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新しい扉の向こう(5)

 ロックとエベルは、日が暮れるまでふたりの時間を過ごした。
 思えばこの頃は何かと忙しく、ゆっくり話をする暇もなかった。ロックがマティウス邸に厄介になっていた時さえ、エベルはロックを気遣い、ひとりで作業する時間を作ってくれた。ここ最近は開店準備に追われていたということもあり、ただふたりで見つめあい、話をするだけのひとときがとても貴いものに感じられる。
 積もり積もった話がある、というほどの疎遠さではなかったが、それでもふたりきりでいると話すことが次から次へと湧いてくるから不思議なものだ。

「家族を得るのは本当に久方ぶりのことだ」
 ロックの手を取るエベルが、満足そうにつぶやいた。
「夢のようだな……しかも愛らしい妻に加え、頼もしい父上まで得られるとは」
 彼の横顔を見上げるロックも、同じように夢を見ている気分を味わっている。
「ええ、父も帝都で暮らすと言っていました。僕の仕立てたドレスを着たいと」
 フィービの言葉を伝えると、エベルは心得たようにうなづいてくれた。
「いいことだ。あの方には穏やかな余生を送っていただきたい」
「僕も父には精いっぱいの恩返しができたらと思います」
「恩返しならふたりでしよう。私もぜひ、あなたの温かい家庭に交ぜてほしい」
「もちろんです」
 ロックとしても彼の申し出はうれしいものだった。
 結婚とは家族を得ることだと改めて実感する。彼と家族になれることが幸いだと思う。
「では知恵を貸してください。父は何をしたら喜んでくれるでしょう?」
 そう尋ねると、エベルは眉間に皴を寄せ思案に暮れた。
「難しいな、ご本人に伺えばどんな返事があるかは察しもつくが」
「ええ。ですからこっそり考えておかなくては」
 ロックにもわかる。フィービ本人に尋ねたら照れて遠慮するに決まっている。だから今のところはロックとエベルだけの秘密だが、そのうち何かで驚かせてやりたいと思う。
「昔の話だが、私の父は私が肩を叩くと喜んだものだ」
「肩叩きかあ……今度、言ってみようかな」
「ふたりで交替で叩くというのはどうだろうか」
「いいですね! 純粋に二倍の時間叩けますし」
 言いあいながらロックは、自分とエベルに肩を叩かれる父を思い浮かべてみた。しかし戸惑った様子でエベルから肩叩きを受けるフィービの顔しか想像できず、それがおかしくてつい吹き出した。
 きっとエベルも同じ想像をしていたのだろう。ほぼ一緒に笑いだし、ふたりは顔を見合わせてさらに笑った。

 ひとしきり笑った後、ふと思い出したようにエベルが切り出した。
「あなたさえよければ、街の聖堂で式を挙げたいと思っている。どうだろうか」
「結婚式ですか? 僕は構いませんよ」
 根っからの不信心者であるロックだが、だからといって聖堂を毛嫌いしているわけではない。それにエベルは伯爵、式も挙げずに結婚となると対面の問題もあるだろう。
「僕は帝都流の式を知らないので、その辺りはあなたにお任せします」
 信頼を込めてロックが答えると、エベルは金色の目を細めた。
「では支度はこちらでしておこう。あなたが退屈しない程度の式を用意しておく」
 それから彼はロックの髪に手を伸ばし、その柔らかさを確かめるように撫でる。
「ただ、あなたの花嫁衣裳はどうしようか。私はあなたが美しい花嫁になるところをぜひ見たいのだが」
 髪に触れられるくすぐったさと失念していた重大事項とに、ロックは思わず首をすくめた。
「あ! 花嫁衣裳……そうでした」
 リウィアの花嫁衣裳を仕立てた日々を思い出す。自分のドレスだとしても、やはりあれくらいの期間、そして労力がかかることだろう。これから忙しない日々を送ることになる身として、さらなる仕事を背負い込む余裕があるかどうか。
 だが――。
「あえて他の仕立て屋に頼むという手もある」
 気づかうようなエベルの提案に対し、ロックは熟慮の末に答えた。
「いえ、僕が仕立てます」
「……ほう」
 エベルが目を丸くする。
 すかさずロックは胸を張った。
「だって伯爵閣下との結婚式なんて、帝都で話題になるでしょう? 僕と店の名前を宣伝するまたとない好機ですよ! 自分で仕立てて着こなさないと!」
「なるほど、あなたらしい」
 愉快そうにくすくす笑ったエベルは、ロックの髪を撫でていた手に力を込めた。そうしてロックを抱き寄せながら、嬉々としてささやいてきた。
「だがその判断は私にとって幸いだ。あなたの仕立てる最高のドレスを、あなた自身にまとってほしいと思っていた」
 抱き締められたロックは、ほんの少し緊張しながら彼の胸に寄り添う。
 どぎまぎする思いの一方で、この上ない幸福感を噛み締めてもいる。着衣越しに聴く彼の鼓動の音が思いがけず速く、そのことを意外にも、おかしくも思う。きっと彼も幸福さの一方で、いくらかは緊張しているに違いない。
 恋人同士だったこれまでとは違い、夫婦になるのだから。
 ふたりで開ける新しい扉の向こうに何があるかはわからない。だからこそ、全てのことに最善を尽くそうとロックは思う。彼の隣に立つ時は、一番美しい姿でありたいと思う。
「……僕、責任重大ですね」
 微かに震える声で言ったら、彼は朗らかに言ってくれた。
「むしろ腕が鳴るだろう?」
 それでロックの心も決まる。
「そうですね……がんばります!」

 エベル・マティウスとロクシー・フロリアが結婚式を挙げたのは、『フロリア衣料品店』の開店から半年後のことだった。
 その際、花嫁は自らが仕立てたドレスを身にまとい、本人の望むとおり店の宣伝に努めた。祝福にやってきた帝都市民たちはその美しい姿に見入ったが、最も見とれていたのは他でもない花婿だったため、当の花嫁は始終恥ずかしがって宣伝効果のほどを確かめる余裕もなかった。
 花嫁の父となったフィービはふたりの門出を誰よりも祝い、そして温かく見守った。その際、彼が感極まり涙ぐんでいたのを見たと主張する者が何人かいたが、フィービ自身は最後まで認めなかった。

 新しい『フロリア衣料品店』は店主自らの宣伝もあってか繁盛し、経営は軌道に乗りはじめていた。
 皇女リウィアの花嫁衣裳を縫い上げた仕立て屋としての名声を求める客は日々絶えなかったし、それ以外にもドレスを着たいと望む殿方、あるいは男物の服を着たいと願う婦人がよく訪ねてきた。ロックの腕のよさは程なくして帝都中に知れ渡り、やがていろんな客がやってくるようになった。

 そのうちのひとりが、数ヶ月に一度現れる身なりのいい男だ。
 やけにきびきびと歩くその男は整った髭以外に特徴がなく、ロックもフィービも彼の顔を一向に覚えられなかった。ただ金払いはよく、注文するのは毛糸の膝掛けや毛織物の外套、あるいは赤子のためのお包みといった品などで、ロックにとってはさして難しい注文でもなかった。
 そしてその男の来訪後、ロックは決まって店のカウンターに封をされた手紙を見つけた。
 送り主は北方に嫁いだはずのリウィアで、彼女が向こうでどんなふうに過ごしているかやどんな食べ物がおいしいか、あるいは夫との心温まるやり取りなどが綴られていた。遥か彼方にいるはずの友からの手紙にロックは当初いたずらを疑いもしたのだが、エベル曰く封蝋の印璽がユスト伯のものであること、そしてロックを気づかう言葉が並んでいることから、手紙が本物であると信じた。
 どうやら彼女は息災であるらしい。
 ロックもぜひ返事を書きたいと思っているが、北方まで届ける術が今のところ存在しない。フィービは手紙とともに現れるあの男が鍵を握っていると考えているらしく、次の来訪時には頼んでみたらどうかとロックに言った。彼の顔を覚えられないロックではあるが、とりあえずリウィア宛の手紙はいつでも渡せるように用意している。
 彼の正体は察しがついていたが、ロックはフィービにもそのことを話していない。いつか手紙を届けてもらうため、彼の起源は損ねないでおこうと思っていた。

 ロックが去った後の貧民街では、最近大きな動きがあった。
 皇帝が貧民街の整備に動きだし、もう一つ大きな壁を作って街ごと取り込む計画を立てたのだ。
 それは貧民街の住人たちを帝都市民とすることを意味したし、同時に雑多なガラクタの街を清潔にしようという意思でもあったようだ。無論、帝都の法に縛られては困る住人も多く、貧民街では高飛びを計る者、壁の建設を妨害する者、一足先に帝都へ逃げ込む者、そして日和見を決め込む者とで混乱しはじめているようだ。
 騒動の最中、ロックとエベルの夫婦はクリスターとニーシャ、そしてカルガスとジャスティアの元を訪ねた。彼らは貧民街で店を構えた以上、ここを離れる気はないらしく、なるようになるさと揃って肩をすくめていた。
「あんたが苦労して手に入れた市民権が、あたしたちにあっさり降ってくるのは複雑だけどね」
 名物のジャガイモパンをロックたちに振る舞いつつ、ジャスティアは明るく笑った。
「でもどうなったって、パンを焼いて売るのがあたしたちの能だからね」
 ロックが仕立て屋を続けているように、彼らにも生業がある。貧民街がどうなろうと、どこでも暮らしていけるのだろう。

 アレクタス夫妻とは、ロックの結婚後もお互いに家へ招きあう交流が続いている。
 夫妻の養女ノエミ嬢はすくすくと育ち、日に日に子供らしい愛らしさを身に着けていた。彼女は最近ロックの顔を覚えてくれたようで、会いに行けばぎこちなくだが手を振ってくれるようになった。ロックにとってもかわいい従妹である。もう少ししたら素敵なドレスを贈ろうと考えている。
 娘を育むアレクタス夫妻はかつての苦悩も遠い昔のようで、今では日々幸せそうに暮らしている。ふたりの仲も未だ睦まじく、ロックとエベルもかくありたいと常々思うほどだった。

 グイドとミカエラとは頻繁に顔を合わせている。
 ロックがマティウス家に嫁いだことにより、彼らと会う機会は一層増えた。この頃ではロックとミカエラは腹心の友と呼べる仲になりつつあり、エベルやグイドがいない時でもヨハンナなどを交えてお茶会を楽しんでいる。
 グイドは相変わらずの難物ぶりでロックにとって扱いやすい人物ではなかったが、近頃は養子を取り、義父として穏やかな顔を見せることも多くなった。グイドも、そしてミカエラも結婚をする気は一切ないようで、それについて口さがない者たちが噂を立てても気にするそぶりすらなかった。固い絆で結ばれた兄妹は、このまま生涯を共にするつもりだとロックとエベルに宣言している。

 そしてロックとエベルは、夫婦としての新しい暮らしもはじめていた。
 青年伯爵と店を持つ仕立て屋、共に過ごせる時間はそう多くもなかったが、それでも朝夕や休日は夫婦水入らずで、あるいはフィービを交えて穏やかに過ごした。
 幸せいっぱいの新婚夫婦にもたったひとつだけ懸念があった。
 それはエベルにもかけられている人狼の呪いだ。
 アレクタス夫妻が、あるいはグイド・リーナスがそうしたように、エベルにも自らの子を持つことにはいくらかの迷いがあった。人狼の呪いが子にも受け継がれるのではないか、という不安があったからだ。呪いを持つ者は幾人かいても、それを確かめた者は見当たらなかった。
 だがロックはエベルと話し合った後、我が子がどんな呪いを得ても温かく育てることを誓った。
 仮に人狼の呪いが親から子に受け継がれるものだとしても、ロックとエベルは親として愛を、祝福を与えることができる。それは他の数多くの親子たちとなんら変わらないものだと思ったからだ。

 結婚から三年後、ロックは身ごもり、やがて元気な子供を産んだ。
 愛らしい男児は毛むくじゃらでもなく、赤子らしいむちむちの肌をしていて、実に健やかに生まれてきた。張り上げる泣き声もいきいきとしていて、両親及び祖父は胸を撫で下ろしていた。
 人狼の呪いが彼にも及ぶかどうか、ロックにはわからない。
 ただどんな運命が彼に訪れようと、夫と共に愛し慈しんで育てていくつもりだった。

 かつて、自分自身がそうして育てられたように。
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