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狩るものと狩られるもの(6)

 隣室で凍りつくロックをよそに、ラウレッタは続ける。
「お約束もないのにこうしてお時間を作ってくださったこと、とても嬉しく存じます」
 口調はどこか淡々としていて、少なくとも嬉しそうではなかった。
 それをエベルも察したか、静かに応じる。
「堅苦しい挨拶はやめましょう、卿夫人」
 覗き窓越しに見える彼から緊張の色は窺えない。
「ご用向きを伺いましょうか。こうして突然いらしたからには、よほどのご用件なのでは?」
 皮肉まじりに促すと、相手の出方を見るように金色の目を細めた。
 ラウレッタも小さく顎を引く。
「承知いたしました。それでは――」
 そして、にこりともせずに言った。
「閣下が預かっておいでだという葡萄酒色の髪をした娘について、こちらに引き渡していただきたく参上いたしました」

 やはりか、とロックは息を呑む。
 すぐ隣ではフィービが舌打ちをするのが聞こえた。

 一方、エベルの表情はまるで変わらない。
「引き渡す、とは?」
 挑発的に聞き返し、ラウレッタを見据える。
 彼女は至って無機質に答えた。
「その娘、名はロクシーというそうですね。それは間違いなく、かつて出奔したわたくしの妹ベイリットの娘。とある小さな山村で暮らしていたことまでは掴んでいたのですが、妹の死後はぱったりと足取りが途絶え、人を使って探させていたところでございました」
 顔立ちと声こそ母ベイルに似ているが、雰囲気はまるで違っている。
 表情にも話し方にも一切の熱が感じられないのが、ロックには不気味に思えた。
 何よりもフィービの懸念通り、知らないうちに嗅ぎ回られていたことにぞっとする。
「なぜ閣下の御元へ身を寄せていたかは存じませんが、妹の子である以上、所縁あるアレクタス家で引き取る権利がございます」
 ラウレッタは感情を込めずにそう主張した。
「権利とはおかしなことを仰る」
 エベルはそれをせせら笑った。
「確かにロクシーはここにおります。素性についてもご存じのようですから認めておきましょう。しかし――」
 そこでもったいつけるように言葉を区切り、唇を歪める。
「養育したわけでもないあなたがたに、どんな権利がおありだと?」
「わたくしとあの子には、確かな血の繋がりがございます」
 ラウレッタは言葉の割に、血が通っていないような物言いをした。
「それこそが何よりの権利であり義務であると存じます」
「そんなものが法で認められるとお思いですか、卿夫人」
「法の話はしておりません。言うなれば倫理の話でございます」
 エベルの反論にも眉一つ動かさず、更に続ける。
「恥ずかしながら我が妹は、その身持ちの悪さゆえに不幸な死に方をいたしました。わたくしはその死すら看取ることができませんでしたが、せめて姪には妹にしてやれなかったことを尽くしてやろうと、ずっと行方を探しておりました。妹の分まであの子を幸せにする。それは至極真っ当な倫理であると、わたくしは存じます」
 淡々とした言葉から、その胸中はまるで読み取れない。

 ただ今の発言は、確実にロックとフィービを怒らせた。
「あの女……!」
 フィービが歯噛みするのがロックの耳にも聞こえる。
 ロックも母を侮辱されて腹が立たないはずがない。母は身持ちが悪いどころか、一途にたった一人だけを愛し続けた。その死を看取ったロックには痛いほどわかっている。

 そしてエベルの方も、ラウレッタの言い分には気を悪くしたようだ。
「彼女の母君を悪く言うのはやめていただきたい」
 顔を顰めて告げたからか、すぐに謝罪が返ってきた。
「失礼いたしました、閣下」
 もちろんその詫びさえ冷たく無感情だった。
「ですがわたくしどもの主張を、閣下にはご理解いただきたかったのです。あの子は不幸な子です。血の繋がりがある者が幸せにしてやりたいと願う、それはおかしなことではございませんでしょう」
 どうやら彼女はロックの人生を不幸なものだと決めつけているようだ。
 当然そんなことはなく、エベルも真っ向から言い返す。
「私の知る限り、ロクシーは決して不幸ではありません」
 それを聞くロックも、同意を示すように目をつむった。
 少なくとも今の自分を不幸せだとは思わない。それどころか、とても幸福だ。
「彼女には私がいる。そしてもっと多くの、彼女を案じる者がいる」
 エベルが言うと、傍らでヨハンナがうんうんと頷くのが見えた。
「私が見ている限り、彼女は今のままでも十分に幸せそうです。それはあなたの妹君が、彼女を立派に育て上げたからでしょう」
「……そんなはずは」
 そこでふいに、ラウレッタの眉がぴくりと動く。
 表情自体に大きな変化はないが、何か思うところがあったのかもしれない。
「それに、彼女にはまだ父君がいる」
 そしてエベルがそう続けると、今度は肩が震えるのがわかった。
「父、ですって? まさかあの男が……」
「彼をご存じなのですか、卿夫人」
 問われてもラウレッタは答えない。ただ膝の上で、両手が硬く握り締められた。
 エベルはそれをちらりと見て、頃合いと捉えたようだ。
「では彼女を呼びましょうか。そして彼女自身の口から、その意思を聞くとよろしいでしょう」
 語気を強めて告げると、廊下に向かって声をかける。
「ルドヴィクス、彼女をここへ」

 もちろん、ルドヴィクスがいるのは廊下ではなく隣室だ。
「参りましょうか、ロクシー様」
 小声で促され、ロックは黙って後に続いた。
 一度だけ振り返ると、覗き窓の前で待つフィービが目で頷くのが見える。
 父の言いたいことはわかっている。ロックはそれに笑って応じ、執事と共に部屋を出た。

 ルドヴィクスが開けてくれた扉をくぐり、ロックは応接間に立ち入った。
 まず目に入ったのは、こちらを一心に見つめているエベルの姿だ。目が合うと彼は優しく瞳を微笑ませた。声援を送るように。
 傍らのヨハンナが姿勢を正す。ほんの少し、心配そうにも見える。
 だからロックは胸を張り、ラウレッタの前へ進み出た。

 間近で見ると、ラウレッタ・アレクタスは一層母によく似ていた。
 葡萄酒色の髪と灰色の瞳は母とそっくり同じだ。思い出の中の母を十年ほど老けさせて、そこから快活さや温かい微笑を取り去ったような顔をしていた。
 もっともラウレッタの方も、ロックを目の当たりにした時だけは人間らしい感情を見せた。その顔に狼狽と喜びと、心なしか恐れの色も滲ませて、かすれたような声を発する。
「本当に……ベイリットにそっくり……!」
 その表情と母の名前に、全く動揺しなかったと言えば嘘になる。
 だが情に流されかけたのも一瞬だけだ。ロックはすぐに立ち直り、敢然と告げた。
「はじめまして。ロクシー・フロリアと申します」
 口にした名を、ラウレッタも当然知っていたはずだ。わずかに眉を顰めた。
「フロリアの姓は、ベイリットが名乗れと言ったの?」
「はい。母もそう名乗っておりました」
「ではこれからはアレクタスを名乗りなさい。あなたにはその権利があるの」
 ロックに対し、伯母は命じるように言った。
 だがそれを聞き入れる気は、ロックにはさらさらない。
「お断りいたします」
 迷わずに拒絶した。

 ラウレッタはその時、あからさまに顔を顰めた。
 気分を害されたようだったし、ロックの拒絶を予想していないかったようでもある。

 ただそれでも激高することはなく、心外そうにかぶりを振った。
「どうして……。一人ぼっちになったあなたは、ようやく本当の家と家族に巡り会ったのよ? わたくしたちにはあなたを温かく迎え入れる用意ができているというのに」
「伯爵閣下が先程仰った通り、今は父がおりますから」
 ロックがフィービについて言及すれば、いよいよ不快さを露わにしたものの。
「あの男を父と呼んではなりません。あなたの母を誑かした、腐った傭兵風情ではありませんか」
 そしてロックの方も、父を侮辱されれば不快極まりない。
「父はそんな人ではありません!」
 思わず大声で怒鳴って、傍らのヨハンナを小さく跳び上がらせた。
 それでもエベルは全く動じず、微かに笑んでロックを見ている。
 ロックも彼に頷き、更に続けた。
「父は母を愛し守ろうとした、偉大でとても強い人です。今は僕のことだって――」
「『僕』?」
 ラウレッタが聞き咎める。
「ロクシー、あなたは女の子でしょう。どうしてそんな口の利き方を」
「父がそうしろと教えてくれたんです」
 貧民街でのロックは、男装をする道化の仕立て屋だ。
 それは今日までロックを守り続けてくれた――母が捨ててきたものからも、確かに。
「僕はこの帝都で、男のふりをして暮らしてきました。父が勧めてくれたことです。僕の身を守り、素性を隠せるようにと」
 恐らくラウレッタも、ここでフィービの意図に気づいたのだろう。
 憤懣やる方ないというように、初めて荒々しい息をついた。
「あの男、わたくしから妹だけでなく姪までも奪うつもりですか。どこまで厚顔な……!」
 ロックはその言葉にも反論したかったが、
「ロクシー」
 エベルが声を落とし、促すように名を呼んだのでやめておく。

 ここでラウレッタと言い争っても埒が明かない。
 それより、答えを口にしてしまう方が早いだろう。

「僕はあなたの元へは参りません」
 ロックは胸に秘めていた答えを伯母に突きつけた。
「僕には、傍で守ってくれる父がおります」
 それからちらりとエベルを見て、彼が笑うのを見て語を継ぐ。
「マティウス伯爵閣下も……僕のことをとても気にかけてくださいます」
 エベルと共に、視界の隅でヨハンナが頷いていた。
 一人ではない。ロックはそう強く実感している。
「それにもっと多くの人たちに囲まれて、今は本当に幸福なんです」
 母を亡くした後、何もかも失ったような心許なさがあった。
 だがそれも今はなく、ロックは満ち足りた幸福の中にある。
「ですから僕はどこへ行く気もございません。アレクタス家を名乗るつもりもございません。これが僕の答えです、卿夫人」
 そこまで告げると唇を結び、相手の出方を待った。

 ラウレッタ・アレクタスはしばらくの間、冷徹な瞳でロックを見ていた。
 しかしやがて大きく息をつき、それだけで内心に整理をつけたようだ。
「あなたがフレデリクス・ベリックに毒されていることはわかりました」
 ロックの父の本名を口にした後、感情のこもらない声で言った。
「今日の選択、きっと後悔することになりますよ、ロクシー」
「どういう意味ですか?」
 とっさに聞き返したロックに、ラウレッタは答えなかった。
 無表情のまま席を立ち、エベルに向かって頭を下げる。
「本日はお騒がせいたしました、閣下。お時間を作ってくださったことに感謝いたします」
「ご納得いただけたのであれば何よりです」
 エベルはそう言ったが、それに対するラウレッタの返事はやはりなかった。
「ルドヴィクス、アレクタス卿夫人がお帰りだ」
 その声に応じて応接間の扉が開き、ルドヴィクスが姿を見せる。
 執事が一礼する前を、ラウレッタは黙って通り過ぎる。やはり一切の感情が抜け落ちた表情で部屋の外へ出て、それから振り返り――。
 灰色の瞳が一瞬だけロックを捉えた。
 母とはまるで違う、熱のないその瞳は、まるで獲物を見つけた狩人のように光っている。
「……!」
 不覚にもロックは身を竦ませ、その間にラウレッタは廊下へと消えた。

 アレクタス家の馬車が走り去るのを窓から確かめた後、エベルは低く唸った。
「どうにも、底知れないご婦人だ」
「ええ……」
 ロックは頷いた。
 底知れないという形容がまさにしっくり来る。母と血を分けた姉妹だとは到底思えない、あの感情の欠落した表情。それでいて顔立ちは母に似ているから、今更ながら不快感が込み上げてくる。
 それでもロックは答えを出した。ラウレッタはああ言ったが、悔やむことはないと思う。
 ない、はずだ。
「……これで、全て済んだと思いたいです」
 そう呟いたロックは、しかし不気味な悪寒を覚えていた。
 ラウレッタが最後に見せたあの眼差しが、自分を狩られる者のように思わせて仕方がなかった。
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