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再会の時を待て(2)

 夜の帝都を、ロックを担いで人狼が走る。
 建物が密集している貧民街と比べて、貴族特区の土地の使い方は贅沢としか言いようがない。街路は広く、家々の間にもたっぷりとした距離があり、ましてや夜遅くだ。街灯の明かりを頼りに、建物の少ない道を覚えるのは至難の業だった。
 せめてもの抵抗と、声だけは上げ続けた。
「下ろせ! 父さんのところに帰せ!」
 すると人狼は走りながらかぶりを振る。
「静かに。これ以上人に見られたくはないのだよ」
「むぐ……っ」
 ロックの口が、毛深い人狼の手に覆われた。
 あとは悲鳴さえ上げられないまま、どこかへ運ばれていくだけだった。

 どのくらいの間、そうしていただろう。
 夜闇に慣れたロックの目に、突如として眩しい光が飛び込んできた。
 思わず目を眇めたのと同時に、人狼がふわりと着地するのがわかった。
 どうやらどこかの邸宅のようで、ロックを抱えら人狼が下り立ったのは上階に張り出した露台だ。その露台から屋内に通じる大きな窓は開け放たれており、目を眩ませる光もそこから溢れ出ていた。

 人狼はロックを抱えたまま、その窓をくぐって屋内に入る。
 中には煌々と明かりが点っていてやはり眩しい。だがどこに連れ込まれたのかは見ておきたくて、ロックは必死に目を凝らす。
 そこは誰かの寝室、のようだった。
 天蓋つきの寝台があり、精緻な彫刻が施された鏡台があり、ふんだんに花が飾られた円卓があり――婦人の部屋だろうとロックは思う。調度はどれも色艶のいい木製で、天蓋から下がる薄絹や寝具などは柔らかい珊瑚色で統一されていた。調度の豪奢さからして、貴族特区に建つ邸宅だろうと察する。

「ここだ、ロクシー」
 人狼が、ロックの名を呼んだ。
 それから床の上に、そっと優しく下ろされた。
 ロックは即座に後ずさりして、寝室に立つ人狼を睨みつける。
「お前、誰だ! どうして僕をここへ!?」
 人狼は金色の瞳でロックを見返す。
 だが答えが返るより早く、寝室の扉が静かに開いた。
 とっさにそちらに目を向けたロックは、現れた人物に絶句した。
「……アレクタス卿夫人!」
 母によく似た伯母、ラウレッタ・アレクタスだった。
 彼女は人狼に駆け寄ると、胸に両手を当てて声を震わせる。
「あなた、よくご無事で……」
 呼びかけられた人狼も、ラウレッタに対して目を細めた。
「ああ。この力のお蔭で怪我一つせずに済んだよ」
 それからロックを視線で示し、満足げに続ける。
「そして私たちの子も無事に、ここにいる」
「は……はあ!?」
 聞き捨てならない言葉にロックは声を上げた。
 ラウレッタがロックを見る。母と同じ灰色の瞳が、今は微かに潤んでいる。
「ああ、ロクシー……やっと私たちの元に来てくれたのね」
 マティウス邸で会った時とは違い、その声は酷く優しく、甘く、慈愛に満ちてさえいるようだった。
「ま、待ってください! 僕は望んできたわけじゃ――」
「今日からここがあなたの家よ。この部屋はあなたの為に用意したの、素敵でしょう?」
 ロックの反論も聞き流し、ラウレッタはにっこり微笑む。

 その微笑は美しかったが、どこか狂気を孕んでもいた。
 あるいは得体の知れなさがそう見せているのかもしれない。
 うすら寒いものを感じ、ロックは一人身を震わせた。

「あなたのことは、ベイリットの分まで幸せにするわ」
 あくまでも優しげなラウレッタの言葉に、人狼も頷く。
「これからは何も心配要らない。私たちが君を守ろう」
「ふざけたことを!」
 当然ながら、ロックは激高した。
「馬車を襲って僕をかどわかして、それで家族みたいに振る舞うなんてどうかしてる! 僕はあなたがたの子じゃないし、そうなる気もない! 僕はフレデリクス・ベリックとベイル・フロリアの子です!」
 声の限りに人狼とラウレッタに食ってかかる。
 するとラウレッタは困惑したそぶりで人狼を見た。こんなはずではない――そう言いたげに映った。
 人狼はそんな彼女を労わるように、毛むくじゃらの手を肩に置く。
「ロクシーはまだ混乱しているようだ。今夜はもう遅いし、少し休ませてやろう」
「ええ、あなた……」
 ラウレッタがぎこちなく頷いたのを、ロックは愕然と見ていた。

 この二人は夫婦のように見えるが、二人ともどこかおかしい。
 ロックを誘拐したことに罪の意識を持つどころか、まるで正しいことをしたように振る舞っている。
 自分たちの子供を、当然の権利として連れ戻したのだと言わんばかりに――。

 そもそも、目の前にいるこの人狼は何者なのだろう。
 エベルのお蔭で恐れることもなく接してはいるが、人狼はやはり異形の存在だ。この男もあの彫像の力を解放し、呪いを受けたということだろうか。
 そしてもしもこの男がラウレッタの夫だとすれば、アレクタス卿が人狼であるということになる。
 エベル、グイドに続きアレクタス卿までもが――帝都が人狼の呪いに蝕まれつつあるようで、ロックは激しく狼狽していた。

「嫌だ、父さんのところに帰りたい……!」
 混乱する頭を押さえつつ、ロックは喚く。
「帰してください! 僕の家はここじゃない!」
 その訴えにラウレッタは、再び縋る目で人狼を見た。
「あなた、ロクシーの様子が……」
「ああ。酷く混乱しているようだ」
 人狼は息をつき、扉の外に呼びかける。
「ダニロ、来てくれるか」
「かしこまりました」
 扉が開き、次に現れたのは小柄な中年の男だった。
 立派な身なりをしているから執事かもしれないが、ロックは彼に見覚えがある。
 エベルと共に訪ねた神聖地区の聖堂で、祈りを捧げていたあの男だ。
「ロクシーを休ませてやりたい。まだ勝手もわからぬだろうから、いろいろ話をしてやってくれ」
 人狼が告げると、ダニロと呼ばれた小男は恭しく一礼する。
「仰せの通りに」
 それから気遣わしげに進言した。
「旦那様もそろそろお召替えを……そのお姿のままでは、お嬢様も落ち着かれませんでしょう」
 お嬢様などと呼ばれ、ロックはいよいよぎょっとする。
「そうだな。ロクシーは人狼を見慣れているようだが」
 そして、人狼のその言葉にも動揺した。

 見抜かれている。
 ロックが人狼を見たことがあると――しかも恐れおののかぬ程度には見慣れていると感づかれているようだ。
 エベルのことを知られるのはまずい。ロックはひとまず呼吸を整え、無理やりにでも気を落ち着かせる。

 その間にアレクタス夫妻とダニロは引き継ぎを済ませたようだ。
「では頼んだ、ダニロ」
「くれぐれも娘をお願いね」
 人狼はラウレッタの肩を支え、二人は珊瑚色の寝室から出ていく。
 そしてダニロはおずおずと、ロックに声をかけた。
「お嬢様、ダニロと申します。以後お見知りおきを……」
 当然、ロックが友好的な反応を返すはずもない。思いきり彼を睨んだ。
「あなた、聖堂にいらっしゃった方ですよね」
 ダニロの顔からさっと血の気が引く。
「え、ええ……仰る通りです」
「司祭様のお話じゃ、あなたは足繁く礼拝に通っている、とても敬虔な方らしいじゃないですか。誘拐沙汰を目の当たりにして、まさか見逃すなんてことは……」
 父のやり方を真似た脅し文句は効果てきめんだった。
 たちまちダニロは許しを乞うようにひざまずく。
「お許しを……! 私は確かに神を信じております」
「じゃあ、僕を帰してください」
「それは……できません」
「なんでですか。神がこの罪を看過されるとでも?」
 ダニロ与しやすしと見たロックはすかさず畳みかけた。
 普段は神など口にする気もないのだが、こういう時には利用させてもらうことにする。
「神は人さらいを是とされるのでしょうかね」
 ロックの言葉に、ダニロはいよいよ蒼白になった。
「お嬢様、申し訳ございません。私も信仰を捨てたわけではないのです。ただ――」
 そこで言葉を選ぶように言い淀んだ。
「その……お嬢様がもし人狼についてご存知なら、旦那様がどのように力を得られたかもご存知でしょう」

 ロックはその問いかけに反応しなかった。
 黙って奥歯を噛み締めた。
 もちろん、知っている。察しがつく。
 この目で一度、見たこともある。

 ダニロの懺悔は続く。
「我々は罪を犯しました。旦那様はこの世の理に背き、人狼の呪いに御自らを捧げられたのでございます」
「な……なぜです?」
 これには思わず口を挟んだ。
 自らとは言うが、グイドも呪いを解き放つ時はさも望んでいたように振る舞っていたはずだ。
 しかし我に返った後はあの通り、彫像に操られてでもいたようだった。
 ならばアレクタス卿も、望んだように見えて実はそうではなかった、ということにならないだろうか。
「それも全て、奥様の御為でございます」
 声を震わせ、ダニロは語る。
「奥様のお心を支える為、守る為のことでございます」
「そんな、人狼の力なんてなくたって――」
 ロックは反論しようとしたが、ダニロは強くかぶりを振った。
「いいえ。人狼の力があってこそ、旦那様と奥様はお嬢様を――あなたを手に入れられた」
 そして尚も言い返そうとするロックを制し、深々と頭を垂れる。
「お嬢様の仰りたいことはわかります。ですがどうぞ、お二人の話も聞いていただきたいと存じます。お二人にはそれだけの苦悩があり、覚悟があったのでございます」
 ダニロはそう主張して、ロックの追及から逃れるように顔を伏せた。
「誘拐しておいて話聞けだなんて道理に合いません! いいから僕を帰して! 父さんのところに!」
 ロックがいくら文句を言っても、声を荒げても、
「申し訳ございません、お嬢様!」
 あとは詫びるばかりで何も言ってはくれなかった。

 ダニロはロックの為に寝間着を用意すると、そそくさと部屋を出ていった。
「ご用があればお申し付けください。隣室におります」
 それはつまり、怪しい動きがあればすぐに飛んでくる、という宣言だった。
 おまけに扉に鍵をかけていったので、ロックは寝室に閉じ込められた形だ。窓なら開けられるが、試しに露台に出てみたら、この部屋は三階にあった。さすがに飛び下りる度胸はない。
「縄梯子を作るか……」
 そう思って室内を見回したが、ぱっと目につく布地は天蓋の薄絹と寝間着くらいだ。薄絹ではロックの体重を支えられるかどうか怪しく、寝間着では生地が足りない。
 他に何かないかと歩を進め――かけて、急に膝から力が抜けた。
 ロックは床にへたり込み、震える膝を腕で抱える。
「何なんだ、これ……」
 訳がわからなかった。
 馬車が襲われ、人狼に攫われ、伯母夫妻によって無理やり娘にされようとしている。
 おまけにその人狼こそが伯母の夫、アレクタス卿だという。
 彼は妻の為に呪いを受けたというが――。
「狂ってるよ……呪いは、呪いじゃないか!」
 エベルの苦悩とグイドの変心を目の当たりにしたロックは嘆く。
 どんな理由があろうと、あの彫像の力に頼ることなどあってはならない。

 一方で、ロックは今の自分の無力さに気づきつつある。
 父から引き離され、その身の無事を確かめてもいない。御者のイニエルも然りだ。エベルの耳にはもう入っている頃だろうか。彼らは自分を見つけられるだろうか――。
 助けを乞いたくなる気持ちが疎ましい。もし自分に力があれば、誰の力も借りず、誰に迷惑をかけることもなくここから逃げ出せるのに。

 力が欲しいと思うのは、こういう時なのかもしれない。
 それでも、何があっても僕は、あの呪いに縋ったりはしない――床の上で膝を抱えたまま、ロックは自らに言い聞かせていた。
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