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針と糸(7)

 務めを果たしたロックが城を出た頃、帝都はすでに歓喜の渦の中だった。
 耳を澄ませなくてもわかる。あちらこちらで祝福の声が上がり、この佳き日を寿ぐ歌声も聴こえる。晴れ渡る空の下、空気は華やかにざわめき、漂う浮かれ気分がここまで伝わってきた。
 すでに婚礼の儀は開始している頃合いで、警備の厳重な城内を出るまでにずいぶんな回り道をさせられた。今日ばかりはヴァレッドの道案内もなく、慌ただしそうな衛兵におざなりな指図を受けながらようやく城門まで辿り着いた。

 そうして空を仰いだとたん、ロックは急に放り出されたような気分になった。
 思わず出てきたばかりの城を振り返る。
 そびえ立つ白亜の城にも今日は真紅の祝い旗が飾られている。城門を守る番兵の物々しさとは対照的に、開け放たれた門扉の向こうには華美な装飾の馬車が用意されていた。これから、ユスト伯とリウィアはあれに乗って帝都市街を行進するそうだ。
 祝福する臣民に感謝を伝えるため、そして帝都に別れを告げるために。
 ロックも急がなければいけない頃合いだった。心もとないような気分は振り切って、賑やかな帝都の街中を駆け出した。

 エベルとは、城のすぐ傍で待ち合わせをしていた。
 城を囲むように広がる貴族特区の、大通り沿いの公園で落ち合おうと彼は言っていた。
 大通りの沿道にはすでに新しい花婿と花嫁を待つ人垣ができており、そこを潜り抜けるのは至難の業だった。貴族特区だけあって人垣の構成も貴族ひとりに付き従う従者が数名といった大所帯であり、それらが道の端を埋め尽くしているのだから通行もままならない。
 ロックも皇女の仕立て屋だからといって顔が知られているほどではなく、『通してください』と訴えても快くどいてくれる貴族はそうそういない。背の低いロックは何度も人にぶつかり、靴を踏まれ、主を守る従者たちに押しのけられつつ、どうにかそれらしい公園を見つけた。

 弦薔薇に絡めとられた石門と、小さな噴水がある煉瓦敷きの公園だった。
 正装のエベルは先に辿り着いていたようだ。傍らにヨハンナ、カートを従えており、そして彼らの誰よりも早くロックの姿に気づいてくれた。
「来たか。私のほうが早かったようだな」
 軽く手を上げたエベルが、ロックの顔を見て気遣うように微笑む。
 次の言葉に迷うようなそぶりを見せたのは、今のロックが複雑そうな面持ちでもしているからだろう。実際、彼に笑いかけようとしても口元は言うことを聞かず、かといって泣き出したいほどの激情はとうに過ぎ去ってしまったようだ。なんとも言えない寂寥感、そしてぽっかりと空になってしまった気分だけがロックの胸でくすぶっている。
「お待たせしました」
 ロックが手を振り返すと、エベルは目を伏せ大きく息をついた。
 それから、労わるように優しい声で言ってくれた。
「あなたは立派に務めを果たした。胸を張っていい」
「ええ、そうします」
 深く、ロックは顎を引く。
 やるべきことは全て終えた。たとえ人々に知られていなくとも、皇女の美しい花嫁姿はこれから大勢に目撃されることだろう。そう思うと、いくらかは心が凪いだ。
「婚礼の儀はもうお済みなんですね」
「ああ。我々が関われるのはほんのわずかだ」
 鳶色の髪を後ろに流し、正装をその身にまとうエベルは、心なしか厳かな表情をしている。
「今は皇帝陛下、そして皇子殿下と、城の最奥にて最後の儀式を執り行われている頃だろう。皇女殿下が陛下とお過ごしになられる、まさしく最後の時間だ」
「最後の時間……」
 そこでどんなやり取りがなされるのか、ロックはもちろん知りもしない。
 だがそれは新たな夫婦の生まれる瞬間であり、親兄弟との別れの時でもあるはずだ。
「皇女殿下、お元気そうでしたか?」
 さっきまで会っていた相手のことをそう尋ねるのもおかしい気はしたが、そうとしか聞きようがなかった。
 ロックの問いに、エベルは笑ってうなづく。
「ああ。お美しい花嫁衣裳をまとわれて、気高い花嫁となっておられた」
 見てみたかった、と思う。
 だが、畏れ多くも目にすることが叶えば、手の届かなくなった友人に切なさが込み上げるだけだったかもしれない。ロックは何も言えず、黙ってうつむいた。
「ロック様……お疲れ様でございます」
 日傘を手にしたヨハンナが声をかけてくる。
 朝に顔を合わせた時とはうってかわって、彼女は珍しいほどしおらしい。ロックになんと声をかけていいか、わからないのはヨハンナも同じのようだった。
 そんな彼女をちらりと見て、カートが口を開く。
「今や帝都はお祭り騒ぎです。皆が街へ出て、皇女殿下と伯爵閣下をお待ちですよ」
 空元気と責任感が入り混じった、硬い口調で続けた。
「マティウス邸には念のための番としてルドヴィクスさんとイニエルさんがおりますが、全く留守にしているお屋敷もあるとか。何せ、滅多にない慶事でございますから」
「確かに、沿道の人出もすごかったよ」
 ロックは来た道を振り返る。
 大通りの人垣はその規模を徐々に増しているようだ。少しでも近くで皇女の晴れ姿を見ようと、人垣の切れ目を探してぞろぞろ歩く一団も見受けられた。
「我々もぼちぼち移動したほうがいいようだな」
 エベルがそう言って、ロックに手を差し伸べる。
「ロクシー、あなたの偉業を見に行こう。晴れ空の下で見る花嫁衣裳は、また格別の美しさに違いない」
 ロックはその手を取り、少しだけ力を込めて握った。
「ええ、行きましょう」

 四人は大通り沿いに城を離れながら進み、だいぶ歩いた末にようやく人垣の終点に行き着いた。
 行進を待つべくそこを陣取れば、すぐさま後には別の人々が並び、ロックたちもまた人垣の一部となる。通りの先を見渡すとずいぶん遠くまで人が連なり、帝都にはどれほどの人がいるのかと驚かされた。聞けば行進は商業地区などでも行われるそうで、そちらではまた別の人垣が形成されているのかもしれない。
「皇女殿下は、帝都の隅々まで練り歩かれるのですね!」
 ロックは声を張り上げる。人出に比例して辺りはざわついており、囁き声程度では聞こえなくなってしまう。
「そう伺っている」
 エベルも普段より大きな声で応じた。
「壁の外まで行かれるでしょうか?」
「それは難しいかもしれないが、できるだけ広く回られるとのことだ」
 彼女とは、壁の外の貧民街でも何度も出会っていたという。
 ロックにはその記憶ももうないが、彼女が覚えていてくれたらいいと思う。

 やがて高らかに鐘の音が鳴り響いた。
「行進の出発の合図だ」
 エベルの言葉を飲み込んで、ほうぼうから歓声が上がる。沿道に連なる人々の興奮は今や最高潮で、もはや自分の独り言すら聞こえないほどだ。
 割れんばかりの歓声に迎えられ、大通りの向こうから、衛兵の先導で隊列が現れた。華やかな祝典の曲を奏でる楽隊がまず先行し、次に武装した兵の一団、その後にようやく金色に装飾された馬車が見えてきた。
 屋根のない馬車に、隣り合って座る花婿と花嫁の姿がある。
 ロックはその顔がはっきりと視認できぬうちからそちらを凝視していた。まばたきもせず見守る車上には、帝都流の正装に身を包んだユスト伯、そして薄灰青のドレスを召したリウィアの姿があった。エベルの言うとおり、晴れ渡る空と陽光の下でそのドレスは一層美しく、光沢ある生地も刺繍の金糸や宝石も、どれもきらきらと輝いていた。スカートの裾にあしらわれた城と帝都の街並みの模様は、今は青空の中にあるように見えた。
 歓声と共に、色とりどりの紙吹雪が祝福のようにばら撒かれる。降り注ぐ紙吹雪の中で、リウィアは確かに微笑んでいた。大人びた結い髪に花冠を飾り、繊手には繻子の手袋を填め、その指先でユストの肩に留まった紙吹雪をつまみ上げている。それに気づいた彼女の夫が、妻に向かってそっと微笑み返す。
 今日誓いを立てたばかりの花嫁と花婿は、まだ少しぎこちなく、けれども目を合わせて笑いあうことができていた。誰もがこの先の幸いを祈りたくなるような、初々しい夫婦がそこにいた。
「ユリア……」
 ロックもまた、彼女の幸いを祈った。

 目の前を馬車が通り過ぎていく。今日のために着飾った花嫁は、花婿と共に沿道の人々に笑いかけ、そして上品に手を振る。時々誰かを探すように視線を巡らせて――そして。
 目が合ったような気がした。
 車上のリウィアが、ロックのほうを見た。
 気のせいかもしれない。これだけ人が集う中で、たったひとり自分を見つけてくれる可能性などなきに等しい。むしろ誰だって『皇女殿下と目が合った』と思いたいに違いない。
 それでも、ロックは馬車と彼女を目で追った。
 花嫁は何も言わない。何か言ったところでこの歓声の中では聞こえやしないだろう。ただ、ふいに膝の上から何かを持ち上げて、ロックのほうに見えるように軽く掲げた。
 あの毛糸の手袋だ。
「あっ」
 思わず声を上げたロックは、大急ぎで手を振る。
 そして腹の底から叫んだ。
「持って行ってくれてありがとう!」
 するとリウィアは一瞬だけ唇を吊り上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
 それからまた手袋を膝の上に戻し、馬車の進む方向へと向き直る。馬車を含む行進は通りを進んでいき、直に警護の兵すら見えなくなった。後には紙吹雪が散らばる道だけが残った。

 行進が通り過ぎた後も、人々は沿道から離れようとしなかった。
 皆、名残惜しいのか、あるいはこの慶事の余韻に浸っていたいのだろうか。あるいはまだ歳若い皇女の先行きを、祈り続けていたいのかもしれない。
 ロックもしばらくは身じろぎもせず、馬車の消えた方向をじっと見つめていた。とっさに叫んだ言葉が敬語ではなかったことを誰かに聞きとがめられたかもしれないが、今となってはどうでもよかった。これだけの歓声の中だ、そもそも彼女の耳にすら届かなかったかもしれない。
 ただ、隣にいる人狼閣下にだけは聞こえていたはずだ。
「ロクシー」
 エベルが顔を覗き込んでくる。少し心配そうに、だがロックの顔を見て、すぐに意外そうに目をしばたたかせた。
「平気です」
 ロックは彼にかぶりを振ってみせた。
「泣くかもしれないって実は思ってたんです。こんなめでたい時に、僕ひとりだけめそめそ泣いてしまうかもしれないって。でも不思議と涙は出なくて、むしろ……」
 まだ、実感が湧かなかった。
 あれが今生の別れだと、飲み込むにはもう少し時間がかかるのかもしれない。
「明日からはお城に行く用事もなくなるし、行ったとしてもユリアはもういない。もう会えないって実感して寂しくなるのは、これからなのかもしれないです」
 まだ騒がしい空気の中、ロックのつぶやきを聞いたのもエベルだけだ。
 そして彼は、ロックに向かってうなづいた。
「別れとは、いつでもそういうものだな」
「……ええ」
 お互いに失くしてきたものがあるから、その予感は痛いほどわかる。
 泣くのも寂しくなるのも、これから先のことだろう。だから今は彼女の幸いだけを祈りたい。他には何もなくてよかった。

「――ロック・フロリア」
 不意に名前を呼ばれ、ロックと、それにエベルも振り返る。
 気がつくと背後にはヴァレッドが立っていた。いつも城で見ていた甲冑姿ではなく、正装で、髭も整えふたりの前に現れた。
 彼の力を知っているとはいえ、こんな人混みの中に単身現れた第四皇子に、ロックは正直驚かされた。
「えっと、何してるの?」
「改めて礼を言いに来た。妹は貴様に、素晴らしい贈り物をもらったようだ」
 ヴァレッドはそう言って、妹と同じ色の目を細める。
「貴様の功績は讃えられるべきだ。父親ともども、帝都市民を名乗りたいならそうすればよい。どこにでも好きな場所に店を出すことも叶うだろう。それは後日、正式に取り計らってやろう」
「ありがとう……ございます」
 ロックがぎこちなく感謝を告げれば、ヴァレッドはふんと鼻を鳴らす。
「気にするな。どうせ貴様らは私の顔を直に忘れる」
「消してしまわれる、ということですか?」
 とっさに尋ねたエベルに、ヴァレッドは答えなかった。
 否定もせず、しかし珍しいほど穏やかな声音で続ける。
「私の記憶など貴様らにはもう必要あるまい。覚えていないほうがよいのだ」
 そして会心の笑みを浮かべた。
「しかし妹のことは覚えていてくれ。いつか店を出したと聞いたら訪ねていこう。その時は妹のため、また何か作ってやってほしい」

 ヴァレッドが気配もなく立ち去った後、ロックとエベルはまだ人の減らない沿道に立っていた。
「エベル」
「どうした、ロクシー」
「まだお顔、覚えてます?」
「ああ。しかし宣告された以上、いつかは忘れてしまうのだろう」
 ロックもまだ、彼の顔を覚えている。
 妹の門出に際し、珍しいほどの笑顔を見せた第四皇子の顔を忘れてしまうのは少し惜しい気もした。だが必要ないと言われてしまえば否定もできない。覚えていないほうがいいというのも事実ではあるのだろう。
 ロックは、ユリアのことをちゃんと覚えている。
 そして今日の日のことを、きっと忘れることはない。
 今はそれで十分だった。
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