menu

新しい扉の向こう(4)

 新しい『フロリア衣料品店』は、商業地区の喧騒を外れた閑静な一角に建っている。
 周囲には画廊や宝石店、あるいは有名な仕立てやといった高級店が建ち並んでおり、物件を見に来た当初、通りを一瞥したロックは内心気後れしたほどだった。この立地を推薦したのは第四皇子ヴァレッドで、わざわざロックに手紙をくれて、物件の売り主との仲介までやってくれたようだ。
 結果として、ロックは拍子抜けするほどの安価で美しい石造りの店舗を構えることができた。

「でも、こんな立地じゃ分不相応じゃないでしょうか」
 新しい店を見上げるロックの懸念を、訪ねてきたエベルは明るく笑い飛ばす。
「分不相応などと、とんでもない話だ。あなたは『皇女殿下の仕立て屋』だろう?」
 それでロックも思わず笑った。
「その肩書きの重さを、日に日に実感している折でしたよ」
 商業地区に店を出すと決まったとたん、『フロリア衣料品店』は帝都中の注目を集めてしまったようだ。ロックが店に通って開店の準備に追われている間、何人もの見物人がやってきてはどんな店が開くのかと興味深げに覗いていった。そのうちの三割ほどはいつ開くのかと直接尋ねてきたし、身なりのいい使用人風の男が急にやってきて、『開店の折には名だたる貴族に招待の手紙を送るべきでしょう』などと助言を寄越したりもした。
 その話をエベルに打ち明けると、彼は得心した様子で教えてくれた。
「あなたに招かれる栄誉だ、誰もが欲しがって当然だとも」
「どなたかを招待したほうがいいんでしょうか?」
 ロックは上流階級の作法など知っているはずもない。だがそこは伯爵閣下、エベルは造作もなく答える。
「着道楽で評判の貴族たちが何人かいる。後で教えてあげるから、彼らに文を書くといい。喜び勇んで店にも駆けつけるだろうし、評判を広めてもくれるだろう」
「ありがとうございます、助かります」
 そういった作法も今後は学んでいく必要があるだろうが、幸いにしてロックの傍らにはエベルがいる。相談事は彼に持ちかけるのが一番いい。

 実を言えば店内の調度についても、ロックはエベルに意見を求めていた。
 店の床に敷いた毛織物の絨毯は彼の見立てで購入したものだし、長椅子や応接卓、店を照らす燭台や花を生ける花瓶に至るまで、エベルは事細かに助言をくれ、共に選んでくれた。ロックもフィービも審美眼がないわけではないが、親子そろって安物に飛びついてしまう癖があるため、客観的な目を持つ第三者の意見は実に有益なものとなった。
「どうぞ、お入りください」
 ロックが店の扉を開けると、聴き慣れたドアベルの音が響いた。
 それに目を細めた後、エベルが扉をくぐる。
「あなたに招かれる最初の客人という栄誉は、私がいただいたということだな」
 どこか誇らしげな彼に、ロックはくすくす笑った。
「ええ、どうぞあちこちで自慢してください」
 店内に立ち入ったエベルは、ぐるりと辺りを眺め回す。
 すでに明日の開店へ向け、棚には商品となる衣服が畳まれ並べられていたし、木製の人台も仕立てたばかりの一張羅を纏い佇んでいた。毛織物の絨毯は古い石造りの床に元から敷かれていたように馴染んでいたし、長椅子や卓や燭台はよく磨かれてぴかぴかだ。花瓶には赤紫色の松明花が活けられていて、室内に瑞々しい香りを漂わせている。
「いい香りだ」
 鼻のいいエベルは真っ先に言って、それから満足そうに息をつく。
「開店の準備もすっかり整ったようだ。いよいよだな、ロクシー」
「あなたのお蔭です、エベル」
 感謝を述べたロックに、エベルがちらりと目を向けた。
 今日のロックはいつも店に立つ時と同じ服装をしていた。白いシャツに黒い仕事用のベスト、それに同じ生地の黒いスラックス。今まで着ていたものはところどころ擦り切れていたから繕ったり直したりはしたが、それ以外に変わったところはない。
 視線の意味に気づいたロックは照れて微笑んだ。
「考えたんですけど、ドレスで店に立つのはやっぱり僕の性分じゃない気がして」
「確かに、あなたにはその服がとてもよく似合っている」
 エベルも異論はないようだったが、その後でいたずらっぽく言い添える。
「性別不詳の仕立て屋、という噂はそのまま継続するかもしれないがな」
「さすがにこれからは、男のふりをするつもりはないですよ」
 ロックは静かにかぶりを振った。
「今までは身の安全のためにそうしてきましたが、もうその必要もないですから。ただ僕は仕立て屋として、まず僕自身が着たい服を着るつもりです」
 考えた末の結論を語ると、エベルは今一度ロックの服装を鑑賞するようにじっと眺めた。
「思えば、あなたと初めて会った時もその服を着ていたな」
「ええ、あなたは服を着ていらっしゃらなかったですけど」
「代わりに毛皮を着ていた」
「そうでしたね。真っ黒でふかふかで、耳が尖っていて……驚きましたよ、本当に」
 出会った時のことを思い出し、ふたりは互いに笑いあう。
 それから、ロックはエベルに長椅子を勧めた。
「座ってください。今日は、お話ししたいことがあるんです」

 店の片隅には応接のための長椅子が二脚、卓を挟んで向かい合わせに置かれている。
 その一方にエベルが腰を下ろすのを見届けた後、ロックも別の長椅子に座った。もっとも座ってしまってからはたと気づいて腰を浮かせる。
「あ、お茶をお入れしましょうか」
「あなたが飲みたいなら」
 即答するエベルは落ち着いたものだが、あいにくロックはそうでもなかった。予想外の反応に一瞬頭が混乱しかけ、目を泳がせてしまう。
「ええと……飲みたいというわけでは……」
「ではお構いなく。今から湯を沸かすのも時間がかかるだろう」
 エベルはそう言って、少し気づかわしげに微笑んだ。
「私に話があると言っていたな。それを聞いてからにしよう」
「え、ええ。そうですね」
 それでロックは座り直し、ふうと大きく息をつく。
 先程から動悸が激しい。だがそわそわするロックをよそに、エベルは泰然としたものだ。初めて足を踏み入れた店の中でも不慣れな様子は全くなく、緊張する店主に向かって穏やかに笑いかけている。金色の瞳から向けられる眼差しは、春の陽射しのように柔らかい。

 人狼の呪いにかけられた者だけが持つその瞳を、出会ったばかりの頃は直視することができなかった。
 いつからだっただろう。
 彼の眼差しに言いようのない安心感、頼もしさを覚えるようになったのは。

 いくらか勇気づけられた気分になり、ロックは胸を張る。
「あ……あの、お話ししたいことというのはですね……」
 ともすれば震えそうになる声を呼吸と共に押し出して、きっぱりと続けた。
「エベル、あなたに改めて感謝を伝えたかったんです」
 すると彼は微笑んだまま、小さく首をかしげる。
「店の内装の話か? それなら私が好きでやったこと、感謝など水臭い」
「いいえ! それもありますけど、他にもたくさんあります」
 ロックはあわてて語を継いだ。
「もっと込み入った――ずっと前にさかのぼる話なんです」
「ずっと前に? どういうことだ」
「僕は……あなたに会うまで、自分で考えて決めることができなかった。子供だったんです」
 母を亡くした時、ロックは十六歳だった。
 生まれ育った山村の外すら知らない、本当に幼い娘だった。
「この世を去る直前、母が父の居場所を教えてくれたから帝都に来ました。帝都で暮らすフィービが勧めてくれて、お金をくれたから店を借りて仕立て屋をはじめました。今になって思えば母の庇護から父の庇護に移ったというだけでしたから、自分の意思で決めたことなんて全然なくて」
 男装をすることだってそうだ。フィービがそうするべきだと言って、ロックも別段嫌ではなかったから従った。彼女の言うことが正しいと思ったのも事実だが、考えることを放棄していた幼さも少なからずあった。
「あなたと出会った頃だってそうでしたよね」
 そこでロックは思い出し、はにかんだ。
「エベルが無闇に口説いてくるのに、僕は流されてばかりでした。あなたに関わっていいのか、どうしようかって悩んでいたのに、あなたは考える隙も与えてくれなかった」
 彼の口説き方は熱烈だった。断ろうとしながらも押し切られて、フィービに呆れられたことも何度かあったはずだ。
 もっとも当のエベルは悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「あなたが戸惑っているようだから、押し切ろうと思っていた」
「色恋は押してばかりでは上手くいかぬものですよ」
 自分が恋愛論を説く日が来るとは思ってもみなかった。ロックの言説にエベルは破顔する。
「全くそのとおりだ。情熱をぶつけるばかりが愛ではないと、私はあなたに教わった」
 その口ぶりの落ち着きよう、温和さから、ロックは彼の変化も感じ取っていた。
 ロックがこれまでの日々から変わったように、エベルもまた少しずつ変わっていたのかもしれない。呪いをかけられ父を失った青年伯爵が、今は目の前で幸福そうに笑っている。
「それなら僕はあなたに、自分で考えて決めることの大切さを教わりました」
 ロックは思いを込めて続ける。
「皇女殿下――ユリアのために花嫁衣裳を仕立てることも、市民権を得て帝都市内に店を出すことも、少し前の僕なら夢見るばかりで挑戦しようともしなかったでしょう。そんな資格もないと思っていましたし、貧民街での暮らしにも満足していましたから。だけどあなたに出会って、僕はずいぶんと欲深くなりました」
 欲しいものがたくさんできた。
 エベルの傍にいたかった。隣に立ちたかった。身分など気にしたこともなかったが、彼にふさわしい存在に、自らの力でなりたいと願った。
「あなたと並び立ちたいと思ったから、僕は今、ここにいるんです」
 ロックは言って、照れながらエベルを見つめる。
「ですから感謝を込めて、言います。愛してます、エベル」
 視線を真っ向から受け止めた彼が、目の前でうなづいた。
「私もだ、ロクシー」
 そう答えが返ってくることはもちろん知っていたから、ロックはさほどうろたえなかった。
 それよりも次の言葉を口にすることのほうがよほど落ち着かない気分だった。
 長椅子から身を乗り出し、言った。
「では……僕と、結婚してくれませんか?」

 さしものエベルもこれは予期せぬ言葉だったようだ。
 金色の瞳を大きく瞠り、それから戸惑いと照れ笑いを含んだ息をつく。
「……あなたが求婚してくれるとは思わなかったな」
 端整な彼の顔が、今はうれしそうにゆるんでいる。口元を引き締めようと試みているのが唇の動きでわかったが、あいにく成功はしなかったようだ。
「あなたの新生活が落ち着いたら、折を見て私から告げようと思っていたのに」
「いえ、僕から言うべきだったんです。ここまで来られたのは、他でもないあなたのお蔭なんですから」
 ロックは言い切って、それから恥ずかしそうに言い添える。
「それに……さっき言ったでしょう、僕はずいぶん欲深くなったんです。欲しいものを、自分の力で手に入れたいと思ったんです」
「欲しいもの、か」
 噛み締めるようにその言葉を繰り返した後、エベルは急に立ち上がった。
 かと思うと早足で近づいてきて、ロックが座る長椅子に並んで腰を下ろす。向かい合わせの距離からいきなり肩が触れ合う近さまで詰められ、うろたえる間もなく手を取られた。
 縫いだこの目立つ、ロックの細くて小さな手に、エベルはそっと口づける。指先から関節、手の甲を辿って手首までいとおしげに唇を這わせ、ささやくように告げてきた。
「それなら私はあなたのものだ。喜んであなたの夫になろう」
「エベル……ありがとうございます」
 唇の柔らかさにくすぐったさを覚え、ロックは微かにだけ笑った。
 視線を上げてその表情を見たエベルが、捕まえていた手をぐっと引き寄せる。今度は顔が近づいて、ロックが声を上げるより早く唇が重なった。
 触れるだけの口づけの後、唇を離せば至近距離で目が合う。
「今のは、ちょっと押し切りましたよね?」
「そんなことはない。あくまで雰囲気に従っただけだ」
「そうかなあ……なんか不意を突かれたなって感じでしたよ」
「私が本気で情熱をぶつけたらこんなものでは済まない」
 じゃれるように言いあうふたりは、その後で揃ってはにかみ、そして幸せな気分で笑った。
 お互いに欲しいものを手に入れ、これ以上は望むものなどないと思っていた。
top