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新しい扉の向こう(2)

 帰宅したロックが持ち帰った証書を、フィービは微妙な顔で眺めた。
「これが、市民権を得た証?」
「うん。持ち歩かなくてもいいってエベルは言ってた」
「へえ、こいつがねえ……」
 うろんげに証書をためつすがめつする父も、どうやら『こんな紙切れに』と言いたいらしい。実際、これ一枚で帝都におけるロックとフィービの立場が変わってしまうのだから戸惑うのも無理はない。
 特に父は、かつてこれを手に入れるために多額の金を稼ごうとしていた経緯もある。こうして手に入ってしまうと、いろんな思いが胸を過ぎるのだろう。
「まさか本当に、こいつを手にする日が来るとはな」
 少し寂しそうにフィービはつぶやく。
 ロックはそんな父の姿を見つめつつ、やはり寂しい気持ちになった。
「母さんにも見せたかったね」
 そう告げると、フィービは静かに面を上げる。
 そして慈しむように微笑んだ。
「見てるさ。きっと誇らしく思ってるよ、お前の活躍を」
「……うん」
 直接確かめることはできないが、ロックも同じように思っている。
 母に誇れる功績ができた。両親が叶えられなかった願いを、こうして叶えることもできた。胸を張っていようと思う。

 ロックとフィービは、久方ぶりにのんびりと夕食を取った。
 父の暮らす部屋に帰ってきたのも、夕食の時間を親子水入らずで過ごすのも近頃ないことだった。だからなのか、あるいはそれ以外の理由からか、ふたりの間に会話はあまりなかった。
 ただこの時間を味わうように、ふたりとも黙って食事を続けた。

 食事の後、食器を全て片づけたフィービが何かを持って居間へ戻ってきた。
「これを開けるか」
 掲げてみせたのは葡萄酒の瓶だ。ずいぶん古いもののようで、布で丁寧に瓶の汚れを拭っている。
「お酒?」
「ああ、前に話したろ。うちにいい葡萄酒があるって」
 色あせたラベルからは手書きの数字がかろうじて読めた。ロックが生まれた年だ。誕生日の夜に市場で買って、それから一度も封を切らず今日まで取っておいたと父は言った。
「今夜はこれを飲もう。付き合えるか?」
「いいよ」
 酒を飲み慣れていないロックだが、今夜は父の申し出に乗ることにする。
 父とてあまり飲まない人間なのはよく知っている。ふたりで酒を酌み交わすのは、かつてマティウス邸でそうした時以来だった。

 瓶に詰めてから二十年以上が過ぎた葡萄酒は、ロックの髪と同じ色合いをしていた。
 香りは豊かで味わいはこっくり深い。だがそれほど数を飲んでいるわけでもないロックにとって、これが特別おいしいのか、そうでもないのかは判別がつかなかった。ただなんとなく、心が不思議と安らぐような味だと思った。
 酒を傾ける間も、フィービは口数少なだった。ランタンが照らす顔に今夜は化粧をしておらず、素の面差しに淡い影がゆらゆらと揺れている。彫りの深い父の顔はたとえ化粧を施さなくても美しかったが、今夜はそこに隠しきれない寂寥感が滲み出ていた。
 むしろ、それを読み取ったロックのほうこそ、寂しいと思っているのかもしれない。
 新しい扉の向こうにあるのがよいことばかりとは限らない。人ひとりが持って行けるものには限りがあり、年月が人の手の数を増やしてくれるわけでもない。手に入れるものがあれば失うものもあり、出会いがあれば別れもある。そのことを、ロックはこれまでの人生で十分すぎるほど思い知らされてきた。
 そして今夜も。
 大人になってしまったロックは悟っていた。
 父との関係も、もうこれまでどおりとはいかないのだろうと。

「父さんに、聞きたいことがあるんだ」
 ロックが切り出すと、フィービも何か察したように居住まいを正した。
「聞きたいこと? それはちょっと予想外だな」
「え? どうして?」
「お前は『話したいことがある』って言ってくるんじゃないかと思ってた。閣下との結婚が決まったから、とかな。それより先に、俺に聞きたいことがあるのか?」
 父の言葉にロックは少しだけうろたえた。
「そ……そういう話とは違うんだ。近いけど、ちょっと違う」
「でも結婚はするんだろ?」
 青い瞳が鋭く細められた。
 どうやらフィービははっきりした答えを求めているようだ。ロックはぎくしゃく顎を引く。
「う、うん。正式な求婚は、まだだけど」
 そのつもりだった。帝都の市民権を求めたのは、堂々と彼の隣に立ちたかったからでもあった。エベルともそういう話はしてきた。今日だってそうだ。
「そうか」
 長い溜息が、その言葉の後に続いた。
 それからフィービは表情を和らげる。
「で、聞きたいことって?」
「父さんのこと」
 ロックは率直に打ち明けた。
「父さんの気持ちを聞きたかった。市民権を得て、これからどうするのか――どうしたいのかを」
 その問いも、フィービは予想していたのかもしれない。驚きもなく、黙って葡萄酒の杯を傾ける。
 それから言った。
「どうするのか、か。あまり考えてなかったな」
 ロックもそんな気がしていた。
 父は今日まで、自分のことなど二の次にしてきたはずだ。
「父さんだって今日からは帝都市民だよ。ずっとそうなりたかったなら、なった後のことは考えなかったの?」
「まあな」
 開き直ったように答えたフィービが、照れ笑いを浮かべる。
「俺はどこに行ったって食ってけるって思ってた。どうなろうと心配もなかったしな。まあ、身体が動くうちは、だが」
「まだ若いだろ、父さんは」
 ロックは父の正確な年齢を知らない。ただでさえ年齢不詳の美貌の持ち主だ。だがロックの歳と母との結婚生活を鑑みれば、四十は確実に過ぎているだろう。
 それでも、傭兵に返り咲く気があればいくらでも通用するはずだ。父の身体能力の高さ、剣の腕は未だ健在で、リーナス卿からは剣術師範として乞われていたこともあった。
「リーナス卿のところで雇ってくれるって話もあったよね」
「悪い話じゃないんだろうが、貴族様のお屋敷付きなんて息が詰まりそうだ」
「エベルは、父さんにもいてほしいって言ってた」
「こぶ付きの結婚なんて歓迎されるわけないだろ」
「でも――」
 反論しかけたロックを、フィービはかぶりを振って制する。
「俺のことはいい。お前は自分のことだけ考えろ」
「そうはいかないよ」

 ロックは父の幸せを願っている。
 フィービがずっと、ロックの幸せを願ってくれていたように。
 ただ残念なことに、未だにわからないのだ。
 父はどうなるのが幸せなのかということを。

「父さんは今日まで、ずっと僕の傍にいてくれた」
 ロックはエベルにも語ったことを、父自身にも告げる。
「今日までずっと、僕を守ってくれてた」
「そんなの、親として当たり前のことだ」
「当たり前じゃないよ」
 今度はロックがかぶりを振って応えた。
「本当に、とても感謝してる。父さんがいなかったら、今の僕だっていなかった。ありがとう」
 貧民街の気風にたったひとりで馴染めたとはとても思えないし、住み着いて暮らしていくことだってできなかっただろう。
「なんでもするさ。最愛の娘のためだからな」
 フィービはさらりと、しかしいくらかは面映ゆそうに言う。
「お前が嫁に行くまでは、ずっと傍にいるつもりだった」
「……その後は?」
「その後は……やっぱり、思いつかないな」
 嘘でも、ごまかしでもないようだった。
 父は本当に、この先のことを何も考えていないようだ。

 先程言ったように、何も考えていなくても食べてはいけるというのも事実ではあるだろう。ロックもそう思う。父はどこでもやっていける。
 だが、それが父の望みかどうかはわからない。

 ロックは一足先に葡萄酒を呷り、杯を空にした。
 目を丸くするフィービに向かって、さらに告げる。
「僕はね、父さんの望みを聞きたいんだ」
「俺の望み?」
「父さんがどうしたいか。どうなれば、父さんが幸せなのか」
 水を向けられるとフィービは一層困った様子で、人差し指で顎を掻く。
「幸せか……そりゃもちろん、娘の幸せが俺の幸せだろ」
「そうじゃなくて」
 ロックはもう一度、今度は強くかぶりを振った。
「父さん、僕はもう子供じゃないんだ。今日まで父さんが僕のためにどれだけがんばってくれたか、苦労してくれたか、全部だなんて言えないけどそれでも十分わかってる。でもこれからは、父さんには苦労も我慢もさせない」
「別に我慢なんてしてないさ」
「じゃあ、父さんの望みを教えて」
「だから、そんなものは……」
 フィービが肩をすくめるので、ロックは少し語気を強めた。
「ないはずないだろ。父さんは、孫の顔を見たくないの?」
「孫!?」
 珍しく父の声が裏返り、その手から杯が落下しかけた。
 幸いにして残りわずかだったため、中身はこぼれることなく受け止められた。もっともフィービは血相を変えてロックに詰め寄る。
「ロクシー、お前まさか――」
「いやまさかだけど! 仮定の話! 今は違うからね!」
「いるのか!? そうなら正直に言ってくれ!」
「いないよ! だからこの先そうなるかもって話だから!」
 現在、ロックの腹はやせ細ってぺったりしている。フィービの孫がそこにいる気配もなければ可能性もない。
 ロックは頬を染めつつ咳払いをする。
「僕の傍にいたら、いつか孫の顔を見られるかもしれないよって言ったの」
「あ……ああ、そういうことか……」
 フィービは安堵したのか、多少は落胆もしたのか。なんにせよ深呼吸をして気を落ち着けてから、改めて切り出した。
「だが、さっきも言ったろ。こぶ付きで嫁に行く気か? それも伯爵家に」
「エベルはいいって言ってたよ。むしろ大歓迎してくれると思う」
「そりゃ閣下はそう言うだろうが……」
「でも僕は、父さんの正直な気持ちが聞きたいんだ」

 ロック自身にも望みがある。
 父には傍にいてほしい。できれば自分の目の届くところにいて、元気な姿を確かめながら暮らしたい。父と一緒に店をやりたいという気持ちだってある。『フロリア衣料品店』は父子ふたりで切り盛りしてきた仕立て屋だからだ。
 だがそれを口にすれば、父はそのとおりにするだろう。
 娘のたっての願いとなれば、父は必ず聞き入れてくれるだろう。
 それではだめだった。

「『フィービ』は、どうしたい?」
 ロックの問いに、フィービは青い目をしばたたかせた。
「僕の父さんじゃなくて。フレデリクス・べリックは――フィービは、何を望んでるのか。どうなったら幸せなのか。それを教えてほしい」
「俺は……」
 フィービは唸るように言った。
 そして考えはじめたようだ。今初めて、自分の望みを考えようとしたのかもしれない。とても苦しげに、悩ましげに眉をひそめ、しばらく黙り込んでいた。
 それでも答えは感嘆に出なかったらしい。
「俺の幸せなんて、お前が幸せなら……」
 絞り出す声の後、うなだれる。
「いや、だめだな。聞かれたことの答えじゃない」
「ひとつくらいあるでしょ? 僕抜きにして、これが幸せだってこと」
 フィービはまだ考えている。
 考えて、考えて、何度も何度も溜息をついて、それから――。
「……ああ」
 やがて、目が覚めたように面を上げる。
 じっとロックを見つめて、一瞬だけためらったように見えた。だがすぐに意を決したか、はにかんで言った。
「望み、ひとつだけある」
「それを言ってよ」
「ずっと……お前が作ったドレスを着たい」
 言いにくそうに、だが堰を切ったように続けた。
「皇女殿下の仕立て屋になるより前から、俺にとってはお前が帝都一の仕立て屋だった。親の欲目じゃなくて、お前の仕立ててくれるドレスを着られるのが幸せだった。他の仕立て屋は俺がドレスを頼むと笑ったり、嘲ったりしたからな。時には余分な金を吹っかけられることだってあった。でも、お前が来てからは……」

 ロックも、思い出していた。
 初めてフィービのためにドレスを仕立ててあげた日。あの時はまだ『彼女』が父だとは知らなかった。それでも父の遺産を保管し、店を出すためにあらゆる尽力をしてくれたフィービに感謝を込めてドレスを仕立てた。喉仏を隠す詰襟と筋肉を覆うふくらんだ袖、脚の線が見えないようドレープの利いたスカートは、彼女に最も似合うドレスとなった。
 フィービもロックの仕事を大いに喜んでくれ、抱き締めて頬ずりまでされた覚えがある。
 あの時はロックだってうれしかった。初めて自分の仕事を、母ではない人に褒めてもらえた。貧民街でもやっていけるかもしれないと、最初に思った瞬間だった。

 ロックはゆっくりと微笑み、その願いを受け取った。
「叶えるよ。これからもドレスは僕が仕立てる」
 少しはずかしそうなフィービが、照れ隠しみたいに笑う。
「でも、これからは人気の仕立て屋だろ。おまけに伯爵夫人。忙しくなるだろうに」
「忙しくなったってフィービの注文は最優先で承るよ」
 そう言って、ロックは胸を張った。
「だってフィービは、僕にとって最初のお得意様だからね!」 
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