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再会の時を待て(3)

 気がつくと、夜が明けていた。
 どうやら床に座り込んだまま、いつの間にか眠っていたようだ。

 ロックは恐る恐る面を上げ、辺りの景色を確かめる。
 目に映ったのは暖かい珊瑚色の寝室で、否応なしに昨夜の出来事、そしてここにおける自らの立場を思い出した。
「いたた……」
 軽く頭痛がする。自分が思うよりもくたびれていたのかもしれない。
 何せ昨日はいろんなことがありすぎた。エベルと共にマティウス家の霊廟を訪ね、聖堂へも足を運び、ラウレッタの訪問を受け、挙句の果てに誘拐された。全てが一日に起きた出来事とは思えないほどだ。

 よろよろと立ち上がったロックは、痛む頭で次の行動を考え始める。
 もちろんこんなところに長居はしたくない。どうにかしてここを抜け出さなくては。
 ロックは再び窓を開け、三階から張り出す露台へ出た。まだ低い位置にある朝日が目映く染めるのは、紛れもない貴族特区の美しい街並みだ。視認できる距離に皇帝の居城があり、ロックはその景色に目を凝らす。
 この街のどこかに何度か訪ねたマティウス邸がある。そこへ辿り着けさえすればいい。
 あとは場所さえわかれば――。

 だがロックの目がそれを探し当てるより早く、廊下から何か聞こえてきた。
 ごろごろと転がる台車の音、それから二人分の足音が近づいてくる。
 慌てて窓を閉めて身構えると、すぐに扉が軽く叩かれた。
「おはよう、ロクシー。もう起きているか?」
 その声は昨夜の人狼、アレクタス卿だ。
 ロックはゆっくりと息をつきながら答える。
「ええ」
「では入るぞ」
 扉が開いた。
 そして現れたのは、ロックにとって見知らぬ男だった。

 深い灰色の髪のその男は、恐らく父よりも年上に見える。背はそれほど高くなく、身体つきもすらりと痩せている。身に着けているのは上等な天鵞絨の衣服で、黒地に金糸で刺繍が施されていた。
 きりりと太い眉の下、対照的に細い瞳が微笑む。
 その色は、金色だった。

「もう着替えを終えたのか。しかし昨日着ていたものをそのまま着るのはいかがなものかな」
 男は聞き覚えのある声で言い、寝台の傍に置かれた箪笥を指し示す。
「あちらにいくつか服がある。全て君のものだ、自由に着るといい」
 ロックは返事をしなかった。
 ただ注意深く男の顔を見つめ、すると男の方もようやく気づいたというように言う。
「ああ、そうか。この姿で会うのは初めてだな」
 折り目正しく一礼して、名を名乗る。
「私の名はプラチド・アレクタス。ラウレッタの夫であり、君にとっては伯父ということになる」
 それから背後を振り返り、後に続いて入ってきた若い娘を紹介した。
「こちらは小間使いのアリーチェだ。ダニロには頼みづらいことがあれば彼女に言うといい」
 クルミ色の髪をした小間使いは、黙って一礼する。
 アリーチェはちょうどヨハンナと同じくらいの年頃に見えた。ただ緊張しているのか、無表情ながらも瞬きがやけに多い。
「ではアリーチェ、朝食の支度を」
「かしこまりました」
 プラチドの命を受け、アリーチェは大きな台車を押して室内に入ってきた。
 そして花が飾られた円卓に、手早く食器を並べていく。
 その間にもプラチドはロックを見て、金色の目を細めた。
「お腹が空いただろう? 私と話がてら、食事でもどうかね」
 確かにロックは空腹だった。
 だが食欲などあるわけがない。
「誘拐犯が振る舞う食事を食べろと仰るんですか?」
 思わずそう聞き返すと、給仕をするアリーチェの手がぴたりと止まる。
 プラチドも小間使いをちらりと見た後、ロックに聞き返した。
「君の為に美味しい朝食を用意させたのだが……信用ならないと?」
「ええ、全く」
 ロックが頷けば、プラチドはそれでも微笑んだままアリーチェに告げる。
「アリーチェ、君は下がってくれ」
「……よろしいのですか?」
「給仕は私がやる。ロクシーはまだ気持ちが落ち着いていないようだ」
 落ち着くも何もとロックは思ったが、アリーチェはそれ以上何も言わず、無表情のまま部屋を出ていった。

 小間使いを見送ったプラチドは、すぐに自ら給仕の続きを始めた。
 水差しから陶器のカップに水を注ぎ、それを二つ並べてロックに告げる。
「どちらか、君が選ぶといい。選ばなかった方を私が飲もう」
 ロックは戸惑ったが、彼はあくまでも信用を得ようとしているようだ。
 その後も薄焼きのパンやスープ、木の実などをことごとくロックに選ばせ、選ばなかった方を自分の席に並べていった。給仕には慣れていると見え、程なくして食卓には二人分の朝食が並んだ。
「用意ができたよ。さ、朝食にしよう」
 そう言って、プラチドがロックの為に椅子を引く。
 ロックが身動きもせずにいると、ああ、と苦笑してその椅子をもう一脚の椅子と取り替える。
「椅子も選ばせて欲しいということか。気がつかなくて悪かった」
 そういうつもりではなかったのだが、ロックが座らなければ話が進まないようだ。
 仕方なく、改めて引かれた椅子に腰を下ろした。

「さあ、召し上がれ」
 プラチドはロックと差し向かいに座り、そう言った。
 彼自身もカップから水を飲み、パンをちぎって口に運ぶ。湯気の立つスープも上品に啜り、その後で美味しそうに目を細めた。
 恐らくは罠ではないことを訴えようとしているのだろう。ロックはそれを察しつつも、とても食事に手をつける気にはなれない。
「食べないのか?」
 やがてプラチドが尋ねてきたので、顔を顰めて答える。
「食べる気になれません。僕はただ、家に帰りたいだけです」
 すると彼は妙に優しげな表情を見せた。
「君が我々の子になってくれるなら、時々は帰してもいいと思っているよ。君の父親、フレデリクス・ベリックの元へ」
 予想外の言葉に、ロックは目を瞠った。

 帰ってもいいと言ったこともそうだが、プラチドは先程から自らをロックの『伯父』と名乗り、フィービを父だと告げている。
 昨夜、ラウレッタの前では『私たちの子』と言っていたはずだが――。

「あなたは、僕の父に成り代わろうとしているのだと思いましたが」
 ロックが噛みついても、彼はあくまでも温厚に応じる。
「無論、君がうちの子になってくれることは私とラウレッタの何よりの望みだ。だが私は君のこれまでの人生も尊重したいと思っている。君のご両親のことも」
 口では何とでも言える。
 甘言でロックを油断させ、抱き込んでから約束を反故にする気かもしれない。
 貧民街暮らしのロックは神経を尖らせ、話の続きに耳を傾ける。
「ラウレッタはここのところ、ずっと塞ぎ込んでいた」
 プラチドは妻の名を口にする時、痛みを覚えるように眉を顰めた。
「君も知っての通り、我々の間には子がいない。歳を取るにつれ、そのことが彼女を苦しめるようになった。私は養子を取ってもいいと言ったのだが、彼女は純粋な血縁にこだわった」
「それで僕、なんですか?」
 ロックが確かめると、重々しい首肯が返る。
「君の母親ベイリットが家を出た時、ラウレッタは酷く落ち込んだそうだ。駆け落ちの相手が一介の傭兵だと知っていたから尚更だった。だがそれからも妹の足取りを追い、人を使ってその身辺を探らせ、妹が救いを求めてきたらいつでも手を差し伸べるつもりだった。君がすくすくと育っていくのを聞いて、非常に喜んでいたのも覚えている」
 そこはフィービからも聞いた通りだ。
 あの山村に住んでいた頃、ロックと母の身辺を探る者がいたという。
「だが君の母親が亡くなった後、君の足取りがぱったり途絶えた。その時のラウレッタはもう半狂乱だった。八方手を尽くして君を探そうとしたが、何年も見つからなかった」
 まさかロックが男装をして、貧民街で暮らしているとは思わなかったのだろう。
 フィービの偽装は正しく効果を発揮したというわけだ。
「それがつい先日、リーナス公爵令嬢の誕生日を祝う宴席で見かけたという噂を聞いてね」
 プラチドの口から出された名前に、ロックは内心動揺した。
 心当たりは確かにある。
「葡萄酒色の髪の、若く美しい貴婦人がいたと。彼女はマティウス伯の同伴者だが素性は明らかでなく、しかしラウレッタの若い頃に似ていたと噂になっていた」
 そこでプラチドは出方を窺うように言葉を切った。
 ロックが唇を引き結ぶと、軽く笑んでから口を開く。
「それからずっと探していたのだ。ロクシー、君のことを」
 そして懇願するように続けた。
「どうかラウレッタの望みを叶えてやってはくれないか。子を持ちたいと願う彼女の望みを。そうすれば君の望みもできる限り叶えよう。君が父親に会いに行くのだって構わない。ラウレッタはいい顔をしないだろうが、私は当然そうすべきだと思っている」

 一連の話を聞いて、ロックは不思議で仕方がなかった。
 こうして会話をする限り、プラチド・アレクタスは妻想いの優しい紳士に思える。
 だが彼は昨夜、ロックたちが乗る馬車を襲い、フィービやイニエルを放置したままロックを攫った張本人だ。

 そしてダニロは言っていた。
 プラチドはラウレッタの為に、人狼の呪いを受け入れたのだと。

 ロックは食卓越しに、プラチドの金色の瞳を見返した。
 エベルの、あるいはグイドの瞳と全く同じ金色だ。
「この目が気になるようだな」
 視線に気づいたプラチドが自らの目を指差す。
「知っていると思うが、生まれつきではない。人狼の呪いを得たその日にこの色になった」
 それから水を一口飲み、息をついてから姿勢を正す。
「ロクシー、これも君に尋ねておこうと思っていた。君は私以外の人狼を知っているのだろう?」
 既に感づかれているとわかっていたが、ロックは答えなかった。
 だがプラチドの方も、ロックが沈黙する理由まで察しがついているようだ。
「ラウレッタの話によれば――」
 ロックの表情を真正面に捉え、水を向けてくる。
「あの若きマティウス伯も、私と同じ色の目をしていたそうだな」
 答えない。
 答えてはいけない。
 自分の言葉がエベルの名誉や経歴を傷つけるようなことがあってはならない。
 ロックが唇を噛んだのを見て、プラチドは笑った。
「答えたくない、か。君にとって彼はどのような存在なのだろうな」
 そう言って小さくかぶりを振る。
「安心していい。私は彼を探ろうとしているわけでもなければ、よくない噂をばら撒こうとしているわけでもない。ただ彼が同志であるかどうかだけ、確かめておきたかったのだ」
 同志、という単語が引っかかった。
 同じ人狼は志も同じと言いたいのだろうか。それにしては――。
「私が知る限り、人狼の呪いはそれを込めた古き遺物、人狼の彫像からのみ得られる」
 プラチドは言う。
「私は教団からあの彫像を賜り、呪いを受けた。同志が他にもいるなら知っておきたかったのだ」
「……教団?」
 ロックは思わず沈黙を破った。
 酷く、嫌な予感がした。
 その言葉をフィービやエベルから聞いていた。そしてヨハンナからも。
「人狼教団のことだよ、ロクシー」
 プラチドが、その言葉をそっくりそのまま口にする。
「私とラウレッタはそこで祈りを捧げた。全てはラウレッタの心の安らぎの為、そして彼女の願いを叶える為だ」

 その名前を聞いたことがあった。
 フィービやエベルがどれほど調べても、過去の記録にわずかにしか残されていなかった。
 ヨハンナの生家にもあるのは拷問器具などだけで、真実は古い歴史の向こう側に葬り去られてしまったのかと思っていた。

 だが、人狼教団は今も存在していた。
 ロックの目の前に、人狼の力に縋り、欲望を叶えようとする者がいた。
「それも知っていたのだろう?」
 プラチドは笑っている。
 悪意のない、穏やかな笑みだ。
 貧民街で多くの人間を見てきたロックにさえ、彼の表情は曇りのない善人のものに映った。迷いもためらいもなく、ただ一心に妻を愛している人の顔だった。
「人狼は化け物ではない、無力なものに希望を与える素晴らしい力だ。既に人狼を知っているというなら、君にもそれがわかるはずだ。違うか、ロクシー」
 彼に畳みかけられ、ロックの心は思いがけず揺れた。

 彼らの子になる気はない。
 自分の父はフレデリクス・ベリックだけ、そして母もまた一人だけだ。
 だが――ここにいれば、フィービもエベルも掴めなかったあの彫像の出所が掴めるかもしれない。
 人狼教団。そこに、近づくことができれば。

「あなたがたの子になる件、少し考えさせてくれますか」
 ロックは心にもないことを、本音を隠して切り出した。
「僕はまだあなたがたのことを何も知らない。どう接していいのかもわからないくらいです」
「考える気があるというだけでも嬉しいものだな」
 プラチドは言葉通り、嬉しそうにしてみせる。
 それからまた水を一口飲み、ほっとした胸を撫で下ろした。
「だが、よかったよ。君がこのまま頑なだったら、ラウレッタに合わせる顔がないと思っていた」
「伯母様とも、是非お話をしてみたいです」
 これは本音だ。
 もっとも目的は他のところにあったが。
「もちろんだ。後で会わせよう、ラウレッタも喜ぶだろう」
 プラチドが頷いたので、ロックもぎこちなく笑んで顎を引いた。

 それから目の前の食事に手を伸ばす。
 水を飲み、パンをちぎってかじりつき、スープを啜る。
 食欲はなかったが、何としてでも詰め込んでおかなくてはならない。
 体力がなければ内偵など務まらないからだ。

「美味しいか? 君の口に合ったなら嬉しいが」
 食事をするロックを見守るプラチドの目は、ひたすら慈愛に満ちていた。
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