいけば間違いなく伯母の想いを裏切ることになる。
だが、ミカエラも言った通りだ。
『あの彫像の呪いは人の欲望をより強く、抑えがたいものに変えてしまうのでは――』
その推察が当たっていれば、真実を解き明かすことがラウレッタやプラチドを救うことにも繋がる。
彼らは欲望を満たす為に人さらいを働いた。それが家族愛、夫婦愛に端を発するものだとしても、今のうちに止めておく必要がある。
放っておけば彼らはまた互いの為、罪に手を染めるかもしれないのだ。
決意を新たにするロックをよそに、ラウレッタが声を上げた。
「そうだわ。実はもう一着、ほつれが気になっていた服があるの」
どうやらロックに修繕を頼みたいようだ。
多少の後ろめたさも手伝って、ロックは快く申し出る。
「よろしければ直しましょうか」
「ええ、是非お願い。とても助かるわ」
ラウレッタは嬉しそうにしたが、その後で苦笑を浮かべた。
「実はその服、あなたのドレスと同じ仕立て屋にお願いしたの。どちらもまだ古くないのにほつれてしまうなんて驚きだわ」
それを聞いたロックは思う。伯母は質のよくない仕立て屋に捕まったのだろう。
この天鵞絨のドレスもよくよく見ればそこかしこで縫製が甘い。袖口こそ直したものの、他の箇所がほつれてくるのも時間の問題だ。この仕立て屋はよほどいい加減な仕事をしたのだろうと、同業者としてロックは大いに憤慨した。
そしてラウレッタに連れられて衣裳部屋へと向かう間、ロックは自分の店のことを考えた。
あれきり店には戻れていない。エベルの元へ身を寄せるフィービにも帰る暇などないだろうし、店の扉にはここ数日『本日休業』の張り紙がされたままだろう。
そろそろパン屋のジャスティアが心配し始める頃かもしれない。大家のトリリアン嬢も、家賃の踏み倒しかとカリカリしているかもしれない。そしてニーシャは――。
二人目の仕立て屋の失踪に気づいた時、ニーシャはどう思うだろう。
絶望していなければいい。ロックはそう願わずにはいられなかった。
「ここよ。しまってあるから、今出すわね」
衣裳部屋へ辿り着くと、ラウレッタは箪笥の扉を開ける。
そして上機嫌で目当ての衣服を探し始めた。
手持ち無沙汰のロックは室内を当てもなく見回す。衣裳部屋とはいっても、貴族の家だけあって結構な広さだ。箪笥の数だけ見てもロックの店の在庫以上にありそうだった。
虫よけに用いる香草の匂いが漂う中、ラウレッタはようやく件の服を見つけたようだ。
「あったわ。ロクシー、見てもらえるかしら」
箪笥から引っ張り出した服を、ロックに向けて掲げてみせる。
「これの背中なの。刺繍がほつれてしまっていて、着ていけないと思っていたのよ」
「見てみますね」
ロックも笑顔で返事をして――それから、息を呑んだ。
その服は青地のローブだった。
生地は朱子織の毛、目の覚めるような青に染め抜かれていて、背中には複雑な衣裳の刺繍が施されている。
ラウレッタの言う通りにほつれてはいたが、ジギタリスの刺繍だとわかった。
これとよく似た注文を、ロックはかつて見たことがある。
クリスター・ギオネットが残した帳簿の中に。
「……どうかしたの、ロクシー」
ラウレッタの問いに、ロックの背筋は自然と震えた。
慌てて取り繕う。
「い、いえ。見事な刺繍だなと思ったんです」
「そうね、ほつれてはいるけどこうも複雑なものは珍しいわ」
答えるラウレッタは屈託がない。
少なくともロックの動揺には気づいていないようだ。
「直せそうかしら?」
「ええ、どうにか」
この刺繍の癖、ドレスの縫製と同じだ。手抜きをした、いい加減な仕事だ。同業者としては許せない。
だがこの仕事ぶりを見て、今日ほど嬉しく思ったこともない。
「あの、伯母様」
ロックはローブを受け取りつつ、ラウレッタに尋ねる。
「この仕立て屋にお会いすることはできますか?」
「あら、どうして?」
当然の疑問だった。
だがここで怪しまれてはいけない。ロックは出任せを口にする。
「これほどの刺繍ができる方に、是非お話を伺いたくて。後学の為にです」
その嘘にいかほどの熱意を込められたかは定かではない。
もっとも、ラウレッタは疑いもせずに頷いた。
「それなら都合がよいわね。今度、あなたも教団の礼拝に連れていこうと思っていたの」
「礼拝……ですか?」
「ええ。そのローブは礼拝の時に身に着けるものなのよ」
ラウレッタは言い、更に続ける。
「仕立て屋は教団で働いている人なの。聖堂へ行けば、必ず会えるわ」
やはり、クリスターだろうか。
彼はどういう意図で人狼教団に属しているのだろう。ロックと同様に攫われたのか、それとも――。
だが迷っている理由はない。
「楽しみです。礼拝の日はいつ頃になりますか?」
ロックは声を弾ませ、そう尋ねた。
ラウレッタも姪が興味を持ってくれたことが嬉しいのだろう。すぐに教えてくれた。
「次の市の日よ」
市の日を目前にした、よく晴れた風のない日。
ロックはアレクタス夫妻の目を盗み、露台から白い鳩を飛ばした。
「可愛い子、お願い。皆に知らせて」
飛び立つ鳩の足には、細く折り畳んだ手紙が巻きつけられている。
そしてその中には人狼教団の礼拝の日、ロックが夫妻に帯同すること、そしてクリスターがそこにいるかもしれないことを記した。
鳩が無事に辿り着いたかどうか、ロックには確かめる術がない。
ただ黙っていても市の日はやってきて、朝食を済ませるとアレクタス夫妻はロックを伴い、馬車で屋敷を出た。
市の日は人々に仕事を休ませ、市場での買い物を促す週に一度の休日だ。
貧民街では特にありがたられていない概念だが、帝都内では既に定着していて商業地区の辺りは特に賑わうらしい。
馬車は早々に貴族特区を離れ、人通りの多い商業地区をゆっくりと走り抜けていく。
ロックはたびたび窓の外を覗き、エベルやフィービの姿がないか探してしまった。しかし二人が追ってくる様子は特になく、馬車はそのまま帝都の外へと飛び出した。
「心配しなくていい。そう遠くへは行かないからな」
窓にしがみつくロックを案じてか、プラチドが言った。
「夕食までには帰れるよ。帝都のすぐ外だ」
その言葉通り、馬車は帝都を望む小高い丘の上で停まった。
丘の影には重い石扉で閉ざされた古い遺跡があり、まさかと思うロックの前で、プラチドがその扉を開く。
「ここに教団の聖堂がある。ついてきたまえ」
扉の向こうは、地下へと続いていた。
石造りの長い階段は、ところどころがランタンの光に照らされている。
古い遺跡ではあるが人の出入りはあるらしく、空気はそれほど澱んでいない。どこからか香木を焚いた甘い匂いが漂ってくる。
遺跡自体も原形を留めているようで、階段を下りきると石柱で支えられた古い聖堂の門が姿を見せる。
精巧な狼の浮彫が飾られた門の向こうには大広間があり、いくつも並んだ長椅子の上で青いローブの人々が深く頭を垂れていた。
「私は司祭様にお会いしてこよう」
同じく青いローブをまとったプラチドが言う。
ラウレッタが頷いた。彼女はロックが直したローブを着ていた。
「わたくしは、ロクシーにここを案内しておきます」
「頼む。では後でな」
夫婦はそっと視線を交わし合うと、ラウレッタはロックだけを連れて大広間の脇の通路に入る。
そこからは居住区画なのか、いくつかの小部屋があった。近年据えつけたと思える木の扉や布の間仕切りのある空間を抜け、やがて小部屋の一つに立ち入った。
「失礼。仕立て屋さん、いらっしゃるかしら」
薄暗い室内にラウレッタが声をかけると、隅で椅子に腰かけていた男が面を上げる。
「ああ、アレクタス夫人。お久しゅう――」
男は機械的に挨拶をしようとして、夫人の隣に立つロックに気づいたようだ。
澱んだ目が見開かれる。
痩せこけた頬がぴくりと引きつり、灰色の瞳が息を吹き返したように震えた。
「――まさか」
その声に、ロックはラウレッタに見えないようかぶりを振る。
もう少しだけ堪えてくれ。彼に、そう訴えた。
二十八歳男、痩せ型、銀髪に灰色の瞳――あの張り紙の絵と比べると、随分やつれたようだった。
銀髪はすっかり傷んで、くすんでいた。
だがその顔を、かつては憎き同業者だった男のことを、ロックは見間違えるはずがない。
クリスター・ギオネットとの、実に一ヶ月ぶりの再会だった。