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再会の時を待て(4)

 プラチドはまず、ロックに湯を使うよう勧めてきた。
「君に着てもらいたい服がある。着替えの前に身ぎれいにするといい」

 それでロックは小間使いのアリーチェに連れられ、アレクタス邸の浴室まで通された。
 案内を終えたはずのアリーチェは脱衣室を出ようとせず、人前では脱ぐに脱げないロックを見かねて口を開く。
「お手伝いをするよう申しつけられておりますので」
「い、要らない! 一人でできるよ!」
 ロックは慌てたが、アリーチェはその言い分を信用していないそぶりだった。
「お嬢様は田舎暮らしが長いと伺いました。失礼ながら、石鹸の使い方などご存じない場合もあるかと思い……」
「そのくらいは知ってるよ。大丈夫だから」
 内心憤慨しつつ、ロックは突っぱねる。
 アリーチェの方も、急に現れた『お嬢様』とはあまり関わりたくないようだ。最終的にはロックの要求を受け入れ、粛々と脱衣室を出ていった。
「お身体はもちろん、耳の後ろまで入念に洗われますよう」
 まるで子供扱いの注意を残していったので、ロックは密かにむくれた。

 アレクタス邸の浴室は二部屋からなる立派な造りのものだった。
 温かい湯を張った浴槽がある部屋の隣には、帝都式の蒸し風呂が小さいながらも備えつけられている。個人が蒸し風呂を有しているのはかなり裕福な証と言えた。
 帝都ではこの蒸し風呂が市民から絶大な支持を受けており、その日暮らしの住人が多い貧民街にさえ公衆浴場がある。あのジャスティアのパン屋の二階がそうで、窯から出る熱を利用した蒸し風呂は焼き立てパンの香りも堪能できる素晴らしい施設だそうだ。浴場帰りの客が気分よく食事をするところも見かけたことがあり、その度にロックもフィービも羨ましがったものだった。
 というのも、公衆浴場は男用女用と隔てられているが、『男装をした婦人用』及び『女装をする紳士用』の浴室などあるはずもない。
 だからフィービは、不便だが浴室のある五階建て集合住宅の最上階に住んでいる。
 そしてロックの部屋に浴室はないので、フィービの部屋で湯を借りるか、そうでなければたらいで湯浴みをするのが日常だった。

 そんなロックが、立派な蒸し風呂のある浴室に通されればどうなるか。
「何これ、あっつ!」
 蒸し風呂の中へ座ってみたものの、湿度の高い熱気に五分と耐えられず、逃げるように外へ飛び出した。
 なぜ蒸し風呂が人々の支持を得ているか全くわからないまま、ロックは温浴槽だけで湯浴みを済ませた。もちろん石鹸もきちんと使い、全身を心ゆくまで磨き上げた。

 そして浴室を出てみれば、脱いだ衣服の隣に見覚えのないドレスが用意されていた。
 くすんだ緑色の、光沢のある絹の生地でできていて、鉤編み飾りのついた詰襟とふくらんだ釣り鐘袖、引きずるほど長い裾と、古風な仕立てをそのまま踏襲している。昨日借り受けたフィービのドレスとよく似た、流行外れの型だった。
 さしもの仕立て屋ロックもこれを一人で着るのは容易ではなく、外に控えていたアリーチェの手を借りた。
「よくお似合いです」
 サッシュを結ぶアリーチェが、心のこもらない口調で言う。
 ロックはそれに応えず、脱衣室に置かれた姿見を睨んだ。
 型だけではなく、このドレスそのものが随分と古いものに見えた。保存状態こそ良好だが、絹地の経年劣化だけは誤魔化しようもない。緑の生地は本来もっと発色がよかったはずだ。
 自分の為に用意されたドレスではないようだが、では誰のものなのだろう。
「そちらの服は洗っておきましょう」
 着替えが済むと、アリーチェはロックの脱いだ服を指差した。
 ロックは慌ててかぶりを振る。
「自分でやるからいい」
「しかし……」
「いいんだってば。服の手入れは得意だから」
 頑なに拒んで、どうにか服を部屋まで持ち帰ることに成功した。
 このドレスはフィービが貸してくれたものだ。
 必ず持ち帰り、この手で返す。ロックは心に誓った。

 身支度を整えたロックが次に呼ばれたのは、アレクタス夫妻が待つ居間だった。
「失礼いたします」
 ロックがお辞儀をしながら立ち入ると、長椅子に座っていたラウレッタが素早く立ち上がる。
「まあ……!」
 口元を両手で覆った彼女の顔から、さっと血の気が引いた。
 隣にいたプラチドがすかさず妻の肩を支えるように抱く。
「ラウレッタ、しっかりするんだ」
「ええ……でも、でも驚いたの。ベイリットにそっくりなんですもの!」
 口にされた母の名に、ロックはどんな顔をしていればいいのかわからない。
 すると居合わせた執事ダニロが気遣わしげに口添えをする。
「お嬢様がお召しになったそのドレスは、奥方様の妹君がお仕立てになったものでございます」
「えっ……」
 ロックも言葉を詰まらせた。

 母の形見となるものにこうして巡り会っただけではなく、何も気づかず袖を通していたとは――。
 だが言われてみればこの仕立ては、自分が仕立てたものとよく似ている。袖にあしらうひだの作り方も、鉤編み飾りの模様も母が教えてくれたものの一つだった。

 思わずドレスに見入っていれば、ラウレッタは深く嘆息した。
「ベイリットは小さな頃から縫い物が好きな子だったわ。どうせなら仕立て屋になりたい、家を継ぐことなんて興味がないとわたくしに打ち明けてくれたのを今でも覚えているの」
 今まではおぼろげでしかなかった、アレクタス家にいた頃の母の姿が語られる。
「でも、わたくしたちの父は――あなたにとってはおじいさまね。今はもういないけど、あの人には敵が多かった。兄弟から家督相続を狙われていて、だけど生まれてきたのは娘が二人。せめて優秀でなければならないと、わたくしたち姉妹を絶えず競わせたの」
 ぽつぽつと話す、ラウレッタの表情は病んだように暗い。
 その手をプラチドはしっかりと握りしめていた。
「ベイリットがあの男と出ていった時、わたくしは裏切られたって思ったわ」
 そしてラウレッタの話がそこに及ぶと、プラチドが制するように妻を見る。ロックに気を遣ったのかもしれない。
 ラウレッタも心得たように頷いた。
「でも、あの子はきっと……戦いたくなかっただけ。今はそう思うの」
 母の面影がある、しかしやつれたその顔に、同じ意思が宿っているようにロックには見えた。
 親に命じられて姉妹の間で競い合うのは、きっと酷く辛いことだったに違いない。
「それにベイリットはたくさんのものを遺していってくれた。ドレスもそうだし、思い出も――そして、あなたも」
 ラウレッタが面を上げる。
 縋るような目でロックを見て微笑む。
「ベイリットが遺したドレスを見たくない? あなたが望むなら好きなだけ着ていいのよ」
 即答できないほど、ロックは狼狽していた。
 ラウレッタの口から母について語られる度、ここに母がいた頃のことが生々しく伝わってくるようで怖くなる。

 ロックにとっての母ベイルは、あの山村で仕立て屋を営む貧しい婦人だった。
 だが自分の知らない母の姿がここにはある。
 恐らくあまり幸福ではなかった少女時代が垣間見えるようで、切ない気分にもなった。
 そしてそれは、ラウレッタもまた同じなのだろう。

 ロックの動揺を察してか、ラウレッタもそれ以上は妹の話をしなかった。
「ここはあなたの我が家よ。好きなように過ごしてちょうだい」
 優しくそう勧めてくれた上、実際に屋敷内では行動の自由を許された。自室としてあてがわれた寝室はもちろん、屋敷中のどの部屋でも出入りを咎められなかった。
 唯一、外に出てみたいという申し出には渋い顔をされたものの。
「君を信用していないわけではないが、妻が落ち着くまでは控えてもらえないだろうか」
 プラチドはやんわりとそう拒んできた。
「万が一君を失うようなことがあれば、ラウレッタは本当に壊れてしまう」
 誘拐犯が攫ってきた娘に言う台詞ではないとロックは思う。
 だが逆らう気はなかった。
 もちろん絶望からではなく、野心の為だ。
「伯母さまのお加減がよくなるまで、仰る通りにいたします」
 表向きはそう答え、プラチドを安心させていた。
「ありがとう。しかしできればいつか、『お母様』と呼んでやって欲しい」
 その頼みは聞けないが、伯父と伯母にはできるだけ取り入るつもりでいる。
 ロックは商売人だ。利益になるとわかればいくらでも媚を売ることができる。
 今回得られるのは金ではなく、エベルやフィービが追い求めてきた情報だ。それは皆にとって金にも勝る価値があるはずだった。

 それから二日間、ロックはアレクタス家で過ごした。
 伯父や伯母との距離は目に見えて縮まることもなかったが、中庭で花を摘んでは伯母に届けたり、お茶の時間を共にしたりして表向きは従順に過ごした。ラウレッタはそんな姪の気遣いに喜び、それを見てプラチドも胸を撫で下ろしていた。
 一方で、ロックが求める情報はなかなか掴まらなかった。
 アレクタス夫妻を問い詰めるのは最終手段と決めていたから、まずは使用人からとダニロやアリーチェたちにそれとなく水を向けてみた。だがダニロは罪の意識からかロックの姿を見ると逃げてしまい、アリーチェをはじめとする小間使いたちもロックを遠巻きにするばかりだ。どこからともかく連れてこられた小娘、しかも貴婦人の教育も受けていない田舎者となれば信用に値しないのも無理はない。
 そしてその二日間、ロックは何度か窓の外を見た。
 もしかすれば誰かが――ロックにとって会いたい人たちがやってくるのではないかと思ったからだ。
 だが望んだ通りの訪問者はなく、張り詰めた心をロックは一人奮い立たせるしかなかった。

 エベルとフィービが自分を見捨てるはずはない。
 二人とも、むしろ何を捨て置いても助けようとしてくれるはずだ。
 だからすぐに現れないのには理由があるのだろう。
 現にロックが攫われてきた翌日、アレクタス家のくずかごに放り込まれていた新聞には気になる記事が載っていた。
 貴族特区の大通り沿いで、馬車の転倒事故があったという記事だ。
 それによれば馬車はマティウス伯爵家のものとはっきり記されており、御者は軽傷、他の乗員一名には怪我なしとあった。事故の原因は馬の轡から手綱が外れた為とのことだが、当然ながら事実とは異なる。
 エベルたちも、馬車が人狼に襲われたと公にはできないはずだ。
 プラチドにはそこを突かれたというのも事実だろうが――それでもロックは、まだ希望を捨ててはいない。
 自分は一人ではない。そう信じて疑わなかった。

 そして、ロックがアレクタス家で迎える三日目の朝のことだ。
 まだ見慣れぬ珊瑚色の寝室で、ロックはあくびを一つした。
 ちょうどその時、扉が上品に叩かれた。
「ロクシー、起きているかしら?」
 ラウレッタの声だ。
 ロックは慌てて寝癖のついた髪を梳き、寝間着の上にガウンを羽織ってから応じた。
「どうぞ、伯母様」
 部屋に現れたラウレッタはアリーチェを従えていた。アリーチェの手には二着の、こちらは真新しいドレスがあり、ラウレッタはそれをロックによく見えるよう掲げさせる。
「今日はお客様がいらっしゃるの。好きな方を選んで、着替えてちょうだい」
 ドレスは洗練された天鵞絨の深緑色と、つややかな苺色の本繻子だった。その上等さから察するに、来客というのはかなり身分の高い相手なのだろう。
「僕が、お客様の前に出ていくのですか?」
 ロックが恐る恐る尋ねると、ラウレッタは頷いた。
「ええ。でも心配しないで、あなたと歳の近いご令嬢よ」
「ですが……」
「大丈夫。とっても気立てがよくて、お優しい方だから」
 ラウレッタは励ますように言い、それから案じるそぶりを見せた。
「あなたにもお友達が必要でしょう。ここでの暮らしにも慣れていないでしょうし、息抜きのできる相手がいないとね」
 そうやって気遣われると、ロックとしては居心地が悪い。
 そもそもロックは貧民街暮らしの下賤な娘だ。上流階級の人間と過ごしたところで息抜きも何もあったものではない。エベルのような貴族が例外中の例外であることは十分すぎるほど知っていた。
「そのお客様というのは、どのような方なのですか?」
 困り果てつつも尋ねれば、ラウレッタはそこでいたずらっぽく微笑んだ。
「あなたも一度お会いしたことがあるはずよ」
「僕が?」
「ええ。リーナス公爵閣下のご息女、ミカエラ・リーナス嬢よ」

 その瞬間、ロックの心にありとあらゆる感情が過ぎった。
 ここで知己に会えるとは思わなかった驚きと。
 彼女と会ったことがあると知っているラウレッタに対する恐怖と。
 もしかすればエベルが彼女を遣わしてくれたのかもしれないという期待と。
 しかしだとすれば、こうしてラウレッタが引き合わせてくれるのは妙だという疑心と――。

 それら全てを押し隠すのに苦心していれば、ラウレッタはくすくす笑った。
「そう、やっぱり知っていたのね。わたくしたちも、彼女にあなたの行方を聞いていたんですもの」
 聞いた話によれば、アレクタス夫妻がロックを情報を得たのはミカエラの誕生日を祝う宴席でのことだった。
 夫妻がリーナス家に直接尋ねたとしても、何ら不思議ではない。
「あなたがリーナス嬢とお会いした時は、マティウス伯爵閣下がご一緒だったんですってね」
 ラウレッタは驚くほど無邪気な口調で続ける。
「リーナス嬢は伯爵閣下の元婚約者。でも婚約が解消されて以来、付き合いはほとんどないと伺ったわ。だからあなたの足取りもご存じないとのことだったのだけど――見つかったとお知らせしたらぜひ会いたいと言ってくださったの」

 ――嘘だ。
 ロックは気づいていた。
 ミカエラとグイドは今でもエベルと交流がある。そしてミカエラはあの夜以降のロックの足取りはもちろん、身元さえちゃんと知っている。
 彼女はアレクタス家を欺いてまで、自分に接触しようとしてくれたのだ。
 
「僕も是非、お会いしとうございます」
 ロックは感激で打ち震える胸を抑えつつ、あくまでも控えめに答えた。
 そして二着のドレスのうち深緑色の方を選ぶと、ミカエラ・リーナスの到着を待った。

 やがて窓の外に、見覚えのある馬車が現れる。
 それはアレクタス邸の前庭に乗り入れるとゆっくりと停まり、中から扉が開いた。
 ロックが見守る中、懐かしさすら覚える姿が現れる。先に降り立ったのは黒髪の長身男――グイド・リーナスで、いつぞやのように馬車に向かって手を差し出すと、中から白い繊手が伸びてきてそれを握った。
 兄の手を借りて馬車から降り立ったミカエラは、何かを探すようにアレクタス邸を見上げる。
 そしてグイドも妹に倣い、金色の瞳で窓を見回す。

 ロックはよほど二人に手を振ろうかと思ったのだが――。
「お嬢様、お客様がいらっしゃいました」
 執事のダニロが呼びに来て、残念ながら叶わなかった。
 だが希望は捨てていない。
 すぐ目の前に迫った再会の時を、焦れる思いで待っていた。
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