針と糸(6)
エベルの言っていたとおり、今朝の帝都は暗いうちからざわついていた。警邏の兵だけではない。婚礼の後に市街を練り歩く皇女を一目見ようと、帝都市民が通りで場所取りを始めている。すでに街頭に立っている者もいれば、敷物を抱えて足早に移動する者もいる。遠くからいい匂いが漂ってくるのは、広場のほうで露店が出ているからだそうだ。
非日常的な雰囲気を味わいつつ、ロックの足は城へと向かう。
やや浮かれ気分の街中とは違い、城門から先にはぴりぴりした緊張感が漂っていた。
城への立ち入り前に所持品や身体を検められるのはいつものことだが、今日はやけに念入りだった。ロックの所持品はもちろん、贈り物の手袋も針が残っていないか、不審な臭いはしないかと時間をかけて確認された。裁縫道具はリウィアの勧めで前日のうちに彼女の部屋に置いてきた。だからそれだけは手間取らなかったのが幸いだ。
身体検査が終わると、ようやく立ち入りを許された。
ほっと胸を撫で下ろすロックを、いつものように甲冑姿のヴァレッドが迎えに来て、皇女の私室へ案内してくれる。
「いよいよ、この日が来たな」
ヴァレッドは独り言のようにつぶやいた。
平静を装う淡々とした口ぶりだったが、隠しきれない感情の揺らぎもうかがえた。
「妹に何か言葉をかけてやってくれ。貴様と話したがっていた」
そうも告げられ、ロックは黙って首肯した。
リウィアの私室には珍しく先客がいた。
「ロック、少し待っていてちょうだいね、今は髪を結ってもらっているところなの」
鏡台の前に座るリウィアの背後には、髪結いらしき中年の男が立っている。リウィアの木苺色の髪をまとめ上げる手つきは巧みだが、その顔は緊張に強張っていた。
室内には他にも化粧師だという女が椅子に腰かけ待っていたが、彼女もまた表情が硬い。
「髪を結ってもらった後はお化粧、その後がドレスの着つけよ。それまで待っていてもらえるかしら?」
リウィアの言葉に、ロックは順番に従い化粧師の隣に座った。
そして真横をうかがえば、ロックよりも年長の化粧師は背筋を伸ばした姿勢のまま、視線だけをそわそわさまよわせている。今日のような日は誰もが平静ではいられないのだろう。
かく言うロックもいささか浮ついているのは否めず、黙って自分の番が訪れるのを待っていた。
髪結いは木苺色の髪を上品にまとめ上げ、宝石の髪留めで飾り立ててみせた。
その次は化粧師の番だ。彼女はリウィアの前で身を屈め、いくつもの細筆を取り出しては美しい色を添えていく。最初に白粉を叩き、それから唇には上品な朱色の紅を引く。形のいい目元を黒く縁取り、瞼にはちかちか光る粉を乗せる。
ロックはかつて父に化粧をしてもらったことを思い出しながらその様子を眺めていた。あどけなさの残る少女の顔が化粧師の手で次々と装われていく。まばたきのたびに彼女の顔が美しく変わっていくのが興味深く、また圧倒される思いだった。
リウィアが少しずつ、花嫁になっていくのがわかる。
化粧も済むと、髪結いと化粧師は揃って部屋を出ていった。
そして見たこともない大人びた顔のリウィアが、たったひとり残されたロックに向かって微笑む。
「さあ、次はあなたの番よ。ドレスを着るのを手伝ってちょうだい」
「うん」
それでロックは立ち上がり、自ら仕立てた花嫁衣裳をリウィアに着せる作業を始めた。
化粧がドレスにつかないよう、首の周りを布で覆う。それから下着姿の彼女にドレスを、ゆっくりとまとわせる。まずスカート部分に脚を差し入れ、腕に袖を通し、首の後ろでボタンを留める。
日に焼けていない彼女の肌は透き通るように白く、腕も脚も頼りないほどほっそりしていた。
背中でサッシュをふんわりと結び、袖口のカフスも留めてあげると、リウィアはロックに笑いかけてくる。
「全部やってもらって、なんだか幼子になったようよ」
その甘えるような口調に、ロックも思わずくすくす笑った。
「ひとりで着るのも大変だからね、仕方ないよ」
スカートの紗がめくれているのを直し、裾を軽く持ち上げふくらませる。それから首元の布を外し、襟や肩を直してやると、ようやく花嫁が完成した。
「わあ……」
少し後ろに下がって彼女の全身を眺めたロックは、感嘆の声を漏らす。
リウィアは、完璧な花嫁になっていた。
薄灰青のドレスは、やはり彼女にとてもよく似合っていた。窓からはようやく朝日が射し込んできて、宝石と金糸の刺繍はきらめき、光沢ある絹地を一層つやめかせている。ほっそりした首によく似合う詰襟、繊手を際立たせる控えめにふくらんだ袖、紗を重ねた丸みを帯びたスカートと、ドレスの愛らしさが花嫁の初々しさを際立てていた。
そしてドレスの裾を飾る刺繍は、彼女の足元にひっそりと広がっていた。
朝日を浴びて凛と立つリウィアの足元で、城と帝都の街並みも朝焼けの色に輝いている。晴れの日を迎えた朝の、本物の帝都の街のように、眩しく光ってそこにある。
彼女はそれを見下ろし、満足そうな笑みを浮かべた。
「素晴らしいドレスね、ロック」
「とてもよく似合うよ、ユリア」
すかさず褒めると、リウィアはくすぐったそうに目を伏せる。
「あなたが、わたくしのために仕立ててくれたドレスですもの。似合っていて当然でしょう」
それからほんのり頬を赤くして、ささやくようにこう言った。
「本当にありがとう。あなたはわたくしに、とても素晴らしい贈り物をくれたのね……」
そう語る彼女の瞳に、うっすらと涙がにじんでいるのが見えた。
ロックも彼女に感謝を告げようと思った。
ドレスの仕立て屋に自分を選んでくれたことも、記憶を失くした後の自分を受け入れてくれたことも、ロックは心から感謝していた。
そして何より、友達になってくれたということも。
だがそれらをいざ言葉にしようとすると、胸が詰まってたちまち何も言えなくなる。鼻の奥がつんとして、ロックはあわてて唇を噛んだ。こんな日に、涙は全くふさわしくない。
だから言葉の代わりに、別の贈り物を差し出した。
「ユリア、もしよかったらこれ、受け取ってほしい」
リボンをかけた毛糸の手袋を、リウィアに手渡す。
彼女は潤む瞳をしばたたかせて尋ねてきた。
「これは……手袋?」
「うん。何か贈り物をあげたくて用意したんだ、暖かいものがいいと思って」
餞別だ、とは言えなかった。
それでもリウィアにはその意図がわかったはずだ。
「これを、わたくしに……?」
かすれた声で聞き返した。
「うん。君の髪の色に合わせて、木苺の柄にした」
ロックの答えを聞いて、リウィアは手袋にあしらわれた連なる木苺模様を眺める。それをうれしそうに指でなぞってみせる。
「なんてこと……着けてみてもよくって?」
「もちろん」
ロックがうなづくと彼女はリボンを解き、既に繻子の手袋を填めた上から毛糸の手袋を重ねてみせる。両手に填めて広げてみせた後、まるで困ったように微笑んだ。
「暖かい……。ねえ、これを婚礼に着けていきたいのだけど」
「それはだめだよ、ドレスには合わない」
「どちらもあなたが仕立ててくれたものなのに?」
「そうだけど、なんていうか素材とか、用途も違うし……」
もごもごと反論するロックを見て、リウィアが上品に笑う。
「冗談よ。あなたを困らせたかっただけなの」
「もう、からかわないでよ」
「ごめんなさい。最後にうんと困ってほしくて」
さらりと悪戯なことを言ってのけた後、彼女はふいに黙り込んだ。
手にはまだ、あの毛糸の手袋を填めたままだ。
うつむき加減で、ただじっと手袋を見つめている。
ロックもまた、言葉もなく立ち尽くしていた。リウィアの言ったとおり、これが『最後』だ。そう思うと、何を言っていいのかわからなくなる。
だがすでに夜は明け、婚礼の時は刻一刻と近づきつつあった。
向き合ったまま黙り込むふたりをよそに、やがて扉を叩く音がした。
はっとして振り返れば、閉じたままの扉越しに声がかかる。
「リウィア、支度ができたか? そろそろ時間だ」
ヴァレッドの声だった。
「ええ。でも兄上、もう少しだけ」
リウィアが声を張り上げせがむと、扉の向こうからは深い溜息だけが聞こえた。
残り時間はあとわずかのようだ。
「ロック」
意を決した様子で、リウィアが紅を引いた唇を開く。
「わたくしはずっとお友達などできないと思っていたの。前に、その話をしたでしょう?」
「……うん」
覚えている。ロックは答える。
「君の記憶を消す力で、好きな人にも覚えていてもらえなかった。そう言ってたね」
「ええ。わたくしには選ぶことが許されず、仲良くなりたい人たちには忘れ去られてしまう。そんな祝福を得てしまったことを、わたくしはずっと呪いのように思っていた……」
祝福と呪いは同じだ。
ヴァレッドも、そう言っていた。
「でも、あなたが現れた」
リウィアは手袋を填めたままの手で、ロックの頬にそっと触れた。
毛糸の柔らかな感触が頬を撫でてくれる。暖かかった。
「あなたはわたくしのことを忘れてしまったのに、またお友達になってくれた。忘れさせたのは他でもないわたくしなのに……わたくしが、呪いをかけたのに」
消された記憶は戻らない。
ロックがかつてのことを思い出す機会はついになかった。
だがそれでも、ロックはリウィアを――ユリアを、とても大切な友だと思っている。
「だからわたくしも、この力を疎ましく思うのはやめたの」
灰色とも、鋼色とも、あるいは緑ともつかぬ彼女の瞳。そこに涙が盛り上がるのを見て、ロックはあわてて手巾を取り出す。
そうして零れ落ちる前に涙を拭ってやると、彼女は泣き笑いの表情を見せた。
「あなたというお友達ができてよかった。そうでなければきっと、生涯この祝福を呪いだと思ったまま過ごしていたわ」
「ユリア……」
ロックも泣くのをぐっと堪えた。
そして深呼吸をしてから、彼女に告げる。
「僕も、君に会えてよかったよ」
本当は。
本当は、もっと話したいことがたくさんあった。
これから先も友人として、他愛ない話をしたかった。仕事のこと、父や母のこと、彼女の生真面目な兄のこと、これまでに会ったいろんな人たちのこと、ドレスのこと、お菓子のこと、そして――自分もこの先、結婚をするつもりだということ。
だがこれから先のことを話す機会はもうない。
ロックの身に何が起きたとしても、それをユリアに語り聞かせることはできない。
同じように、彼女の話を聞かせてもらう機会も、もうないのだろう。
たまらなく寂しいという思いと、まだ実感が湧かないという思いとで、ロックは言葉の続きを見失っていた。
彼女も同じだったのかもしれない。
「……これは外すけれど、持っていくわね」
そう言うとまだ手袋は外さず、ロックに一歩近づいて、それから両手でぎゅっと抱き締めた。
突然の抱擁にロックは戸惑ったが、彼女は静かに頬を寄せてくる。
「お別れは言わないわ。あなたの心は、ずっとわたくしと一緒だから……」
化粧品の甘い匂いがした。
花嫁衣裳越しに、かすかな温もりを感じた。
なぜか懐かしいと思った。前にもこんなことがあった気がする。誰かと間違えているのだろうか、思い出せないがどうしてか無性に胸がざわめいた。
「もう忘れないよ、ずっと」
ロックが抱き締め返すと、驚くほど華奢な身体が息を止めたように震えた。
衣擦れのように密かな笑い声をこぼした後、彼女はそっと身体を離す。
「行きましょうか」
はっきりと声を張り上げながら、皇女は毛糸の手袋を外した。
黙ってうなづいたロックが部屋の扉を開けると、ぴんと背筋を伸ばして歩き出す。ドレスの裾を揺らしながら、胸を張って部屋を出ていく。
ロックも部屋の外には出たが、役目はここまでだった。
あとは髪結いや化粧師と共に、婚礼の儀へ向かう皇女の背中を見送るだけだ。付き添うヴァレッドがちらりとこっちを見たが、面当てが下りていたので表情はわからない。
そしてリウィアは、もう振り向かなかった。