新しい扉の向こう(1)
リウィアが夫と共に北方へ旅立ってから、ひと月が過ぎた。北方からの使者によれば、彼女は無事ユスト伯の領地に到着し、伯爵夫人としての生活を始めているらしい。その朗報は帝都を再び沸き立たせ、慶事の興奮は今なお冷めやらぬ様子だ。街の空気は次第に落ち着きを取り戻しているものの、しばらくしばらくは浮き足立った空気も残ることだろう。
一方、ロックにもまた新たな局面が訪れようとしていた。
「こちらが証書になります」
帝都兵市警隊の詰め所へ出向いたロックは、一枚の羊皮紙を手渡された。
そこにはロクシー・フロリアとその父フレデリクス・べリックが、本日より帝都市民としての権利を得たことが記されていた。
「いやあ、おめでとうございます」
以前も顔を合わせたことがある市警隊長は、満面の笑みで祝ってくれた。
「皇女殿下のご婚礼の行進、私も拝見いたしました。まさかあの麗しいドレスを仕立てたのがあなただとは! あなたのご功績、まさに帝都市民として迎えられるにふさわしい!」
「ありがとうございます」
ロックは静かに頭を下げる。
どうやらこれで、ロックとフィービは晴れて帝都市民になれたらしい。紙切れ一枚もらっただけではかねてからの念願が叶ったという実感も湧かないが、そういうものは後からついてくるのかもしれない。
ただ、前にクリスターから聞いていたような難癖をつけられることはなかったし、金を巻き上げられることもなく、すんなりと市民権をもらえたのは幸いだった。これからは街中で市警隊を見かけても怯えなくていいのだろうし、因縁をつけられぬよう目を逸らす必要もなくなるのだろう。
「ところで、帝都市内でのご新居はお決まりですか?」
市警隊長は相変わらずの腰の低さで続けた。
「帝都市民はご住所をこちらへ届け出る一応の義務がございます。無論、これも皆様の安心、安全を守るためということでご寛恕いただきたいのですが……」
「住まいというか、帝都ではお店を出したいと考えてます」
ロックは正直に答える。
「なので商業地区で立地のいい店舗兼住宅を探そうかと。そのための推薦状もいただきました」
そして持参した推薦状を差し出すと、市警隊長は恭しくそれを受け取った。
この推薦状は数日前、手紙と共に『フロリア衣料品店』へ送り届けられたものだった。
推薦人は帝国の第四皇子ヴァレッドで、ロックに商業地区への出店を認めること、店舗の借り入れにも最大限の便宜を図ることなどが記されていた。手紙にはひととおりの礼と推薦状の扱い方しか記されていなかったが、ロックたちが迅速に市民権を得られたのも彼の根回しのお蔭のようだ。
ロックはもう、ヴァレッドの顔も声も覚えていない。だがリウィアと彼の仲睦まじい会話だけはちゃんと覚えている。直接お礼を告げることができないのは残念だが、彼が約束を守ってくれたことに感謝していた。
市警隊長が推薦状に目を通すと、その顔がみるみる青ざめていく。
「お、皇子殿下のご推薦とは……!」
「それで、出店のご許可をいただけますか?」
恐る恐る尋ねたロックに、市警隊長はがくがくと首を振って答えた。
「ええ、ええ! もちろんですとも!」
それから深い溜息をついた後、揉み手をしながら言った。
「さすがは皇女殿下の仕立て屋となられたお方、ご推薦人も高貴な方でいらっしゃいますな。これほどの偉大な方を帝都市民に迎えられることができるとは、帝都の未来も明るいと言っていいでしょうな!」
「ど、どうも……」
ロックは慣れない称賛に戸惑うばかりだ。その称賛にも多少、というよりだいぶ世辞が混ざってはいるのだろうが、どちらにせよ居心地の悪い思いだった。
「ましてやあの花嫁衣裳を帝都中にお披露目した後では、店を出しても千客万来の大賑わいでしょうな。うちの妻もあなたのドレスをたいそう褒めそやしておりまして、手の届く価格であればぜひ仕立てていただきたいと申すのです。いやいや、皇女殿下の仕立て屋がそんな安い仕事をなさらないだろうとは私も言っているのですが、夢を見るのは自由だと申しておりまして――」
市警隊長の話は回りくどいが、要は奥方のドレスの値切り交渉を申し込まれているようだ。
まだ店も出していないのにと、ロックは隣をちらりと見やる。
隣には今日のための付き添いとしてエベルが同席していた。目配せを受け、彼は待ち構えていた笑顔で切り出す。
「本日の手続きはこれで終わりだろうか? それならそろそろ失礼したい、彼女の言うとおり物件を探しに行かなくてはならないからな」
それで市警隊長もはっとしたようだ。
「これは失礼いたしました。本日はこれで結構でございますので、お住まいが決まったらまたお知らせいただければと……」
「終わりのようだ。お暇しようか、ロクシー」
エベルに促され、市警隊長にもにこやかに見送られ、ロックはひとまず詰め所を去った。
「店を出したあかつきには、ぜひ奥様といらしてください」
一応はそうも告げたが、値切りに応じるかどうかは迷うところだった。
市警隊長の言うことにも事実になりそうなことがある。これからの仕立て屋ロックは間違いなく忙しくなるだろうし、値切られるような安い仕事を請け負う余裕はないかもしれない。
「これが、帝都市民の証かあ……」
詰め所を出たところで、ロックはもらったばかりの証書を広げた。
好天の陽射しに透かされた羊皮紙は分厚くざらざらしていて、いかにも高級な感じがする。記された父子の名前はどちらも呼ばれ慣れなくて、少しくすぐったく思えた。
「これって、常に持ち歩かなくてはならないものなんですか?」
「まさか」
エベルは一笑に付した後、優しく続ける。
「家の引き出しにでもしまっておけばいい。それを開いて見せる機会など一生のうちに一度あるかかないかだ。特にあなたは、これから津々浦々に知られていくだろうしな。身分を証明する必要もきっとなくなる」
「エベルも、あの隊長さんみたいなことを言いますね」
まだ実感が湧かないロックは、そう言ってちょっと笑った。
自分が帝都市民になったことも、これからここで店を出す許可をもらったことも、今や紛れもない真実だ。
実感が湧かないなどとぼんやりしているのも時間がもったいないくらいで、ロックにはこの先もやることが山ほどある。新しい店のための物件を探し、開店までに棚を埋める新しい商品を仕立てておかなくてはならないし、その前に貧民街にある古い店を閉めてこなくてはならない。
ぼんやりしている暇はなかった。
「帝都の空気もいくらか落ち着きましたね」
「ああ。お祭り騒ぎの喧騒が、今は少し懐かしい」
ふたりは市警隊詰め所から真っ直ぐに伸びる街路を歩いていた。
商業地区の街並みは普段どおりの賑わいで、街角の彫像は花冠を脱いで元の姿になり、建物の間に渡されていた旗飾りも片づけられている。街を警邏する市警隊の数も徐々に減り、ぴりぴりした緊張感もいくらかは和らぎつつあるようだ。
一方、商業地区の公園には祝宴の名残りがまだあった。慶事に当て込んで帝都を訪れた旅芸人たちが、最後の稼ぎにと技を競い合ったり、曲を奏でたり、舞踏を披露したりと実に華やかだ。ここには噴水や休憩のための長椅子があり、普段から交易商が馬に水を飲ませたり、吟遊詩人たちが路銀を稼いだりしているのだが、今はその数もことのほか多く見受けられた。
「……ここ、来たことがあります」
公園の長椅子に腰を下ろした時、ふと思い出してロックは言った。
「前に詰め所を尋ねた日にも、ここに来てエベルと話をしましたよね」
「そうだな」
エベルは顎を引いたが、直後に表情を曇らせた。
「その時どんな話をしたか、あなたは覚えているだろうか」
「ええと……」
問われてロックは言葉に詰まる。
彼とここへ来た記憶はあるのに、何を話したかは全く思い出せなかった。
ただ、思い出せない理由は察しがつく。
「詰め所で僕は彼女に――ユリアに会ったんでしたよね」
その話は後からエベルに教えてもらった。恐らくはその時が初対面だった、ということも。
どんな話をしたか、今となってはわからないままだ。
「じゃあきっと、彼女の話をしたんでしょう。お会いしてびっくりしたとか、どうしてあんなところにいらっしゃったんだろうかって」
ロックが答えると、エベルもふっと口元をゆるめる。
「正解だ。あなたからその話を聞いて私は驚いたし、ふたりでひどく戸惑いもした。だが『帝都の景色を心に刻もうとしている』とあなたが言って、少し腑に落ちる思いがあったよ」
水しぶきをはね上げる噴水の前で、リュート弾きの青年と笛吹きの少女が軽快な曲を奏でている。周りに集まる観客が手拍子でふたりの演奏を盛り立て、祭り気分の名残りを公園一帯に響かせていた。
「こういう景色、ユリアも見ていたのかもしれないですね」
「そうだな。あの日も、公園には吟遊詩人たちがいた」
ロックとエベルもまた、婚礼の日の感傷を少しばかり引きずっていた。
もっともそれは物寂しさばかりではない。あの日の出来事を忘れずにいられる幸福と、あれから日が経ち、自分たちが新しい扉の前にいる事実を噛み締めるための時間でもあった。
ロックの手元には帝都市民としての証がある。
これがあれば、エベルの隣に立てる。ロックはずっとそう思っていたし、心から願ってもいた。
ただひとつ、気がかりなこともあった。
「今日は、父にも声をかけたんです」
ロックは噴水に目を向けつつ、そっとエベルに打ち明ける。
「でも父は『遠慮しておく』って……僕の帰りを家で待ってるって言ってました」
「お父上は気乗りしなかったのか」
エベルの問いには、首をかしげるしかなかった。
「わかりません。そうだったのかもしれませんし、帝都市民になれたって街中を歩くのはまだ抵抗があったからかもしれないです」
いつぞやは早駆けの馬で帝都の門を押しとおり、エベルの危機に駆けつけたフィービではあったが、平時に訪ねるのはまた違うものなのかもしれない。
なんにせよ父は、行かない理由をロックにはっきりとは語らなかった。
ロックも、突っ込んで尋ねる気にはなれなかった。
「最近、父とはちゃんと話をしてなくて」
その理由を、ロックは気弱な声でつぶやく。
「ご婚礼の件で忙しかったのもありますし、その後で店に戻ってからもやることが山積みで、父とはゆっくり話せてないんです」
「落ち着いたら話せばいい」
エベルは優しく、諭すように応じた。
「あなたとお父上の仲だ、しばらく話せぬ時間があったからといって疎遠になるわけでもあるまい」
「それはそうなんですけど……」
ロック自身もそう思う。
話そうと思えば、父はいつでも時間を作り、腰を据えて話をしてくれるだろう。
「ただ、聞きだせるかどうか不安なんです」
「不安? 何がだ」
「父がこれからどうしたいのか、僕は全然知らなくて」
帝都の市民権を得ることは、フィービにとっても悲願だった。
それが叶った後、父がこれから望むことはなんだろう。
「エベルも知ってのとおり、僕はもうじき二十一になります。本当ならとっくに親離れしているべき年頃ですが、再会した父はずっと僕の傍にいて、僕を守ってくれました。でも僕と会わないままだったら、父は『フィービ』として生きるつもりだったんだろうって思うんです」
父の穏やかな余生に、突如として割り込んで世話になってしまったのがロックだ。
今さら、したいことがあればしてほしい、などと告げても父は戸惑うかもしれない。突き放されたと思うかもしれない。少なくともロックと出会う前にすんなり戻れはしないだろう。
「時々、父が無理をして僕の父親をやってくれてるような気もして……」
そんなロックの懸念に、エベルは微笑んで応じた。
「あなたはお父上にそっくりだな。その思慮深さも、優しさも」
「え? いえ、それほどじゃ……」
「聞きたいことを尋ねてみればいい。私が思うに、お父上は必ずあなたに答えてくれる」
勇気づけるようなエベルの言葉に、ロックは少しほっとする。
「そうなら……そうですよね、たぶん」
「きっとだ、ロクシー。不安がることはない、あの方はそういう方だ」
「……ええ、きっと」
言い直して、ロックもうなづいた。
尋ねてみなくてはならない。父の意思、これからどうしたいかを。
ロックが新しい扉の前にいる時、それは父にとっても新たな局面にあたるはずだ。
「それにしても、あなたがたの関わりは眩しいな」
ふと、エベルが陽射しに目を細める。
涼しい風が鳶色の髪を揺らしていく。その陰に覗く横顔はどこか幸せそうに、ある未来を夢見ているように映った。
「私としては、あの方が私のお父上にもなってくれたらうれしいのだが」
その言葉にロックは一瞬目を泳がせかけた。
が、ひと呼吸置いて、勇気を振り絞り告げた。
「僕だってそうです。もし叶うなら――あ、父がどう言うかはわかりませんけど、これから聞いてみますけど、少なくとも僕は、エベルと同じように思います!」
公園にもう一度風が吹き、明るい陽射しの下でエベルが笑う。
とびきり幸福そうなその笑顔を、ロックは目に焼きつけようと見つめ返した。