再会の時を待て(1)
ロックとフィービはその夜、エベルと夕食を共にした。ヨハンナが真心込めて調理した食事はとても美味しかったが、ロックの心を占めていたのは先程会った伯母のことだ。
「母さんにそっくりだった……」
瞼の裏に焼きつく容貌を思い返し、呟いた。
もっともフィービはそうは思っていないらしい。軽く肩を竦めてみせた。
「そこまでか? 昔から並んで立ってても区別はついたぞ」
「母さんがあと十年生きてたらそっくりだったと思うよ」
「どうだかな。ベイルの方が美人だ」
フィービはどうやらそれを主張したいようだ。
「なるほどな」
ロックより先にエベルが小さく笑う。
そしてフィービがそちらを睨めば、さっと片手を挙げた。
「失礼。……あなたと奥様は、いわゆる駆け落ちを?」
「奥様って言っていいのか……正式な婚姻はしてないからな」
言いにくそうに答えたフィービが、ちらりとロックを横目で見る。
「いいと思うけどな」
貧民街の住人が帝都の法に囚われるのも妙な話だ。ロックはそう言って、答えたくなさそうな父の代わりに語を継いだ。
「母は父を追い駆けて家を出たそうなので、厳密には駆け落ちではないかと」
「そういうことか」
「愛の逃避行ですね! 素敵!」
それを聞いたエベルは腑に落ちた様子で頷き、ヨハンナは瞳を輝かせる。
たちまちフィービは居心地悪そうに、先程までちぎっていたパンに荒々しくかじりついた。
もっとも、そんな態度でだんまりを決め込めるはずもない。
「ではフィービ様と奥様の馴れ初めも、ぜひぜひ聞きとうございます! 奥様とお会いした時のフィービ様も麗人の格好をなさっていたのですか? 愛の告白はどちらから? ロック様ご誕生の秘話なども是非伺いたく――」
ヨハンナが食いついて、フィービを一層閉口させた。
「そう矢継ぎ早に聞いては失礼だろう、ヨハンナ」
エベルも表向きは小間使いを制したが、この話に興味はあるようだ。フィービに向き直って尋ねた。
「アレクタス卿夫人はあなたをよくは思っていないようだ。あなたが奥様の出奔に関わったと思っているからか?」
「それだけ、じゃないだろうな」
フィービは覚悟を決めたように嘆息する。
そして、やはりロックを見てから続けた。
「ラウレッタとベイルは、昔は仲のいい姉妹じゃなかったんだよ。むしろ常に険悪だった」
「そうなの? でも――」
そうは見えない、とロックは思う。
ロックの姿を見た時、ラウレッタ・アレクタスは動揺していた。
恐らくはロックに若かりし頃の妹の面影を見たのだろう。ロックがラウレッタに、母の血筋を感じ取ったのと同じように。
その内心を推し測れるほど接してはいないが、少なくとも険悪な相手に対する反応には見えなかった。
だが、フィービは複雑な面持ちで語る。
「アレクタス家の先代がご存命だった頃はな、どちらが跡目を継ぐかでいつも競わされていた」
「母さんと、卿夫人が?」
ロックの問いに、すぐさま首肯が返ってきた。
「そうすることでより優秀な跡継ぎを育てたかったんだそうだ。二人は姉妹で、婿を取る必要があるから余計にな。勉学でも、立ち振る舞いでも、親への孝行でも全てにおいてだ」
想像するだけでも息が詰まりそうな暮らしだ。
言葉もなくなるロックの代わりに、エベルが相槌を打つ。
「では奥様は、その競争から逃げたということでもあるのか」
「そういうことでもある」
フィービは難しい顔で答えた。
「ただ、そうやって競わされてる相手でも、ベイルは決してラウレッタを嫌ってはいなかった。恐らくラウレッタも同じだろう。でなきゃその妹の娘を探し出す為に何年も人を使う、なんて真似はしないはずだ」
母について語る父の横顔は、少し苦しそうでもある。
もしかすればフィービは、今ここで語っている内容以上の真実も知っているのかもしれない。母が逃げ出すほどの真実を。
「だから、だろうな。ラウレッタの矛先は俺に向いている」
そうしてフィービはまた溜息をつく。
「俺を憎むことで、ベイルには裏切られていないと思いたいんだろう」
「……この世には様々なきょうだいがいるものだ」
エベルが低く唸った。
彼の一番よく知るきょうだいと言えばリーナス兄妹だろうし、グイドとミカエラの仲睦まじさはロックも十分わかっている。
それと比べると伯母と母の間にあるものは、もっと複雑に絡まり合っているように感じられた。
もしかすればロックを引き取りたいという言葉も、単に跡継ぎを求めているからではないのかもしれない。
もっと深い、入り組んだ感情がそうさせようとしているのかもしれない。
「アレクタス卿夫人は、あれで納得してくれるかな」
ロックの問いかけに、エベルもフィービも頷きはしなかった。
「後悔するとまで言っていたからな……」
エベルが案じるように眉を顰める。
その言葉の意味をロックも測りかねている。
後悔とはどういうことなのだろう。アレクタス家に行かなかったことを、自分が悔やむ羽目になるとはどうしても思えない。
「何にせよ、当面は身の安全に気を配るべきだろう」
そう続けたエベルは、そこで勇気づけるように力強く微笑む。
「私にはあなたを守る用意がある。いつでも頼ってくれ」
「ありがとうございます。今は父と暮らしていますから、滅多なことはないと思いますが」
ロックは嬉しさにはにかみつつ答えた。
するとヨハンナが、またもやいいことを見つけたように表情を明るくする。
「ロック様にはその身を守る騎士が二人もいらっしゃるのですね! 素敵でございます!」
「何でも感激するな、この小娘は」
フィービがぼやいたのは聞こえなかったか聞き流したか、ともかくもその後でヨハンナは地団駄を踏んだ。
「わたくしにも狩人の力があれば、閣下やフィービ様と共に、ロック様をお守りすることができましたのに……!」
「う、うん、気持ちだけで嬉しいよ、ヨハンナ」
ロックは慌ててそう告げた。
嬉しいのはもちろん本心で――先程まで揺れ動いていた心が、この温かい食卓でようやく落ち着きを取り戻したようだ。
一人ではない幸せを噛み締めていた。
そしてそれはエベルもまた同じだったようだ。
「今日は賑やかな夕食になったな」
ふとそう零して、幸せそうに笑んでいた。
「いつかまた近いうちに、こうして皆で食卓を囲みたいものだ」
家族がいないエベルのその言葉に、ロックは心から頷いた。
「ええ、是非」
食事が済むと、ロックとフィービはマティウス邸を発つことにした。
エベルは『泊まっていけばいい』と勧めてくれたのだが、明日店を開けることを考えれば日付の変わらぬうちに帰りたい。
幸い、帝都内の主な道路には街灯の明かりが行き届いている。馬車を走らせるのに不都合はなく、エベルも快く――だが非常に残念そうに、馬車を用意してくれた。
「イニエルに送らせよう。急げば今日のうちに帰りつけるはずだ」
その言葉通り、御者のイニエルが庭でロックたちを待っていた。
二頭立ての箱馬車の用意もできている。
「今日は本当に有意義な一日だった。ありがとう、ロクシー」
別れ際、見送りに出たエベルは名残惜しそうにロックの手を取る。
「こちらこそ、ご一緒できたことを嬉しく思います」
ロックが微笑むと、エベルはその手の甲にさっと口づけを落とした。
それからフィービに聞こえぬようにか、小さな声で言い添える。
「いつか、あなたのお母上のお墓参りにも行こう。約束だ」
「は、はい……お願いいたします」
どぎまぎしてしまったのは、手の甲に残る唇の柔らかい感触のせい、だけではない。
走り出した馬車の中、ロックは窓越しに遠ざかるマティウス邸をしばらく眺めた。
夜闇の中、エベルの姿はあっという間に見えなくなり、そのことを少し切なく思う。
そして座席にもたれるように座り直せば、待ち構えていたようにフィービが口を開いた。
「閣下と旅行の相談か?」
「え!? な、何で?」
ここで狼狽すれば語るに落ちたというものだ。
だがロックはどうしようもなくうろたえたし、そんな娘を見た父は呆れたように唇を歪めた。
「ベイルの墓に行くってことはそういうことだろ」
どうやら父の耳も人狼に負けじと優れているらしい。
「りょ、旅行って言うか、別に変な意味じゃないけど……」
ロックは居たたまれなくなって、座席の上で膝を抱える。
そしてあたふたと父に水を向けた。
「別に二人きりって決まったわけでもないし! 何なら父さんも行く?」
「婚前旅行に父親同伴か? さすがにねえだろ」
「こ……そ、そういうのじゃないってば!」
「どうだかな」
フィービはにやにやした後、ロックの葡萄酒色の髪を柔らかく掻き混ぜる。
「ま、保護者としては諸手を挙げて歓迎とはいかない、って言っとくか」
「うう……だから、そういうのじゃなくて――」
これ以上の弁解は墓穴を掘るだけだ。そうとわかっていても、ロックは尚も反論しようとした。
だがその言葉を、車体の大きな揺れが遮った。
ロックとフィービの身体が、座席から跳ね上がるほどの揺れだった。
「何だ!?」
「えっ、何、今の」
二人が反応するのと同時に、馬車の天井にみし、みし、と嫌な音が響く。
箱馬車の天井は落石程度では壊れない立派な造りだったが、今はそこに何か重い物が載っているようだ。
御者のイニエルも異常を察知したのだろう。強く手綱を引いたのか、馬がいななく声と同時に、今度は車体が斜めに傾く。
「うわっ」
ロックは向かい合わせの座席の反対側まで、ぽんと放り出されそうになった。
それをすんでのところで抱き留めたフィービが、険しい目を窓に向ける。
「何があった!」
ガラス窓越しには、帝都の夜の景色が広がっている。
街灯が照らす街並みから、まだ貴族特区を抜けていないことはわかった。どこかの家の庭か、あるいは公園だろうか。蔦が絡まる石造りの門の向こう、星明かりに照らされた立派な庭園が見えた。
戸惑うロックの目の前で御者席の小窓が開き、イニエルが叫んだ。
「様子がおかしい、降りてください!」
その指示を聞き、フィービが馬車の扉を開けようと腕を伸ばす。
しかしまさに引き開けようとしたその時、馬車の窓に大きな影が映った。
ぎらりと光る金色の目、尖った耳、牙の生え揃った大きな口、そして黒い毛むくじゃらの――。
「……エベル?」
窓を覗く人狼の顔に、ロックは思わずその名を呼ぶ。
途端に人狼は一歩下がり、次の瞬間、丸太のような腕を振り上げるのが見えた。
「危ない!」
フィービがロックをぐいと引き寄せた時、馬車は大きな衝撃を食らい、音を立てて横倒しになる。
車内の二人は揺れに翻弄され、先程まで天井だった場所に叩きつけられた。顔を上げる間もなく扉がばりばりと剥がれ、大柄な影が倒れた二人に落ちる。
「な……どういうことだ?」
呻くフィービをよそに、人狼は無言で馬車の中を覗き込む。
そして金色の目でロックを捉えると、両腕でそっと抱き上げてくれた。
「あ、ありがとう……ございます」
ロックは呆然とお礼を言った。
この瞬間まで、目の前の人狼をエベルだと思っていた。
馬車に何が起きたのかはわからないが、人狼になった彼が駆けつけ、助けてくれたのだろうと思った。
しかし人狼がロックを横抱きにすると、フィービには構わずに地面を蹴る。
蔦が絡まる石の門に飛び乗り、用心深く馬車を見下ろした。
「え……?」
何かがおかしい、ロックはそう思う。
エベルなら自分だけではなくフィービも助けてくれるだろうし、イニエルや馬が無事かどうかも必ず確かめるはずだ。
街灯の丸い光がかすめる路上に、横転し壊れた馬車が見える。すんでのところで馬と切り離されたらしく、二頭の白馬は無事に立っている。だがイニエルは地面に倒れ伏しているし、フィービはようやく馬車から這い出してきたところだ。
急に湧き起こる疑念に、ロックは恐る恐る人狼を見上げた。
残念ながら、人狼の貌に区別はつかない。
これまでに見たことがあるのもエベルの他は、グイド・リーナスの姿だけだ。二人の貌に違いはほとんど見受けられず、もともとの体格の差か、グイドの方が少し大柄に見えただけだった。
そして今、目の前にいる人狼は――。
「違う……」
仕立て屋のロックは、人狼のエベルの採寸をしたことがある。
だから気づいた。自分を抱えている人狼はエベルではない。彼よりも肩幅が狭く、背丈もほんの少しだが小さい。
つまり――。
「父さん!」
ロックは悲鳴のように叫んだ。
「違う! 『彼』じゃない!」
フィービが上げた面に険しい表情を過ぎらせる。
「今行く、待ってろ!」
だが頼もしい言葉とほぼ同時に、人狼は石の門を捨て去り、庭園に立つ木々の梢に飛び乗った。
「離せ! 離せったら!」
正体不明の人狼から逃げ出そうと、ロックは腕の中でもがく。
だが力の限りに暴れても、人狼はびくともせずロックを抱えている。大木とは言え不安定な梢の上でも、その身体はぴくりとも揺れず直立している。
「あまり暴れないでもらえるか」
そして、聞き覚えのない声が言った。
「君を安全に移送したいのだ。頼む」
牙の生えた口から発せられたのは、若くない男の声だ。
「あんた誰だ! 僕をどうする気だ!」
ロックの問いには答えず、人狼はもう一度跳躍した。
次は庭園にある、水の止まった噴水の上へ。
それから別の木の枝へ。
更には遠くに見えていた木造りのあずまやの屋根へ、目にも留まらぬ速さで飛び移る。
「父さん、父さんっ!」
既に見えなくなった父へ、ロックは声を嗄らして呼びかけた。
夜の庭園の景色が遠ざかる。自分がどこかへ運ばれて――攫われているのがわかる。逃げ出すこともできないまま。
「ロクシー! くそっ、娘を返せぇぇぇぇ!」
フィービの怒声は、絶望的なほど遠くから響いてきた。