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新しい扉の向こう(3)

 貧民街にある『フロリア衣料品店』の、閉店の日が訪れた。

 その日、ロックとフィービはいつも以上に念入りに店の清掃をした。
 棚からは既に一切の商品が取り除かれ、商品を飾る人台や帽子掛けも運び出されていたし、姿見も金庫も商売道具一式まで荷造りを終えてしまっている。
 残っているのは陽が射しこむ窓と空っぽになった棚、それにきれいに磨かれたカウンターくらいのものだ。
 天板が夕陽を跳ね返すカウンターに頬杖をつき、ロックはがらんとした店内を眺めた。
「うちの店、案外広かったんだね」
「物があるとわからないものね」
 フィービも驚いたように肩をすくめる。
 それから娘をちらりと見て、労わる口調で言った。
「感傷的な気分かしら?」
「まあ……ほんのちょっとね」
 数年とは言え、その間ずっと苦楽を共にしてきた店だ。ましてロックにとってこの店は、母を亡くしてからの人生の全てが詰まった場所と言えた。
 ここで働き、稼ぐことを学んだ。生きていくために糧を得ることの難しさも、楽しさも、目まぐるしく過ぎていく日々の中で存分に味わってきた。そしてこの店で、人狼とも出会った。
 思い出の詰まった店を手放すのだから感傷的にもなる。だが幸いと言うべきか、店にはすぐに次の買い手がついた。クリスターとニーシャがちゃんとした店を構えたいと申し出て、ここをそっくり譲ることにしたのだ。
「そういえばここって曰くつき物件なんだよね」
「って話だったわねえ。前の住人は絵描きだったって聞いたけど」
 世にもおぞましい地獄の絵を残して行方知れずになったその画家は、結局ロックが店を営んでいる間に戻ってくることはなかった。だがその曰くがロックの商売に響くことは一切なかったし、次の店主にとっても同じことだろう。件の画家だって、単に市民権を得て帝都の壁の内側に移り住んだだけかもしれない。
「僕らも数年したら怪談みたいになってたりしてね」
「そうかもねえ」
 冗談めかしたロックの言葉に、フィービはむしろもっともらしく応じる。
「今までずっと男の仕立て屋だって思われてたんですもの。今のあんたとこれからのあんたが同一人物だって思わない人もいるかもね」
「これからだって、僕はそんなに変わらないつもりだけどな」
 ロックはそう思っている。少なくとも次の新しい店で、女物のドレスを着て仕事をする気にはまだなれない。きっと袖や裾が邪魔になるだろうし、ほんの少し恥ずかしいからでもある。
「あら」
 と、フィービはそこで微笑んだ。
「今日だって、いつもとずいぶん違う装いしてるじゃない?」

 その言葉どおり、今日のロックは女物のドレスを着ていた。
 上品な緑色の生地のドレスは『今後はこういうものも要るでしょう』とのフィービの勧めに従い、最近仕立てたものだった。飾り気はないが、ふくらんだ袖と生地をふんだんに使ったスカートは若い娘向けの愛らしいつくりになっている。
 こういう服を着ることにまだ照れがあるロックだったが、今日はどうしても女の格好をしておく必要があった。

「変じゃない、かな?」
 恐る恐る尋ねたロックに、ドレスは着慣れている父が相好を崩して答える。
「変どころか! とってもよく似合ってるわ、素敵よ」
「ありがとう。やっぱり着慣れないけど」
「慣れなんて時間かけなきゃ身に着かないわよ。慣れたいなら、まずは場数を踏んだらどう?」
 父の助言はもっともだと思った。だが場数を踏めるほど今後着たいと思えるかどうか。むしろ必要に駆られて着る機会が増えるのだとすれば、普段はやはり着慣れたシャツとスラックスでいたいと思ってしまうかもしれない。
 ロックだって着たい服を着る。それはこの先もずっと変わらないだろう。
「とりあえず、今日がその場数になったらいいな」
 そう言って、ロックはカウンターから身を起こす。
 この後、店に鍵をかけたらその鍵をクリスターに引き渡す予定があった。彼はジャスティアのパン屋で待っているそうだ。ついでにジャスティアとカルガスにも挨拶をするつもりだった。
 パン屋の夫婦は未だにロックのことを貧弱な男だと思っている。この格好をしていけば、きっと驚くに違いなかった。
「ぼちぼち行こうか、父さん」
「そうね。あのふたり、どんな顔するか楽しみよ」
「僕はちょっと緊張してるよ……」
 親子はおしゃべりをしながら店を出る。
 ドアを閉めた時にドアベルが耳に馴染んだ音を立て、それでしまい忘れていたことに気づいた。急いでそれも外すロックに、フィービは怪訝な顔をする。
「ドアベルも持って行くの?」
「うん。気に入ってるんだ、この音」
 うれしい来客がある時の音だ。次の店でもぜひ使いたいと思った。

 ロックとフィービがパン屋へ辿り着くと、食堂にはクリスターとニーシャの姿があった。
 ふたりはこちらに気づき、揃って物珍しそうな顔をする。
「なんだ、ロック。珍しい格好してるな」
 目を丸くするクリスターに、ロックは鍵を渡しながら答えた。
「あれこれ説明するより、目で見てもらうほうが手っ取り早いからさ」
「ってことは、ジャスティアたちに言うんだね」
 ニーシャが問いかけてたので、首肯する。
「ああ。最後まで秘密っていうのも失礼かなって」
 パン屋の夫婦には貧民街にいる間、ずっと世話になっていた。身を守るための嘘に罪悪感はさほどなかったが、ふたりには打ち明けておきたかった。
「ジャスティア! ロックたちが来たよ!」
 声を張り上げたニーシャに反応して、店の奥からジャスティアがひょいと顔を覗かせる。
「おや、来たのかい。今日で最後なんだったね」
 何気ない調子で言った彼女は食堂のほうへ歩み出てきて、ロックに気づいて足を止める。
 たちまち不審そうに眉をひそめた。
「あれ……ロック、まさかあんたもフィービの真似を始めたの?」
「女装じゃないよ」
 その反応は予想できていたから、ロックはげらげら笑った。
 それを制するようにフィービが頭をぽんと叩く。
「笑ってないで、ちゃんと説明なさい。ジャスティアもカルガスも戸惑ってるじゃないの」
 見れば、厨房から顔を覗かせるカルガスもロックのいでたちに気づいたようだ。訝しそうにしているのが表情から窺える。
 ロックは笑うのをやめ、それでも少しだけはにかんで打ち明けた。
「ずっと言ってなかったけど、僕、実は女の子だったんだ」
「えっ!?」
 素っ頓狂な驚きの声が、ジャスティアの口から上がった。

 彼女はその目をこれ以上開かないほど大きく見開き、女物のドレスに身を包んだロックをつぶさに観察し始めた。
 痩せた身体に女の服は特に違和感もなく馴染んでいたが、葡萄酒色の髪は短いままなのでかえってわかりづらかっただろう。それでも今日のためにフィービが化粧を教えてくれたから、素顔のままよりは説得力があったはずだ。
 とは言えずっと信じてきた事実がひっくり返された時、素早く立ち直って受け止められる人間はそうそういない。

 ジャスティアも当初は受け止めきれぬ様子で、説明を求めるように視線をクリスターたちへ向けた。
「俺も最初知った時はびっくりしたよ。ロック・フロリアと言ったら男だと思ってたからな」
 クリスターが口を開き、それにニーシャが笑顔で続く。
「あたしは最初からわかってたけどね! ロックは女の子の手をしてたもん」
「はあ……」
 そこまで言われて、ジャスティアはようやく現実を受け止めようとしたらしい。飛び出してきたカルガスと、いつぞやのように頬をつねりあってから顔をしかめてみせる。
「どうやら本当らしいな、ジャスティア」
「みたいねえ……」
 その後、我に返った様子のジャスティアがまくし立ててきた。
「あんたが女の子? いやいや、まさか……そりゃ男にしちゃ細っこいし、声も高いし、浮いた話のひとつもないとは思ってたよ。でもそういう子もいるんだって考えてたからねえ……」
「黙っててごめん、ふたりとも」
 ロックはジャスティアとカルガスに詫び、隣に立つフィービを指差した。
「ついでに言うとさ、フィービは僕の――実の父さんなんだ」
「ええっ!?」
 ジャスティアはもう一度素っ頓狂な声を上げ、それから父と子の顔をしげしげと見比べる。
 先程と比べればいくらかは腑に落ちた様子にも見えたが、それでも驚き疲れたのだろう。長い溜息をついた。
「そりゃ、よく似たこと言うなって思ったことはあったけど……まあ、こっちは納得もあるけどね。
言われてみたら顔はともかく目の色が一緒じゃないの」
「顔は母親似の美人に育ったのよ」
 とはフィービの弁だ。
 ロックには異論もあったが、それを口にする暇はなかった。全てを理解したジャスティアは感極まった様子でロックに歩み寄り、そしてきつく抱き締めてくれた。
「苦労したんだろうねえ……男のふりでもしないとここじゃ生きられないって思ったんだろ?」
 男装の経緯は話す必要もなかったようだ。ロックは息苦しさを覚えつつ、笑って応じる。
「でもお蔭で、今日まで生き延びてこられたよ。父さんと、それからもちろんジャスティアにカルガスと、みんなに感謝してる」
「俺は仲間外れかよ!」
 クリスターがむくれたので、一応付け足しておく。
「うん、クリスターとニーシャもね」
 この貧民街でロックは大勢の人々と縁を結んできた。ここを離れることになれば彼らと顔を合わせる機会はぐっと減ってしまうことだろう。だがそれでも、この縁が切れることはないとロックは思っている。

 貧民街を離れることを改めて報告すると、ジャスティアは涙を拭いながら微笑んだ。
「ついにこの日が来るとはね。向こうでもがんばるんだよ」
「ありがとう。時々はパンを食べにくるよ」
 帝都市民になったとしても、ロックは貧民街を訪ねてくるつもりでいた。ジャスティアの店の名物ジャガイモパンの味は忘れがたいし、クリスターたちの商売の先行きも気になるところだ。贔屓にしてきた仕入先もいるし、なんだかんだで遊びに来ることはあるはずだ。
 だがロックの言葉に、ジャスティアは心配そうにしていた。
「あんた、向こうでも商売するんでしょ? あんまりこっちに来てたら変な噂が立たない?」
「別に平気だよ。伯爵閣下だって頻繁に来てるくらいだし」
 ロックがエベルの話題を出すと、彼女ははっとしたようだ。早口になって言った。
「そうだ、閣下! あんたが女だってことは、閣下とご結婚するんじゃないの?」
「え!? な、なんで!?」
 今度はロックが素っ頓狂な声を上げる番だった。
 フィービはにやにやしながら娘の赤くなった顔を覗き込む。
「事実じゃないの。正直に話しときなさいよ」
「いや、そうじゃなくて! なんでジャスティアがそう思ったのかって聞いてるの!」
 あわてるロックをよそに、ジャスティアはむしろ当然のように答えた。
「閣下があんたを気に入ってるなんて一目瞭然だったじゃないの」
 横でカルガスが黙ってうなづいている。クリスターとニーシャもうんうん首を振っている。
「あんたを見る閣下の目と言ったら、金色が蜂蜜の色に見えるみたいに甘ったるかったからね。男同士じゃ世継ぎの問題もあるだろうけど、あんたが女なら関係ないものね」
 あいにく、あの伯爵閣下は世継ぎの問題だって気にしないお方だ。
 ――という事実はさておいて、ロックは熱っぽい頬に手を当てながらおずおず答える。
「結婚、するよ。僕、求婚しようと思ってるんだ、閣下に」
「あんたが? 閣下がじゃなくて?」
「うん、僕が。そうしたくて帝都市民になったんだ」
 彼の隣に立ちたかった。
 身分の差を気にしたことはあまりない。だが自分の力で彼と並び立ちたいと思っていた。見染められて引き上げてもらうのではなく、自分でその立場を掴み取りたかった。
 だから、ロックのほうから求婚しようと思っている。

 翌日、ロックとフィービは貧民街を離れ、帝都市内に移り住んだ。
 ひとまずは商業地区に店舗兼住宅を借り、そこに親子で落ち着いた。しばらくは店を出すための仕入れや仕立て、その他の準備に追われたが、エベルたちの協力も得て必要なものは大方揃えることができた。
 店の名前は以前と同様、『フロリア衣料品店』だ。
 貧民街での日々を隠すつもりはなかったし、そもそも『ロック・フロリア』として皇女の仕立て屋を務めた。このまま名前を売ったほうがいいだろうと判断してのことだった。ロックは父の姓も入れようかと言ったのだが、父は傭兵時代の名よりも今の『フィービ』のほうを気に入っているらしく、そこはやんわり断られた。
 ともあれ店は無事に支度を終え――開店の前日、ロックは店にエベルを招いた。
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